第9話 そしてライラは嗤う
ドンドンッ
ドンドンドンッ
ドアを叩く音が鳴り響く。
フリードリヒはマリーの家を訪ねていた。
(留守だと…?一体何が…。)
「まさか…な。」
旅行に出かけるとは考えにくい、マリー達の留守にフリードリヒは嫌な予感を覚えた。
マリーからヨシュアの話は聞かされており、一方城の中では、ライラの周りをうろつくと自然と『犬』の話は耳に入ってしまう。フリードリヒは『ヨシュア』という偶然の一致から事を知ってはいたものの、マリー達には知らせるまいとひた隠しにした。ヨシュアの体裁を慮ったと言うより、マリー達は知らなくて良い事だと思ったからだった。
そう、知る必要など無かったのだ。醜い城の内状など。
ただの旅人であろう。そう思っていた。しかしフリードリヒの良心が、マリーが全て知ってしまった時のヨシュアとマリーの、そしてアンナの心情を思うと痛んだ。
「くそっ。間に合えよ…‼︎」
フリードリヒは馬へ飛び乗ると、強行軍で王都へと向かった。愛馬にこんなに無理をさせるのは久しぶりの事だ。
マリー達がいつも温かく迎えてくれるようになったおかげで、ライラの住まう城への道のりが随分楽になったものだ。
気の良いマリーとアンナには随分甘えてしまっていたようだ。そう思うと、余計にマリーには傷ついてほしくないという思いが募った。
もしヨシュアの城での扱いや噂を聞いてしまったら、マリーが傷つくことは間違いない。そしてもしかしたらヨシュアに裏切られたという気持ちになってしまうかもしれない。いや、きっとなるだろう。そうなる前に、自分が介入してライラを止めるしかない。まだライラがマリーを王都に呼んでいるという妄想は、可能性でしかない。だが、ライラならやりかねない。マリーが家を空ける理由はきっとヨシュアの為だから。短い付き合いではあるが、マリーやアンナがどれだけヨシュアの事を尊敬し、大事にしているのかは少し話に耳を傾ければわかる事だった。
憶測でしかないが、ライラがやるとすれば、ヨシュアとマリーを引き裂き、かつ両者を最大限に傷つけるやり方をするだろう。あの女はそういうえげつない趣味の持ち主だ。確かに見た目は美しいが、どうも倫理観というものが欠けている。いや、周りがそうさせたのかもしれない。何にせよ、今はそんなことを考えている暇はない。事態は一刻を争う。フリードリヒは危機感に迫られながら、ライラの元へと道を急いだ。
ー一方の王都
「お兄ちゃん、大丈夫なのかなぁ。」
アンナがついに不安を口にした。アンナは我慢強い子で、滅多に弱音を吐くことはしない。と言うのも、それはヨシュアやマリーに心配をかけたくないという一心だった。だが、ヨシュアが倒れたと聞かされ、王都についても丸一日以上会わせてももらえない。そんな状況がついに形となって爆発してしまったのだ。
それを聞いたマリーは、きっと大丈夫、今お医者様が診て下さっているんだから、とまるで自分自身に言い聞かせるように言った。しかしマリーも憔悴していて、顔には血の気がない。マリーもまた、不安だったのだ。
二人は身を寄せ合って、ヨシュアはきっと大丈夫、と祈る事しかできなかった。
マリーもアンナも、ついに一睡も出来ずに今まで耐えていた。
しかし日が暮れようとする頃、ついにアンナは疲れ切って眠ってしまった。
マリーも睡魔が襲って来ていたが、やはりヨシュアの無事を確かめるまでは気が気でなく、眠れそうになかった。
