第二章 透明少女

「融ー! 早く起きなさい! 遅刻するでしょ!」

 懐かしい母の声がして、僕は目が覚めた。永遠にも近い眠りだったような気がする。よく寝たというより、生き返ったというようなそんな気分だった。

 目をこすって周りを見ると、いま自分のいる場所がどこなのかすぐには理解できなかった。

 ここは一人暮らしをしていたあの部屋ではない。でも、この風景には覚えがある。

「……ここは、実家の僕の部屋……?」

実家の二階、壁には人気バンドのポスターなんかがたくさん貼ってあるいかにもバンドキッズな部屋だ。本棚には参考書や辞書は全くなく、漫画と小説、それとバンドスコアがぎっしり詰まっている。ドラム練習用のゴムパッドやスタンドが乱雑に置かれていたり、食卓の箸立てのようにドラムスティックが刺さりまくったペール缶が横倒しになっていたりと、僕らしさ満点の六畳間。

 意識が落ちる前の最後の記憶は、一人暮らしをしていた部屋で酒浸りになっていたことだった。

 奈良原時雨がベランダから飛び降りたニュースのあと、さらに飲みすぎで記憶を飛ばしてしまったのだろうか、それ以後の記憶はポッカリと抜けている。

「……あれ? 僕は酔っ払って実家に帰って来てしまったのか?」

 普通に考えたらそういう結論にたどり着く。酔っ払った勢いで電車やタクシーなんかに乗り、帰巣本能だけで実家にたどり着いた。そうしてそのまま酔いが覚めるまで布団で寝かされたのだと思えばなんとか辻褄は合う。

 だが、しこたま酒を飲んでいたとは思えないくらい身体はスッキリしている。翌日に酒が残りやすいタイプだっただけに、ダメージが全くと言っていいほど無いのが不気味だ。

 ふと我に返った僕は、手持ちの貴重品を探し始めた。酔っ払っていたのだから、財布やスマホを失くしている可能性もある。変なところで落としていたりしたらそれはそれで面倒なことになる。

「……あれ、僕のスマホは一体どこに?」

 肌身はなさず持っていたスマホが僕の手元には無かった。やっぱり酔っ払って失くしてしまったかもしれない。あれがなくなると、生きていけないわけではないが相当な不便を強いられる。買い換えるのも金銭的に馬鹿にならない。

 部屋を見回すと、学習机の上に充電ケーブルの挿さったスマホが置いてあった。僕はそれを見て安堵する。しかしすぐさま、今度は別の違和感に襲われた。

「……こんな旧機種、僕は使っていないぞ」

 そこにあったスマホはおよそ十年前のモデルだった。高校時代に使っていた機種なので、僕にはよく覚えがある。しかもそれは、十年間使用された物とは思えないほどキレイな状態だった。

 僕は恐る恐るスマホの電源ボタンを一回押した。表示されるのは現在の時刻、『午前六時三十七分』と『四月三日火曜日』が表示され、壁紙には昔実家で飼っていた柴犬――ペロの写真が映っている。

「四月三日……? いや、確かに昨日まで八月だったはずだ……。このスマホ、壊れているのか……?」

 十年前の代物だから壊れていてもおかしくはない。だがそこには間違いなく『四月三日』と表示されている。しかもよくよく考えたら、八月にしては肌寒いし僕は長袖の寝間着を着ている。

 まさかとは思うが、記憶のあった八月から翌年の四月まで、僕は約八ヶ月の間意識不明だったのではないか? もしくは、意識は無くともその間の記憶を喪失しているとか。

 様々な考察が頭の中を駆け巡る。

 考えても答えなど出ないが、どちらにせよ今の僕はまともな状態ではないことぐらいはわかる。

 なんだか恐ろしくなってきた僕は、ふと部屋にあった姿見を見た。そこに映るのは僕の姿。もちろん、毎日のように見てきたのでそんなに違和感はない。でも、いささか肌ツヤがいい気がするし、なんなら顔周りとかはシャープになった気がする。酒のせいでむくんでいるということもない。実家で健康的な生活をしていたので、体質改善されたのだろうか。

