第二十一章 カナリアボックス


まだ人が集まって来ているだけなのに、中学時代のあの悪夢が脳裏をよぎる。

怖い。逃げ出したい。

ここから逃げ出してしまえばまた楽になれる。そんなマイナスの思考ばかりが私には浮かんできた。でも、今回ばかりは逃げるわけにはいかない。もう私はひとりじゃない。融と理沙、私を支えてくれる二人の仲間がいる。

その二人は私の歌を買ってくれていて、素直にすごいと言ってくれる。そんな大切でかけがえのない仲間のために、なんとしても恩返しがしたかった。

私はステージに上ってジャズマスターを手に取る。フロアにはお客さんの人だかりができていて、とてもじゃないけど目を向けられる気持ちの余裕はない。

私は平静を保とうと、チューニングを確認したり、ギターのノブを回したりした。でもやっぱり心もとない。思わず、二人のほうを向く。

「……融、理沙」

小さな声で二人の名を呼んだ。すると二人は、ただ一言こう言うのだ。

「絶対大丈夫」

「ああ、絶対大丈夫だ」

すぐさま融が音響席にいる部長へ合図を送る。登場曲はフェードアウトして、場内は一気に静まり返った。

融は合宿中、こんなアドバイスを寄越した。

「ライブのMCは最小限でいいと思う。なんなら時雨は、曲名だけコールするぐらいシンプルな方がカッコいい」

それが口下手な私のことを思ってなのか、それとも単純に様になるからなのかはわからない。でも私にできそうなのはそれぐらいしかない。だったら融の言う通り、曲名のコールだけをしてみようと思った。

「――『シャングリラ』」

静けさをつんざくようにそれだけ言い放つ。

そうして間髪入れずに、融がバスドラムをキックし始めた。

BPM一三〇の四つ打ち。

偶然かもしれないけど、そのテンポは合宿のとき不意に融に抱きしめられたときの彼の心音にそっくりだったと思う。融の鼓動ビート、それを追いかけるように理沙のベースがグリッサンドを入れて入ってくる。私はそれに耳を済ませた。

――大丈夫。私はもう、ひとりじゃない。

スコア上、一拍分はみ出ているフィルインを融が叩き終えた瞬間、私は自分のジャズマスターを思いっきりかき鳴らした。

その刹那、何かが開けたような気がした。今まで内に閉じこもっていた自分の殻みたいなものが破けるような、そんな感触。不思議と、それまで私を締め付けていた恐怖みたいなものが、その手を弱めているように思えた。

歌える、今なら何も恐れずに、思いっきり歌える。

最初からフルスロットル。こんなに気持ちいいステージが、世の中にあるものなのかと私は夢心地だ。

コーラスの理沙もきれいに私の歌へハーモニーを乗せてくる。彼女の硬派なイメージからはとても想像しにくいけれども、ベースだけじゃなくてコーラスもかなり上手だ。理沙と一緒に歌えることが、何よりも嬉しい。

 融から、間奏になったらドラムセットの方を振り返っても大丈夫だと言われたので、私は彼の方を向いた。

不思議とすぐに融とは目があった。やっぱり彼は、笑顔で楽しそうにドラムを叩いている。

その楽しそうなドラミングはすぐに私に伝わる。楽しさの連鎖で、私も思わず笑っていたと思う。笑顔でドラムを叩く人が、私は好きだ。

あなたに会えて、本当に良かった。

曲がまもなく終わる。最後のGコードを鳴らすと、会場からは拍手が沸き起こる。

心にやっと余裕ができた私は、ふと観客のいるフロアを見渡す。気のせいではなく、お客さんがどんどん増えてきている。どうしてだろう、私たちのライブに期待をしていた人なんてほとんどいないはず。それなのに着実に人は増えている。

その理由は、観客席からガヤガヤと聞こえてきた会話でわかった。

「いやー、あんなのが校内放送で聴こえてきたら気になっちゃうよね」

「俺も俺も。思わず部活サボって来ちゃったよ」

「ねえ見た? 校内放送だけじゃなくて、学校中のモニタを全部ジャックしちゃってるみたいだよ」

「もしかして、そこのカメラで撮っている映像が流れてたの⁉ すごすぎてなにかのミュージックビデオだと思っちゃった……」

誰かがこのライブの音声や映像を校内中に流している。それを見たり聴いたりした人たちが、どんどん会場へ駆けつけているのだ。

そんなことをするのは一体誰なのだろう。カメラで映像を撮影しているのは融の親友さんとその彼女さん。だから、放送室で校内ジャックを仕掛けた人が他にいる。

私の頭の中に浮かんだのは、とあるひとりの存在だった。

「もしかして……、美緒、ちゃん……?」

 中学時代の同級生である石本美緒。今現在彼女が放送部に入っているというのはこの間話したときに聞いたこと。まさかとは思ったけれど、彼女以外にそんなことをやってくれる人は思い浮かばなかった。

 あの中学での一連の事件があったとき、美緒ちゃんは最後まで私のそばにいた。この間もそうだ。私に降りかかる罵詈雑言を彼女は跳ね返そうとしてくれた。

でも、美緒ちゃんは私以外の人たちとも仲が良い。私なんかに構っていてそちらの関係を壊してはいけない。そう考えていた私は、彼女が差し伸べてくれた手を散々弾いてしまっていたことに今更ながら気づいてしまった。

とてもひどいことをしていた。いつかまた、まっさらな気持ちで美緒ちゃんとやり直せたらいいなあなんて、なんとも虫の良い話を考えていたものだ。

それでも美緒ちゃんは手を差し伸べることを辞めなかった。彼女もまた、融に負けないぐらいしつこかった。この校内放送ジャックがその何よりの証拠だ。これを仕向けたのは、おそらく融だろう。

このライブバトルは私たちにとって圧倒的不利であるのは間違いない。その現状を打破するため、融は美緒ちゃんへ手を貸すよう協力を求めたのだ。

校内放送をジャックなんてしたら、まず間違いなく先生方からお叱りが入る。下手をしたら停学にだってなるかもしれない。それでも美緒ちゃんはリスクを背負って、私たちのために実行してくれた。融が、理沙が、そして美緒ちゃんが、震えていた私の背中をぐっと押してくれたのだ。

その彼女の行動だけで、私は感極まって泣き出しそうになるぐらい嬉しかった。

でもまだ泣くのは早い。ライブはあともう一曲残っている。

爆発しそうなこの感情を、ラストナンバーに込めてやろう。

「――『our song』」

 ざわめきの中を突き破るようなタイトルコール。

ジャズマスターからアルペジオが奏でられ始めると、会場には、恵みの雨が降りだした。

みんなのために、私は歌う。


※サブタイトルはランクヘッド『カナリアボックス』

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