第2話 ②の1

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 彼女はちょうど朝風呂から上がったところでありました。ゆっくりとたっぷりと潤いを含んだ肌は紅潮し、彼女は思わずドレッサーの鏡の前で目を奪われました。そこには、一目でそうとわかるほど溢れんばかりの幸福に満たされた女性が映っていたのであります。彼女は自分の姿に改めて惚れ惚れいたしました。これが大人になった早優香の姿なのでありました。溢れんばかりの幸福。それはそうなのかもしれません。早優香はもう還暦を越していましたが、とてもそうとは信じられないほど若々しかったのであります。


 背後には沢山の花束や花かごが空間を埋め尽くし、それらが背景となって、鏡の中の早優香は本当に絵画のようでありました。

 今日は、彼女の新刊出版のお祝いと称したちょっとした集まりが設けられており、この花たちは出版祝にとほうぼうの方が贈って下さったものなのです。『愛を伝えて』という題名の今回の本は、早優香の五冊目の著書でありました。内容は主として、女の子への教育の大切さ、それがどのような未来を作っていくのか、ということ、愛の源は女性である、ということ。

 いつもそうしているように、売上げのいくらかは慈善団体『すみれプロジェクト』へ寄付する予定であります。『すみれプロジェクト』は、南アジアをメインに、特に「女の子だから」という理由だけで酷い扱いを受けている女性や女の子たちを支援する活動をしております。早優香は、月々のサポートとして寄付するのに加え、こうして印税のいくらかも寄付しているのでありました。この活動を続けてもうどれくらいになるでしょうか。他にも講演会を開いたりチャリティーのバザーや音楽会を主催しては集まったお金を寄付する、ということをずいぶん長く続けてきました。

 そんなわけですから早優香に感銘を受け、『すみれプロジェクト』の会員になってくださる方も多く、今日はその方たちとランチなのでありました。


 いつまでも自分に見惚れている時間はないわね、と早優香は一人でふふっと笑い、ドレッサーの前で居住まいを正しました。その時、ノックの音がして、「奥様、また届きましたよ」とお手伝いの浜辺さんが、見事なこぼれそうなほどの大きなカサブランカの花束を抱えて入ってきました。そして、早優香がまだバスローブ姿なのを確認するや、


「あら奥様、まだそんな格好で? 早くなさらないと遅刻なさいますよ」


と、うきうきした口調で言いました。ぽっちゃりして二重顎の、見るからに世話好きな、いかにも気のいい性質の浜辺さんは、日頃から早優香の家で仕事するのを自慢に思っていそうではありましたが、今日のような宴席がある日はいつもよりもソワソワするようでした。自慢のご主人の晴れ姿を早く披露したくてうずうずするのでありましょう。


「ええ、ほんとにそうね、ごめんなさいね、貴方にまで心配かけて」


 早優香は優しく答えました。浜辺さんが出ていくと、彼女はまた鏡に向き直りました。そこには豪華な花束を抱えたヘビーシルクのような上品な艶をまとった婦人が映っており、金細工のフレームと相まって、彼女は一瞬、それが自分だとわからないかのように鏡の中の自身の姿に心を奪われ、口元はひとりでにほころび、ばら色のため息が漏れたのであります。


 それから早優香は化粧品が収納してあるバニティケースの一番奥からボディローションを取り出そうと手を伸ばしました。と、その時であります。彼女の美しいネイルの先に、何やら当たったような感触がありました。一体何かしら? 見てみますと、それは古ぼけた封筒なのでありました。いつからこんなところに? 何が入っているのかしら。中身を確かめるや、早優香は、あ、と小さく声を上げ、頬はますます紅潮していったのであります。それは早優香が中学生のときの写真でありました。どうしてこんなところに、と、ぎくっと不思議な気もいたしましたが、そんなことよりも懐かしい気持ちが勝り、ついつい写真に見入ってしまうのでありました。これは一年生のときね……。


