第九章 FAIRWAY

 次の日もその次の日も、理沙は現れなかった。いつもベースを弾いていた屋上にも、サボり魔がたむろしていそうな空き教室にも、保健室にすらいなかった。

 もしかしてと思ってダメ元で彼女が所属するクラスにも出向いたけど、やっぱりいない。

 あの日から理沙は学校に来ていない。まるで父親である片岡議員に連れ去られてしまったかのように、その姿はなくなってしまった。

「――芝草くん。……芝草くん?」

「えっ、あっ、ごめん、ぼーっとしてた」

 軽音楽部の部室で時雨と共に練習をしていたのだけれども、理沙のことが気になって身が入らなかった。

「……やっぱり気になってる? 片岡さんのこと」

「ま、まあ……、気になっていないと言えば嘘だな。あんな去り方をされたらさすがに後味が悪い」

時雨はお馴染みの変化に乏しい表情のままだ。それでも、わずかにしょんぼりしたような、そんな落胆の色が見える。

「芝草くん。私ね、三人で音を鳴らしてみてわかったことがある」

「わかったこと?」

「うん」

時雨は担いでいたギターのボリュームノブを一旦絞る。

 普段の話し声が小さい彼女は、余計な音を出したくないとき――すなわち、大事なことを言いたいときはこういうことをする。

「バンドって凄く楽しいんだなって思った。もちろん、芝草くんと二人のときも楽しいけど、やっぱり片岡さんが入ったときの音が一番楽しい」

「奈良原さん……」

 僕は時雨が素直に『バンドが楽しい』と言ってくれたことが嬉しかった。

 あれだけ自分の世界に引きこもっていた子が、ここまで前向きに音楽を楽しもうとしているのだ。多分それはもう、僕だけの力ではない。たった数回一緒に演奏しただけだけど、既に理沙のベースはこのバンドに欠かせないものになっていたのだ。

「だから私、また片岡さんと一緒に演奏したい」

「うん。そうだよな、僕も全く同じ気持ちだよ」

 時雨とは初めてこんな感じで気持ちを共有出来た気がする。時雨にまで『また一緒に演奏したい』と言わせる腕前だ、代わりなんていないに決まっている。だからなんとかしてまた理沙をこの場所に呼び戻したい。

「でも、片岡さん、一体どこに行っちゃったんだろう……?」

「それは、うーん……」

 さすがに県議会議員の娘とあれば、理沙の家の場所ぐらい特定するのは難しくない。でも、そこに理沙がいるかはわからない。それに、理沙を見つけ出したところでどうにもならないのも目に見えている。やっぱり理沙を引っ張り出すには、彼女を縛り付けている根源を叩かなければならないだろう。

 未来の県知事。それが次に僕が向き合わないといけない壁だ。

 一介の高校生が立ち向かうにしてはでか過ぎる壁。しかも表向きの理由が、娘さんと一緒にバンドを演りたいからというそれだけだからおかしなものだ。

 それでも僕と時雨は、理沙が戻って来ることを切望している。ここは泥臭く、真正面からやってみるしかない。

「やっぱり直接理沙の親父さんに会うしかないか」

「……だけど、どうするの?」

「会うだけなら簡単さ。片岡英嗣の選挙事務所に行けばいい」

 すると、時雨は不思議な顔をする。

「選挙事務所……? 片岡英嗣って誰?」

 ここで僕は、時雨には理沙の父親が片岡英嗣という県議会議員であることは言っていない事に気づいた。ちょっと口が滑ってしまった。僕はある程度未来のことを知ってしまっているので、言動には気をつけなければ。

 とりあえずこの場は適当な感じに取り繕っておく。

「あっ、いや、この間理沙を迎えに来た人がなんか見覚えあるなーと思ってね。調べたら県議会議員の人だったんだよ。それも、代々続いている感じの」

「……そうなんだ。じゃあ片岡さん、名家の出身なんだね」

時雨はなにか今まで引っかかっていたことが解決するかのように納得した表情を見せた。

「まあ、そういうことだろうね。多分、家庭内でいろいろあって、あんな感じの不良を演じていたのだと思うよ」

 県議会議員もとい、未来の県知事の娘ともあれば、成績優秀で品行方正が求められるだろう。でも理沙はそうはしなかった。いや、多分真面目な彼女のことだから、やれと言われればそういう風に出来るはず。だから、理沙には理沙なりの理由が絶対にある。それをどうにかして、父である片岡英嗣に訴えかけられないだろうか。

