抱きしめ合ってはじまる朝

「待った。それは今日、ゆっくり時間をかけてやる。今は時間がないから急ごう」

「じゃあ、ひとつだけお願いします」


 ここまで求められては断れない。

 まずは俺は“ハグ”を選んだ。

 菜枝の小さな体をぎゅっと抱きしめた。こうするだけでお互いに癒されて元気が出た。いいものだな、抱きしめ合うって。パワーがみなぎってきた。


「おっと、電車に遅れるぞ」

「わがまま言ってごめんなさい」

「気にするな。それより行くぞ」

「はいっ」


 歩いて駅へ向かう。

 アパートからは十五分ほどの距離。なんとか間に合うな。


 今日は青天で風も穏やかだ。

 新鮮な空気が頬を撫でる。


 足早に向かい、閑静な住宅街の間を抜けていく。時間帯のせいか、人間ひとの気配はほとんどない。

 早朝のこの独特の空気感が好きだ。



 やがて駅が見えてきた。



 交通系ICカードを使い改札口を抜けた。

 ここまで時間通りだ。


 ――って、あれ。

 菜枝の姿がなかった。



「……に、兄さん。わたし、駅とか電車を利用したことがなくて……」

「マジで……?」



 そうか、菜枝はお嬢様だったからな。車しか乗ったことがないというわけか。これは想定外だった。



「どうしましょう……」

「安心しろ。俺のICカードを使ってくれ」



 俺はいったん戻り、カードを菜枝に貸した。



「でも、それでは兄さんが入れないのでは?」

「切符を買うという手段もあるが、大丈夫だ。スマホにモバイルICがあるんだ。これで通るよ」


「えっ、スマホで改札口を通れるんですか?」


「うん、電子マネーをチャージしておく必要はあるけどね。こうやってスマホをかざすだけで――ほら」


「わぁ、本当です。ちゃんと通れるんですね」



 些細ささいなことだけど、感動する菜枝の姿が可愛い。

 これで電車に乗れるな。



 * * *



 電車に揺られて十分程。

 目的の駅に到着し、そこから新幹線に乗り換えた。


「ここから更に二時間掛かる」

「しばらくは移動ですね。楽しみです」

「新幹線もはじめて?」


「はい、人生で初めてです。それが兄さんと一緒だなんて嬉しいです」


 そうだったのか。

 道理でウキウキしていると思った。


「天笠家では車だけだったのか?」

「いえ、プライベートジェットとかヘリコプターがありました」



 ――次元が違い過ぎた。


 ただの庶民には到底、手の届かない交通手段だ。金持ちすげぇな……。



「いいなぁ、飛行機とかヘリも乗ってみたい」

「では、いつか海外旅行も行きましょう」

「おぉ、その手があったか。けど、まずは国内旅行かな~。日本一周とかさ」

「いいですね。温泉巡りとか」

「それもありだな。夏休みとか利用して行こうか」

「賛成です。二人きりで行きましょうね」



 早くも次回のプランが決まりそうだ。

 そんな中、新幹線が静かに動き始めた。


 段々と加速してスピードを上げていく。


 流れる風景の中、菜枝は口元を上品に押さえてアクビをしていた。まだ眠たいらしい。


「菜枝、少し寝てもいいぞ。ほら、イヤホン」



 ノイズキャンセル機能付きのワイヤレスイヤホンを渡す。結構良い値段で買った俺の宝物でもあるが、ここは菜枝に譲る。



「借りてもいいのですか」

「いいぞ、このイヤホンつけると環境音が消し飛ぶから、音楽のみに集中できるし、安眠できるぞ」

「え? 環境音が?」


「うん、イヤホンの機能だよ。ノイズキャンセルしてくれるんだ」

「それはいったい??」


「つけてみれば分かるさ」



 お気に入りの曲を流し、菜枝の耳にワイヤレスイヤホンをつけた。



「……わぁ、本当です。とても静かで音楽に没入できちゃいます。凄い……」

「そうだろう。さすがに声は少し聞こえるけど」

「兄さんってば、こんな凄いイヤホンを持っていたなんて……わたしにも教えてくれてもいいのに~」


「悪い。菜枝って音楽を聴いているイメージはなかったから」

「音楽は大好きですよぉ。最近はアニソンとかロックとかデスメタルも聴くんです」


「ほ~、菜枝にそんな趣味があったとは意外だ。――って、デスメタル!?」


 意外すぎるジャンルに視線を向けるが、菜枝はすでに眠そうにしていた。ウトウトしちゃって、寝たりない証拠だ。ここは眠らせてやろう。


 俺はスマホでネットでも見ているか――。




【二時間半後】



 長い移動を終え、とうとう『舞浜駅』に到着した。

 東京も初めて、千葉も初めて――なにもかも初めてだった俺。菜枝も動揺で、ただただ周囲の風景に圧倒されていた。


 ……まずい、田舎者と思われたら恥ずかしいな。


 徒歩五分ほどにデズニーはあるようだ。


 ご丁寧に案内もあるし、あの看板を頼りに歩けば辿り着けそうだ。



「ここが夢の国なのですね!」



 瞳を星のように輝かせる菜枝。

 俺もワクワクしている。

 人生初のデズニーデートが可愛い妹で良かった。


 いよいよチケットブースが見えてきた。


 ――ここからが本当のデートだ。



★★★

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