第五章 揺れる球体

 未完成フェスティバルの書類選考通過の連絡が来たのは、時雨が新曲を披露した日の翌日だった。

 バンド用に作っておいたフリーのメールアドレスに、ご丁寧に『【重要】書類選考通過のお知らせ』というタイトルでメールが送られてきたのだ。

 時雨の曲作りが順調に進んでいるところに、さらにたたみかけるような朗報だ。すぐに僕は時雨と理沙へ連絡をすると、成り行きでまた僕の部屋に集まることになった。

 全員が揃うなり、僕はノートパソコンを開いて件のメールの文面を二人へ見せる。

「へえ、書類選考突破ってこんな感じのメールが届くんだな」

「郵便で来るものだと思ってた」

「さすがにもう平成も末期だよ? こういう連絡はメールで来るでしょ」

「平成も末期って……、融お前、そんなこと言ったら不謹慎とか言われるぞ?」

 僕は思わず口が滑ったと思ってハッとした。

 この時代の人はそもそも『令和』という元号すら知らない。平成末期なんて言おうものなら、真っ先に不敬罪かタイムリーパーを疑われてしまう。最近うっかり言葉に出てしまうことが増えてきた。もう少し意識しておかないとごまかし切れなくなってしまうかもしれない。

 すうっと息を吸い込んで気を取り直すと、理沙が質問を投げかけてくる。

「それで、書類選考を突破したら次の予選はどういう形式でやるんだ?」

「えーっと、実際にライブハウスで演奏する形式だね」

「つまり、ライブの内容で審査するってことか」

「そういうこと。持ち時間は一組あたり十五分だから、大体三曲ぐらいかな」

 そう僕が言うと、その隣にいる時雨の眉が少し動いた。

「三曲? それ、全部オリジナル曲で?」

「そう。コピー曲なしのオールオリジナル」

 時雨は気まずそうな表情を浮かべる。

 それもそのはず。僕らのオリジナル持ち曲は現時点で二つしかないのだ。

 ひとつは『our song』、もうひとつは昨日出来上がったばかりの『トランスペアレント・ブルー』だ。

 他に曲になりかけているネタはいくつかあるものの、三曲目が完成しているとは言い切れない。

「まあ、曲は慌てて作っても仕方がないからじっくり行こうよ。時雨も曲作りのコツを掴んだみたいだしさ」

「う、うん。頑張ってみる」

「それよりも、僕としてはライブ経験の少なさのほうがネックになりそうかなって思ってるんだ」

 そう言うと、確かになあと理沙がつぶやいた。

 人生二周目の僕は別として、時雨と理沙はそれほど場数を踏んでいるわけではない。確実に予選を勝ち上がるためにも、どこかでライブ経験を積んで場慣れしておくことが必要不可欠だと思っている。

「でも近いうちに文化祭とかイベントがあるわけじゃないしな……。ライブハウスで演奏するにも、それなりにお金がかかったりするんだろ? チケットノルマってやつ?」

「そうなんだよね。どこかでライブを演れないか、とにかく当たってみることにするよ」

「そんなアテがあるのかよ?」

「ま、まあ、地元のライブハウスとか、軽音楽部の先輩方のツテとか、きっと色々あるって」

 ごまかすようにそんな適当なことを僕は言う。でも、実はそれなりに目星がついている。

 一周目のときからひいきにしている地元のライブハウスが、毎年この時期になると高校生バンドを対象にしたイベントを行うのだ。

 それなりに集客も見込めて、チケットノルマも通常時に比べると破格。予選前にライブを経験する場としてはこれ以上ない。

「ライブかあ……、上手くできるかなあ」

 時雨が不安そうな顔をする。

「無理に上手くやろうとする必要はないよ。時雨はとにかくこの間のライブバトルの感覚を思い出すようにやれば大丈夫さ」

「そ、そうかなあ。私、前より下手になってたらどうしよう……」

「そのときは……、また合宿をしてみっちり練習をしよう」

 冗談っぽく僕が言うと、時雨は少し笑みを浮かべた。時雨は以前みたいに人前に立つことに対して怯えることがなくなったので、多少緊張していてもそれなりにすごいパフォーマンスを見せてくれるだろう。

