第十三章 リトルブレイバー


時雨の住むマンションの入口にたどり着いた僕と理沙は、オートロックの自動ドア前にあるインターホンで彼女を呼び出した。

「はい、奈良原です」

呼び出しに答えたのは時雨の母だろう。随分とおっとりした声だ。

「あ、あの……、時雨さんはいらっしゃいますか?」

「ああ、もしかして時雨のバンドの……。ちょっと待ってくださいね」

僕が話すと、時雨の母は何も言わずオートロックを解除して自動ドアが開いた。

余程僕らだと確信があったのか、それとも単に不用心なのかはわからないが、余計な手間がかからなかったのはありがたい。

四階へ上がって奈良原家の呼び鈴を押すと、先程の声の主である時雨の母が現れた。

「こ、こんにちは初めまして、僕ら時雨さんとバンドをやっている芝草と、こっちは片岡です」

慣れない場面に僕は緊張しながら自己紹介をする。幸いにも、時雨の母親は僕らを怪しんだり疎ましく思ったりしているということはなさそうだった。見た目通り、物腰の柔らかい優しいお母さんなのだろう。

「わざわざ時雨のお見舞いに来ていただいてありがとうございます」

「いえ、僕らも彼女が心配でやって来たので。……それで、時雨はどんな様子ですか?」

「ちょっと体調が優れないからって早退してきたみたいなのだけれど、どちらかというと身体より気分が落ち込んでいるように見えました。なにか、嫌なことでもあったのかなと」

時雨の母はそう言う。生まれたときからずっと時雨のことを見てきただけあって、その推察はほぼ正解だ。でも、詳しいことを知らないあたり、時雨は何も母親へ言っていないのだろう。苦しさのあまり、うまく気持ちを言葉にできなかったのかもしれない。トラウマが蘇って来るというのはそれぐらい辛いものだ。

僕らは時雨の母親に部屋の前まで案内された。ひとつ息を吸い込んで、僕はドアをコンコンとノックする。

「……時雨? 入ってもいいかい?」

返事はなかった。カギはかかっていなかったので、僕はそのままドアノブを回して扉を開ける。部屋の中には、片隅で三角座りをした時雨がいた。

「……時雨」

すぐに僕らは時雨に近づいた。僕の見間違いでなければ、何かに怯えるように小さく震えていたと思う。

「融……、理沙……。ごめんなさい……、私やっぱり、歌えそうにない……」

普段から小さめの声で話す時雨だけど、その小さな声をさらに絞り出すような窮屈な声。その綺麗な透明感のある瞳からは、大粒の涙が流れている。大きな恐怖に彼女は包まれていた。

