第13話 雨
その日は朝から雨だった。
ヨシュアは室内に篭り、ただマリー達との日々を反芻していた。
(こうしていられる時間もあとどれだけあるかわからない…。)
ヨシュアの体調はますます悪くなっていた。生きることを諦めたわけではないが、迫り来る死を覚悟してもいた。
今のままだと残された時間は少ない。ヨシュアはできるだけ有意義に生きることを心がけていた。それでもヨシュアが生きることを諦めないのは、マリーを信じているからに他ならない。まず、食事はやめた。摂るふりをしないと異変に気付かれるため、一応摂っている素振りは見せておき、部屋でマリーからもらった丸薬を飲む。
栄養は万全ではないが、無理して食事を食べて吐き戻すよりは遥かに健康的になった気がする。実際少し血色は良くなった気がしている。
あれ以来、ライラのお呼びもかからなくなったのもあって、ヨシュアは体調だけを気にして過ごすことができ、ストレスは幸い少し軽減されていた。
ストレスの軽減といえば、マリーの理解を得られた事が一番大きい。マリーに嘘をつきながら、ライラと行為に及ぶ日々はどうにかなりそうだったし、マリーに事が知れた際には死を考えたのだから、ヨシュアにとってのマリーという存在が如何に大きいかが窺える。それもそのはず、ヨシュアにとっては初恋の人であり、将来の伴侶と心に決めた人でもあるのだから。
あれから一週間余りが経とうとしている。マリーは親父さんに似て、研究に没頭し始めると寝食を忘れがちになる傾向がある。媚薬がもし悪さをしているのだとしたら、必死に薬を作ってくれているのだろうけどあまり無理はしてほしくない。今度はマリーが倒れたのでは本末転倒になるからだ。
研究に夢中になっているマリーの姿は何度か目にしたことがある。今度もそんな感じなんだろうか、と思い描き、ヨシュアは少しだけ笑む。お腹がすいたと催促することで、食事にだけは引っ張り出してくれるであろうアンナの姿も思い描き、ヨシュアは幸福感を覚えた。
ああ、俺はあそこへ帰れるだろうか。
思いを馳せていると、部屋の扉がノックされて現実に引き戻される。
今日はきっと一日雨ね。
ライラははぁ、とため息をついた。
(雨は嫌いよ。)
ライラは珍しく嫌悪感を露わにする。
ライラの両親はこんな雨の日に暗殺された。両親を愛していなかったわけではないライラにとって、あまりにも早すぎる別れだった。その頃のライラは思春期真っ盛りで、両親からの愛を確かめようと様々に悪戯をしたりする年頃だった。
だが、その度ライラは厳しく叱られ、なぜこんなことをしたのかと問いただされる前に部屋へ帰りなさい、と言われて終わっていた。
(なぜ私があんなことをしたのか、少しくらい聞いても良かったのに、ね。)
なぜと聞かれれば、愛を確かめたかったのだと素直にライラは打ち明けるつもりだった。
しかしもうそんな機会は一生ない。
いつものように次はどんな悪戯をしておこうかと両親の部屋を下見に訪れると、そこには黒い影と床に転がった両親の姿が目に入った。唖然とするライラを認めた黒い影は窓から逃走した。取り残されたライラはただ茫然と両親を眺めるしかできず、一刻程ライラは立ち尽くしていた。異変に気づいた衛兵が駆けつけた時、ライラは初めて事を理解し、そのまま気を失った。
ライラは悲しむ暇もなく国を継ぎ、激務の日々が始まる。うら若きライラが継いだ時、貴族の大半はライラを舐めてかかったものだ。
『見た目だけが取り柄の小娘が』
そう影で言われているのを直接聞いてしまった事もある。
(人って見た目でしか判断できないのかしら…。)
ライラは容姿についてもてはやされていたのは事実だったが、そのせいでそんな言われようをする筋合いはなく、ただただ悔しくてそれから血の滲むような努力をして国政に尽力した。その甲斐あってか、ナメた態度を取る貴族たちは黙らせられたが、一方で権力と容姿と頭脳までも手に入れてしまったライラにすり寄ってくる輩は増える一方だった。
すり寄ってくる輩はあしらえば済む事だったが、問題はライラを力で手に入れようとしてくる愚かな輩の方だ。
ライラもそれなりに護身術の鍛錬はしているが、それも限界がある。実際、脳みそまで筋肉でできていそうな馬鹿力の男が襲いかかってきて、ライラを押し倒してきた時は危なかった。
(冗談じゃないわ、こんな頭悪そうな男に…!)
