第十七章 同じ月を見てた
小一時間ののちに二人が部屋に返ってくると、自販機で購入したビン牛乳を空け始める。
「ぷはー! この一杯がたまらないんだよなー!」
「おかえり、湯加減どうだった?」
「なかなか悪くないぞ。しかもほとんど貸し切りだ」
理沙がビン牛乳を飲み干してそう言う。彼女お酒が弱いかもしれないと自分で言ってはいたが、あと数年したらそのビン牛乳が缶ビールに変わっているのが鮮明に思い浮かぶ。
ちなみに時雨はフルーツ牛乳をちびちびと飲んでいる。こっちは数年後、甘い缶チューハイを飲んでいそうだ。
彼女達が部屋に帰ってきたので、入れ替わるように僕が大浴場へと向かう。
部屋の鍵がひとつしかないので、こうやってかわりばんこうに部屋を出るのが一番合理的だ。それに湯上がりの女子達は僕に見られたくないようなケアをしなきゃいけないこともあるだろうし、僕もひとりになりたくなる時間帯だからちょうどいい。
理沙の言うとおり風呂の湯加減は最高で、他の客もいないので貸し切り状態。
朝から晩までずっとドラムを叩きっぱなしだったこともあって、その疲労が湯へ溶け出していくかのような気持ち良さだった。こんな入浴が毎日出来るならば、ずっと合宿をしていたい気分だ。
「あと二日……、か」
僕は誰もいない大浴場で、なおかつ誰にも聞こえない声量でつぶやいた。
バンド演奏の完成度を高める時間はたくさんある。でも、いざステージに立ったとき、時雨にトラウマの恐怖に立ち向かえる自信みたいなものが身につくには、いくら時間があっても足りない。
どうやったら僕は時雨を支えてあげられるだろうか、そんな事を考えていたら少しのぼせてしまったようだ。湯冷ましに時間がかかったおかげで、部屋に戻ったときには二人とも寝息を立てていた。明日もバンド漬けだ。僕も早いところ寝て体力回復するとしよう。
深夜一時を回ったぐらいだろうか、僕はふと目が覚めてしまった。
ばかに月明かりが僕の枕元に差し込むせいで、不思議と自然に覚醒してしまったみたいだ。
喉が渇いていたので、水を飲んでもう一度床につこう。そう思って部屋を出ようとしたら、時雨の姿がないことに気がついた。彼女の布団は抜け殻のようになっていて、おまけにギターの入っているギグバッグもない。
もしかしてと思い、僕は練習スタジオの方へ足を伸ばした。すると静まり返ったスタジオエリアから、エレキギターのシャカシャカした生音と、澄んだ声の歌が聴こえてくる。
間違いない、時雨だ。寝付けないので練習でもしているのだろうか。
でも彼女の歌っているその歌には聴き覚えがない。奈良原時雨のアルバムを聴き尽くしたオタクの僕ですら、今時雨が歌っているメロディに心当たりがなかった。
僕は気になって仕方がなくなって、その歌の聴こえてくる練習室の扉を開けた。中にはやっぱり時雨がひとりギターを弾きながら歌っている。服装は寝間着のまま。
僕個人の勝手なイメージで、時雨はパステルカラーでもこもこした感じのルームウェアを着ていると思っていたのだけど、実際に着ているのは普通のジャージだった。
「と……、融……!? どうしたの? こんな時間に」
「いや、なんだか目が覚めちゃってさ。そしたら時雨が布団にいないからここかなと思って」
まさかこんな夜中に僕が訪れるなんて思っていなかったのか、時雨は結構な驚きようだった。
「時雨は何をしていたの?」
「ええっと……、歌詞を考え直そうかなと思っていたら、ちょっと別の曲が浮かんできちゃって」
「そうだったのか。ごめんね、なんだかお邪魔しちゃって」
「い、いいのいいの。とりあえずメロディは録音出来たし、この曲はまた後で仕上げるから」
時雨の手元には録音アプリが起動しているスマホがあった。彼女はメロディ先行で曲を書くらしく、この録音データをもとに曲を仕上げていくらしい。
さすがに週末のライブには間に合わないだろうから、コンテスト出場が決まったときまでこの曲のことは後回しだろう。
「歌詞の方はどう?」
「ええっと……、これでいいのかなって悩んでる。よかったら融、ちょっと聴いてくれないかな?」
「もちろん」
時雨はオリジナル曲『時雨』を歌いはじめた。
彼女いわくまだタイトルも確定しておらず、とりあえず今は『時雨』という仮タイトルでバンド内でも通している。
彼女の歌う『時雨』は、僕が一周目で擦り切れるほど聴いた『時雨』とは全くの別物になっていた。
本来の『時雨』は、奈良原時雨自身の孤独感や疎外感を冷たい雨のように歌い上げたもの。
でも、今のこの歌は違う。メロディこそほとんど変わらないが、例えるならそれは仲間との絆を示すような、優しい恵みの雨。包み込むような歌を歌う、僕の知らない奈良原時雨がそこにはいた。
夢でも見ているのかと思った。奈良原時雨から、これほどまでに優しい歌が聴こえてくるとは僕には思えなかったから。
「……どう、かな……?」
時雨は歌い終えると、少し不安げに僕の方を見る。僕は率直に感想を述べた。
「……見違えるようだった。凄く良いと思う」
「本当? だったら嬉しいなあ」
時雨はいつもより五割増ぐらいではにかんだ。
彼女のこの表情を独占している僕は、とても罪な男かもしれない。
「タイトルも変えようかなって思ってるんだけど、いいかな?」
「良いと思うよ。時雨の曲なんだし、時雨の思うままにタイトルをつければいいと思う」
「……じゃあ、『our song』っていうのはどうかな」
それはすなわち、『みんなのうた』と直訳できる。僕はシンプルながらそのタイトルにびっくりした。
一周目では奈良原時雨の歌詞の中に、一人称複数の代名詞が使われることは一度もなかったから。彼女はここにきて、仲間というものを強く意識するようになったのだ。
二周目の時雨は、一周目とはまた違う方向に進化している。そう感じざるを得なかった。
「……賛成。というか、もうそれしかない感じがする」
「よかった……。実は理沙にもお風呂のときに相談してOKを貰ったんだけど、融にだけ違うって言われたらどうしようかと思ってた」
時雨は胸を撫でおろす。静まり返ったスタジオの中に、小さく「ふぅ……」というため息の音だけが流れた。
「この歌はね、融のおかげで完成したんだ。多分、私ひとりじゃ一生未完成のままだったと思う」
「それは言い過ぎだよ。完成させたのは他でもない時雨の力さ」
「じゃあ、そういうことにしておこうかな。なんてね」
時雨は冗談っぽくそう言う。
ここまで曲作りに夢中になって張り詰めていたのだろう。この瞬間、それが一気に弾けたように時雨の表情が緩んだ。
「なんか緊張してたから喉が乾いちゃった。なにか飲もうよ」
「そういえば僕もそのつもりで部屋を出てきたことをすっかり忘れてたよ。外に自販機があるから、飲み物でも買おう」
ポケットに入っている小銭の金額が二人分の飲み物を買っても十分足りることを確認して、僕は練習室の重い防音扉を開いた。
照明が消えた合宿所の廊下は、非常灯と月明かりだけが光っている。外の自販機へと向かう間、僕ら二人は上空で光る球体を眺めていた。
※サブタイトルはGOING UNDER GROUND『同じ月を見てた』
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