第二十三章 ブルース・ドライブ・モンスター
僕らのオリジナル曲、『our song』は終盤に差し掛かる。
一周目のとき、『時雨』と名付けられていたこの曲を擦り切れるほど聴いた僕にはわかる。この二つは歌のメロディこそ同じだけど、全くの別物だ。
それが時雨の青春を映すスクリーンみたいなものだとすれば、『時雨』は限りなく黒に近い灰色、無彩色。対して、今の『our song』には色が無い。というより、まだこの曲に色を付けるには時期尚早過ぎる。だからこれから、この三人で少しずつ、彩りを添えていく。
最後のサビ、時雨が透明感のある歌声で歌い上げる。
あんな小さな身体から、オーディエンスを驚かせるような声が出てくるのだからたいしたものだ。
ふと合宿のとき、不本意にも彼女を抱きしめてしまったことを思い出す。自分が思っていたより時雨の身体は華奢で、弱々しかった。抱きしめる力を強めてしまったら、その細い腰なんか砕けてしまうのではないかと思うぐらいだった。
一周目の時雨はその身体ひとつで世に飛び立っていった。あまり詳しいことはわからないけど、とても辛いことも多かったに違いない。
でももうひとりで苦しむ必要なんてない。二周目の人生、この先ずっと、僕がそばにいてやる。もちろん、再び君を孤独にするようなことなんて絶対にしない。君の辛さも、苦しさも、悲しさも、そして喜びも。全部全部受け止めてやる。君の心の支えになることが、いつの間にか僕の二周目の生き甲斐になっている。
ライブは終盤も終盤。それでも、お客さんはどんどん増えている。野口たちが用意したカメラとマイクに取り込まれた音と映像は、放送部の石本さんによって全校中に拡散された。
下手をすると校内放送ジャックは停学になってしまう可能性もあっただけに、石本さんが実行してくれるかは賭けだった。
でも、それは杞憂だった。これだけ集まったオーディエンスが、その答えでいいだろう。
時雨も薄々このことには感づいているはず。ライブが終わったら、二人の関係が元に戻っていることを祈って、僕はタイトなエイトビートを叩く。
サビの歌い終わり、一番演奏に熱が入るアウトロ。時雨は足元に一つだけ置いてあるブースター代わりのブルースドライバーを踏み込んだ。
その筐体は、小さな少女をまるでモンスターのように豹変させる。轟音。時雨の感情が乗ったジャズマスターの音が、増幅に増幅を重ねて場内全体へ轟く。
とても大きくなった音を、僕と理沙のリズム隊は全力で支えにかかる。一本足では立てなかった僕らの
恵みの雨は勢いを増し、優しかったそれは急に牙を剥く。世界をすべて洗い流すかのように、そしてまたすべてがここから始まるかのように。
テクニックもエレガントさもない、熱量だけのアウトロ。それでも僕らは今、世界で一番カッコいいロックバンドだと思う。
そうして、時雨は二フレットにカポタストがついたジャズマスターから最後のCアドナインスのコードを鳴らした。
ほんの少しの静寂が生まれる。
「――ありがとうございました」
息が上がって、絞り出すのもやっとの声で時雨がそう言う。
その瞬間、オーディエンスは待っていましたと言わんばかりの勢いで爆発的な盛り上がりを見せた。
僕は会場にいる人たちを隅々まで見渡す。来てくれたお客さんが盛り上がるのはとても喜ばしい。しかし、僕らにはこの演奏を一番聴かせたい人がいる。
武道場の入口付近。高校の先生とは全く違う雰囲気を持った大人の男性が立っていた。他の誰でもない、理沙の父である片岡議員だ。彼は今忙しい時期であり、ここに来ることは難しいと言っていた。それでも理沙の執念が実り、彼は義理堅くここへやってきた。
理沙が初めて言い放った自分の気持ちというものが、どうやら抜群に効いたらしい。
僕が視線を送っていると、一瞬だけ片岡議員と目があった。彼は小さく拍手を送り、それ以外は表情ひとつ変えずにずっとこちらを見ていた。
全力は尽くした。今度こそ片岡議員の首を縦に降らせる事ができなければ正直お手上げだ。でも不思議と僕には、絶対に大丈夫だという確信があった。それもそうだ、こんなにも鳴り止まない歓声を引き起こすことができるバンドは、今のところ僕らしかいないのだから。
誰も期待してなどいなかったバンド、それも、一歩間違えたらドロップアウトしてしまいそうな三人組が、今この熱狂の渦の中心にいる。番狂わせも番狂わせだ、こんなことを予測できた人など絶対にいない。
僕らみんな、その光景に最初は驚いていた。でもすぐにそれは喜びに変わった。
時雨は後ろにいる僕の方を向いて、飛び切りの笑顔を見せる。
表情の変化があまり大きくない時雨が、これほどまでにいい顔で僕に笑いかけてくるのだ。
「――融、ありがとう」
「どういたしまして、時雨」
夢心地で自分が今どんな顔をしているかわからなかったけれど、多分僕は時雨に負けない顔で笑っていたと思う。それで君が喜んでくれるのならば、僕がこのバンドでドラムを叩いていく理由になる。