 その姿見の隣には、僕の高校の制服がかけてあった。懐かしの制服だが、なんだか真新しくも見える。まるで、つい最近おろしたばかりのような感じだ。

 もちろんこんなものは現在二十六歳である僕には必要ない。何でもとっておきたがるうちの母親がクローゼットの奥底に保管をしていたなら話はわかるが、いかんせん姿見の隣にわざわざ出してある意味がわからない。

 ここまでの事象をふまえて僕の頭に浮かんだひとつの仮説。それは――

「……まさか、僕は高校生に逆戻りしてしまったのか?」

 科学的には説明がつかないが、そう考えるのが一番腹落ちする。ただ、あまりにも非現実的過ぎるので、この仮説を裏付ける何か確証めいたものが欲しかった。

「融! いい加減に起きなさい! 朝ごはん片付けるわよ!」

 母親が僕を急かす声が聞こえる。

もし高校生に逆戻りしていて学校に行かなければならないのであれば、こんな時間に母親が大声を出すのも頷ける。

 とにかく一階に降りよう。多分そこには証拠となるものがあるはず。

 僕は階段を駆け下りてダイニングキッチンにたどり着く。そこに広がる風景を見て、改めて僕は高校時代に戻ってきたのだと確信した。

「融、おはよう。今日もねぼすけだね」

「お、おはよう。姉ちゃん……」

「どうしたの? なんか融、めっちゃキョドってない?」

「そ、そんなことないよ。ハハハ……」

 驚きをなんとか隠そうと僕は平静を装うが、さすがにちょっと動揺してしまう。何故ならそこには、何年か前に嫁いで家を出ていったはずの二つ年上の姉が、高校の制服を着て朝食を食べていたから。

 更に追い打ちをかける出来事が僕を襲う。

「――ワン!」

「お、おう、おはよう。ペロ」

 我が家の愛犬である柴犬のペロが、僕の足元に寄ってきてしっぽを振っている。

 これが最後の決定打だった。何故かというと、ペロは僕が高校を卒業する少し前に死んでしまったのだ。それが生きているというのであれば、僕がタイムリープを経たのはもう間違いない。

「ほら融、早いこと朝ごはん食べないと本当に遅刻するわよ? 高校生活二日目から遅刻とか親として恥ずかしいわ」

 母親は僕にムチを入れるかのように急かす。こんな感じのやり取りは、煩わしいを通り越して懐かしい。

「わ、わかったよ。……いただきます」

 僕は朝食に手を付けた。我が家ではお馴染みである五枚切れの食パンをかじる。そうして口の中で咀嚼しながら思う。

 僕は本当に高校時代に戻ってきたのだと。――人生をやり直すチャンスが巡ってきたのだと。


 食事を終えた僕は顔を洗い、再び自室へと戻ってきた。

姿見に映る自分の姿は、改めて見ると少し若々しく、そしてどこか幼く見える。まだまだ色々な可能性を秘めていそうな十六歳の少年と、その内側にある半分枯れた二十六歳の意識はどうもアンバランスな気がして仕方がない。

周りを取り巻く環境は十年前に戻った。

どうしてこんなことが起こってしまったのか、理由はわからない。もちろん、科学的に説明することだってできやしない。超常現象と言ってしまえばそれまでだが、僕だけがタイムリープを経ていることには甚だ疑問が残る。

奈良原時雨が自宅マンションから飛び降りたことに関連があるのかもしれない。彼女に呼び戻されたのだろうか。いや、ほぼ面識など無いに等しい僕が呼び戻されるというのは考えにくい。

やはりいくら考えても腹落ちする結論は出てこない。そんな過ぎてしまったことを考えて時間を無駄にするくらいならば、今後のことを考えたほうが建設的だ。

それならば僕はこれからどうしていけばいいのか。そっちの方は深く考えるまでもなく大体の結論が出ている。

 バンドをクビになって落ちぶれてしまうあんなクソみたいな一周目の人生を繰り返さないよう、青春を謳歌するしかない。せっかく人生をやり直したいという望みが叶ったのだ。この状況を大いに楽しんでやろう。

おろしたての真新しい制服に袖を通しながら、僕は心の中でそう決意した。


 通学ラッシュで満員になる電車と、何度も何度も通った通学路の風景で、僕は懐かしさでいっぱいになる。

 今日は入学式の翌日。高校生活二日目だというのに、ものすごくノスタルジックでセンチメンタルな気持ちに浸っている生徒は、全世界探しても僕ぐらいだろう。せめて変な人だと思われないよう、感傷に浸る表情を殺すのが精一杯だ。

