すみれ色迷宮

松司雪見

第1話  ①

      -1-


「やはりこの者は、地上に誕生すべきではなかったのだ!」



門構えも堂々たる、近所からは「大名屋敷」の通称で知られる大きなお屋敷。氷雨がそぼ降るその日、少女はひどい熱に浮かされていた。


早優香さゆか、しっかり……」


「聞こえるか!? 早優香!」


重苦しく息苦しく、意識は完全に朦朧とし、体は布団にめり込み、溶けてしまいそうにどろどろとした重みだけが、かろうじて感じられた。威圧感のある不思議な声がどこからか響いた。響いたように思った。その声に混じって楽しげな笑い声と、女性の悲痛な叫び声も途切れ途切れに響く。

ここは天国なの……? ……お母さん…

と、早優香は押し潰されそうな中、そう思った。


早優香は今年で九つになるが、以前にもかなり危ないところをさまよったことが一度ならずある。熱を出すと決まって、手伝いのひとや家人が早優香の世話をしやすいように、ここも手入れの抜かりない裏庭を臨む奥座敷が彼女の病室となる。今はちょうど椿の花が盛りで、本当ならそれらを眺めつつ、枕元で母や祖母が本を読んでくれるのを聞きながら回復を待つのであろう。ところが今回の病はこれまでとは様子が段違いであった。床に伏してから、かれこれ七日は経つのに一向に熱は下がらず、とても本や花どころではない。往診に訪れた医師は、熱の原因が全く掴めぬと言い、あとは本人の生命力にすがるしかないと言った。それで両親は狂わんばかりに娘の名を叫び、早優香はそれを感じながら自身の意識がますます遠く遠く離れていくような感覚に、もわんと包まれた。


気付けば、早優香はぼう……っと白っぽく発光する広い広い空間にいるらしかった。ここがどこなのかも分からなかったが、どことなく安心出来るところであった。

あてもなくきょろきょろしながら少し歩いてみると、幾人かの声が聞こえてきた。間もなく視界に開けてきた場所では、どうやら会議らしきものをしている様子であった。十人ほどであろうか、全員が男とも女とも見える、その人々は皆、袖も裾も長い、白いローブをまとい、その人々自身の身体も乳白色に輝いていた。そして皆、中央が井戸のような湖のような、とにかく内側が丸く大きく開かれ、その表面を朝靄のごとくふわふわした蒸気が踊るテーブルについていた。


「やはりこれ以上は待てません。今少し待てと言われてきたのでここまで待ちましたが、もう限界です。この者をこれ以上、此岸に留まらせたところで何の益がありますか。苦しみしかない。今回の機会にこのままこちらへ連れてきましょう。この決定はこの者にとってもいいはずです」


それは、さっき早優香が聞いた声であった。


「しかしこの者はまだ、必要な学びを終えていないのではないですか。重要な義務も残っているのでは?」


「それは望むべくもないでしょう。今回はもう諦めるのが賢明ではないですか。これ以上、此岸に残ったところで、苦しみが長く拡散するだけですから」


「そうですか……。では仕方ないですね。ここまでお待ちいただいた上での結論なら、もう何も申すことはございますまい。ご同席の皆様にも異論はございませんね?」


早優香は、これは自分のことだ、自分のことを話しているのだと直感した。


「私、このまま死んでしまうの?」


胸に不安がうわっと大挙し、早優香は思わず一歩踏み出し、白く光る人たちに声をかける形となってしまった。一同がこちらを振り返った。


「そうだ」


強い意志を滲ませて「声」の人が言い、立ち上がって彼女のところまで歩いてきた。


「何故いま、お前がここにいる!?」


とても厳しい目をしていた。


「……しかし、そんなことはどうでもいい。お前はもう地上には戻らない」


「あたし、死にたくない!」


早優香は食い入るように声を荒げた。手は、懇願するように胸のまえで組まれていた。


「あたし、まだ死にたくない! もっとお友達と遊びたい。病気ばっかりであんまり遊んだことないの」


「もう決まったことだ」


やはり、その人は厳しかった。

「……あなたは神様なの?」


その人を上目遣いに見て、早優香が恐る恐る尋ねると、


「あえて肯定はしない。だが否定もしない」


と、その人は早優香を真っ直ぐに見下ろして言った。やはり、すくみあがってしまうような眼差しであった。


「あたし、まだ死にたくない……」


早優香が半べそで繰り返したとき、テーブルについていた内の一人がこちらへやって来て言った。


「これをご覧なさい……」


その人が片手の掌を上に向けると、そこに、光の球のようなものが浮かび上がり、その中に、どしゃ降りの中、肩に乗せた傘と懐中電灯だけを頼りに、冷たい雨にずぶ濡れになりながら必死に凍える手を合わせる老婦人の姿があった。周りから察するに、そこは早優香の家の近くの神社さんで、「どうか孫をお救い下さい」と老婦人は何度も何度も唱えているのであった。厳しい目の人はそれをしばらく見つめていたあと、また早優香をじろりと見て言った。