僕らは皆楽器をおろしてステージから去っていく。会場の熱気はまだ落ち着きそうにない。次に演奏をする陽介たちには気の毒かもしれないなと思いながら、ストレンジ・カメレオンのファーストステージは幕を降ろした。
場内はざわついたまま、陽介たちのバンド『ミスターアンディーズ』のアクトが始まろうとしていた。
僕らはステージの様子などそっちのけで片岡議員の姿を探す。終演後に彼を見失ってしまっていたので、キョロキョロと周囲を見渡していた。もう帰ってしまったのかと思ったが、武道場の外、それも軒下で少し風通しの良いところに彼はいた。
「よかった、まだ帰っていなかったんですね」
「……いいのかい、まだ対戦相手が演奏中のようだが」
「彼らには悪いですけど、多忙な片岡議員を待たせるわけにもいかないので」
果たして急いでいるのはどちらなのだろうという僕らのそわそわした素振りを見て、片岡議員は苦笑いする。
「そんなにせかせかする必要はない。ちゃんと時間は作ってきたつもりだ」
遠回しに落ち着けと彼は言うが、やはり気が気でないのか理沙がいの一番に飛びつく。
「……父さん、前置きはいらないから、率直にどうだったか教えてほしい」
「わかったわかった。もったいぶらずに言うから、しかと聞いてくれ」
片岡議員はそう言って一旦間をとる。ドキドキしていた僕らにとって、その時間が異様に長く感じたのは言うまでもない。
「……先程の演奏、とても素晴らしかった」
思いのほか素直な片岡議員のその言葉は、なんだか嬉しいような、むず痒いような、不思議な気持ちをもたらすものだった。
「圧巻だったよ。理沙とバンドをやることを認めよう」
「ほ、本当ですかっ⁉」
「ああ。あれだけのものを観せられたのに否定をしてしまうような、残念な感性は持ち合わせていないものでな」
少し回りくどく褒めるのも片岡議員らしいなと思いつつ、この瞬間僕らは理沙とバンドができる喜びを皆で噛み締めた。それと同時に鉄仮面である片岡議員の表情が、わずかにほころんだ。
「この機会に理沙……、いや、君たちに謝らなければならないことがある」
「謝りたいこと……?」
「理沙を縛り付けてしまっていることを詫びたかった。それと、もう私ではどうしようもなくなっていたところに、君たちが理沙を助けてくれたことに感謝をしたい」
理沙は不器用な人間だから型にはまった人生を歩むべきだと、彼は先日僕にそう言った。でもそれは片岡議員が自身に言い聞かせたようにも思える。
実は自分こそが一番不器用な父親であって、理沙と上手く向き合うことができていないという自覚が彼にはあるのだろう。本当は普通の父親になって、理沙を縛り付けることなく過ごしたかった。しかし、家族だけでなく県民の生活を背負う議員の身である彼には、それがどうやっても上手く行かなかった。
だから彼は理沙がバンドをやることをハナから全面否定することはせず、僕らにこの状況を打破できるかどうか賭けた。生半可な「バンドごっこ」ではなく、本気で音楽に向き合う姿勢と良い仲間がいれば、きっと理沙はこの先躓かずに生きていけると、そこに希望を見出した。
「理沙と君たちがバンドを始めた頃、今までになく楽しそうにしていた。でも私にはそれがひとときの享楽を味わっているだけなのか、本気で音楽に向き合っているのか、判別がつかなかった。だからこんな風に君たちを試すような真似をした。本当に申し訳ないことをした」
片岡議員は僕らに向かって頭を下げた。すると、改まって理沙がこんな事を言う。
「頭を上げてくれよ父さん。融や時雨の後押しもあるけれど、結局のところ父さんがいたから私は自分の殻を破ることができたんだ。だから、私にとって父さんは、最高の父さんだと思う」
理沙の言葉を受け取った片岡議員は、何も言わずゆっくりと頭を上げる。その表情はこれから県知事になる人というより、どこにでもいるひとりの父親の顔をしていた。さすがの鉄仮面も娘にそう言われてしまっては、返す言葉を探すのに苦労をしてしまうのだろう。
少し間をおいて、彼は僕らへ何かを託すように言う。
「だから君たちには大きな功績を上げてもらって、皆が羨むような存在になってくれ。それぐらいのこと、皆ならばできるだろう?」
「――はい。もちろんです」
三人とも息が揃って同じ言葉で返事をした。その揃いぶりが見事すぎたせいで、時雨も理沙も僕も思わず笑顔を浮かべてしまう。つられて片岡議員も笑った。
青春のやり直しへの切符がやっと手に入ったのだ。こんな清々しい気持ちの僕らを見たら、酒浸りになっていたあの一周目の僕はとても羨むだろう。
※サブタイトルはthe pillows『ブルース・ドライブ・モンスター』
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