 一方で、ふと横を見ると、理沙ぼーっと何かを考えていた。 

「理沙? どうした? 何か不安なことでもある?」

「えっ? ああ、いや、なんでもない。早くライブやりたいなって思っただけだ」

「そう? ならいいんだけど」

 時雨が新曲を披露したあの日からどうも理沙の様子が変な気がする。でも楽器の演奏に関しては問題なく、むしろ今までより技術的に上達しているようにも思えるのだ。ベーシストでもない僕が下手にアドバイスをするとろくなことにならないだろうと思い、とりあえずは様子を見ていた。

 理沙は理沙であまり気にしてほしくないのか、ぼーっとしていたことなどまるで無かったかのように話を進め始める。

「ライブをやるわけだから、早いところ三曲目を完成させちゃわないとな。せっかく時雨のアイデアがまとまりかけているわけだし」

「そ、それもそうだね。時雨の筆が乗ってるうちに曲作りを進めちゃおうか。ライブのほうは、僕がなんとかしておくから」

「ああ、頼むよ融」

 そう言って皆で楽器を取り出してまた曲作りに励むことにした。しばらくして、隣の部屋にいる姉からうるさいというメッセージを込めた壁ドンが一発飛んできた。キリが良いところだったので、今日の活動は終わりにすることにした。




「――えーっと、ドラムにボーカルとベースの返しをもう少しお願いします」

 日付は進んで、地元のライブハウスで高校生イベントが開催される日になった。

 僕らが会場入りするとすぐにリハーサルが始まり、今はモニタースピーカーから返ってくる音量調節中である。

 ライブ時は、ボーカル、ギターアンプ、ベースアンプ、スネアドラム、バスドラム、ハイハットなどそれぞれの出音を一旦マイクで拾う。

 その拾った音をPAで調整し、お客さんに向いている大きなスピーカーへ出力する。もちろんそれだけでは演者の僕らに音が聴こえなくなってしまうので、手元のモニタースピーカーに返してもらうのだ。こうして聴き取りたい音をきちんと返してもらうことで、演奏がやりやすくなる。

「はいはーい、ドラムにベースとボーカルねー」

 ライブハウスのPAさんが愛想よく返事をする。

 一周目でもよく世話になったおかげもあって、初のライブハウス、それもリハーサルの時点で、既に僕からは百戦錬磨のベテラン感が出てしまっていた。

「他の人は何か返しの要望あるー?」

 PAさんがマイク越しにそう言うと、僕以外の二人は困惑した表情を浮かべる。

「ね、ねえ、融、こういう時ってどうすればいいの?」

「どうすりゃいいって、自分が欲しい音を要求すればいいんだよ」

「その『自分が欲しい音』がよく分かんないんたけど……」

 時雨が若干呆れ気味にそう言うと、賛同するように理沙も「うんうん」と首を縦に振る。

 先日の陽介たちとのライブバトルのときは、薫先輩が上手い具合に調整してくれていた。だから2人にとって実際にPAさんとやり取りをするのはこれが初めてというわけだ。

 玄人ぶるのはこのぐらいにしておいて、きちんと二人にアドバイスをすることにしよう。

「そうだなあ。時雨は歌を担当するわけだから、自分の声とギターが聴こえてくればいいんじゃないかな」

「自分で歌っている声を自分の手元のスピーカーから返すの?」

「そう。意外と自分の歌声って自分じゃわからないものなんだよ。気がついたら本来のメロディからだいぶはずれたところを歌ってたりなんてよくある」

「へえー、融ってやっぱり物知りだね」

 時雨はなるほどと手を叩いてから、PAさんに歌とギターの返しを要求する。

 もちろん今言ったことは一周目で陽介が言っていたことそのままである。なんやかんやであいつは知識も技術もしっかりしていて頼りになる存在だった。もしも今ここにいたら、僕よりも的確な指示をテキパキ出しているに違いない。