中天に差し掛かる頃、突如マリー達が滞在する部屋のドアが開いた。そこには衛兵が立っていて、促されるがままに部屋を出る。眠っているアンナの事が案じられたが、起こすのも忍びなく、戸惑っていると、スッと歩み出た女官の一人に後を任せるように言われてそのまま部屋を後にした。
マリーは案内されるままに薄暗い城の中を歩く。中庭に出ると、月がやけに大きく美しかった。
(ヨシュアもこんな月を見ながら過ごしていたのかな…。)
そんな事をぼんやりと考えている間に、前を歩く衛兵が止まった。どうやら目的地に着いたらしい。
入るようにと言われ、部屋に入ってみると、そこは真っ暗で、しかもドアが閉められ、鍵がかかる音がした。マリーは危険を感じ、ドアがあった場所を叩こうとする。しかしそうしようとした瞬間、誰かの手がマリーの手を掴み、そこに一粒の灯りを灯した。
「はいはい、静かにして〜。君はヨシュアに会いに来た。そうだよね?」
知らない少年らしき声がマリーにそう語りかけた。
ヨシュア、そう。ヨシュアだ。マリーは確かにそう聞いた。でも静かにしろと言われたし、もしかしたらここは今、危篤状態を脱したヨシュアの眠る部屋かもしれない。マリーはそこまで想像し、静かに頷くだけに留めた。
「そう、よかった。すぐに会わせてあげるよ。こっち来て?」
微かな灯り以外漆黒に塗られた部屋で、マリーは手を引かれて移動する。語りかけている相手は全て見えているような軽やかな足取りだった。
「はい、着いたよ。じゃ、少しの間目を閉じて?」
今のマリーには従うより他にない。少年のような声に導かれるまま目を閉じる。
すると、フッと空気が揺らいだ気配がして、傍にあった灯りの温度が失われるのを感じた。
「はい、いいよ。おまちどうさま。ゆっくり堪能していってね♪」
そう言われて目を開けると、少年のような声の持ち主の気配はすでに無く、目の前にあったのは隣の部屋が見える小窓程度の小さな隙間だけだった。
仕方なくその小窓から隣の部屋の様子を窺っていると、なんと危篤と聞かされていたヨシュアが何事もなかったように歩いて入ってきたのが見えた。
(良かった。無事だったんだ……‼︎)
その状況に違和感を覚えつつも、ヨシュアが無事でいてくれたことの喜びの感情がマリーの中では上回っていた。
(ヨシュア、心配したんだよ!私もアンナも来てる…あれ?)
マリーはヨシュアに確かに語りかけようとした。小窓から覗いているため、無駄だと思いつつも、手を上げて、私はここだよとアピールしようとした。
だが、手を上げることはおろか、声のひとつも出てこないのだ。まるでその場に金縛りになったように、身動きひとつできなかった。
マリーはまだ理解していなかった。これが女王の狡猾な罠だということを。
遠くから見ている為、ヨシュアの表情までは薄暗い隣の部屋の中、見通すことはできなかったが、いつもとは少し雰囲気が違う気がする。
そこへ、長い銀の髪をした女性がするりと入ってくる。女性はヨシュアに何か言葉をかけると、その細い腕をヨシュアへと絡める。そして夜の闇に溶けるように、二人は睦み合う。
マリーは何が起こっているのか理解できずにいた。ヨシュアが元気なのは嬉しいが、流石にこんなシーンを見せつけられては、話が違うじゃないか、という憤りが湧いてくる。
(危篤というのは嘘だったの?)
そもそも論、ヨシュアは訓練が辛いと言っていた。今目の前で起こっている事を整理整頓しようと試みるが、マリーの思考は一向に追いつかない。
(何よ、これが辛い訓練だっていうの?)