 写真の早優香は、肩よりも少し長い、ウェーブのついた髪を真ん中で分け、前の髪だけを左右に結んでおりました。ちょうど映画のスカーレット・オハラと同じスタイルであります。彼女は自分の髪をとても気に入っておりましたし、こういう結び方をすると、華やかさが増すように思って、これが定番スタイルなのでありました。


 今になって見る中学生の自分は、何だか自信たっぷりそうで、はつらつとしていて、ちょっと生意気そうではありますが、とても可愛らしい。早優香を中心として左右で笑っているのはリコと翠。いつも一緒だった親友であります。二人とも今頃はどこでどうしているだろう。早優香の意識は急速にあの頃に戻っていきました。


 次の写真も、彼女は懐かしさと恥ずかしさとで口を押さえました。それは背の高い同級生の男の子と一緒に写っているものでした。ああ、速水君だ…。このとき、早優香の心はまるで昨日のことでもあるかのように弾んだのであります。


 彼は、隣のクラスの男の子でありました。背が高くてバスケットボールが上手な彼は同級生だけでなく、上級生の女の子からもかなりの支持を得ていたものでした。まだ一年生にも関わらず、先輩を飛び越して試合のメンバーに選抜されるなど、ずいぶん目立った活躍をしていたものですが、それでも何となく許されてしまうような愛嬌が速水君にはあり、早優香も心惹かれていたのに間違いありません。彼と写っている早優香は少し澄まして、それでいて淡いピンク色に浮き立つ心が隠しきれていない顔をしております。幸いにも早優香は女子の中では一番といっていいほど目立つ存在でありました。家柄のことも多少は影響していたのかもわかりませんが、そんなものはなくても、早優香は学校だけでなく、学校の外でもスピーチコンテストや弁論大会といった場で輝き、実際に賞なども獲っていましたから、みんなから一目置かれていたのも少しの不思議もないのであります。


 そういったわけですから、類は友を呼ぶ、の諺のとおり、速水君と接する機会も自然と多くあったのでした。事実、二人の仲がうわさされたこともありましたっけ……。うわさになっただけで、何の進展もないまま卒業式を迎えたことを早優香は当時、少しだけ残念に思ったものでしたが、もし仮に進展していたとしたら今頃はどうしていただろう? 彼と結婚していただろうか? 今のようなこんな暮らしをしていただろうか? いや、それは無かったでしょうね、と彼女はやや寂しい気持ちでそう思いました。早優香はうんと若いときに今の夫である槙原氏とお見合い結婚をしたのでありました。製菓会社の次期社長と製薬会社の娘、政略めいた色合いがなかったわけではありませんが、この結婚は正解であったと言えましょう。そりゃ、長い結婚生活ですから、色々とはありました。夫の浮気に傷ついたこともありましたが、それでもこの結婚を後悔したことはありません。やはりお金があるというのは何にも替えがたいものであると早優香は思いました。お金があれば、大抵の物事は簡単に融通がききます。それは夫の浮気も然りで、片が付いてしまえば、あとはもう「終わったこと」にしてしまえますから。


 夫は当初の予定どおり先代から会社を継ぎ、数年前から手掛け始めた輸入食品事業も好調のようです。いかに速水君に魅力があったところで、今の夫と同じだけの血統や人脈や経済力には及ぶはずがなかったでしょう。

 次の写真は、文化祭の準備をしているときのものでした。十五、六人がそれぞれ、各々の作業の手を止めてこちらを向いています。一人一人が小さく写っているため、みんなの顔ははっきり分かりませんが、それでも、あぁいたいたこの子、と懐かしさに頷いたり、目を細めたりしていると、不意に早優香の注意は、右端に写っている女の子に止まりました。他の子がくつろいではしゃいだ表情なのに対し、その子だけ口を真一文字に結んだ固い顔をしていたのであります。ええと、この子はたしか……。

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