第十六章 バスロマンス
湯気が立ち込める大浴場は、ほぼ貸し切りのような閑散とした感じだった。
自宅のお風呂の何倍もある大きな湯船の端っこで、私は左足からお湯に浸かる。少しぬるめのお湯で、普段から長風呂をしがちな私にとってはちょうどいい温度だ。
融が突然言い出した「バンド合宿をしよう」という提案は、思っていたよりも楽しいものだった。
学校をサボって外に出て、夜までひたすらバンドの練習。急に訪れたささやかな非日常は、私にとってかけがえのない時間になりつつある。
融や理沙からしてみたら、私を恐怖から一時的に逃してやろうという、それだけのことだったのだろうけれども、その心遣いがとても嬉しかった。
今ここで私が湯船に浸かってほっこりしていられるのは、二人のおかげにほかならない。
「おおー、実質貸し切りじゃないか。最高だな」
少し遅れて、一糸まとわぬ姿の理沙が浴場へと入ってきた。
「理沙、遅かったね。何してたの?」
「ああ、ちょっと日課のアレをな……」
「日課のアレって?」
「まあ、ちょっとした筋トレだよ。体幹トレーニングみたいなやつ」
理沙はそう言うと洗い場の椅子に座ってシャワーの蛇口をひねる。髪から順に全身を洗い終えると、いつの間にか湯船に身を沈めて私の隣に陣取っていた。
「体幹トレーニングが日課なんて、理沙、スポーツでもやってるの?」
「いいや、体幹を鍛えると姿勢が良くなるっていうからさ、きっとベースを弾くフォームも良くなると思って続けてるのさ」
「そうなんだ。やっぱり理沙って、結構ストイックにトレーニングをしているよね」
「そうでもないよ。忘れる日も結構ある」
しっかり者のように見える理沙でも、忘れてしまうことはよくあるらしい。それでもきちんと習慣化してしまうのはさすが理沙という感じだ。その勤勉さというのは、なかなか真似できるようなものではないと私は思う。
「一日忘れても次の日からまたちゃんとやり直すの、なかなかできないと思うよ。連続記録が途切れると、気持ちも切れちゃうことなんてよくあるし」
「ははは、そうかな。言われるとちょっと照れるな」
理沙は少しはにかんで見せる。
「時雨もやってみるか? 発声にも姿勢が大きく関わってるらしいから、鍛えればもっといい声出るかもだし」
「筋トレでしょ……? で、できるかなあ……?」
できるできると理沙は言う。体力にも運動神経にも正直自信はない。けれども、自分自身を鍛えて成長させることは、巡り巡ってみんなのためにもなる。
今までの自分なら遠慮してしまうところだけれども、気がつけば私は理沙にトレーニングのやり方を簡単に教わっていた。お風呂から出たら実践してみようかと思う。
しばらくお湯に浸かって、だんだんと身体が温まってきた。
山奥の合宿所は街中に比べて少し気温が低かったので、知らず知らずのうちに身体は冷えてしまっていたようだ。
「ふぅー、生き返るー……。やっぱ広い風呂はいいなあ」
理沙もお湯が身体に馴染んできたのか、軽く伸びをしてリラックスしている。
「理沙のおうちなら、ここよりもっと広いんじゃないの?」
「そんなわけないだろ。普通だよ普通」
「普通のヒノキ風呂?」
「そうそう、普通のヒノキ風呂。あの木の香りがたまらなく良いんだよな。やっぱり日本人はヒノキの香りでリラックスできるように遺伝子レベルで……って、おい、何言わせるんだよ!」
お手本のようなノリツッコミにふふっと私が笑うと、理沙も合わせるように笑ってくれた。
「なんだか時雨、よく笑うようになったな」
「そう、かな……?」
私は思わず自分の顔を手で覆う。
あまり笑わない子だと言われたことは何度もある。それが自然だと思っていた。
笑うようになったと言われるのは、少なからず自分が変化してきたということ。自覚のないうちに、私の表情筋は柔らかくなったのかもしれない。
「随分笑うようになったよ。初めて会ってからしばらくの間は、全然口聞いてくれそうになかったし」
「ご、ごめん……、それはちょっと人見知りなのもあって……」
「まあそうだよな。だから私は最初、時雨のことをすっげえ無愛想なやつだなって思ってた。……とは言っても、私も人のことは言えないんだけどさ」
私も、理沙のことを同じように思っていた。人を寄せつけようとしない、自ら孤独という道を選んでいるような、そんなイメージ。
