押戸引戸流家元

川谷パルテノン

 

 彼女は若くして家元を継いだ。当時の心境を慮るとその重圧たるや想像に難くない。押戸引戸流。この聞き慣れない流派の歴史は古く、発祥は江戸時代末期に遡る。人は戸を前にしてそれが押して開くのか、それとも横に引いて通るのかを求められる。押戸つまり前後に開く開戸とも呼ぶそれは引戸の仕草で横に引いてもびくともせず、同様に引戸も押戸の要領では開かない。押戸引戸流は各地に点在するあらゆる戸の前でそれがどちらかを即座に見抜き、いかに速やかにかつ淑やかに開くことができるかを重んじる様式その芸道である。茶道、花道また舞踊に比べてその道の人口は著しく少ないものの古来より廃れることなく今尚受け継がれる伝統だ。

 彼女はまさにその押戸引戸流の家元に就いた。まだ成人し間もない頃のこと。本来の後継ぎであった彼女の父は家柄を嫌い、妻と娘を残して海を渡った。母はもとより押戸引戸流とは無縁の人生。しかしながら子育てと家系のしきたりの中で心を患い病に伏してしまう。残された娘は当時の家元であった彼女の祖母によって幼少期より押戸引戸流次期当主として厳しくしつけらてきた。学友と過ごす時間もままならず、そうこうすれば付き合いの悪さからか「でんせつのポケモン」「ミュウツー」などと裏であだ名をつけられて孤立していった。家に帰ればこれが押戸だ引戸だここを見よと口うるさい祖母の手ほどきが待っており、その心は十代にして枯れそうになっていた。青春などというものは自分には無縁である。彼女はひどく絶望したがそれでも挫けさせなかったのは病に倒れてなお優しかった母のため。また自分達を見捨てて異国に逃げた不甲斐ない父への恨みがひとりの少女を強くした。

 彼女を当主にと厳しく指導し続けてきた祖母であったが加齢もあってか体力は著しく減退し、本人としては志し半ば引退を余儀なくされていた。先代家元はそこで幹部格を呼び集めて孫を家元とする世代交代を公にした。無論まだひよっこであった孫娘をこのまま荒波立つ大海原へとやるのには一抹の不安があった。時期尚早との声もでる。しかしながら先代家元には時間がない。家元は孫娘を床の間に呼び寄せて事の始終を言って聞かせた。彼女はたじろいだ。仕方のないことではある。押戸引戸流の総人口は多くないといえどそのような稀有な流派に集う輩は変人の博覧会みたいなもので一癖二癖を通り越えてクセが息して歩くような者ばかりだ。そんな中で自らの覚悟がなければ彼らをまとめる一当主になどなれるはずもない。そして彼女には覚悟などあろうはずもなかったのだ。しかしながら同時にこれまで祖母がどんな思いでいたかをも知ることになった。押戸引戸流家元、これは決して容易いことではない。ましてや夫に先立たれ、産みの苦しみを持って授かった息子にまで逃げられた彼女の縁はもう孫娘しかいないのだ。床から這い出るのも一苦労な祖母の腕は枝のように細く、その手のひらは石のように硬かった。これまでどれだけの戸を押して引いてきたかその歴史が刻まれている。孫は祖母の手を握り返して頷くよりほかなかった。

 当主交代の披露目の日。晴れ着に身を包んだ彼女はこの世の天使と見紛うほどの艶やかさでその姿にはクセ者共もこれはワンチャンあるのではと騒ついたほどである。彼女の前にはありふれた戸が立っていた。緊張が漂う。彼女は明らかに動揺しながらもこれまで叩き込まれた祖母の教えを思い返した。集まった一同が固唾を飲む中、彼女はその手を戸の前へと運び、そしてそれを押した。

「え やだ なんで どうして」

 引戸だった。人生は二択の連続である。押してダメなら引いてみろといったような言いぐさは一般社会でこそ通用したが押戸引戸流の場合は押してダメならもうダメなのだった。その場にいた連中の表情は明らかに落胆を見せていた。中には心無い野次をとばす者もいる。そんな中で先代は表情一つ変えることなく、呆然とする引戸を押してしまった我が孫の背中を見つめていた。先代は側近をひとり手招いて告げた。