「とにかくやってみるしかない。善は急げだ、奈良原さん、このあとちょっと付き合ってくれる?」

「うん、行く」

 まだ部室での練習時間は残ってはいるけれど、僕らはそれを切り上げて学校を出た。向かうはもちろん片岡英嗣の選挙事務所。そろそろ知事選挙が控えているので、準備のために事務所に彼がいる可能性は高い。


「ここか……、やっぱり地元の有力者だけあって事務所もでかいな」

「ねえ芝草くん……、本当に大丈夫?」

 一緒についてきた時雨は少し怯えている。当たり前だ、何なら僕だってビビっている。一周目でバンドをやっていた頃、遠征に出て地方のボスみたいなバンドに挨拶をしにいった時なんかより数倍緊張している。

「大丈夫だよ、なんとかなるって。念の為だけど、奈良原さんは外で待機しておいてもらえるかな?」

「……うん、無理しちゃダメだよ?」

「わかってるって。一応相手が相手だし、僕と奈良原さんでLINE通話を繋いだままにしておこう。何かあったら、すぐに警察を呼ぶように」

 さすがに県議会議員ともあればそんなことはしてこないとは思うけど、予防線は張っておいて損はない。


僕は腹をくくって片岡英嗣選挙事務所の呼び鈴を押した。すると中から聞き慣れた声で返事がして、事務所のドアはあっさりと開けてもらえた。

「はい、どちら様で――。って、芝草か!?」

「えっ……? もしかして、理沙……?」

 ドアを開けたのは理沙だった。お互いにどうしてだよという感じで驚いている。

 でも僕が驚いたのは理沙が出てきたことだけじゃない。金髪ヤンキースタイルだった彼女は、髪を黒く染めてビジネススーツを身にまとっていたのだ。

「り、理沙……? なんでここに? それにその髪……」

「……それはあまり聞かないでくれ。それより、何の用だ? まさか、私を連れ出しに来たとか言わないよな?」

 まさにそうだよ。とは素直に言わなかった。

 理沙は頑固な性格をしている。ここで連れ戻しに来たとか言ってしまえば、躍起になって僕を追い返すかもしれない。まず何よりも今は理沙から門前払いを受けることだけは避けたい。

「連れ出すというかまあ……、ちょっと片岡議員にお話というか……?」

「お前バカだろ! うちの父親と話したところでなんにもならないに決まってる」

「そうかもだけど、イマイチ僕は納得いってないんだ。だから少しでも話ができたらなって思ってここに来た」

「お前ってやつは……」

 理沙はため息をついて頭を抱える。彼女自身、何をどうしたらいいのかわからないのだろう。

 すると、そんな困惑した理沙のことを察知したのか、奥から低くて落ち着いた声とともにスーツを着こなした男が姿を現した。――間違いなく理沙の父親、片岡英嗣議員だ。

「どうした理沙、玄関口で長々と立ち話とは」

「あっ、いや、父さん、ちょっと知り合いが来たみたいで……」

 彼はチラッと一瞬僕のことを見る。さすが議員といったところか、たったそれだけで今起こっている事の大枠を掴んでしまった。

「理沙のことでここに来たようだな」

「……はい、どうしても片岡議員とお話がしたくて」

 その時の僕は言われもない恐怖感みたいなものがあったと思う。いつも軽快にハイハットを刻んでいるはずの右手が、全く言うことを聞かずに震えているのだから。

「……まあいい、時間はあまりないが話は聞こう。政治家たる者、人の話を無下にしたりはしない」

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 これが上に立つ者の器量というものなのだろうか。片岡議員は、あっさりとなんの変哲もないただの高校生である僕を事務所の応接室に通したのだ。