「じゃあ融、私は?」

 理沙もアドバイスを要求してきた。もちろん僕はベーシスト用の答えも用意してある。

 「ベースはバスドラムと合わせるのが基本だから、そこを大きめに返してもらうのがいいんじゃないかな」

 すると、理沙は素直にバスドラムの返しを少し大きくするよう注文をした。

「……本当に、融はこういうことをよく知っているよな。ライブハウスで演るのは初めてなのにさ」

 感心したような、それでいて少し物憂げなトーンで理沙はつぶやく。

「ま、まあ、色々な情報元からの受け売りなんだけどね……、ハハハ……」

 ごまかし方が適当過ぎて、喋りながら冷や汗か脂汗かよくわからないものが皮膚からにじみ出そうだった。

 最近、あまりにも手慣れている感じを出しすぎて怪しまれているかもしれない。口は災のもと、そう自分自身に言い聞かせて僕は再びスティックを両手に握り直した。

 リハーサルは無事終了。

 僕らが機材を片付けると、次のバンドが入れ替わるように準備を始めた。

「そういえばこういうリハーサルって、出演順と反対の順番でやるんだっけな」

 控室に機材を置いた理沙がひと仕事終えたようにそう言う。

「そうだね。そうするとトップバッターがスタンバった状態でライブを始められるし」

「なんやかんや効率よくやるように出来てんのな」

 いわゆる『逆リハ』と呼ばれるシステム。

 今回の僕らはいっちょ前にトリのひとつ前の出演順となったので、リハーサルの入りが結構早かった。

「でも、トリのバンド来なかったね。遅刻?」

 時雨はスマホで出演順の書かれたメールを眺めながらそう言う。

「確かに遅いね。時間ぐらい守ってほしいものだけど」

 僕も時雨が見ているのと同じメールをスマホで眺めながらそんなことを呟く。メールに書かれたタイムテーブルの一番最後には、とあるバンドの名前があった。

「ったく、先輩だからってなんでも許されるわけじゃないのにな」

 理沙は買い置いていた緑茶のペットボトルを取り出し、半分呆れながらそう言う。

 とあるバンドというのは、僕らと同じ軽音楽部に所属する建山さんが他校の生徒と一緒に組んでいるバンドだ。

 その名は『Sleepwalk Android』――通称「スリアン」と呼ばれ、地元では根強い人気のあるラウド系バンド。

 一周目でも僕は何度か対バン、つまりは共演をしたことがある。建山さんが他校から精鋭を集めたおかげもあって、演奏技術がずば抜けて高い。そんな中でも建山さんのドラムが存在感抜群で迫力がある。

「いくら上手いと言われてても、こんなに時間にルーズじゃな」

「ははは……、バンドマンってそういう人多いしね」

 僕と理沙がそんなことを話していると、割り込むように誰かの声が聞こえてきた。

「あれぇー? もうリハの時間過ぎちゃったー? みんな遅すぎじゃね?」

 その声はどこかで聞き覚えがあった。すっとぼけたようで嫌味たらしい口調が、なんとも耳障りだ。

 とっさに皆、声の主の方を振り向く。そこには案の定、建山優吾の姿があった。

「おお? よく見たらちんちくりんの一年坊主たちじゃん」

「ど、どうも、お疲れ様です……」

 僕はとっさに控えめな声量で後輩らしく立ち振る舞う。建山さんは素行が悪くて尊敬できる先輩ではないが、目をつけられると厄介な人でもあるのでこうするほかない。

「いやー、毎度毎度ライブだとトリをつとめることばっかりだからさあ、会場入りが早くてたまんねえっての」

 僕らは彼の言葉になんとなく相槌をうつ。

「まあでも、どうせライブが始まればそんなの関係ないけどな。とりあえず、今日は俺たちの引き立て役を頼むよ、一年坊主」

 そう言うと、手持ち無沙汰な建山さんは再び控室から出ていった。

 なんとなく嫌な雰囲気がこの部屋には漂っている。でも思ったほど時雨が動揺していないのを見て、ライブが始まれば大丈夫であろうと、僕はあまり深刻に考えていなかった。


 ライブハウスの開場時刻になると、僕らがお誘いをかけた人たちが次々とやってきた。軽音楽部の面々や、親友の野口とその彼女、他に興味のありそうな人たちなどなど。

 皆なかなかライブハウスに来ることもないようなので、いつも湿っぽい雰囲気のこの地下室はどこか浮ついてきらびやかだった。それだけ皆、非日常なこの空間を楽しもうという気持ちが強いのだと思う。