そんな似たもの同士の私たちを繋いだのは、融の行動力とあの曲だったらしい。
「あのとき聴いた時雨の歌が、どうも心に突き刺さってきてさ、それがものすごく心に残ってて、忘れられなかった」
理沙をバンドに誘うため、融と一緒に私は屋上であの曲を演奏した。融いわく、自分たちのことを知ってもらおうという名刺がわりの一曲だったらしいのだけれども、それがあのときの理沙には効いたらしい。
「ひとりぼっちの自分を歌った曲だったろ? あのときの私も孤独だったから、それに余計に共感しちゃったというか……」
「どうしたの?」
「いや……。はは……、感想を言うのって、結構難しいのな」
「わ、私もそうまじまじと感想を言われると、結構恥ずかしいかも……」
理沙は自嘲して、一方で私もむず痒い気持ちになる。
バンドメンバー同士とはいえ、本気で良いねと言うこと、言われること、どちらも勇気がいるものだ。
「表現が正しいのかわからないけど、共鳴して、呼び寄せられたかのような感覚だった。ここに私はいてもいいんだって、あの曲のおかげで少しずつ思えるようになった」
そう言われて、私は融に出会った日のことを思い出す。
「そういえば、融が私のことを誘ってきたときも、あの曲に随分固執していた気がする……」
「そういう曲なんだよ、あの曲は。あの曲がみんなを繋いでいる。いわば、みんなの歌なんだよ」
「みんなの歌……」
理沙のその言葉が一歩を踏み出すトリガーになった。
実は私は、ずっとあの曲をアップデートしたいと考えていた。完成度が高まるにつれてどんどん言い出しにくくなってきてしまったので、どこかできっかけが欲しいと心の中で渇望していたのは間違いない。
思い切って、ここで言い出してみよう。私にとって、胸の内を話すことができる数少ない人。片岡理沙という人は、もう私の中でかけがえのない存在になっていた。
「……理沙、実はあの曲ね、歌詞を考え直そうかなって思ってるんだ」
「い、今から直すのか? さすがにそれは大変なんじゃ……」
「ううん、歌詞自体はほとんどできあがってる。この話をいつ切り出そうか、ずっと迷ってた。……今からワンフレーズ歌うから、ちょっと聴いてほしい」
「あ、ああ……」
私はおもむろに湯船から立ち上がって、あの曲のワンフレーズを声に出す。歌詞はずっと温めていた、今の自分たちを歌ったもの。
三人分の想いを詰め込んだ、等身大の歌。
歌い切ると、隣にいる理沙はぽかんと口を開けていた。
「……おいおい、もはや全然違う曲じゃないかよ」
「タイトルも『our song』にしようかなって。ダメだったかな……? やっぱりイメージと違う?」
「いやいや、むしろ逆! 今となったらその歌詞のほうがいい。それに、直すならこのタイミングしかないだろ」
「ほんと……?」
呆気に取られていた理沙の表情が、なにか確信めいたものに変わる。
「ああ。あとは、念のため融にも確認をとってみたらいいと思う。多分、文句なんて一ミリも出てこないとは思うけどな」
理沙はそう言ってニカッと笑う。私から言わせてみれば、彼女だってよく笑うようになったなと思う。
この歌詞で良かったのか不安になっていた私は、その表情でやっと安心できた。
少し長風呂になってしまったので、私はそろそろ上がろうかなと立ち上がる。すると、理沙がまたなにか思いついたように言い出した。
「あっ、そうだ。風呂からあがったらあれを飲もう」
「あれ?」
「ビンの牛乳。さっき自販機を見かけたからさ、これは飲むしかないなって思って」
「ふふっ……」
私は思わず笑ってしまった。どこまで行っても理沙は自分のペースがあってブレない。そのペースについていくことが変に心地よくて、誰かと一緒にいることの良さを改めて感じさせられる。
「時雨? どうしたんだ?」
「ううん、一緒にバンドを組んだのが理沙で良かったなって」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
理沙は視線をそらして、ちょっと恥ずかしそうにそう言う。
湯船のお湯はぬるめだったけれど、不思議と身体はぽかぽかだ。渇いたのどをビンの牛乳で潤すのがいっそう楽しみになってきた私は、貸し切りの大浴場をあとにした。
※サブタイトルはチャットモンチー『バスロマンス』
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