第七章 cream soda
焦りのようなもどかしさのような、なんとも言えない感情に襲われたのは、時雨が作ってきた新曲を聴いたときのことだった。
時雨は悩みに悩み抜いた末にこの曲を書いて一皮むけた。言うなれば「羽化」をしたように羽根を広げたわけだ。それはこのバンドにとってとても喜ばしいこと。でも、私は気づいてしまった。その曲に込められた時雨の気持ちというものを。
この曲は間違いなく、融に対する想いそのものだ。時雨は自分の中にあった融への気持ちに気がついたのだと思う。タイトルが『透き通る
そんな言葉遊びのようなタイトルでサラッとすごい曲を完成させてしまうあたり、ソングライターとしての時雨が成長していることをひしひしと感じさせる。
一方の融は普段から基礎練習を欠かさないストイックな一面があって、劇的ではないにしろ着実に力をつけている。最近一緒に基礎練習をすることがあるけれども、「継続は力なり」という言葉をひしひしと感じさせられる。ずっとこれを続けてきたであろう融は、やっぱりすごい。
そうなると自分の不甲斐なさが余計に際立ってくる。私はこのバンドで何をしなければならないのか、何か変わらないといけないのではないか、そういう漠然とした考えがずっと頭の中を支配していた。
思い出すのは高校受験のこと。地元の進学校を志願していた同級生たちは次々と合格を決めていく中、自分は本命に落ちてしまったという、私にとっては過去の忌まわしい記憶。
一人だけ、ただぽつんと置いていかれてしまうという孤独感と、もう取り返しがつかないのだという喪失感でその頃の自分は一杯だった。
もうあんな思いをするのは嫌だ。このまま融と時雨に置いていかれるなんて考えたくもない。
幸い、まだ私には時間がある。すぐにでも行動を起こして、絶対に彼らに遅れを取りたくないというその一心だった。
とにかく今のままではダメだ。自分のスタイルである骨太で荒っぽくて直線的なベースライン、これ一辺倒ではどうにもならないと思ったのだ。自分なりに考えた結果、実践してみようと思ったのはその真逆のこと。繊細で、精密で、時雨の作る曲に溶け込むようなそんなベースを弾こうとした。
しかしそれは裏目に出る。結果は散々たるものだった。経験を積もうと地元のライブハウスが企画してくれたイベントに出たはいいものの、そこでの私はどうしようもなくダメだった。
何か変わらないといけない。でも、良かれと思ってやったことが上手くいかない。演奏上のミスがなくても、バンドとしての出来栄えは格段に悪くなっていたのだ。
こうなると、何をどうしたらいいのかいよいよわからなくなってくる。行くも地獄、戻るも地獄。
ライブ終わりのファミレスで、岩本から痛烈なダメ出しを食らった。あいつの言い方は気に入らないけれども、言っていることは真っ当だ。ぐうの音も出ない。
「ちょ、ちょっと陽介、それは言い過ぎだよ……!」
強い言葉で酷評してきた岩本を融が制止する。
「……いいよ融、そいつの言う通り今日の私はひどかった。何も間違ってない」
「理沙……」
「大丈夫。本番までには直すから。心配するな」
心配している融の方を向いて、私はその一言だけを言う。申し訳なさで融の顔を直視できず、目の焦点はだいぶ遠くに合っていた。
本当に大丈夫なやつは「大丈夫、心配するな」なんて言わないのだと、何かの小説に書かれていたことをふと思い出した。どう考えても今の私は大丈夫じゃない。
「……空気を悪くしてしまったな。これ以上俺がここにいるのは良くないだろうから、立ち去ることにする」
騒がしいファミレス、その一角の重苦しい雰囲気の中に岩本の低い声がよく響き渡った。彼は立ち上がると、ドリンクバーと食べ物の代金をテーブルに置いて立ち上がる。すると、とっさに融が岩本の行く手を阻んだ。
「よ、陽介? どこにいくのさ?」
「どこって、帰るに決まってんだろ。言いたいことは言った」
「いや、言いたいことは言ったかもだけど、その中身があまりにも抽象的すぎるよ。せめて、どこが悪かったのか言ってもらわないと、僕は納得がいかない」
融は至極真っ当な理由で岩本を引き止める。確かに言われてみればこいつは、「今日の私の出来がクソである」という漠然としたことしか言っていない。
どこが悪いかなど自分である程度想像はついているけれども、先入観やひいき無しで今の私が外からどう見えているのか、少し気になっていた。
「……まあ、確かにそうだな」
「そこを言ってくれないと、僕がお前をここに呼んだ意味がないからね」