「よう芝草、おはよう」

 通学路を歩いていると、もう少しで校門にたどり着くというところで声をかけられた。振り向くとそこには慣れ親しんだ男子生徒の姿があった。

「お、おはよう。……って、お前、野口のぐちか?」

「……何言ってんだお前? そんな当たり前のことを聞くなよ、なんか頭でも打って記憶でも飛んだのか?」

 あまりにも不自然なリアクションをしてしまったと思い、僕は慌てて取り繕う。

「はっ、ははは……、冗談だよ。十年来の親友の顔を忘れるわけないだろう」

「いやいや、芝草のことだから顔を忘れるくらいあり得るだろ」

「じゃあ二度と忘れないように野口の顔を瞳に焼き付けておくことにするかな」

「うわ、キモイキモイ、新学期早々男から見つめられるとか勘弁してくれ」

 朝っぱらから軽口を叩き合えるこいつは僕の親友。その名は野口。僕とは小学校に入った頃からの友達だ。

 こいつは驚くほど普通なやつで、成績も普通、運動神経も普通、ルックスもまあ普通だ。確か高校を出たあとは地元の大学に入って、そのまま地元の市役所で働いていたと記憶している。羨ましいことに高校のときに同じ部活だった彼女と就職後に結婚していて、十年後の未来では王道とも言える幸せな家庭を持っている。根はめちゃくちゃ良いやつなので、たまにバンドのライブに来てくれたりした。自主制作のCDを最初に買ってくれたのも野口だったと思う。今思えば彼は本当に僕の恩人である。そんな未来の恩人と、他愛もない話が出来るのはやっぱり僕らが高校生同士だからだろうか。

「なあ芝草、部活何やるか決めた?」

「いや……、全然」

「えっ? お前バンドがやりたいから軽音楽部に入るって言ってなかったか?」

「それはそうなんだけど……、実はちょっと迷っててさ……」

 何の部活に入るかの話になった。確かにバンドをやるために軽音楽部に入りたいのは山々なのだけれども、これでは一周目の人生と同じになってしまう。

どうせ軽音楽部に行ったら陽介に出会ってしまうのだ。そうしたらまた十年後、バンドをクビにされてしまうに違いない。入る部活は慎重に選ぶ必要がある。

「ちなみに野口は何部に入るんだ?」

「候補は二つまで絞ったんだけどなー、まだ決めきれていない」

「へえ、何部と何部で悩んでんだ?」

 僕はこの会話に覚えがある。野口はこの時点で文芸部と科学部の二択で悩んでいて、僕にどちらがいいか聞いてくるのだ。

 そうして一周目では僕が「科学部がいいんじゃないか?」となんとなく言ったら、野口は「じゃあ文芸部にするわ」とあまのじゃくのような返しをしてきたのを覚えている。

「文芸部と科学部かなー。俺、体育会系って感じじゃないし」

「文系と理系の極みみたいな二択で悩んでるんだね」

「そうなんだよ、どうせやるなら極めたいじゃん?」

 一体文芸部と科学部で野口が何を極めるのかはさておき、僕は彼の次の言葉を待っていた。

「なあ、芝草ならどっちを選ぶ?」

「そ、そうだなあ……」

 十年前と同じ会話をするならば、ここは「科学部がいいんじゃないか?」と返すところだ。

 そうすれば彼は僕の意に反して文芸部に入り、そこで未来の奥さんと出会うわけだから。彼の人生を変える気がないのであればそのほうがいい。ただ、もしも僕がここで「文芸部にしておけよ」って言ったらどうなるのかも気になっていた。

 彼があまのじゃくな態度をとるならば、一周目とは違って科学部に入るに違いない。そうなれば、十年後の未来は僕の知っているものとは異なることになる。僕の何気ない一言で彼の未来を変えてしまうかもしれないのだ。興味がないわけがない。でもそれと同時に、彼の未来を奪ってしまうような罪悪感もある。

