第十八章 胸がドキドキ


自販機のボタンを押すと、ガゴンという音が周囲に響き渡る。僕たち二人がこの世界で最後に起きているのではないかと思うぐらい、外は静かな夜だった。

「はい、どうぞ」

僕は自販機の取り出し口からペットボトルの水を取り出して時雨に手渡す。飲み物のラインナップは豊富だったのだけれども、寝る前なのでコーヒーやお茶は避け、甘い飲み物も歯磨きをもう一度するのは面倒だということで結局水を買った。

「ありがとう。お金、あとできちんと返すね」

「いいよそんなの気にしなくて」

「ううん、こういうところこそちゃんとしないとだよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 自分の分の水も購入した僕は、時雨と一緒に近くにあった木製のベンチに腰掛けた。

 空は雲ひとつなくて、夜だけれどもとても澄んでいる。ちょうど満月の日だったようで、丸い月が空の真ん中で輝いていた。その明るさで目が覚めてしまったのも納得がいく。

 ひんやりした夜の空気を吸い込んで、時雨はつぶやくように言う。

「なんだか不思議だね。私が今こうやってバンドを組んで、週末のライブに向けて一生懸命練習しているなんて、夢みたい」

「夢じゃないよ。ちゃんとここまでみんなの力で歩んできたんだ」

「……うん。そうだよね」

 時雨は買いたてのペットボトルのキャップを開け、水を一口だけ飲んだ。

「……中学の頃のことがあったから、こんな風に楽しく音楽ができるなんて、全然思いもしなかった」

「中学の頃のこと……、か」

「うん。私から話すのは初めてだよね。融は多分、誰かから聞いているかも知れないけれど」

 その瞬間ドキッとした。時雨の意志に関係なく彼女のことを知るため、僕は石本さんをはじめとした色々な人に聞いて回っていた。今思えば、とても勝手なことをしている。

「ご、ごめん。僕ったら勝手に色々な人から時雨のことを聞いて回ってた。どうしても、時雨のことを放っておけなくて……」

「いいのいいの。私、普段あまりおしゃべりしないから、聞いて回るのが正解だと思う。それに……」

「それに?」

「なんだかんだあったけど、融がそうやって私に手を差し伸べてくれたことがとても嬉しかったから」

 時雨はほんのりと笑みを浮かべる。彼女の持ち前の透明感と月明かりが相まって、少し幻想的な色合いを醸し出していた。

「中学のときもね、私に手を差し伸べてくれる優しい子がいたんだ」

「もしかして、石本さんのこと?」

「そう、確か融と同じクラスだったよね。中学の時、一緒の部活に入ってたんだ。私が周りから嫌われちゃったときも、最後まで美緒ちゃんは味方になってくれた」

 そのときの石本さんは、時雨の味方になり続けると余計に時雨を傷つけてしまうことに気がついてしまった。それもあって、以降二人は疎遠になってしまう。時雨も石本さんも優しいがゆえに起きてしまったすれ違いだ。

「石本さんのこと、時雨は嫌いになったりしていない?」

「まさか、そんなこと絶対にできないよ。美緒ちゃんにはとても感謝してるんだ。もうちょっと時間がかかるかもしれないけれど、美緒ちゃんが良いって言ってくれるなら、また友達としてやり直したいなって、私は思ってるよ」

「そっか。ちょっと安心した」

 時雨と石本さん、二人の仲は決して悪くない。ちょっとしたボタンの掛け違いみたいなもので、きっっかけさえあればちゃんとやり直せる。だからそれを時雨の口から聞き出せたことで、僕は少し安心した。