 トップバッターは市内にある私立高校のバンド。いかにも高校の文化祭バンドという感じで、アップテンポなポップパンクのコピーを立て続けにかましていく。当時の僕はこういうバンドに対してライバル心むき出しだったが、今となっては懐かしさみたいなノスタルジックな気持ちが強くなる。十年分歳を取るというのは、成長をしたようで何かを失ったような、少し不思議な感覚だ。

 二組目、三組目と続いていくと、浮ついた雰囲気は熱を帯びていく。やっぱりライブはいいよなあなんて僕は呑気なことを思っているうちに、間もなく自分たちの出番を迎える。

「それじゃあ変に気負わず、いつもどおりの気持ちで演ろう。」

「うん」「ああ」

 ステージ上でセッティングをしたあと、出番前の声かけをする。みんなそれほど力んでいるように見えない。会場の雰囲気が温まっているのもあって、割とやりやすい状態が出来上がっている。

「セッティング、オッケーだよ」

「こっちもバッチリだ」

 時雨と理沙が準備万端であることをアピールしてくる。

 僕はドラムスローンの高さを調整し終えると、右手をあげてPAさんへ合図を送る。

 ステージ転換時のBGMとして流れていたJudy and Maryの『Over drive』が徐々にフェードアウトしていくと、静かになったホールに時雨のタイトルコールが響く。

「――『トランスペアレント・ブルー』」

 スティックでカウントをとって曲が始まる。何事も最初が肝心ということで、特に入りのタイミングが合うかどうか心配していたのだけれども、その点は問題なく演奏できていた。

 それなりの人数を前にしても、時雨は物怖じしていない。もちろん僕も僕で軽快に叩けている。確実に先日のライブバトルよりレベルアップしているという実感があって、楽しい気分だ。

 ただ、理沙の様子だけはどうもおかしいままだった。いつもは少し突っ走り気味でアタックも強い。片岡理沙といえばこういうベースを弾くというのがすぐに想像ができるぐらい、彼女のプレイスタイルというものは確立されている。

 しかし、何故か今日はびっくりするほどビタビタにリズムを刻んでくる。理沙がメトロノームになってしまったのではないかと思うくらい正確で、音の粒も精密だった。

 一六〇キロの豪速球を思うがままに放るパワーピッチャーが普段の理沙だとするなら、今日の理沙はコーナーぎりぎりをサイン通り的確に投げるコントロール抜群の投手。そう表現すると聞こえがいいかもしれないが、彼女のベースと一緒にグルーヴを生み出す僕からしてみたら、「置きにいっている」という感覚が拭えない。

 正直に言えば、物足りないのだ。

 それでもライブは続く。二曲目にチャットモンチーの『シャングラ』をコピーし、ラスト三曲目は『our song』というセットリストを組んだ。

 一曲目が終わって次の曲紹介を時雨が始めるのだが、場馴れしていないのかとてもたどたどしい。この間のライブバトルのときはタイトルコールをするだけだったけれども、今回は喋ることにもチャレンジしようと言うことになった。