 僕は一瞬固まって考え込んだ。

これは一種の試金石。僕には人生をやり直す目的がある。まずは自分の発言の影響力を見ておくのも悪くはないだろう。

どうせ王道の幸せを手に入れる野口のことだ、ここで科学部に入ったとしてもそこでまた別の未来の奥さんに出会うかもしれない。理系になったことで就職先も市役所じゃなくて地元のメーカーなんかに変わったりもするだろう。でもそれは結局僕のせいではない。そういう道を野口自身が選ぶことによって決まる。だから僕は僕自身の運命を変えるために、一周目とは違う発言をしてみようと思った。

「文芸部にしておけよ」

「ええー、芝草に言われると入る気失せるなあ……」

「文芸部ならほら、文学少女的な子がいるかもでしょ? そういう感じの子、野口好きそうだし」

「うーん、確かにそうだけど……。てか俺、芝草に文学少女的な子が好みだって言ったことあったっけ?」

 僕は口が滑ったと思ってまた慌てて取り繕う。喋ることに気を使わないとボロが出てしまいそうだ。

「え? なんとなく言ってみただけなんだけど。もしかして図星?」

「なっ……、ち、ちげえよ。と、とにかく、芝草にそんなこと言われちまうなら、なおさら科学部にするしかないな」

 カマをかけたように装った僕の発言が決め手となったのか、野口は科学部を選んだ。その時の僕は思わず驚いた顔を浮かべてしまう。

 自分の発言や行動をちょっと変えるだけで、それなりに未来に影響を及ぼす。それがわかっただけで大きな収穫だ。

「なんだよそれ……、ただのあまのじゃくじゃないか。科学部なんて男だらけだろう? むさ苦しそうじゃない?」

「そ、そんなことないぞ? 時代は理系女子リケジョだぜ? 白衣を着た女子が俺を待っているかもだぞ?」

「……やっぱり女の子目的なのね」

「そりゃあそうだろ、恋愛抜きに青春は謳歌できないしな。なんなら芝草も科学部に入るか?」

 そういわれて僕は科学部に入った自分の姿を想像する。白衣を着て、三角フラスコを揺する僕というのは、なぜかコントの世界の人間みたいで滑稽だった。それぐらい芝草融という人間とサイエンスという分野がミスマッチなのだ。親友と同じ部活に入るというのは確かに魅力的ではあるけれど、そもそも科学部を楽しむビジョンが見えていないので僕個人としては無しだ。すまない親友よ。

「いや、さすがに科学部に入るのはやめとくよ」

「芝草、理科苦手だもんな。仕方がない、理系女子リケジョは俺がもらっていくぜ」

「はいはい……、勝手にもらっていってくれ」

 投げやりに僕は返事をすると、今度は野口の方から僕の背中を押してくる。

「でも、俺個人としてはさ、芝草には軽音楽部に入ってほしいと思うけどな」

「どうしてさ?」

「よくお前がしてくるロックの話、俺にはあんまりわからないんだけどさ。話している時のお前、めちゃくちゃイキイキしているんだよな」

 野口は案外僕のことをよく見ているなと思った。

タイムリープ前の十年間、僕はロックバンド漬けの生活だった。十年間同じことに情熱を注げるということは、それだけ好きだということにほかならない。

このときから野口は、僕がロックバンドから逃げられない運命にあることを知っていたのかも知れない。

「そうだな。やっぱり軽音楽部に入ろう」

「そうこなくっちゃ」

 僕の人生を僕自信が納得行くようにやり直すためには、やっぱりバンドをやらないと駄目な気がした。

陽介たちとバンドを組んだ一周目の人生とは違う、別のバンドを組めばいい。なんなら、学校を辞めてしまうはずの奈良原時雨を上手く取り込めれば最高だ。そうなれば十年後、僕は陽介に裏切られることもない。それに、もしかしたら、奈良原時雨も自宅マンションから飛び降りるような悲惨な人生を送らなくて済むかもしれない。

 超楽観的で全くプランもないけれど、少しだけこの二周目の人生が楽しくなってきた気がした。




 翌日、高校生活三日目。放課後を告げるチャイムが鳴ると同時――いや、実際にはややフライング気味に僕は教室を飛び出した。向かうはもちろん軽音楽部の部室だ。

 今日は水曜日だから本来は部活が休みである。でも今後の青春を左右するような大イベントがあるのだ。

 この日、僕は奈良原時雨に出会う。彼女が軽音楽部の休みの日を知らなかったかどうかは定かではないが、誰もいない部室で僕と彼女は鉢合わせになる。

 一周目の僕は何を話したか覚えていないぐらい、どうでもいい会話を彼女とした。結果的に、それが最初で最後のコミュニケーションだったわけだ。それがあんな悲惨な未来につながってしまうのだから、今回はちょっと趣向を変える必要があるだろう。

