新たな日々 Ⅰ

 世界が再建され、最初の人類が誕生したその四十年後。いつしか時は二二二〇年となっていた。

 日本は以前にも増して、より住みやすく、より豊かに、そしてヒトの数も増えていた。

「おはようございます、羽染はぞめさん!相変わらず早いですね」

 出勤してきた女性―――大庭奈緒おおばなおは、目の前に座る男性に声をかけた。

 だが、その彼は奈緒に気付いていないのか、目の前のモニターから目を離さない。

「羽染さん?どうかされました?」

 奈緒は声をかけるのを諦め、彼の後ろへと、そっと移動する。

 モニターには複雑な形をしたものが所狭しと映し出されている。時にはなにかの欠片のようなものまで映り、奈緒は思わず「それって……皮膚片ですか?」と声をかけてしまった。

「わっ!お、大庭さん!?いつからここに!?」

「少し前からいましたよ!何回も声をかけたけど、羽染さんったらずっとモニター見てて気付いてくれないんですもん」

 奈緒はそう言った。

「わ~!!ごめんなさい!僕って、なにかに熱中すると周りが見えなくなるんだ!ほんとにごめん!」

 そう謝るのは、羽染律はぞめりつ。この会社―――国立ウイルス学研究所の研究者だ。年齢はまだ二十七歳だが、優秀な研究者であるとして、すでに主任へと昇格している。

「それはいいんですよ!羽染さんに気づいてもらえないのなんていつものことですから。でも、私が今気になっているのはその……」

「ああ、これ?これさ、何だと思う?」

「細菌……ですか?」

「うん。でも、ただの細菌じゃないんだ。新種の細菌なんだよ……。昔、この地でが起きたでしょ?その時に使われた何かによって、生態系が異常をきたしてるんだ……正体を突き止めれば対処法も分かるかと思って朝から調べてるんだけど、ヒットしなくてさ」

 律は奈緒に説明する。

「それどうするんですか?」

「もちろん、ちゃんと報告書にまとめてに送るよ。こういうのは共有しておかないと、あとで大変なことになるからね」

 彼はそう言うと、黒光りしている小型の小さな機械を取り出す。それは超小型化されたモニターとキーボード。この世界で言う、いわゆる“パソコン”だった。

 それをデスクに置き、電源を入れる。

「羽染さんの“アテナ”って黒でしたっけ?」

 彼女が口にした“アテナ”。それは、その“パソコン”の事だった。

「いや、それがさ~前の白は壊れちゃって……。サンプルの横に置いててね、手が当たってサンプルを落としたら、ゼウスが反応して除去剤撒いちゃったんだよね~。で、アテナは壊れて、仕方なく黒に変わったんだ」

 がっかりして話す律を、そうですか...と呆れ気味に見る奈緒。どうやらこのやり取りもいつもの事のようだった。

「じゃあ、私は自分のやっちゃいますから、羽染さんもそれ、早めに送った方が……」

 奈緒は半分逃げるように、その場を去った。

 律は〈アテナ〉を起動させる。実はこれ、かなりの優れものである。

 底面にはセンサーが付いており、電源を入れてから机や床、台などに置くと自動で起動する仕組みになっている。起動すると、箱の上部からはホログラムが出現し、モニターとして、前部からは特殊なホログラムが現れキーボードとして使えるのだ。

 もちろんこの〈アテナ〉も〈バンド型ICチップ〉と連動させることが可能である。

「“分析部門から依頼されたサンプルの結果です。二重チェックの結果……”」

 律は文字を打ちながら、全て声に出ていた。

「羽染さん!声に出てますって!」

 奈緒に指摘される。「しまった!」と言わんばかりに、口も目も開いている律。深いため息をつく奈緒。研究室にいる仲間たちは、ただ笑うしかなかった。

「主任が独り言を言うのはいつものことですからね。聞こえても、聞こえていないふりをするのがお互いの為ですよ」

 そう奈緒に言うのは、律のもとで働き始めて三年目の男性研究員、とが弦丸つるまるだ。

「わかってはいるんですよ……羽染さんは不思議な人だって。だから、独り言にしても頭の良さにしても、記憶力にしても、もちろん研究とか何もかも私なんて足元にも及ばない、天才な人だって。でも……」

「でも……?」

「時々、羽染さんが怖く感じるんです……。なんか……」

 奈緒が何か言いかけたとき、室内に律の声が響いた。

「できた!これを送れば、まあ……何とかなるか!」

 彼女たちが話していたことが聞こえていないのか、律は普段と変わらず「ねえ!」と話しかけてくる。

つる~!」

 律が栂にそう声を掛けると、「データ、送りますね」と返事した。

「さっすが弦!助かります!」

 栂はにこりと笑い、〈アテナ〉を操作する。

 その時、研究室内に放送が鳴り響いた。

『緊急放送、緊急放送……今すぐ手を止めて、放送を聞くように。外国で何らかの暴動が起きた模様。今のところ日本に影響はないが、サンプルの分析依頼や研究員の派遣など、何かしらのヘルプが来るかもしれない。今やっていることを中断するか、今すぐに終わらせるかして、それぞれ手を空けてほしい。また、今から名前を呼ばれた者は、ただちに所長室へ来るように。放送はこれで終わる、各員ただちに行動を起こすように!』

 所長は従業員の名前を読み上げていった。

 そしてなぜか、律の名前も呼ばれる。

「今……僕の名前言いました……?」

「はい……確かに言ってましたね……」

「私も聞きました。羽染さん、何もやらかしてませんよね?」

 奈緒がそう言うと、皆が「そう聞きたくなるのも分かるな」と笑う。

 ただ、律だけは何かを感じているのか、今までに見たことのない表情を浮かべていた―――。

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