第二十章 シャングリラ


 十六時半、開場の時刻となった。武道場には徐々に生徒たちが集まってくる。受付の軽音楽部員がアンケート用紙と記入用のペンを入場者へ配っていた。

 でも、用意されていたアンケート用紙は思ったより減っていない。客入りは僕の予想以上に渋いと思われる。おまけに、ほとんどの客は僕らのことなど眼中にない。大半は薫先輩の人望で集まった興味本位の人か、陽介目当てだ。僕らのお客は野口とその彼女ぐらい。彼らはステージがよく見える特等席のような場所で、三脚を立ててカメラか何かを準備していた。

 場内のBGMには薫先輩の趣味であろうHelloweenというメタルバンドの『守護神伝(第二章)』というアルバムが垂れ流されていて、武道場とメロディックスピードメタルの癖になりそうな妙なミスマッチ具合がまた緊張感を高める。

 ライブの場数だけならこの中にいる誰よりも多い僕ですら、何か魔物が潜んでいそうな異様な雰囲気に気圧されそうだ。隣にいる理沙も、緊張に押しつぶされないよう顔が強張っている。

「……時雨?  大丈夫か?」

 僕は時雨へ声をかけた。

理沙の反対隣に立つ彼女は、人混みを目の当たりにして少し怯えている。緊張感よりも不安感が強いように見える。中学のときのトラウマを抑えるので精一杯という感じだ。

「だ……、大丈夫。ステージにた、立ったらなんとかなる」

 そうは言うものの、僕にはなんとかなるように見えない。やっぱり今の時雨には、何か心の拠り所になるものが必要だ。

「時雨、よく聞いてくれ」

「……なに?」

「もしステージの上でしんどくなったり、パニックになりそうになったりしたら僕のバスドラムのキックに耳を澄まして欲しい」

 僕はおまじないを教えるかのように時雨へそう伝える。

「その僕のバスドラムの音には、必ず理沙のベースが乗っかってくる。つまり、君は一人じゃないって、その音が証明しているんだ。だから大丈夫、歌えるよ」

 時雨は何も言わず、こちらを向いてコクリと頷いた。もともと透明な彼女のその瞳は、少し目が潤んで余計に透明感を増していた。

「そろそろ始めるけど準備はいいか?」

 薫先輩がそう言ってくるので、僕はノータイムで「いけます!」と返事をした。

すると、場内に流れていた『Eagle Fly Free』はフェードアウトし、僕らの登場曲が流れ始める。

――The Whoの『Won't Get Fooled Again』だ。シンセとハードロックが融合したような、当時はかなり前衛的な曲だったという。歪んだギターとシンセの音が心地よい、何かが始まりそうなそんな曲。僕の大好きな曲。

 僕らはステージに上がってそれぞれの楽器を手に取る。オーディエンスは静かで無関心。それでいい。

 今の時雨が最高のコンディションで歌うためには、オーディエンスは好意も嫌悪もない無関心な状態が一番良いのだ。

「……融、理沙」

 時雨は一瞬ドラムセットの方を向く。まだちょっと不安そうだ。

「絶対大丈夫」

「ああ、絶対大丈夫だ」

 僕と理沙はそれだけ答える。

 さあ、このライブで思いっきりその無関心なオーディエンスをぶち抜いてやろう。

 僕は演奏を始めるため、PA卓の薫先輩に合図を送った。するとすぐに、登場曲はフェードアウトして場内は静まり返る。

 少しの間を置いて、その静寂を切り裂くように時雨がひとことだけのタイトルコールをする。

「『シャングリラ』」

 待っていましたと僕はバスドラムのキックを始める。絶対に間違えるわけがない、BPM一三〇の四つ打ち。八拍目のキックを打つと、僕は裏打ち十六分でハイハットを刻み、偶数拍の頭でスネアドラムのど真ん中を叩く。

理沙と目が合った。そうして彼女は絶好のタイミングでグリッサンドを入れ、その手でオクターブフレーズを奏で始めた。コード進行をひと回し。最後の小節で一拍余計にフィルインを入れるのが特徴的なこの曲。それが終わると、一フレットにカポタストがついた時雨のジャズマスターからは、Aマイナーセブンスのコードが放たれる。

 僕らが選んだコピー曲、それはチャットモンチーの『シャングリラ』

 彼女達の出世作にしてガールズバンドの金字塔とも言える曲。まさかパンク大好きな理沙が選ぶとは思っていなかったけど、僕らに無関心なオーディエンスの心を掴むにはこれ以上ないキャッチーな曲だ。サビから始まる曲構成も味方してくれる。

 時雨の歌声は、本家チャットモンチーの可愛らしさとは一線を画した透明な声。でもそれは違和感を生み出すのではなく、まるで『シャングリラ』が時雨のオリジナル曲なのではないかと錯覚してしまうぐらい溶け込んでいた。

 これはもう、僕らの『シャングリラ』と言ってもいい。

 曲は進む。温度は上がっていく。Cメロのマーチングバンドのようなスネアのフレーズを叩きながら僕は気がついた。無関心だったオーディエンスが、皆こっちを向いて僕らのアクトに釘付けになっていることに。

 二周目の奈良原時雨――いや、ストレンジ・カメレオンはついにヴェールを脱いだのだ。


※サブタイトルはチャットモンチー『シャングリラ』

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