「……よく頑張ってこらえたんだね。ごめんよ、来るのが遅くなって」

僕は時雨の隣に座って彼女の右手をとる。理沙はその反対側に座って、時雨に寄り添った。

「ごめん……、なさい……。バンド、あんなに楽しかったのに、昔の事を思い出しちゃって……、怖くて……、耐えきれなくて……」

「……大丈夫、それは時雨のせいじゃないよ」

過去のことが自分のせいでないことは、多分時雨も理解し始めている。しかし頭ではわかっていても、やはりトラウマというのはそう簡単に身体から抜けていくものではない。

過去にとらわれ続けていること、そしてそれが皆を傷つけてしまうのではないかということが足かせになっている。そう思うことで余計に時雨は自身を苦しめていた。

「ごめんなさい……、私が弱いせいで……。みんなの足を引っ張って……」

「時雨、それは違うよ。弱いのは君だけじゃなく、僕らみんな弱いんだ」

時雨は少し顔を上げた。僕の口からそんな事を言われるなんて思っていなかったのだろうか、ちょっと虚を突かれたようなそんな表情だ。

「僕らは各々ひとりじゃどうしようもないくらい弱い。だからこうやって三人になったんだよ。理沙だって僕だって同じだ。君だけじゃない」

「そうだな、私もそう思う。融だけでも時雨だけでもダメなんだ。この三人だから、今はまともに立ち上がれる。時雨がひとりだけ弱いなんてことは、ない」

理沙も僕の意図を理解していた。

誰を欠いてもこのバンドは成立しない。トラウマに苛まれて、それを自分だけで背負う必要はない。僕は時雨にそう伝えたかった。

一人では潰されてしまいそうな恐怖でも、三人なら大丈夫。毛利元就の『三本の矢』じゃないけど、苦しみぐらいシェアさせてくれたっていい。

しばらく沈黙しているうちに時雨の震えが収まった。

「……ありがとう。ちょっと楽になった」

「良かった、前みたいに時雨が頑固だったらどうしようかと思ってた」

僕はそう冗談を言うと、時雨は少しムッとして軽く拳を僕の肩にぶつけてきた。

「……でも、まだちょっと学校には行きたくない。やっぱりあの空気は怖い」

 時雨は少し立ち直ったけど、確かに根本的なトラウマの原因は消えていない。このまままた明日学校に出たら、今日と同じように耐えられなくなってしまうだろう。

そのトラウマを克服するには、やっぱり週末のライブを成功させるのが一番だと僕は思う。

大勢の前で歌うことで、今度こそ自分の歌が素晴らしいものなのだと身を持って体感する。力業でショック療法みたいだけど、これが一番効果的だろう。

今日は月曜日。金曜日は最悪遅刻して学校に行くとして、それまでの三日間はなるべく時雨をトラウマの恐怖に晒したくない。

だから僕は、思い切ってこんなことを言ってみる。

「それじゃあ、明日から三日間学校をサボっちゃおうか。旅行でも行っちゃう?」

「旅行……? でもそれじゃ、バンドの練習ができなくなっちゃうよ?」

「確かにそうだな。旅行っていう案には賛成だけど、練習もしておきたいし……」

時雨と理沙は、また僕が変なことを言い出したなと呆れていた。でも、不思議と嫌がってはいないあたり、悪い提案じゃなかったのかなと思う。

どこかに出かけつつ、バンドの練習ができる。そういう旅行先に僕は心当たりがあった。

僕はおもむろにスマホでとある施設を検索する。それは県内の山奥にあるスタジオ付の宿泊施設。どうせならこの三日間、思いっきり三人だけのバンド合宿をしてしまおうと思ったのだ。

「ここならどうかな? 旅行気分でバンド練習もできるし、今なら閑散期で料金も安いよ」

「へえー、こんな施設があるんだな。これ、ものすごくいいじゃないか」

「うん。私もいいと思う」

「じゃあ決まりだね。早速電話して予約してみるよ」

 僕はウェブサイトに記載されていた番号に電話をかけようとした。閑散期で平日ということもあり、施設は空いているだろう。

 すると、時雨が少し慌てながら電話しようとした僕を制止する。

「ちょ、ちょっと待って融。私、お母さんに許可貰わないと」

「そ、そうだね。確かにちゃんと許可は取らないとだ」

「すぐに聞いてくるから待ってて」

 時雨はキッチンにいる母親の元へ話をつけに行ったので、部屋には僕と理沙だけになった。すると、理沙が少し神妙な面持ちで僕にこう切り出す。

「融、ちょっとお願いがある」

「理沙? どうしたの?」

「うちも親に許可を取らなきゃいけない。この間の事務所でのやりとりほどではないだろうけど、ちょっと私ひとりでは心細いというか……」

 理沙は申し訳無さそうにそう言う。時雨の前でこのような姿を見せるのは逆に彼女を不安にしてしまうと我慢していたのだろう。このタイミングで切り出して来たのもうなずける。