「これはお前の祖母だな?」


早優香は、その人を見ながらこっくり頷いた。はらはらと、祈るような気持ちでその人と対峙した。二人はしばし睨み合うようにしていたが、やがて、


「よろしい。では今一度、お前を地上に戻してやろう」


厳しい目の人はそう言うと、右手をシャッターを下ろすように動かした。


「お前の生き様、しっかりと見せていただくぞ」


次の瞬間、早優香ははっと目を覚ました。


「あ! 早優香!」


涙でぐしゃぐしゃの母の顔がはっきり見える。


「気がついたか」


父の安堵する声もしっかり聞こえる。


 汗でびっしょりだったが、早優香の体にはもう、重苦しさはなく、浮かされた感覚も消えていた。何事もなかったかのように早優香は上半身を起こした。それでもまだわけがわからず、少し呆然としており、「早優香、わかる? お母さんのこと、わかる?」と、目を潤ませて彼女をのぞきこむ母の問いかけに、うんうん、と頷くのがやっとであった。頭の片隅に、何か、夢を見ていたような体感がうっすらと沈んでいるような気がしたが、思い出せなかった。

玄関が開く音がして、雨の音が同時に入ってきた。


「お義母さん! 早優香が!」


母が玄関に向かって声をあげるや、慌ただしく家の中へ上がり込む物音がして、乱暴に襖が開けられた。


「早優香……」


早優香のぱっちりと開いた目を見るなり、ずぶ濡れの祖母はその場にへなへなと崩れ落ち、


「良かった、気がついたのか……そうか……」


と言い、それは安堵の慟哭へと変わっていった。祖母の慟哭はなかなか収まらなかった。母の声を耳にした時、祖母は、もしや、と最悪の事態を予測したのであった。


 母は初めから目を潤ませていたとはいえ、慟哭する祖母につられてさらに涙の粒を落とした。それは父にも伝染し、父もまた照れくさそうに目を赤くして鼻をすすった。早優ちゃん、よかった、と家政婦さんも部屋の隅でハンカチを目に当てていた。


 緊張がほどけた暖かい空気が部屋を満たし、早優香も嬉しくなった。何よりも、父の背後に隠れるようにして座っていた兄までもが、安心がもたらした涙にかきくれている姿が早優香の胸を強く打った。二つ年上の兄とはいつも喧嘩ばかり、しかも早優香が病弱というので損な役回りばかり押し付けられている兄に、自分は好かれていないのだろうと諦めていたのだから。     

 

 翌日から早優香は本当に目覚ましい回復を見せた。それから微熱も消えていき二、三日も経つ頃にはすっかり床上げもしてしまった。

 そして、


「早優香、早優香の命は神様のお情けをいただいたもんなのよ。だから毎日きちんとおばあちゃんと一緒にご挨拶に行きましょう」


と祖母に言われ、家からすぐ近いお宮さんへお参りに行くのが早優香の日課となった。正直、早優香にとってこれは面倒くさいことだったが、言っても片道五分程度のことであったし、お参りに行くことで他のことが出来なくなるというほどのこともなかったので、大人しく祖母に従っていた。


 早優香は本当に元気になった。その年の夏には初めてみんなと一緒にプールに入り、あっという間に二十五メートルを泳げるようになった。寒くなる頃には、縄跳びの二重跳びを百回、引っかからずに達成した。これはクラスで一番の快挙であった。クラスの仲間だけでなく、学校中が彼女のこの目をみはる回復と、成し遂げた偉業を喜び、讃えてくれた。


「へえ、あの子が。いつも寂しそうに見学ばっかりしてた子でしょ? へえ!」


 病弱で、みんながやることをいつも傍観しているしかなかった自分が今こうして賞賛の中心にいる。やれば出来るんだ。私が活躍するのをみんな喜んでくれる。彼女の中で大きな何かが確立し、動き始めていた。

 

 いつの頃からか、毎朝のお宮参りに早優香は行かないようになっていた。この時分にはひ弱だった体格もしっかりとしてきていて、もう病気がちだったことなどすっかり忘れてしまうくらいになっていた。母が何気なくもらした言葉が背中を押したのかもしれない。


「おばあちゃんは神様のお情けって言うけど、それよりも早優香の生命力が強かったんじゃないかな、てお母さんは思うのよね」


 母の言葉に、早優香は胸のつかえがすうっと軽くなったように思われた。

 それである日、大雨が降ったのを堺に早優香はお宮さん通いをやめた。祖母は微妙な顔をしたが、何も言わなかった。仕方がないと思ってくれたのであろう。祖母ほどに早優香は信心深くなかったというだけのことだし、過去の古い習慣に縛られている祖母と同じようにはいかない。早優香には無限の可能性を秘めた未来が広がっているのだし、実際、毎朝わくわくした気持ちではちきれそうにして目が覚めた。今日は何をしようかと起きたそばから飛び出しそうに体はうずうずしていた。


 小学校も高学年になると、児童会の活動も積極的に参加するようになった。そしてこれをきっかけにスピーチというものに出合った。彼女のこれからの人生を通してずっと続けていくことになる活動である。早優香のスピーチする姿は不思議とひとの注意を引く魅力があるらしかった。堂々とした立ち姿ときらきらした瞳、それからはきはきとした声は聞くひとの心をとらえた。壇上での早優香は水を得た魚のようだった。聴衆が感心した顔で自分の演説に聞き入っているのを確かめるのは、何よりも彼女を誇らしさで満たした。


 月日は流れた。

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