とはいえ、逃れる術を全部断たれて絶体絶命のピンチに陥った。その折に登場するのがフランツである。彼は颯爽と現れ、不埒な輩を一撃のもと沈めると、ライラを助け起こし、跪いて無事を確認したのである。
今まで受けた事のない紳士的な対応に、ライラがときめかないはずがなかった。
「あのっ…」
ふわふわした感覚の中、お名前をお伺いしなければ。とライラが口を開きかけたその時。
「何してる、フランツ?」
現れた見知った顔のせいでライラの心は土砂降りになった。
もう、もう、本当に雨なんて嫌いよ!
ライラは叫びそうになった。
今日の雨もなかなかにひどい。また嫌な予感がする。
この雨は今度は私から何を奪おうというのか。窓際でひとり考える。
やれやれ、せっかく吉報を持ってきたというのに、雨で台無しだ。
フリードリヒは王都に到着していた。マリーから託された薬を携え、ヨシュアを今度こそ助けられるという思いでやってきた。そしてライラにも言う事がある。
そういえばマリーと初めて会った日も、ひどい雨の夜だったから、ヨシュアに会わねばならない今この時が雨なのも必然なのかもしれない。
(この雨が全て洗い流してくれたらいいのにな…。)
フリードリヒは感傷に浸るが、ライラの蛮行も、マリーの努力も、なかったことにはできない。全ての積み重ねが今を作っているのだから。
フランツに城内の様子を探ってもらい、ヨシュアに会うためのベストなタイミングを探る。
なぜフランツを先行させるかというと、もちろんライラ対策である。もしどこかでライラに遭遇してしまっても、ライラはフランツには嫌な顔をしない。するはずがない。ただ、フリードリヒがどこかにいることも把握はされるのだが。フリードリヒ自身が遭遇するよりずっと良い待遇をしてもらえるのは間違いない。フリードリヒの経験則からいって、ライラは雨の日はあまり見かけない。昔は髪のコンディションが雨の日は良くないと気にしていたのを覚えているが、それはあどけない少女時代の話で、今のライラがそれを気にしているかはわからない。
だが、それを考えると好機かもしれない、とフリードリヒは思った。
フランツからも問題ないと連絡が入ったので、フリードリヒはヨシュアに接触する。
扉を開けると、そこにいたのはいつもの使者ではなくフリードリヒだった。
正直少し驚いた。一週間やそこらで何の用事だろうと。
そしてさらに驚かされることになる。
フリードリヒから差し出されたのは、マリーが試薬ながらも完成させたという解毒剤と、使用説明書だったからだ。ヨシュアは村人だが、マリーの家に入り浸っていたせいで文字というものには触れてきた。だから、珍しく文字が読めるタイプの村人なのだが、使用説明書つきとは恐れ入る。
(いつ書いたんだこれ、だいぶ文字がヨレヨレしてるから三日くらいは寝てないだろ…。)
マリーの文字のよれ具合から大体寝てない日数が割り出せるヨシュアもなかなかに怖いが、マリーは一週間の間、少し眠っては研究の繰り返しをしていたため、実際はそれより悪いかもしれない。
※少しずつ薄めて飲むこと。
これは何度も書いてあったため、余程大事なことなのだろうとヨシュアは心に留めた。
マリーが必死に作ってくれた解毒薬。ヨシュアは希望を持った。生きる希望を。
(ていうかあの媚薬、ガチで毒薬だったのか…。)
ヨシュアは改めてライラを恐ろしいと感じた。そして恐ろしい人物がもう一人いた。
「よし、これで君は助かるわけだ。それで、ライラに話があるから、次に誘いが来たら乗ってくれないか?」
フリードリヒである。慌てて、媚薬を飲めと言っているわけじゃない、と訂正してきたが、マリーの誤解が解けたとはいえ、用もないのにあの部屋に足を踏み込めと言ってくるのだ。
(今回の媚薬の件も国に持ち帰るようなこと言ってたし。こいつが一番怖いんじゃないか?)
何の話か知らないが、直接謁見でもなんでも申し込めば良いのに…。と思わないでもなかったが、今回助けてもらった恩もある。ヨシュアは仕方なく首を縦に振った。
その日、雨は降り止まなかった。
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