 出来るだけインパクトを強く、なおかつ彼女を継続的に繋ぎ止められるようなそんなセリフを考えていた。

 部室棟と呼ばれる旧校舎の奥まったところに軽音楽部の部室はある。周囲の部活に迷惑がかからないよう、吸音材なんかが無造作に貼り付けられていたりするが、効果は眉唾ものだ。しかも、部活が休みだというのに鍵すらかかっていない。結構色々な機材が部屋の中にあるにも関わらず、なんとも不用心だなと、僕は二周目になって今更そんなことを思う。

 部室の扉の前にたどり着くと、僕は深く息を吸い込んで呼吸を整えた。柄にもなく緊張していた。この扉を開けたら、多分そこには奈良原時雨がいるのだから。

腹をくくった僕は、その扉を力いっぱい開ける。

「……!」

 勢いよく開いた扉に対して、先客は少々驚いた表情を浮かべていた。

 ――そこには高校一年生の奈良原時雨が、誰もいない部屋の中でぼーっと突っ立っていた。

 人生二周目の僕が『第一印象』という言葉を使うのはちょっと変かもしれないが、やっぱり彼女のその容姿は衝撃的だ。ガラスのような瞳、触ったら消えてしまうのではないかというくらいサラサラの長い髪、そしてあまり変化することのないその表情。何を言っているか理解されないかもしれないが、『透明感』という言葉が陳腐化してしまうくらい、彼女は透明なのだ。一瞬見惚れてしまった僕は、ふと我に返って温めていたセリフを言う。

「こんにちは、僕とバンドをやりませんか?」

 シンプルに、それでいてパワフルな言葉を選んだ。とにかく、一周目の再現だけはしてはいけないというその一心だったのだ。

「嫌」

 時雨はすぐにそう返事をする。当たり前だ。いきなり現れて初対面なのに「バンドをやりませんか?」なんていう奴、普通に考えたら気色悪すぎる。

 僕だってこんな初っ端から、「はい、一緒にバンドをやりましょう!」なんてクソポジティブな返答を期待しているわけではない。一周目では一度会っただけだった僕らの関係に、何か変化が起きればそれでいいと思ったのだ。さっきの野口の例を見れば、こんなことで未来が変わることだって大いにある。

「そうかぁ残念。軽音楽部が休みの日にやってくる人なら、絶対バンドをやりたがっていると思ったんだけど」

 僕がそう言うと、時雨はわずかにハッとした反応を見せた。

「今日、部活休みなの?」

「そうだよ。軽音楽部は毎週水曜日がお休み。だから、いくら待っても誰も来ないよ?」

 時雨はどうやら水曜日が休みであることを知らなかったらしい。多分彼女なりに音楽の匂いがする場所を探して、なんとなくここにたどり着いたのだと思う。

「でも、あなたは来たじゃない」

「だって僕はまだ部員じゃないし。――ほら、君と同じ一年だよ」

 僕は自分の履いている靴を彼女に見せた。この学校指定の内履き靴は、学年によってラインのカラーが違う。僕の学年は緑色。時雨は僕が同級生だとわかると、更に疑念をぶつけてくる。

「……なおさらここに来る意味がわからない。部員でない人がここに来る理由が無いじゃない」

「だからさっき言ったじゃん、もし休みの日に来るぐらい熱心な人がいれば一緒にバンドをやってくれるかなって」

 取ってつけたような感じだけど、我ながら自然に事を運べるナイスな理由だと思う。

「僕、ドラムを叩くんだ。一緒にどう?」

「お断りする」

「それはどうして? もしかして、君もドラム担当なの?」

 時雨がドラマーではないことなど知ってはいるのだが、このまま会話を終わらせたくないと思って僕はそんなことを聞いた。

「……違う。私はただ、ひとりで歌いたいだけ」

「おお! じゃあボーカルなんだね! なおさら一緒にバンドを組みたくなるね」

「ならない」

「どうして?」

「バンドなんて、嫌いだから」

 時雨は真っ向からバンドをやるということを否定してきた。でもそれは僕が初めて知る情報だ。ここにたどり着いただけでも、かなりの成果だと言っていい。そうなれば尚更、彼女が頑なにバンドを拒否する理由を探るしかない。嫌いな理由がわからないまま学校から去られてしまっては、僕の計画している青春のシナリオが台無しになってしまう。