 高級そうな椅子と、ローテーブルを挟んだ向かい側に片岡議員は鎮座する。理沙は、応接室の端でまるで傍聴席にいるかのようにただ座っていた。

「……率直に言います。理沙さんとバンドを演らせて下さい」

「駄目だ」

 腹に力を込めて放った僕の一言は、あっさりと片岡議員に跳ね返された。

 それもそうだ、ここで片岡議員が「いいぞ、どんどん演りなさい」なんて言うはずがない。稀代のしつこさで奈良原時雨を改心させた僕だ、これぐらいでめげるタマじゃない。

「どうして駄目なんですか? その理由に納得するまで、僕はここを立ち去ることは出来ません」

 耐久作戦ならドンと来い。好きなバンドの物販開始列に数時間並ぶことがザラだった僕だ。何時間でも待ってやる。

 片岡議員は、軽くため息をついて話を始める。

「芝草くんと言ったか。――君には悪いが理沙は、秋頃を目処に海外へ留学させるつもりだ」

「留学……? どうしてなんですか?」

 突拍子もない片岡議員の言葉に僕は耳を疑う。

「それは、私は理沙に人生のレールを上手に走って欲しいと思っているからだ」

「人生のレール……?」

 片岡議員は、戸惑いを隠せない僕をよそにこう続ける。

「私の教育方針として、理沙には徹底して型にはまった人生を送ってもらいたいと思っている」

「それはどういう……?」

 そんな教育方針があったものかと僕は耳を疑った。しかし、片岡議員は淡々と述べる。

「世の中には『型破り』と呼ばれる成功者が存在する。しかし、それは本当に稀有な存在だ。君はそう思うかい?」

「……はい。確かに革新的なことをして成功する人というのは、ごく僅かだと思います」

「そういう連中を真似し、型にはまることを自ら拒否して何事も成せなかった人間も多々いるわけだ」

「……もしかして、理沙がそんな人間にならないように、型にはまった人生を送れと、そういうことですか……?」

 片岡議員はローテーブルにあるお茶を一口飲んで間をとった。

型にはまった人生。それは普通に高校を卒業し、学があれば大学へ進学、そして企業やお役所に就職しては、それなりの家庭を持つこと。そう言い換えてもいいだろう。身近な例を挙げれば、一周目の野口が最もそれに近い。

理沙のお家柄を加味すれば、政治の道へ進むこともその中に入っているはず。

「そういうことだ。政治家の血筋というのは、型破りでは成り立たない」

「だからって、それを理沙に押し付けるのは……」

「押し付けてなどいない。むしろ、理沙のような不器用な人間こそ、徹底して型にはまった人生を送ったほうが利口なんだ。不器用な人間は、レールから外れてしまうともう元には戻れない」

 僕にはその言葉が喉の奥にチクチクと刺さってきた。一周目のとき、僕は高校を卒業してすぐに音楽の道へ駆け出した。もちろん収入など安定はしないし、売れたとしても将来の保証などない。ただ、それでも僕は夢があるから人生が楽しいのだと自分に言い聞かせて毎日をなんとかやり過ごしていた。

 親友の野口が大学を卒業して役所に就職したとき、僕はつまんない人生だなと思いつつ、明日の衣食住のことを心配しなくてもいい生活を羨ましく思った。彼が結婚したときも、そろそろ子どもが産まれると言ってきたときも、同じような気持ちになった。自分自身、型にはまった人生を送ることが出来ていたらどれほど幸せだったのかなと思ったことが、無いわけじゃない。

 でもその時の僕はもう後には引けないところまで来ていたのだ。そうして結局、その人生は絶望の結末を迎えることになる。だから僕は、片岡議員のこの過干渉とも言える親心に、即座に反論することが出来なかった。

 片岡議員はキレ者だ。僕がどう返そうとしてもそれに対する完璧な回答を用意している。そうでなければ、若くして県知事になるなんてあり得ないのだ。

「理沙は既に無駄な時間を過ごしてしまった。学校もサボりがちだし、髪も染めてピアスまであけるようになってしまった」

 その瞬間、部屋の隅に座っていた理沙は、何かを恐れるような表情になった。取り繕っても駄目だと諦めたのか、理沙はその場でうなだれる。

「だからこそ、最後のやり直しのチャンスとして私は理沙を海外留学させるのだ。向こうは九月から新学期が始まる。仕切り直しにはちょうどいい」

 完璧な計画が片岡議員の頭の中では組まれていた。九月になるまでのこの期間は、理沙を自分の選挙事務所で手伝わせて処世術を身に着けたり顔を売ったりさせるのだろう。監視の届く範囲に理沙がいるのであれば、彼としてもこれ以上ないことだ。そうなると尚更、僕が口を出したところでどうにかなるなんてあり得なくなってきた。