マリーは目の前の女への嫉妬と、ヨシュアの行動が信じられないという気持ちから、頭の中はぐちゃぐちゃで、まともな判断ができる状態ではなくなっていた。
マリーは好きな男性の他の女との行為を見せつけられて冷静でいられる程の聖人君子ではない。賢い女性ではあるが、それは冷静でいられる時の話だ。
悔し涙にぐしゃぐしゃになりながら、目を逸らすこともできず、相変わらず身動きができないままに二人の行為を見せつけられていた。
不意にマリーの硬直が解けた。マリーはその場に崩れ落ちる形で、へたり込んでしまった。ヨシュアに裏切られた、その思いでいっぱいだった。その場で泣き続けていると、不意に目の前の視界が開ける。
小窓がついていたところがドアになっていて、誰かがその扉を開けたのだ。目の前にいるのは銀の長い髪をした例の女性だ。
「はぁ、あはぁ、どうだったぁ?最高のショーだったでしょぉ?」
息も服も乱れたその女性はマリーにそう問いかける。初めて女性を間近にしたマリーは、こんなに乱れていてもなお美しい女性がこの世にいるのかとある意味感嘆してしまった。
そんなライラを不審に思い、覗きにきたヨシュアの血の気の引き方は尋常ではなかった。
「…マリー?」
何かぼんやりしている気もしたが、ヨシュアは確かにそう言って、マリーを認識した。
なぜここに、と言いたそうだったが、それはこちらが聞きたいとマリーは思っていた。とにかくここに居たくないとマリーは何もかも押し退けて、その場を後にした。部屋までの道のりは覚えていない。とにかく、夜の城の中を泣きながら走って走って、なんとかアンナの眠る部屋まで辿り着けた。
マリーは後ろ手に扉を乱暴に閉めた。ついでに閂もかけた。その音に反応して、アンナがのろのろと起き出してくる。
「…お姉ちゃん?」
何も知らないアンナの無垢な瞳が今のマリーには救いだった。あんなことを知るのは自分だけで良い。
「どうしたの?大丈夫?」
涙でぐしゃぐしゃのマリーを見て、アンナが心配そうに声をかけてくる。マリーは何も言わずにアンナを抱き締め、アンナもそれに応えた。
「ヨシュアね、もう大丈夫なんだって。明日帰ろう、村へ。」
落ち着いてきたところでそれだけを伝えた。それを聞いたアンナは、それ以上マリーには何も言わず、静かに頷いて了解の意を示した。アンナは我慢強い子で、自分も兄に会いたいとごねたりはしなかった。
マリーは当分ヨシュアに会える気がしなかったので、アンナが素直に従ってくれたことは本当にありがたかった。
翌日、朝早くにマリーとアンナは王都を後にした。
ヨシュアは二人の乗った馬車を遠くから見送っていた。媚薬でぼやけた意識を引き戻すにはあの出来事はあまりにも衝撃的すぎた。
全部、あの女に仕組まれていた。そう気付いた時には遅かった。そして、いくら仕組まれていたとはいえ、ヨシュアのしていたことは紛れもない裏切りだったということを突きつけられた。
(もう村にも帰れない、か…。)
ヨシュアは絶望の淵にいた。ヨシュアはどこまで堕ちてもそれはマリーとアンナの為という大義名分があったから踏ん張ってこれたにすぎない。
二人にも会えなくなった今、ヨシュアは自分は何のために生きているのかと自問していた。
もういっそ楽になれたら。
北側の高い塔の上でぼんやりそんな考えに囚われているとき、誰かが肩を叩いた。
そこには隣国の王子、フリードリヒが立っていた。
「あなたは確か…。」
なんで隣国の王子に肩を叩かれているのか、理解できなかった。
「アンタがマリーの想い人のヨシュア、で合ってるか?」
そうフリードリヒから尋ねられ、ヨシュアは更に疑問が深まった。
「なんでそんなこと知って…。」
自分の事はともかく、なぜマリーが出てくるのか。
「事情は話せば長いが、マリーとアンナには世話になっていてな。借りを返さないままなのは気分が良くないからここからは俺なりの流儀でアンタ達に借りを返すって意味で礼をさせてもらう。」
フリードリヒは昨晩起こったことの顛末の直後に城に到着した。マリーが泣きながら走り去っていくのを曲がり角で目撃してしまったのだ。
(間に合わなかったか…。)
フリードリヒは唇を噛んだ。マリーに世話になっている分、情が移ってしまったのか、辛い思いをしてほしくないという想いが強かった。
すぐさまライラの部屋へ向かうと、高笑いするライラが目に飛び込んできた。その側にいるのは、打ちひしがれたヨシュアだ。
「あっっはははははは。さっきのマリーちゃんの顔見た?ねえ、ヨシュア?今の気持ちはどう?これからあなたは、私に仕えるしかないのよ!傑作よねえ?」
ヨシュアは呆然としていて、何も耳に入っていないようだった。
そっとその場を後にして、フリードリヒは様子を探っていた。マリーとアンナが城を後にするのを確認し、ヨシュアの様子を見に来たら案の定、というヤツだ。
とりあえず、ヨシュアを落ち着かせたフリードリヒは、ヨシュアにある『頼み事』をした。
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