「なんでバンドが嫌いなの?」

「……あなたには関係ない。帰る」

 時雨はそう言って部室を出ていく。

「あっ! ちょっと待って!僕、芝草融っていうんだ、覚えておいて!」

 去り際、僕はとっさに名乗ったが、それが彼女の耳に入ったかはちょっとよくわからなかった。伝わっていることを祈りたい。




 奈良原時雨がデビューしたときの音楽雑誌にはこう書いてあった。

『高校時代は学校にはあまり行かず、商店街の片隅でずっと路上ライブをしていた』

 彼女のファンである僕は、この雑誌の記述をしっかりと覚えている。それはつまり、彼女に会いにいくのであれば校内を探すより近所の商店街を回ったほうがいい、ということ。

 昨日、部室で時雨と出会うことができたわけだが、結局それ以上のことはできていないままだ。僕の記憶では、彼女はその後軽音楽部に入部届こそ出すものの、全く姿を見せないまま学校を辞めていった。時雨が一周目と同じ立ち振る舞いをするのであれば、僕の方から探しに行かないともう一度会うことは叶わないということになる。

 善は急げ。近隣にいくつかある商店街を探し回って、彼女を見つけ出そう。もう一度話が出来れば、何か道が開かれるかもしれない。そこで問題が解決するという確証はない。だが、何もしないよりはいい。

 放課後を告げるチャイムが鳴ると、僕は荷物をまとめて学校の外に飛び出した。目星となる商店街は三ヶ所ほどピックアップしてある。奈良原時雨と同じ中学出身のクラスメイトにそれとなく話してみて、路上ライブが出来そうな場所を聞き込んだ。

 ちなみに、時雨の出身中学は一周目のときに彼女を追っかけているうちに知ったものだ。万一彼女に情報の出どころを問われたら、回答に困ってしまうのは間違いない。立派なストーカー行為と言われてしまったらそれまでである。

 一つ目の商店街は空振り。人通りはそこそこで、昭和な香りがする温かい場所ではある。でもどうやら時雨のお眼鏡にかなわなかったらしい。

 二つ目の商店街は駅が近くてサラリーマンや他校の学生も多い所。流行りのお店もそこそこ出ていて賑わっている。しかし、ここにもいない。

 三つ目はアーケード街。人通りは少なくて、シャッターを閉じている店が多い。バブル期の勢いで作ったようなそんな面影のある寂れた商店街だった。

 こんな場所にいるわけがないだろうと僕はたかを括っていたわけなのだが、他に彼女がいそうな商店街も無いのでとにかく隅々まで探してみた。

 するとどうだ、寂れた商店街の端の端、『場末』という言葉がこのためにあるのではないかと思うぐらいの少し開けたスペースに彼女はいたのだ。アコースティックギターを担ぎ、制服を隠すように上からパーカーを羽織った奈良原時雨がそこで歌っていた。

 路上ライブであるのに客は誰一人いない。遠くからみたら、そこだけ温度が低く見える。とても容易く近寄れるような雰囲気ではなかった。その歌声は既に常人の域を超えている。今すぐデビューしてもヒットチャートを駆け上がるレベルだろう。それだけに、奈良原時雨の放つ誰も近付けない雰囲気が勿体ないとも思った。

 彼女が歌っている曲はデビューアルバムのリードトラックである『時雨』だ。彼女の名前と同じタイトルのこの曲は、その後シングルカットされてミリオンを記録する大ヒット作となる。