「わかった。じゃあこのあと、理沙の家に行くよ。ついでに、金曜日のライブに来てくれないかどうかも直談判してみよう」

「ありがとう。毎度毎度すまないな、頼ってばっかりで」

「何言っているんだよ、僕だって理沙や時雨に頼りっぱなしなんだから。これぐらいいいってことよ」

 理沙は安堵の表情を浮かべる。周囲に立ち込めていた緊張感が緩んだところで、外泊の許可をもらえて嬉しそうな時雨が部屋に戻ってきた。

「お母さん、オッケーだって」

「そっか、じゃあ、早速準備しないとね」

 僕は明日の集合時間と場所を時雨に告げて、理沙と一緒に彼女の家をあとにした。


 理沙の家はやはり想像通りの大きな家だった。和風な木造の住宅で、武士のお屋敷とか老舗の高級旅館と言われても信じてしまいそうな立派な佇まいだ。

「……やっぱり、片岡家ってすごいんだね」

「これが普通じゃないんだなって気がついたときには、だいぶ葛藤したけどな。最近やっと受け入れられるようになってきた気がする。まだ、完全に吹っ切れたわけじゃないけど」

「大丈夫だよ。そこまで心配しなくても、なんとかなるさ」

「ああ、そうだな」

 理沙は僕を応接間のような部屋へ案内し、片岡議員が帰ってくるまでくつろいでいてくれと言ってお茶を出してきた。

 まもなく知事選挙が近いということもあって、かなり片岡議員は忙しいらしい。下馬評の時点ですでに片岡議員の圧勝だろうと言われているらしいが、それでも手を抜かないのはさすがである。もちろん僕は彼が当選して知事になることを知っているけれど、そんなことを誰かに言いふらしたりはしない。


 小一時間程度待たされると、応接間に片岡議員が理沙とともに現れた。激務で疲労が溜まっているはずなのに、先日選挙事務所で会ったときと表情一つ変わっていない。

 席につくなり理沙は事情を説明する。さすが片岡家の血が流れているだけあって、彼女の説明は順序立てられていて上手だ。

「……なるほどな。それで外泊の許可が欲しいということか」

「そういうことです。お願いします、父さん」

 片岡議員の表情は変わらなかった。僕は何か交換条件を提示されることぐらいは覚悟していたけれど、彼の口から出てきたのは意外な返答だった。

「構わん。一応、今は猶予期間中だ。法を犯すことでないならば、私がとやかく言うのは筋違いだろう」

「ほ、本当ですか……?」

「後々揉めるようなことがあったとき、『あのとき許可をくれなかったから』と言われるのは大いに不本意だからな。その代わり、ルール違反が発覚したときには容赦しない」

 僕と理沙は安堵のため息をついた。とりあえず、明日からバンド合宿に出かけることは問題ない。

「では、私は失礼するよ」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 僕は立ち去ろうとする片岡議員を引き止めた。話したいことは合宿の外泊許可だけではない。

「まだなにかあるのか? ……あまり時間もないので手短に頼む」

 片岡議員が立ち止まって振り向くと、僕は肘で隣にいる理沙を小突いた。

「……理沙、ここは君の口から言わないと」

「そ……、そうだな……」

 その瞬間、理沙から生唾を飲み込む音がした。意を決して、彼女は本当に言いたかったことを言葉にしはじめる。

「父さん。実は金曜日の夕方、うちの高校の武道場で私たちのライブがあるんだ。忙しいとは思うけれど、なんとか観に来てくれないか?」

「……無茶を言うな。夜や休日ならまだしも、平日の午後なぞ空いているわけがないだろう」

「無理を言っているのは重々承知の上なんだよ。どうか……、お願いします……!」

「さすがにその要望はどうにもならない」

「そこをなんとか頼むよ、父さん……!」

 理沙は必死で頭を下げる。もちろん僕も同調して頭を下げる。彼に僕らの演奏を観てもらう機会というのはとても貴重だ。この機会を逃したから次がないというわけではないが、彼が知事選挙に当選してからでは今より時間を作ることがもっと難しくなるのは間違いない。だから可能であればここで決めておきたい。