「機会があったら、美緒ちゃんとも一緒に音楽をやってみたいなって思うんだ。まあでも美緒ちゃん、放送部に入っちゃったみたいだから、ちょっと難しいかもしれないけど」

「大丈夫だよ。きっとすぐにそんな機会がやってくるさ」

「そうだといいな。……あっ、でも、美緒ちゃんはドラマーだよ? もし私が美緒ちゃんとバンドを組んだら、融、拗ねちゃったりしない?」

 時雨の言う心配事が思っていたよりも可愛らしくて、僕は思わず笑ってしまう。

 ここは自信を持って「拗ねるわけないだろう」と大人の余裕を見せたいところだけれども、そんな虚勢を張ることに意味はないなと思ったので、正直に答える。

「拗ねたりなんてするもんか。……あー、いや、でも、ちょっと拗ねるかも」

「ふふっ、なんだか融っぽいね」

 僕と時雨は見合ってもう一度静かに笑う。優しく笑いあえるこの会話に、どこか居心地の良さを僕は感じていた。

ずっと時雨とこうして話していたい。二人きりでじっくり言葉を交わす機会を一秒たりとも無駄にしたくない。幸せにも似たそんな気持ちが、僕の中に溢れかえってくる。

「融と出会ったばかりの頃、私はまた美緒ちゃんのときと同じ失敗をしちゃうんじゃないかって怖かったんだ」

「それは、僕がせっかく近づいたのに離れていっちゃうんじゃないかって思ったってこと?」

「そう。そんなことになるぐらいなら、ひとりのままのほうがいいって思って、あのときの融にひどいことを言っちゃってた。ごめんね」

「いいんだよそんなこと。僕は全然気にしちゃいないよ」

孤独が当たり前になると、孤独であることに対して何も感じなくなる。でも、中学時代の時雨のように、友達がいる状態から一気に孤独になってしまうというのは、誰だって耐え難い苦しさがある。だから彼女は二度と同じ経験をしたくないと思い、自らずっと孤独でいることを選んだのだ。

ふと一周目でのことを思い出す。奈良原時雨のラストアルバムに収録されていた『Re:』という曲の歌詞。あの歌には、人生をやり直したいという気持ちに加えて、大切な人を失った辛さというものも込められていた。

 おそらく一周目の時雨には大切な人がいたのだろう。ただの推察でしかないけれど、彼女の恩人であり、精神的な支えとなっていた人。そんな人が、何かしらの理由で時雨の前から消えてしまったのだ。

想像するだけで怖い。ひとりぼっちなってしまうことにトラウマを抱えている時雨にとっては、現世を憂いて飛び降りるには十分すぎる理由だ。

「でも融は美緒ちゃんとひとつだけ大きく違うところがあった」

「違うところ?」

「うん。それはもう、びっくりするぐらいしつこかった」

「それは……、ごめん」

時雨は「ううん」と首を横に振る。

「違うの、すごく感謝してるんだ。それぐらいのしつこさじゃなかったら、私は動かなかっただろうから」

「そんな大したことはしてないよ」

「あの日、軽音楽部室のドアを開けて融が飛び込んで来なかったら、私は一人のままだったんだもん。もしかしたら、学校だって辞めてどこかに消えていったかもしれない」

その先のストーリーを僕は知っている。君は一度シンデレラガールとなって世に知れ渡るけれど、結局悲劇の最期を迎えてしまう。

今となってみれば僕はただ単に悲しい未来を避けたい一心だったのだけど、こんな風に時雨に想われるようになるとはさすがに思っていなかった。

自分のひとつひとつの行動が、人をこれほどまでに動かす。感慨深いような、むず痒いような、変な気持ちだ。

「まるで未来から来たヒーローみたいだった。私のこと、なんかお見通しって感じで」

「そ、そんなことないよ。……た、ただの偶然だよ」

 まるで心臓を素手で握られたかと思うような時雨の発言に、僕は人生で一番ドキッとした。

「ふふっ、冗談冗談。そうだったら面白いなと思っただけ」

その面白いと思っていることが、まさに目の前で起きているのだよ。とは言わない。僕がタイムリープしてきたことを時雨に打ち明けることはおそらく無い。理由は自分でもよく分からないけど、言ってしまったらそこで何かが終わってしまうような、そんな気がした。