 その曲の内容は確か……、まあ、これは後でいいか。とりあえず今は彼女にコンタクトを取るべきだろう。

 彼女は『時雨』を歌い終わると、僕の存在に気がついたのか、ムッとした表情を少しだけ浮かべる。

「いい曲だね」

 お世辞抜きで、僕は率直に感想を述べた。

「……何しに来たの?」

「ちょっとたまたま通りかかったら素敵な歌が聴こえてきたから」

 僕がそう茶化すと、彼女は軽く受け流す。その不機嫌な顔はピクリとも変化しない。

「いつもここで歌っているの?」

「……あなたには関係ない。用がないなら帰って」

 第一印象がアレだったのでこんな塩対応をされるのは仕方がない。それでも、僕は簡単に引き下がることはしなかった。

「頑固だなあ……、歌を聴きに来ただけなのに」

「私の歌を聴きたがる人なんか……、誰もいない」

「いるじゃん、ここに」

 僕は自分で自分を指差す。そんな僕を鬱陶しく思ったのか、時雨はいぶかしげな顔でこちらを見た。

「……本気で言ってるの? それ」

「もちろん。僕はいつでも本気だよ」

「……意味わかんない」

 時雨は、まるで自分は自分だけのために歌を歌っているのだと言いたげであった。誰かに自分の歌を聴かせたところで、まともな反応など返ってこない。むしろ彼女は逆に、自分の歌は聴いた人を不快にさせてしまうと本気で思い込んでいるのではないかとすら僕は感じてしまう。もちろん、そんなことはない。時雨の歌は、とても魅力的だ。

「今はわかんなくていいよ。……それより、次の曲は?」

 僕は今、奈良原時雨のライブを独り占めしている状態だ。未来を知っている僕からしたら、ここはどれだけ金を積んでも居座ることの出来ない特等席。次の曲が聴きたくて聴きたくて仕方がない。しかし、僕の意に反して彼女は担いでいたギターをしまいはじめる。

「……今日はもう帰る」

「そんなあ……。せめてもう一曲ぐらい聴かせてよ」

「しつこい」

「お願いだよ、僕、結構君の歌は素敵だと思っているんだ。だから一曲だけ頼むよ」

 僕は両手を合わせて拝み倒す。一周目の人生で、自分のバンドの初めてのワンマンライブが成功するように明治神宮へお参りに行ったときよりも本気の拝みよう。僕にとって奈良原時雨というシンガーソングライターは、神様なんて超越するぐらい凄い存在なのだ。

「今日はもう遅いから終わり。また……」

 時雨は何か言いかけて、続きを言うのをやめた。

「また……?」

「……なっ、なんでもないっ! とにかく私は帰る!」

 そう言って慌てた様子で彼女は去っていった。時雨の言葉の続きが「また明日」であるならばと妄想すると、僕はちょっとニヤけ顔を抑えることが出来なかった。




 次の日、僕はとある女子のクラスメイトから声をかけられた。

「芝草くん、もしかして昨日、奈良原さんと一緒にいた?」

 その子は時雨と同じ中学出身の子だった。名前は確か、石本いしもとさんと言っていた。時雨が歌っていた寂れた商店街を教えてくれたのも彼女だ。

 多分石本さんもあの商店街の近くに住んでいて、たまたま昨日僕ら二人が一緒にいるところを見かけたのだろう。

「ああ、いたけど。……それがどうかした?」

 なにかまずいことをしてしまったのかと、僕は自分自身の行動を振り返る。時雨に多少のちょっかいはかけたかもしれないけれど、さすがに他の女子生徒からそれを糾弾されるようなことはしていない。

「え、えっと、あの子と一体何をしていたのかなって……」

「何って、奈良原さんの歌を聴いていただけだよ? 僕、軽音楽部だからさ、バンドにでも誘おうかなって」

 すると、石本さんは声量を抑え、コソッと僕にこう告げる。

「そうなんだ……。でも、奈良原さんをバンドに誘うのはちょっと難しいと思うよ」

「それは……、どうして?」

 予想外の言葉に僕は少し虚を突かれた。なぜ時雨とバンドを組むのが難しいことなのだろうか。

「あのね、中学の時にトラブルがあって組んでいたバンドがポシャっちゃってね、それでバンドが嫌いになってしまったの」

「それは、どうして……?」

 バンドがポシャってしまうことはよくある。けれど、それでバンドが嫌いになってしまうのはよっぽどの事情があるということだ。

「ちょっとここでは話しにくいから、向こうで話そっか」

 そう言って石本さんは僕を教室の外へ連れ出した。風通しの良い場所へ移動したあと、石本さんは起こったことの顛末を僕に教えてくれた。


※サブタイトルはNUMBER GIRL『透明少女』より

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