「そんなこと言うなんて、ずいぶん俺を買ってくれてるじゃないか。バンドを組もうと言ったときは徹底的に拒否したくせに」
「それはそれ、これはこれだよ」
空気がさらにヒリつく。
一見この二人は仲が悪そうに見える。しかし、なぜかお互いに妙な信頼を置いているようで、私にはそれが不思議な関係に見えた。
そこで私はようやく気がつく。融がここに岩本を呼んだのは、彼の視点から意見をもらうことで私に気づきを与えたかったからだ。
おまけに友達の野口と実松を呼んだのは彼らに緩衝材になってもらうためだろう。岩本だけだと説教臭くなるだろうし、そもそもあいつ単体では誘ってもやって来ない可能性が高い。そこまで考えて融はこの場を用意したのだ。
「一言で言えば、『自分を殺し過ぎ』だよ。片岡は」
その言葉に私は心臓を掴まれたかのようにドキッとする。
「自分を殺し過ぎ?」
「機械でできないことをやるのが
岩本の回答は的を射ていた。あろうことか、その矢はど真ん中直撃だ。
「なんで自分を殺すようなベースを弾かなきゃいけなくなったのか、そのへんのことをきちんと話さないといつまでもそのまんまだよ」
私は閉口せざるを得なかった。自分が感じ取った違和感をずっと一人で抱え込んだままだったということを、岩本は最初から全部わかっていたようだった。反論も意見も、全くできやしない。
「……そういうわけで、俺は帰るよ。じゃあな」
彼が立ち去るとすぐ、その重い空気をどうかしようと融はこの会を解散させた。
しばらく一人にしてほしい気持ちになっていた私は、無意識のうちに帰りの電車に乗るため駅へと向かっていた。
駅につくと、改札の前には人だかりができている。駅員さんが拡声器を持って、汗だくになりながらお客さんに情報を伝えようとしていた。
「大変申し訳ありません。先程発生した事故の影響で名鉄名古屋本線は上下線で運転を見合わせております。復旧の目処は――」
なんともついていないなと、私はため息を軽くついた。
家から迎えを呼ぼうかと思った。しかし、先日の選挙が終わったばかりで、片岡家の中はみんなバタバタしている。今日だってなんとか都合をつけてライブにこぎつけたぐらいなので、それに加えて迎えに来いと言うのは少し気が引ける。
どこかで時間を潰そうか、それとも別の路線で迂回して帰ろうか迷っていると、とある人と思わず目があった。
「……なんだよ、片岡も名鉄ユーザーなのかよ」
「なんだよとはなんだ。そんなことお前に言われたくない」
そこにいたのは同じように足止めを食らっていた岩本だった。
先程ファミレスで捨て台詞を吐いて一足先に立ち去ったくせに、こんなところでまた会うとはなんともバツが悪い。かといって無視するのも何か変な感じがするので、私は適当に会話を繋げる。
「どこまで行くんだ?」
「なにが?」
「最寄り駅だよ」
「知立」
さっきのお返しと言わんばかりに私は、「中途半端に遠いな」と嫌味たらしくつぶやいてみた。しかし岩本はクールな表情を変えることなく平然としている。
「そう言う片岡はどこなんだよ」
「私? 新安城だけど」
「お前だって中途半端に遠いじゃないか」
「うるさいな。快速だったらここから一駅だろ。お前に比べたら遠くもなんともない」
知立も快速に乗ればここから二駅なので五十歩百歩である。しかし、なんとなくこの男にスキを見せるのが私は許せなくて、ついつい喧嘩腰になってしまう。
早く電車の運行が再開されてほしいと願っていると、駅員さんのアナウンスが耳に入ってきた。
「名鉄名古屋本線ですが、運転再開を二十一時頃に予定しております。お客さまには大変ご迷惑をおかけしておりますが――」
スマホを取り出して時刻を確認する。十九時十五分。高校生バンドのイベントということで早い時間に解散したわけだけれども、このままいくと帰りはかなり遅くなりそうだった。
「……仕方がないな。時間でも潰すか」
無表情で岩本がそうつぶやく。
私もどこかで時間を潰そうかと思うけれども、この駅近辺は飲み屋街。そういう場所といえばカラオケぐらいしかない。休日だと値段も高いし、そもそも私はそんなにあの空間が好きではない。
どこか座れる場所を探してぼーっとしていようかと考え始めたところに、岩本は私へ問いかける。
「お前も来るか? どうせ暇だろ」
「どこにだよ。カラオケか?」
「違うよ。……まあ、ついてくりゃわかる」