「……それは、理沙が望んだことなんですか」

 苦し紛れの一言を放つ。

「望むも望まないも関係ない。どうやったら自分の人生が正しく進められるのか、それぐらいのこと理沙はわかっている」

「で、でも……」

 会話を止めたら負けだ。僕は一秒でも長く繋ぎ止めてやろうと粘ろうとする。しかし、その流れを止めようとしたのは他の誰でもなく理沙だった。

「……もうやめてくれ芝草。わかっただろ? 私はこういう境遇にいるんだ、だからもうバンドなんてやらない」

 絞り出すような声で彼女はそう言う。本心は間違いなく音楽がやりたいに決まっているのだ。それを自分の意思に関係なく奪われてしまったことで、理沙は一周目で間違った道を進んでしまうことになる。音楽に最後の逃げ場所を求めたのに音楽に裏切られて、「生きている意味がない」なんてこぼしてしまうような彼女の人生は、ここで変えるしかない。

「そんなバカなことがあるかよ! 音楽はもう理沙の人生の一部だろ? 失ってしまったらもう、生きている意味なんて無くなっちゃうんだよ!」

柄にもなく大きな声を出してしまったと思う。

 少し時間が経った。熱くなっていた僕は正気に戻ると、やってしまったと自身の行いを反省する。

「す、すいません……」

「芝草くん、君の言いたいことは大体わかった。そうしたい気持ちも理解できる。……ただ、君には圧倒的に足りないものがある」

 沈黙を破って片岡議員がそう言う。

「僕に足りないもの……? それは一体」

 彼はもう一度ローテーブルにあるお茶に口をつけて続ける。

「人を説得させるには、それなりの材料が必要だということだ」

「説得材料ですか……?」

「そうだ。例えば、科学的に証明された論文や、統計に基づいたデータという、数字や実績がわかるものというのは実に使いやすい。政治家である我々も、討論をする際にはこういう材料を使う。現物を見せるなんていうことも、とても有効な手段だ」

 片岡議員はまるで僕へ教鞭をとるかのように言う。さすが議員といったところだ。その語り口は理路整然としていてわかりやすい。

「情に訴えるのはその後だ。人を動かすには順序というものがある。君にはそれが足りない」

「順序……、説得材料……」

 僕は授業に集中しているかのように片岡議員の言葉を繰り返していた。でもこれはどういう意図なのだろう。片岡議員のやりたいことがイマイチよくわからない。僕が理沙を連れ戻そうとしているのを、ただ闇雲に排除しようとしているわけではないのだ。

「……まだ気が付かないか。仕方がない、これは大サービスだ」

 片岡議員はそう言うと咳払いをして、もう一度真剣な眼差しで僕を見た。

「私は君に『理沙と金輪際バンドごっこをやるな』と言った。それは、理沙に無駄な時間を過ごして欲しくないからということに尽きる」

 それは先日、理沙を車で迎えに来たときの片岡議員のセリフだ。理沙を連れ去られたとき、彼の口から出た『バンドごっこ』という言葉にもなんとなく腹がたったのを覚えている。

その腹立たしい気持ちが蘇って来ると同時に、僕はやっと理解することができた。片岡議員の言いたいことを。

 彼自身、理沙がバンドをやることに関して完全に反対しているわけではないのだ。ただし、やるならば条件がある。それは、生半可な気持ちで理沙をバンドに巻き込むなということ。もう一つは、バンドに取り組んだ時間が決して無駄ではないと言い切れるだけの結果を残せということだ。

 音楽で結果を出すのはそんなに簡単なことではない。それは人生二週目の僕自身が一番よく知っているし、おそらくこの聡明な片岡議員は百も承知なのだろう。だからこれは僕、いや、僕と時雨に対する挑戦状みたいなもの。趣味で楽しくやるのではなく、音楽人として真剣に取り組んだ上で、さらに誰もが納得する結果を出せ。そういう決意でもなければ、理沙にバンドを演らせるわけにはいかない。彼は、僕にそう言いたいのだ。