「あ、あの、えっと……、つ、次の曲は……、しゃ、『シャングリラ』です」

 演奏だけでなく、その合間のMCもおいおい練習しなければなと思いつつ、僕はバスドラムのキックを踏み始めた。

 理沙の違和感と時雨の危なっかしさを覚えながら演奏していると、あっという間に僕らのアクトは終わりを迎えた。

「あ、ありがとうございました……!」

 時雨が控えめにそう挨拶をして締めくくる。

 まだまだ課題もあるけれども、初めてにしては上々だ。オーディエンスからは大きな拍手も上がっている。聴いてくれる人たちの心を掴めたのは間違いない。

 そこで全てが終わっていれば良かった。

 僕らはステージから掃けてフロアに降りると、入れ替わるように現れたのはSleepwalk Androidの面々だった。

 僕の記憶が正しければあのバンドは四人組である。ドラムの建山さんと、その他にギター、ベース、ボーカルという構成だ。

 しかし、ステージに登ったのは五人だったのだ。

「ねえ融、あのギターの人って……」

「ああ、間違いない。あれは……」

 下手しもて側でギブソン・エクスプローラーを構えたそのギタリストは、一周目で僕と十年バンドをともにした小笠原おがさわら昌樹まさきだった。

「どうして小笠原がスリアンに……?」

「建山のヤローに引き抜かれたんだよ。あいつ、プレイヤーとしての技術は高いから」

 割り込むように会話に入ってきたのは陽介だった。今日は客としてこのライブに来ている。

「引き抜かれたって……、勧誘されてたのは陽介のほうじゃなかったのか?」

「さあな。あのヤロー、ギターがそこそこ弾ければ誰でも良かったんじゃないか」

「でも、わざわざいい噂を聞かない建山さんのバンドに入らなくても……」

「小笠原のやつ、やっぱりドラムじゃなくてギターが弾きたかったんだと。そこに建山が漬け込んだんだろ」

 一周目での小笠原はギタリストだった。それが二周目になって僕が陽介の誘いを断ったがために、彼はギタリストからドラマーに転向することになったのだ。しかしながら本音はやはりギターが弾きたいのだろう。

 小笠原は楽器の演奏センスについては申し分なく、ギターについてはこの時点で高校生にしては十分なくらいの能力がある。建山さんが彼のテクニックを魅力的だと思ったのならば、ギタリストをやらせてやるという条件で引き抜かれるのは想像に易い。

「いいのかよ、黙ってバンドメンバーを横取りされちゃうなんて」

「良くはねえよ。でもそうなったんだから仕方がないだろ。俺にあいつを引き止める力がなかった、それだけだよ」

「陽介……」

 もう終わったことだよと言いたげに陽介は吐き捨てる。いつもクールに振る舞っている陽介だけれども、彼を十年見てきた僕にはなんとなくわかる。彼はいま、ものすごく悔しがっていることを。

 僕は思わず、タイムリープしてからここまでの選択が本当に正しかったのか考えてしまった。僕が時雨や理沙とバンドを組む選択をしなければ、陽介は建山さんに目をつけられることもなく、順風満帆なバンド人生を送ることができたのではないかと。

 首をふるふると振ってその邪念を振り払った。それでは一周目と同じだ。

 誰かを救うためには、誰かを見捨てる必要がある。おそらくこの世界はそういう風に出来ている。

 いいじゃないか、どうせ見捨てるのは一周目で僕のことをクビにした張本人――岩本陽介なのだ。それぐらいどうってことないし、当然の報い。そう言い聞かせてこの迷いを抑え込んだ。 

 ようやくステージ上にはスリアンの五人が揃った。

 建山さんはドラムスローンに腰をかけ、黒いスチールシェルのスネアドラムをスタンドにセットする。そうして、スティックケースから二本だけスティックを取り出した。

 リハーサルはおろか音出しすらやっていない彼だが、もう準備OKだというサインをPAさんへ出した。

 会場の空気は弛緩していて、僕らの演奏で大団円という感じでも良かったのではないかという気すら感じる。

 しかし、ステージ照明が落ちて建山さんがオープンハイハットを四発打った瞬間、場の雰囲気は一変する。

 音の重さで圧倒するラウド系バンドの彼らは、小笠原という二人目のギタリストが加わり、ただでさえ凄い音圧を増幅するかのようだった。

 黒のギブソン・エクスプローラーでバッキングフレーズを刻む小笠原は、Sleepwalk Androidに足りなかった音域を余すことなくカバーしきっていた。

 例えるなら鉄球。それも、バカでかいくせに建山優吾というハイパワーの駆動力までついた鉄球。

 会場に浮ついた雰囲気のオーディエンスを打ちのめすには十分過ぎる重量感だ。

 今さっき僕らの演奏で作り上げたはずの空気感は、大きな鉄球ですぐにぶち壊されてしまった。僕は彼らのライブを観て久しぶりに感じた。

 今日は完璧なまでに彼らに『食われて』しまったと。


※サブタイトルはACIDMAN『揺れる球体』

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