岩本はそう言って駅の外へ歩き始める。ついて行こうか迷ったけれども、仮についていかず駅周辺で黙って二時間近く過ごすというのは時間の無駄というもの。とりあえず岩本についていって、気が向かなかったら駅に戻ってくるという感じにしてもいい。
「仕方がないな。ついていってやるよ」
私は彼の後ろを少し離れながらついていった。
十分程度歩いてたどり着いたのは、バッティングセンターだった。
かなり年季が入っていて老舗という感じの場所だ。地元の人にとっては馴染み深いのだろうけど、融や時雨と違って隣の市に住んでいる私にとってはこんな場所があることすら知らなかった。
「こんなところにバッティングセンターがあったんだな」
「ああ。俺は暇つぶしによくここへ来る」
「市外に住んでいるくせによく知ってるんだな」
「昔、こっちの方に住んでたからな。リトルリーグのチームに入ってたときは、よくここで練習してたよ」
ふと、懐かしいワードが耳に入る。かくいう私も、小学校高学年ぐらいのときはリトルリーグのチームに所属していたことがあった。
「ちょっとひと勝負でもするか。負けたらジュースおごりで」
「ひと勝負ってお前、ちょっとは男女差を考えろよ」
「よく言うよ。安城東リトルでクリンナップ打ってたの、俺は覚えているんだからな」
「なっ……、お前、知ってたのかよ私のこと!」
昔のやんちゃな自分を知っている人が目の前にいるとなると、急に恥ずかしさが湧き上がってくる。
小学校高学年の頃というのは男子に比べて女子のほうが成長が早く、フィジカル面で優れていることもよくある。あの頃の私はまさにそんな男子顔負けの野球少女で、打席に立てばとにかくバットを振り回すわんぱくなプレイをしていた。
「やらないのか? じゃあ片岡の不戦敗ってことで」
「ちょっと待てよ、やらないなんて一言も言ってないだろ」
「そうこないと。じゃあ、先行は俺から。ヒット性の当たりを多く出したほうが勝ちな」
そう言って岩本はバットを手に取り、バッティングのブースに入っていく。今どき珍しく直接百円玉を使用するタイプの機械で、彼は財布から小銭を取り出してよどみなく投入していく。
開始を知らせる赤いランプが点灯する。古びたピッチングマシンのアームがぐるっと一回転し、軟式ボールがこちらへ向かって放たれた。
暇つぶしの勝負だと岩本は言った。しかし、そのマシンの球筋は恐ろしく鋭く、あっさり彼は空振りする。
驚いた私は、改めてこのブースの設定速度を確認すると、そこには『一三〇キロ』の表示があるではないか。
「……さすがに速いな」
「お、おい、さすがに一三〇キロは速すぎるだろ!」
「こうでもしないと、勝負にならないからな」
私は岩本の言うことがよくわからなかった。なぜこんな球速を選んだのかの答えが『勝負にならないから』では、全く理由になっていない。
そうこうしているうちに次々とボールが放られる。一三〇キロといえば、そこそこ実力のある高校球児が投げるようなスピードだ。リトルリーグしか経験のない私や岩本が、そう簡単に打てるようなものではない。
「クソっ、次で最後か」
ラストボールがマシンから放たれる。さすがに目が慣れたのか、岩本は短く持ったバットになんとか当てて前に飛ばした。ヒット性かと言われると微妙なところだが、このスピードボールを前に飛ばすだけ凄い。
「ほら、次はお前の番だよ」
「な、なあ、さすがに一三〇キロはやめてもっと遅い球にしないか?」
「何言ってるんだよ。お前が打てるブース、ここしかないだろ」
「どういうことだよ。全然意味がわからないんだけど」
私はふと他のバッティングブースを見わたす。すると、岩本のその言葉の意味をようやく理解した。
左打席で打てるブースが、この一三〇キロの場所しかないのだ。
「どうして私が左打ちだってことを?」
「だから言っただろ、安城東リトルでクリンナップを打っていた片岡ってやつを知ってるって。……まあ、まさか女だとは思わなかったけど」
ここじゃないと勝負にならない、それはつまり、私が左打席に立ってはじめて対等の条件になるということにほかならない。
それをわかっていて岩本は、わざわざこんな条件で勝負を挑んできたのだ。彼には何かしら意図があるのだろうけど、それが何なのか今の私にはわからなかった。
深く考えるのはやめだ。今は勝負に集中すべき。負けたらジュース一本奢らなければいけないのだ。値段などたかが知れているが、岩本に負けたという事実が残るのはどうしても許せない。だから昔とった杵柄を信じて、とにかく好球必打あるのみ。
「とにかく、私がヒットを一本でも打てば勝ちってことでいいな?」
「ああ。それでいい」
