第4話 不可逆の変質
「待ってオオカミさん。追いかけっこは嫌いよ」
ジョキジョキと巨大なハサミを鳴らす恐ろしい音が、背後から聞こえてくる。
ユキオは息を切らしながら、ハサミを持つ少女から逃げていた。
生来運動能力が高くないユキオ。
しかし、追ってくる少女も足が速いわけでは無いらしく、今のところ追いつかれる様子はない。
少女の追跡を振り切って近くの建物に駆け込む。
ユキオの記憶が確かなら、この場所はデパートだった筈だが……中に入っても人ひとり見当たらない。
(どうやら”裏”の世界に入り込んでしまったようだね……誰かの助けは期待できなさそうだ)
聞こえてくる声に、ユキオは舌打ちをした。
(しかし何で逃げるんだいプリンセス。あの程度の相手に、君が殺されるはずが無いじゃないか)
嘲るような喜色を含んだ声色。ユキオはイライラしながら小さく咳をしてボソリと呟く。
「……腹を裂かれるのはごめんだからな」
コホンと小さく咳をする。
痛いのは……嫌いだ。
「オオカミさん、みぃつけた!!」
背後から聞こえる舌足らずな甘い声。
振り返ると同時に、柔らかな腹の肉にずぶりと突き刺さる冷たい刃の感触。
少女とは思えぬ力で地面に押さえつけられ、身動きが取れない。
「さあ、お腹を裂いて石を詰めなくちゃ!」
ケタケタとおぞましく笑う返り血に染まった少女の姿を、ユキオはどこか他人事のように眺めていた。
腹が……痛い。
否。
痛いのは腹だけじゃない。
そしてユキオは思い出す。自ら毒を喰らった、その時の記憶を……。
◇
息も絶え絶えに床に転がっているユキオ。
顔の傍には、先ほど飲み干した毒の瓶。
死にかけの少年を見下ろす人影。
それは、道化の化粧をした怪人であった。
(見つけたよ僕のプリンセス)
(なんということだ、君は今にも死にそうじゃあないか)
道化はそう言ってしゃがみこみ、ジッとユキオの顔を見つめる。
(この出会いは奇跡だ。そうは思わないかい?)
道化の問いに、ユキオは答えることができない。
死に際に現れた正体不明の奇妙な男。これが死神というやつなのだろうかと、ぼんやりと考える。
(君の望みはなんだいプリンセス? 君の魂と引き換えに、何でも一つ願いをかなえてあげよう)
どこか面白がっているかのような道化の言葉に、ユキオは……。
◇
「ぎゃぁあぁあああ!?痛い……痛いわ!?」
顔を抑え、転げまわる赤いずきんの少女。
そんな少女に切り裂かれたユキオの腹の傷から、ずるりと何者かが生まれ落ちた。
それは道化の化粧をした怪人。
道化は地に伏した少女を見下ろしてニヤリと口角を吊り上げる。
(痛いだろう? ユキオの血は特別性だからね)
あぁ、あの時。
道化から取引を持ち掛けられたあの日。
ユキオは願った……願ってしまった。
”死にたくない” と……
そしてその願いは叶えられた。
否。
その願いだけが叶えられた。
ユキオは死なず……しかし飲み込んだ死の毒は彼の体を巡り続ける。
ユキオは生きながらにして死の苦しみを味わい続けているのだ。
道化は懐から一冊の本を取り出した。
茶色い革表紙の古びた本。
ペラリと表紙をめくると、そこには何も書かれていない空白のページが存在する。
(御伽噺に帰るんだ ”赤ずきん”)
道化の言葉と共に、本と地面に転げた少女が発光する。
目を開いていられないほど鋭い光。
やがて、その光が収まるとそこに少女の姿はいなくなっていた。
道化の開いた本のページには、先ほどまで存在しなかった絵が描かれている。
苦悶の表情を浮かべる赤いずきんを被った少女の絵が……。
ぱたんと本を閉じた道化は、それを自身の懐にしまった。
腹を裂かれて倒れているユキオに近寄ると、しゃがみこみ、彼の上体を優しく抱きかかえる。
(これくらいじゃ死なないさ……そういう契約だからね)
すました顔の道化に、ユキオは口から血をダラダラと流しながらゆっくりと右手を上げ、中指を立てて意思表示をする。
そんなユキオを見て道化は嬉しそうに笑った。
(僕の本はまだ数ページしか埋まってない……これからもよろしく頼むよ、僕のプリンセス)
甘く蕩けるような毒薬は、今もユキオの体を巡り続ける。
元の生活に戻ることはできない。
生きながら死に続けるユキオは、静かに己の不可逆なる変質を呪うのだ。
◇
不可逆のスノーホワイト 武田コウ @ruku13
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