 僕は迷っていた。片岡議員の言う、バンドに本格的に取り組んだ上で結果を出せというのはそんなに難易度の高いものではないと思っている。なんせこっちには奈良原時雨がいるのだ。一世を風靡出来る程のセンスと歌声を持った彼女がいれば、そのへんの賞レースで何かしら受賞をすることは容易いだろう。

でもそれは諸刃の剣でもある。一周目の奈良原時雨は着々と実績を積み上げていたが、最期は自宅マンションから飛び降りる運命だった。

 それが音楽によって生じた苦悩によるものかは知る由もないが、原因のひとつである可能性はかなり高い。だから僕は二周目のこの人生、時雨と楽しくバンドを演ることだけを考えていた。でも理沙とバンドに加えるためには、その考えを捨てなければならない。時雨にだってどんな負担を強いることになるのか想像がつかないのだ。それを僕だけの裁量で決めてしまっていいものなのか、すぐに判断ができなかった。

「――話はこれで終わりかな。何も言うことが無ければ、私はまた仕事に戻るとするよ」

片岡議員は残っていたお茶をすべて飲み干して、応接室を出るために立ち上がる。ここを逃したら一巻の終わりだ。さっきまで迷っていた僕はもう後先考えることをやめて、最初で最後のカードを切ることにした。

「……お願いしますっ! もう少しだけ、僕らにチャンスを頂けませんか!」

「し、芝草……」

 理沙は僕のとった行動に驚いていた。

 人生二週目にして、僕は初めて膝を地につけて頭を下げたのだ。いわゆる、土下座というやつだ。

 こんな一介の高校生が土下座をすることにそれほど価値があるわけではないことぐらいわかっている。でも、本気であることを示すぐらいのことはできるかもしれない。それに、今の僕には他の方法もない。

「頭を上げなさい。そういう方法はむやみに使って良いものではない」

 片岡議員はもっともらしく言う。大人として、土下座をする高校生を諭してくるのは至極当たり前のこと。

「むやみに使う気なんてないです。ここ一番だから、こうやっているんです」

「言っただろう、君には足りないものだらけだと。だからそんなことをしても意味がない」

「ええ、おっしゃる通りです。僕には科学的に証明された論文も、統計に基づいたデータもありません」

 頭を下げたまま、僕はもう一度息を吸い込み、腹に力を入れて声を出す。

「だから、現物を観てもらう以外に方法はないと思っています」

 その一言と同時に僕は顔を上げた。これ以上ない強い眼差しで片岡議員の方を向くと、彼は少しだけ間をおいてからこう続ける。

「……それで、その現物をみせるため、君は私に何を求めるのだ?」

「僕らの演奏を観てもらうまで、少しばかり時間をいただけないでしょうか」

「猶予が欲しいということか。だが、もし私が無理だと言ったらどうする?」

「いえ、そんなこと絶対に言わないと思っています。何も説得材料が無いならまだしも、現物を観ずに判断を下すほど、片岡議員は愚かではないと信じているので」

 完全に僕のスタンドプレーだった。時雨の意向や理沙の気持ちは、後でなんとか折り合いをつければいいという、後先全く考えていない無謀なチャレンジ。おまけに一歩間違えば片岡議員の神経を逆なでしかねない、やや挑発的な言動だった。

