第6話 担任教師<2>

 


「失礼します」


 シオンが教員用の書類庫の扉をノックして中に入ると、中では彼の担任教師であるレスティアが脚立に登り、何冊かの本を本棚から手に取っていた。


「あっ、クロサキ君!」


 シオンが来たことに気付いたレスティアは振り返って、彼に向けて声を掛けた。


「いつもありがとうございます……っ。忙しいときは気にせず断って下さいね……?」


「いえいえ、いつでも頼って下さい。生徒の為に一生懸命な人の授業なら、誰だって進んで手伝いたくなりますからね」


「……っ⁉」


 シオンがそう言うと、一瞬ギョッと目を見開いたあと急にレスティアの目の焦点が合わなくなった。


「……白いドレス、海の見える教会でお花に囲まれて……、ささやかだけど笑顔の溢れる家庭……」


「……なんですか?」


「はっ! すみません、なんでもないです……っ。つい……」


「(つい……?)」


 彼はいつも、レスティアにとって本当に嬉しいことを言う。


表情をあまり変えず抑揚の無い口調ではあるが、その言葉が彼の偽らざる本心であることが何故か彼女には良く伝わってきた。


 思わず顔が赤くなってしまうレスティアだったが、彼女はそれを悟られないように本棚に向き直った。


「というか先生、危ないですよ。俺が代わります」


 レスティアは自身の手が届くか届かないかというような高さの位置にある本に手を伸ばしているが、その足元はふらつき、脚立もグラついている。


「大丈夫、大丈夫。あとこれだけですからっ。……もう少し、……んっ」


 見かねたシオンがグラついた脚立を支えようと近づいた時、レスティアは何とか目的の本を手に取ったが、その瞬間レスティアの身体は大きくバランスを崩した。


「きゃっ⁉」


「ッ⁉」


 脚立から転落したレスティアの身体をシオンは咄嗟に両手で抱えたが、彼もまた体勢を崩して地面に倒れこみ、レスティアの抱えていた本は地面に散らばった。


 レスティアはシオンに覆い被さるような形になり、両者の体はそのほとんどが密着状態にある。


 衝撃に歪みそうになる表情を必死に我慢し、「まるでなんともありませんよ」とでも言いたげな顔を作っているシオンの眼前には、今にも互いの鼻先が当たりそうな距離にレスティアの顔があった。


「……ぁ」


「……」


 両者の息が互いの顔を微かに撫ぜる。


 ……突然の事態に、レスティアの頭の中は完全に真っ白になっていた。


 そのままお互いに無言で見つめ合うこと数秒。倒れた衝撃から回復し、ようやく喋る余裕の生まれたシオンが口を開いた。


「……すみません先生、しっかり受け止められなくて。……大丈夫ですか?」


 声を出した時の彼の吐息がレスティアの口元に触れる。


 するとレスティアは我を取り戻すと、目を見開いて瞬く間に耳まで顔を紅潮させた。そして、彼女はそのまま大慌てで上体を起こした。


「だだ、だ、だいじょうぶ、大丈夫ですっ‼ ご、ごめんなさい! 思いっきり乗っかっちゃってっ……!」


「いや、大丈夫ですよ。俺は結構頑丈なので何ともないです。それよりも先生に怪我がなくで良かった」


 ほんとうになんでもないように言ったが、彼のその言葉は嘘だった。背中と後頭部を割りと強く打ち付けた彼は、本当は今にも痛がりたい気持ちで一杯だった。


 だがそんな情けない本心は全力で押し隠し、いかにも平気そうな顔を作っていた。


そしてそのまま、彼はまだ地べたにへたり込んだままのレスティアに手を差し伸べた。


「あ、ありがとうございます……」


 レスティアは俯きながら彼の手を取り、立ち上がった。


「……運ぶ本はこれで全部ですか?」


「……」


 シオンは相変わらずまるで動じた様子も無く地面に散らばった数冊の本を両手で抱えると、レスティアに尋ねた。


「……先生?」


「……へっ⁉ あ、どうしましたっ⁉」


「いや、運ぶ本はこれで全部かなって」


「あ、そうですっ……! それで全部ですっ。いつもみたいに、それを私の準備室までお願いしますっ。私はこれを持って先に行きますから……!」


「それではっ!」というと、レスティアは近くに重ねて置いていた数冊の本を持ってシオンよりも先に書庫を後にした。


「……?」


 急いで逃げ出すように去っていったレスティアの後ろ姿を、シオンは不思議そうに見つめた。

  


 小走りで自身の準備室に戻ったレスティアは、書庫から持ってきた数冊の本をバン!と勢いよく机に置くと、空いた両手で顔を覆った。


「んんーっ! もぅ、心臓に悪すぎます……っ‼!」


 先程の事を思い出し、レスティアはしかめっ面を浮かべながら顔を赤くした。


「(……シオンの吐息が私の口元に当たって、近くであいつの髪の良い匂いがして……って、何考えてるんですか私はッ‼)」


 自分を戒めようとするが、激しく脈打つ胸の鼓動を彼女は止められなかった。


「(というか、どうして年上の私が意味もなくドギマギして、年頃の彼はあんなに涼しい顔をしているんですかっ⁉ 本当に恥ずかしい……!)」


「……はぁ、はぁ。落ち着きましょう……」


 と、レスティアは一通り憤ると、気持ちを落ち着かせる為に独自ブレンドの紅茶の用意を始めた。


 ……シオンの担任教師であるリナ・レスティアは、まだ二十四歳と若い年齢だ。


 その容姿の若々しさは制服を着たら学園の新入生だと言われても誰も疑わない程で、長く美しい亜麻色の髪に、エメラルド色に輝く翠眼の美人、更にはスタイルまでも抜群である。


 そんな彼女が自身に覆い被さる形で倒れこんで来た際、お互いの吐息が掛かるほどの至近距離で見つめあい、レスティアの柔らかな身体が完全に密着状態になってもまるで表情を変えることのなかったシオン。


 年上のはずのレスティアだけが一方的に異性として意識した反応を見せ、対するシオンは一切そういった反応を見せなかった。


 その事実にレスティアは情けなさを覚え、また自身に女性としての魅力がないかのような態度のシオンを少し恨みそうにもなる。


 だが、決してレスティアに女性としての魅力がないわけではない。ただただ、相手が悪かっただけである。


 シオン・クロサキは皆が十代に入ってから訪れる思春期に本来育まれるはずの異性に対する意識といった感情が一切育まれず、丁度その時期に感性がおかしな方向へ捻じ曲がってしまっていたのだ。


 ……シオン・クロサキという男は、まさに思春期が歪めた悲しき怪物のような男だった。

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