「佐々岡、あの子をよろしくお願いします」


 問い戸。つまりこの交代式で行われた、それが押戸が引戸かを解き明かす押戸引戸流の最も基本的な作法もあくまで形式的なものであり、これに失敗したとて彼女はもう二十二代目押戸引戸流家元であった。とはいえその格は地に落ちた。これも出来ぬで何が家元か、同志であるはずの身内からはそんな声ばかりが聞こえてきた。間も無くして先代の祖母が他界する。その葬儀はしめやかに行われるも家元は就いてすぐから心身共に疲れ果てていた。

「家元、大丈夫ですか?」

「送ってくれてありがとうございます。佐々岡さん。すみませんがここで少しお待ちいただけますか」

 彼女は病院の中へと入っていった。それは自らのためでなく実の母を見舞ってのことだ。その背中は小さくか弱い。ただ見舞いを終えて戻ってきた時は些か晴れた顔つきであったように見えた。帰りの車中で彼女は言った。「頑張らなきゃね」それが誰に対してかけた言葉かはともかくまだ灯火は消えてはいないと佐々岡は先代を思って祈った。


 月日は流れていった。お家としてもそれほど大きな行事のない時期である。ところが幹部格のひとりが言い出したことがきっかけで事態は大きく揺らいだ。交代式の家元の有様を見過ごすことはやはり流派の恥として戸越えを提案してきたのだ。戸越えとはまさにその字が如く、血筋を越えて家元の座をかけて行われる決闘である。提案者は先代にずっと仕えてきた重鎮。高齢ではあったがその意気や衰えを知らぬ豪傑である。家元は戸惑った。戸越えはこの流派が出来た頃より定められた伝統あるしきたりではあったが行使されたことはこの押戸引戸流の長きにわたる歴史の中で一度もなかったからである。相手方が申し込んできたのはもちろん問い戸による戸越えであった。

「家元、相手はこれまで一度たりとも問い戸でしくじったことのない百戦錬磨です。ここは私めにお任せください。この佐々岡、恥ずかしながら芸事よりも政治に長けておりますゆえ」

「佐々岡さん、私がここでお願いしますと言ったらあなたはきっと私を助けてくれるんだと思います。あなたのことはこの家の誰より信頼しています。けれど私は母に約束したんです。強くなるから。だからお母さんも元気でいてって。それにここで私がしっかりしなきゃ先代……おばあちゃんにまた叱られちゃいますから。受けて立ちなさい、先代ならそう言うと思います」

 私は泣いていた。彼女の言葉に、強さに。幼い頃より見守ってきた彼女のことは私にとってもまるで我が子のようであった。よく泣く子であった。それがいつしかこんなにも強い方になられた。もう押戸か引戸かなんてどうだっていいのではないか。だが家元は立ち向かうことを選ばれた。ならばこの佐々岡、その覚悟に一生ついて参ります。


 戸越えの日。二者は向き合って一礼を交わす。それぞれの前には戸。先手は相手方。これ迷うことなく押戸と当ててみせる。流石は豪傑といったところ。表情は余裕に満ちている。対して家元。やはりどこかで緊張は隠せない。恐る恐る戸に手を伸ばす。押戸。正解である。私は胸を撫で下ろした。この場合、新たな場所へと移る。新たな戸の前でまた問い戸を行うのだ。考えてもみれば面倒な芸事である。しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。先手、代わって家元。家元は深呼吸をされた。緊張の瞬間、戸を押そうとして一旦手を止めた。わかる。ここが戦場ならばその選択一つが生死を分けるのだ。私は祈った。先代、どうかユメ様にお力添えを。家元はそれを静かに引いた。


「佐々岡さん、私は笑えてますでしょうか」

 私は嗚咽混じりに頷いていた。あの百戦錬磨の豪傑を打ち破ったユメ様の堂々たる風格の前で私は言葉を上手く話せなかった。相手方はそれが引戸だと見抜いていたものの歳のせいか手前で蹴躓いたのである。そのまま戸に突進すればユメ様の勝利だった。何せユメ様はしっかりと引戸を当てられたのだから。よろめく相手に私は胸が躍っていた。ところがユメ様はその者を身を呈して助けたのである。結果的に二人とも転げて倒れたが戸は無傷に済んだ。私はすぐさまユメ様の元へと駆けつけて彼女を抱き上げると同時に自分を恥じた。周囲はようやく彼女を家元と認め盛大な拍手を捧げていた。


 祝いの席。皆が宴に勤しむ中、家元にお母様から電話が入った。きっと祝福の伝言であろう。

「佐々岡さん、ちょっと席を外しますね。ってあれ? これ え どうやって通れば」

「家元、それは払いのけてくぐるだけです」

 どうやら簾はまだ早かった。

 

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