しかしその心配は、一瞬で吹き飛んだ。

「……父さん、お願いします」『お、お願いしますっ……!』

 打ち合わせなど全く行っていないのに、理沙は片岡議員へ頭を下げた。そして僕の胸ポケットに入っていたスマホからも、電話越しに時雨から懇願する声が鳴り響いた。

永遠にも似た長さの沈黙が流れたあと片岡議員が放ったのは、意外な言葉だった。

「……まあいい、時間をやろう。また出直すがいい」

 それは僕らにとって首の皮一枚繋がったような、ぎりぎりの結果だった。でも、このまま最悪のシナリオへと進むことだけは避けられた。まだチャンスはある。

 片岡議員が静かに応接室から立ち去ったあと、僕は拳を強く握りしめたまま選挙事務所をあとにした。


「ごめん、勝手にあんなことを言ってしまって」

 選挙事務所の近くの公園で、僕ら三人は反省会をしていた。やむを得なかったとはいえ勝手に突っ走ってしまった僕は、少しばかり反省している。

「いや、ありがとう。芝草が父さんに攻めかからなかったら、本当にあそこで今生の別れになっていたかもだしな」

「うん。びっくりしたけど、あれしか方法が無かったと思う」

 スーツ姿の理沙がフォローを入れると、時雨も付け足すように賛同する。

 片岡議員は間違いなく僕らを見捨ててはいない。ただ僕が手段を間違えたというそれだけなのだ。だからせっかくもらったこの猶予期間で、次こそ彼をうんと言わせるチャンスを作らなければならない。

「にしたってどうするかな。父さんに演奏する姿を見せるのはいいけれど、都合よくそんな機会があるものなのか?」

「うっ……、そこまでは全然考えられなかったよ……」

 やっぱりなという表情で、二人は僕を見る。ここできちんと考えていたならば、どれほど格好良かっただろうか。事前準備の大切さを僕は今になって思い知る羽目になった。

 ふと、時雨がおもむろにスマホを取り出してブラウザを開いた。なにか思いついたのだろう。検索エンジンにフリック入力で文字を打ち込むと、表示されたのはとあるウェブサイト。

「……これ、応募してみたらいいんじゃないかな?」

時雨はそのウェブサイトを僕らに見せつける。そこには、当時僕が憧れていたイベントの名前が載っていた。

「……未完成フェスティバル?」

「それって、もしかしてあのラジオ番組のやつか? 平日の二十二時にやっている……」

理沙が食いつくと、時雨は静かにコクリとうなずく。その番組の名前は『School Of Life』、ロックバンドやシンガーソングライターのパーソナリティが曜日ごとに代わる代わる登場し、音楽を紹介したり裏話をしたりとロックキッズにはたまらない番組だった。

 奈良原時雨はこの番組のヘビーリスナーであったと一周目では公言していた。それも、この番組がなかったら生きていられなかったかもしれないと、実際に番組へ出演を果たしたときに発言したことも僕は覚えている。

だから時雨には、このコンテストに並々ならぬ思い入れがある。思いが強いイベントなら時雨も熱も入るだろうし、そうなればバンド全体のモチベーションも上がる。選択肢としてはこれ以上ない。

「でもこのイベント、ライブ演奏の前にまずは書類選考とかがあるんじゃないか?」

 興奮気味だった理沙はふっと我に返りそう言う。確かにこの手のコンテストというのはまず書類選考だ。それには大なり小なり時間がかかる。記憶が正しければ、実際にライブの演奏をするのは書類選考突破後の二次予選以降だったはず。

「た、確かにそうだけど……、でも……」

 時雨は少ししょんぼりとした表情を浮かべる。せっかく提案してくれたことなので、これを易々と却下するのは僕にはできない。それに、今は手段なんて選んでいる場合ではないのだ。可能性があるのならば何でもいいから一歩踏み出すべきだろう。

「いや、奈良原さん、ナイスアイディアだよ。僕ら三人が演奏する姿を見せるだけじゃなくて、うまくいけば受賞という結果を出すこともできる。こんないい方法他にないよ」

「ほ、ほんと……?」

「もちろん他に何か手段がないか考える必要もあるとは思う。でもとりあえず今は未完成フェスティバルに向けて突き進んだほうが、迷うこともなくていいと思う」

僕は柄にもなく熱弁する。その僕の熱量に気圧されたのか、理沙は苦笑いを浮かべた。

「まあ、他にいい方法があるかって言われたら全然思い浮かばないしな。それでいこう。私もちょっと興味があるんだよな。そのコンテスト」

「じゃあ決まりだ。とにかくやってやるしかない」

 僕ら三人は目を見合わせてお互いにうなずいた。いつだってブレイクスルーというものは、愚直に突き進んだ先にある。


※サブタイトルはSUPERCAR『FAIRWAY』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る