「……そろそろ部屋に戻ろっか。もうそろそろ二時になるし」

「そ、そうだね。明日もバンド漬けだし、ちゃんと寝ないと体力持たないから」

 僕がそう言うと、椅子に座っていた時雨は立ち上がろうとする。すると、不意に彼女はバランスを崩してしまった。もう時雨はかなり疲れていたのだろうと思う。慣れない遠出をし、長時間のバンド練習、そして夜ふかしまで。そんな倒れそうになった彼女の身体を、僕はとっさに抱きかかえた。いや、どちらかというと抱きしめたと言ってもいい。

「だ、大丈夫!?」

「……う、うん」

 不可抗力とはいえ、時雨の細い身体を抱きしめてしまったことに僕はドキドキしてしまった。さっき時雨にドキッとすることを言われたのもあって、余計にその鼓動はやかましくなっている。BPMで言ったら一三〇くらいだろうか。この心音を時雨に聴かれるのが、なんとも恥ずかしい。

「……融、ドキドキしてるね」

「ご、ごめん……、びっくりしたもんだから」

「なんか……、ううん、なんでもない」

 時雨は何か言いたげだったけど、その先のことは言わなかった。

今まで僕は時雨のことを、『推し』とか『ファン』だとか、バンドを組むようになってからは『仲間』だというように思ってきた。でも、今僕の心の奥底から、それとは別のとある感情が沸き立ちそうになる。その気持ちはバンドをやる上で、絶対に仲間に対して抱いてはいけないと教わってきた、そんな気持ちに似ていた気がする。

 ……駄目だ、この感情に気づいてはいけない。今はまだ、心の奥底に押し殺しておかないと。

僕は深呼吸をして、抱きしめていた時雨を離す。彼女のふらつきは治まったようなので、僕らは何もなかったかのように部屋に戻った。




二泊三日のバンド合宿はあっという間だった。

 普段の退屈な授業も、これぐらいあっという間に過ぎ去ってくれればいいのにと思う。でも悲しいことに、退屈なことほどなかなか過ぎ去ってくれない。それはタイムリープして時間を巻き戻したとしても同じことだった。

 オリジナル曲のアレンジも固まり、コピー曲の完成度も申し分ない。あとは、無事にステージで演奏出来れば十分に勝機はある。

「よーし、みんな忘れ物はないかー?」

「オッケー」

「大丈夫」

 まるで遠足のときの引率の先生のように理沙が最終確認をする。来たときは僕が案内をしていたはずなのに、いつの間にかこんな感じで理沙がまとめ役になっていた。これも政治家の血なのだろうか。心を開いた相手に対して理沙はとても面倒見が良い。

合宿所を出て、行きと同じバスに揺られる。そうしていつの間にか、最寄り駅のバスターミナルにたどり着いていた。

「それじゃあ明日は適当な時間に登校しよう。なんなら、ずっと屋上に居たっていい」

「そうだな、ライブまではそんな感じでやり過ごしていいだろ」

 僕と理沙は楽観的にそんな事を考える。ここ何日か学校をサボったことは未来の自分がなんとかしてくれるだろうと、それぐらいの気持ちだった。

「二人とも、本当に私のためなんかに……」

「いいんだよ、何度も言うけどこの三人でひとつのバンドなんだ。もし今度、僕や理沙が時雨みたいに苦しい状況になったら、その時助けてくれればいい」

「ああ、一蓮托生ってやつだな」

「……それ、あんまり良い意味じゃない気がするんだけど」

 僕らはハハハと笑う。一蓮托生でも一心同体でも呉越同舟でもなんでもいい。苦難を乗り越えるために手を取り合える仲間がいて、本当に良かった。一周目の僕が今の僕をみたら、少しは羨ましがるだろうか。


※サブタイトルはTHE HIGH-LOWS『胸がドキドキ』

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