「上等だ。すぐに勝負を決めてやる」
私はバットをいくつか試し、自分が一番振りやすい一本を選ぶとブースの中に入った。小銭を取り出して投入すると、再びゲーム開始のランプが灯る。
一球目、スピードに全くついていけず、振り遅れる。フォームもぐちゃぐちゃ。昔はリトルリーグでそこそこ打っていたなんて豪語できるようなスイングではない。
二球目、さっきより目が慣れたけれど、身体は思うようについていかない。いつかリトルリーグのコーチに教えてもらったような、教科書通りのレベルスイングは、無常にも空を切る。
「そんなスイングじゃ、俺の勝ちだろうな」
「なんだと! まだそんなことわかんないだろ!」
「わかるよ。あの時みたいな怖さが今のお前のフォームから感じられない」
「なに訳のわからないこと言ってるんだよ!」
岩本からのささやき戦術のような小言に振り回されまいと、私は首を振って集中力を取り戻そうとする。
三球目、岩本の言葉にそそのかされてしまったのか、私は昔のスイングを思い出そうとする。さっきのレベルスイングではなく、コーチに何度も直せと言われたが結局直らなかったアッパースイング。転がすのではなく、とにかく遠くへ飛ばしたい気持ちだけでバットを振っていた、あの頃の記憶が少しずつよみがえってくる。
「くっ……、やっぱり速いな……」
それでも結果は空振り。一三〇キロのボールはやっぱりそう簡単に打てるものではない。
「スタンス、もう少し開いたほうがいいんじゃねえの」
突然聞こえてきた岩本からのアドバイスに、思わず私は疑問形で返事をしてしまう。
「は?」
「昔のフォームは昔の体格に合わせたものだろ。今のお前に合わせたアップデートをしたほうがいいんじゃねえのってこと」
「よ、余計なお世話だよ。誰がお前のアドバイスなんか」
そう言われつつも、やはり指摘されると気になってしまう。私は気づかれないように右足を少し動かして、若干オープンスタンス気味に構えた。
四球目、そのボールは甘く入って来たように見えた。バッティングセンターの球なのだから、打ちごろのコースに来るのは当たり前。しかし、この一球に関して言えば、何故か私に打ってくれと言うようなコースに来たのだ。
もちろん私はフルスイングをした。バットに当たった感触すら曖昧なまま、気がつくと一三〇キロのボールを私は打ち返していたのだ。それどころか、白球は遠くへ飛んでいき、ホームラン賞の的にコツンと当たってしまった。
一瞬何が起こったのかよく分からなかった。しばらく呆然としていると、バッティングセンターの店員のおじさんがホームラン賞だと言ってバッティングの回数券を持ってきた。
それを受け取ってやっと私は我に返った。どうだ凄いだろと岩本にかましてやろうと思ったのだが、彼の姿はもうそこにはなかったのだ。その代わり、俺の負けだよと言いたげに缶ジュースが置かれていた。
「……ったく、負けたら負けたであっさりいなくなりやがって」
私はその缶ジュースを手に取ってプルタブを起こした。カシュっという音とともに、炭酸ガスが抜ける。中身は、普段なら絶対に飲まないであろうクリームソーダだった。
懐かしい味。小さい頃、炭酸飲料は飲むなとしつけられていたので、こっそり買って飲んでいたことを思い出した。高校に入ってすぐ授業をサボって音楽にのめり込んでいたことと比べてもなんにも変わっていない。身体も心も成長したように見えるけれど、上手に変わるということは結構難しい。
速いボールを前にして、とにかく当てることを意識した一球目と二球目は、全くうまく行かなかった。
岩本に言われて昔の自分――すなわち、本来の自分のスタイルを思い出した途端、ボールが見えるようになった。
もしかすると、あいつが言いたかったことは、そういうことなのかもしれない。
機械のような精密なベースでバンドアンサンブルに溶け込ませるのではなく、私は私のスタイルを崩すなと。その意見に説得力を持たせるため、こんな回りくどい方法で私に気づかせたと。
「……直接言えっての! キザな真似しやがって!」
飲み干した空き缶をくずかごへ放る。絶妙のコントロールでカコンという音とともに、空き缶は中へと吸い込まれていった。
空気の冷たい夜のバッティングセンターで、私は一人、ホームランの余韻を感じてぼーっとしていたのだった。
※サブタイトルはSUPERCAR『cream soda』
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