第十四章 ラフ・メイカー

 融を見送った私は、不覚にも涙を流していた。この涙は何の涙なのだろうか、理解するまでに少し時間がかかった。

 この涙は嬉し涙であろう。融との別れ際に「ありがとう」と言ったとき、自分ではこのあふれ出る気持ちをコントロールできなかった。こんなの、初めての経験だった。


 片岡家に生まれた私には、その時点で一本のレールが敷かれていた。

父の言う「型にはまった人生」というのはとてもわかりやすい。勉強して進学校に入り、難関と呼ばれる大学に入る。そうして大企業に入ったり、国家公務員なんかになったりして、ある程度の社会経験を積んだら父である片岡英嗣の秘書、いずれは政治の道へとコマを進めていく。それが、生まれたときから私に敷かれた一本のレールだった。

このレールを外れて生きていくことは、人生の失敗を意味する。そういうふうに私は育てられた。


高校受験のとき、私は大きな失敗をした。

なんのことはない、受かるはずだった地元の進学校に落ちてしまったのだ。

滑り止めには受かったものの、それまで挫折らしい挫折をしてこなかった私にとって、取り返しのつかないことのように思えてしまった。

父さんはいかにして私の経歴をカバーするかを考えていたと思う。実の母親を亡くした私をなんとかして一人前にさせようと必死だったのだ。留学させようと言い出したのも、そのせいだ。

そこで私は気がついてしまった。片岡理沙という人間は、この家に都合よく使われてしまっていると。

このまま素直に父さんの言うとおりにしていれば、確かに事がうまく運ぶかもしれない。でも、そこには私という人間性は存在しない。言うなればただのあやつり人形である。父さんには直接逆らうことは不可能ということだけが、私を苦しめていた。

この家のすべてに嫌気が差した。いっそのこと敷かれたレールから外してほしい、でも、レールから外れることは許されない。手詰まりかつ不器用な私は、「不良生徒」を演じることで、この硬直した家族関係になにか波風を起こしてやろうと考えた。

長かった髪をバッサリと切り、金色に染めた。恐る恐るピアス穴もいくつかあけた。それだけでは飽き足らず、昔からから好きだったパンクロックとエレキベースに一層のめり込むようにもなった。

そんな見た目のせいか、高校に入ってからはずっとひとりぼっちだった。たとえできたとしても、私が政治家の家系であることを知ると自然と人は離れていく。

家庭の中でも私の立場は悪くなる。父さんとは言葉を交わすことも減った。もともと関係の薄かった継母は、より一層私に関わろうとはしなくなった。

私の日常はちっぽけだった。授業をサボって屋上で音楽を聴きながらただただベースを弾くだけ。誰かに助けてほしいと思いながら何もできないという、閉塞感だけがそこにはあった。


その時のことを思い出しながら帰り路をゆっくりと歩いていると、古びたタバコ屋さんの前を通りかかった。

昼間はおばあさん一人で店番をしている昔ながらの店。常夜灯には夜光虫が群がっていて、セピア色の写真におさめたらとても雰囲気が出そうなそんな佇まいだ。コンビニやドラッグストアと違って年齢確認が甘いと噂で、未成年なのにこっそりここでタバコを購入する悪い奴らがいるとかいないとか。

「……ったく、どこまであいつはお節介なんだか」

とある日、私は融にタバコの所持の有無を問われた。彼にとってはなんとなくの正義感で訊いたことなのかもしれない。でも、私にとってそれはもしかしたら今後を左右するかもしれない大きな一言だった。

閉塞感で人生自体が投げやりになっていた私は、学校帰りにこの店でタバコを買ってやろうという出来心を持ってしまっていた。

別に吸ってみたかったというわけではない。むしろ煙たいのは嫌いで、衣服に染み付いたタバコのニオイというのは絶対に好きになれない。

ただタバコを手にして、悲惨な目にあっているから非行に走ったという可哀想な人間、――いわゆる、悲劇のヒロインを気取っていたかったのだ。

「もしかして、お見通しだったのかな……。あいつには」

 ぼそっと独り言をつぶやく。

 融の一言は、私にブレーキをかけたのだ。私の境遇なんてあの時の融には知る由もなかったはずなのに、何故かすべて見抜かれているようなそんな感じがした。

 もしあのまま、この店でタバコを買っていたらどうなっていただろうか。答えは簡単だ。悲劇のヒロイン気取りの私は、より一層自分で自分を腐らせていっただろう。タバコが見つかってしまえば、それこそ退学なり家庭崩壊なり悲惨な結末もあったに違いない。

 不思議なやつだ。まるで物語の結末を捻じ曲げるかのように行動を起こしてくる。またその動機がただバンドをやりたいだけだというのだからおかしくてしょうがない。

 それでも融のおかげで私が今変わりつつあるのは事実だ。出口など無いと思っていたこの人生のトンネルに、一筋の光が見えている。

 一旦乾いたはずの涙が、もう一度にじむように瞳から溢れてきた。

「はは……、明日まぶたが腫れてたら、融に笑われるな」

 私は自嘲する。自分に笑顔が似合うかと言われたら甚だ疑問だけど、泣き顔のほうが似合わないのは間違いない。明日また会ったときに泣き顔を笑われないように、誰もいない今のうちにたくさん泣いておくのも悪くはないなと、私はいつもよりゆっくり歩いて家へと帰った。


※サブタイトルはBUMP OF CHICKEN『ラフ・メイカー』



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