 しばらく沈黙が流れる。しかし、理沙は一歩も引かなかった。しつこさが自慢の僕でもこんなに粘ることができただろうか。彼女の本気度合いがその必死さから伺い知れた。

「……頼むよ父さん。これからもう時間を取ることだって難しくなるだろ? もちろんタダで来てほしいなんて虫の良いことは言わないから。私にできること、全部やるから」

 理沙はこれまで父である片岡議員に対してどこか及び腰なところがあった。自分の運命はもう決められていて、何かを言ったところでどうにもならないという諦めの気持ちを持っていたのだ。

 そんな彼女が自分から状況をひっくり返そうとしている。理沙は今、壁を突き破って新たな自分に生まれ変わろうとしているのだ。そうならば僕もあっさり引き下がってはいけない。

「……僕からもお願いします。なんなら、選挙のビラ撒きをしたりとか、のぼり旗を立てたりとか、戦力になりますから」

 勇気を振り絞った理沙を後押しするように僕ももう一度頭を下げる。その勢いが実を結んだのか、片岡議員は軽くため息を付いてこう漏らす。

「あのなあ君たち、選挙での人の使い方には決まりがあるんだ。勝手に君らを労働力にしてはいけないことになっている」

「えっ、そうなのか?」

 予想外の返事に、理沙は上ずった声で驚きをあらわにする。しかしそのあと、もっと予想外な言葉が片岡議員の口から出てきたのだ。

「……だから二人とも、私の選挙の手伝いなどしなくていい」

「それじゃあ、私たちは何をしたら……」

 僕と理沙は困惑する。何かを対価にして片岡議員との妥協点を探ろうとしていたので、思わず僕らは目を見合わせてしまった。

「別に何もしてくれなくていい。……君たちは意識していないかも知れないが、私の仕事には県民の生活がかかっていることを忘れないでくれ」

「それはつまり……、金曜日のライブに来るっていうのは無理って言いたいのか……?」

 片岡議員は再び部屋から立ち去る準備を始めた。そうして去り際に、もう一度僕らのほうを振り向く。

「……完全に無理とは言わない。が、難しいということだけは言っておく」

「……わかったよ。なら、別の機会を作るから、絶対に観に来てくれよな!」

 理沙は悔しそうにそう言うと、片岡議員は一瞥することなく部屋を出ていった。


 片岡家からの帰り、理沙に近くまで送ると言われた僕は、二人で夜道を歩いていた。

「理沙、よく頑張ってあそこまで立ち向かったね」

「そ、そんなに褒めるなよ。結局のところ、父さんに観に来てもらう約束は取り付けられなかったから、意味はないんだよ」

「いや、そんなことないさ。そもそも僕じゃどうにもできなかったんだから、可能性が見えただけでも万々歳」

「……まったくもう、本当に融のペースは調子が狂うよ」

 理沙は少し疲れた表情で、やれやれと苦笑いする。彼女の勇気がなかったらこの苦笑いすら出てこなかったであろうと思うと、その成長ぶりに僕は少し表情が緩む。

「でも片岡議員、『無理とは言わないけど難しい』って言っていたから、来てくれる可能性はゼロじゃないよね」

「出た、融特有の変なところでめちゃくちゃポジティブな思考。そうやってあんまり確率の薄いところにばっかり賭けていると、そのうち気が滅入っちゃうぞ?」

「ははは、確かにそうかもね」

理沙はもう一度やれやれと呆れた表情をみせる。

でも、本当に理沙はよく頑張った。片岡議員が来てくれるかどうかは、神のみぞ知るところ。しかし、これだけ人事を尽くしたのだ。僕らにだって天命を待つ権利ぐらいあったっていい。

歩いているうちに、だいぶ遠くまで来てしまった。

「それじゃあ僕はここで。また明日」

「ああ、また明日、駅前のバスターミナルでな」

 僕は理沙に軽く手を振って、自宅のほうへ再び歩き出す。その瞬間、震える理沙の声で「ありがとう」と聴こえた気がした。でも、なんだか振り向いたらいけない気がして、僕はそのまま歩きながら小さく「どういたしまして」と、呟いた。


※サブタイトルはBUMP OF CHICKEN『リトルブレイバー』より

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