第6話

そのころ、陽太は安田と今日の仕事について話していた。

「今回のお前の名前は「篤志」だ。」

 基本的に、現場担当者は性行為の相手を見つけるたびに名前を変えている。一つの名前を使っていると、この名前の人は危ないという噂が立ってしまう。そうなると性行為の相手が見つからなくなってしまう。相手を見つけ、性行為を終わらせて、盗みが成功すると、ネット上で相手を探すために使っていた名前やアカウント、仮の人格は跡形もなく消し去られる。それができるほど『ベット』を行っている組織は大きく、影響力のあるものなのだ。

 現場担当者は、まずその時の自分の名前に慣れる必要があった。使い捨ての偽名であることを、悟られないようにしなければならない。

「わかった。」

「今日の相手は二十七歳、名前はひな。既婚者だ。旦那が単身赴任で家におらず、寂しいんだとよ。」

 陽太はコーヒーを飲みながら、顔を歪めた。

「ロクでもないやつだな。」

「はは。それお前が言う?」

 ぐうの音も出なかった。陽太は気まずいのを誤魔化すために、もう一度コーヒーを口に含んだ。

「結構美人だよ。とにかく普段とは違う、自分のわがままを何でも聞いてくれるセックスがしたいと言っているから、相手に合わせてやってくれ。」

 自分であれこれ考えながら行為をしなくてもいいから、陽太にはありがたかった。

「だがな、一つ問題があって、ひなが住んでいるのが郊外で、都心からちょっと遠いんだよな。早めに出た方がいいかもしれん。」

「最寄りは?」

 安田から最寄り駅の名前を聞いたとき、陽太は思わず口元のコーヒーカップの裏で顔をひきつらせた。

 今回の現場は、陽太の地元だった。




 陽太は安田と別れると、すぐに今回の現場に向かった。絶対行かない方がいい、家に帰って寝ていた方がいいと分かっていたが、予定を断ってもらうように言えば、その理由を詮索されるかもしれない。その方が厄介だと思い、しぶしぶ電車に乗った。

 『ベット』に関わっている人間はもちろん、それを行っている組織の人間も、堂々と人には言えない仕事をしていることは確かだった。そんな仕事にいきつく人間など、ロクな過去を持っていない。同僚の過去や個人情報を詮索しないこと。これは組織内の暗黙の了解だった。ゆえに陽太は安田にも、身長、体重、趣味など、性行為の相手を見つけるまでで必要な情報しか与えていなかった。仕事に就いて話し合うときも近所のカフェで会うことを徹底し、かなり気をつかっていた。噂好きで、情報収集能力に長けた人間が多いので、並みの対策ではすぐに情報が洩れてしまうのだ。特に陽太は人気ナンバーワンで注目されているうえに、全く素性をつかめないので、なんとしても陽太の情報、弱みを手にしたいと考えている輩も多い。そんな奴に、今回の現場が地元であることが知られたらと思うと、陽太は恐ろしくて吐き気がした。しかし、地元に足を踏み入れることも、同じくらい嫌だった。陽太は電車の中で、うつむいて大きくため息をついた。



 うつむいているのにも首が疲れてきたので、陽太は外の景色をみた。

 様々な店が立ち並んでいるが、所々シャッターが閉まって、何年もやっていないような店も多い。

「あの店、もうやっていないんだ」とぼんやりと思うものの、その店にどんな思い出があるかは思い出せない。

空虚な気持ちで外を眺めていると、ぞろぞろと高校生が電車に乗ってきた。陽太が、彼らが自分の通っていた高校の生徒であることに気づくのに、そう時間はかからなかった。そこまで混んでいなかった電車が一気に混みだす。同じ制服を着た高校生にまみれている車内を見ていると、どこかに過去の自分がいるような気がした。通学するときによく座っていた席には、英単語帳をもった男の子が座っていた。その子がちらりと陽太を見て、再び単語帳に目を落とした。その一瞬、陽太にはその男の子が過去の自分に見えた。過去の自分が今の自分を見つめ、呆れて目をそらしたように感じた。「こんなところで、何をしているの?」と過去の自分に言われているような気がして、息が苦しくなって、今からでも電車の外へ逃げ出したくなった。陽太は勝手に気分を悪くして、もうここから逃げ出そうと脚に力を込めた時、電車の扉が閉まった。

 陽太は再びため息をついて、うつむいた。テストだとか模試だとかいう高校生の会話が耳に入るだけで胸が苦しかった。陽太はイヤホンで耳をふさいで、聞きたくもない音楽を耳に流し込んだ。



 何とか約束の駅にたどり着き、ひなと合流し、ラブホテルを探した。既婚者のひなにとって、旦那以外の男と遊んでいるところは、あまり人に見られたいものではない。ラブホテルは少し離れたところを選ぶかもしれないと思っていたが、ひなは案外そういうことを気にしていないのか、そのまま近くのラブホテルを探し始めた。家でしようと言ってこないだけマシだが、陽太にとって地元のラブホテルに足を運ぶことも、それはそれで嫌なことだった。地元に残っているかつての友にこんなところを見られたらと思うと、冷汗が止まらなかった。地元にいい思い出が全くない、むしろ悪い思い出しかない陽太にとっては、そもそも地元を歩くということがすでに発狂しそうなくらい嫌であった。

 ラブホテルについて、性行為さえしてしまえばいつもの調子を取り戻せるはずなので、陽太はラブホテルにたどり着くまで、心の拒絶をひなに悟られないように振る舞うことも第一の目標にした。

 ラブホテルを探しているひなに、陽太は地元から少し離れた場所にあるラブホテルを勧めた。そこは、安田が事前に監視カメラを仕掛けておいたホテルだった。

なんとか目的のラブホテルに着いた。電車を利用して移動したので、大して歩いたわけでもないが、陽太は既に一戦終えた後のように疲れていた。ひなはそんな陽太を気にも留めず、ウキウキでベッドに飛び込んだ。陽太も、もう精神的に限界がきていたので、はやく交わってすべてを忘れたかった。ベッドの上で無邪気に転がっているひなの横に寝転ぶと、陽太はゆっくりとひなに顔を近づけ、その柔らかい耳を優しく舐めた。



 性行為が終わった後、ひなはベッドの上で陽太の胸に顔をうずめて、旦那の話をしてきた。遊び相手に抱かれながら、よくそんな話ができるなと感心しながら、陽太はぼうっとしながら適当に話に相槌をうっていた。

「彼ね、すごい人なの。私なんかと一緒にいていいの?って思うくらい良い人なの。」

「そうなんだ。」

「外資系に勤めていて、私が働かなくてもいいくらい稼いできてくれるし、すごく優しいの。」

 「そんなにいい旦那がいるのに、なんで俺なんかとセックスしているのだろう」陽太はその疑問を胸に秘めながら、ひなの頭を撫でた。

「顔もかっこいいの。身長も高くてスタイルもいいし。」

「へえ。そんな完璧な旦那さんなんだ。ちょっと見てみたいな。」

 陽太はそう言っても見せてこないだろうと、冗談のつもりで言ったが、ひなは嬉しそうに「いいよ」と言うとスマートフォンを取り出した。内心焦ったが、どうせ二度と会わない女の旦那なんて見てもすぐ忘れるだろうし、どうでもいいと思い、ゆったりと構えていた。

 しかし、見せられたひなの旦那の写真は陽太を激しく動揺させた。そこに写っていたのは、陽太のかつての友人だった。

「へぇー、すごいイケメンじゃん。たしかにスタイルもいいね。」

 動揺を悟られないように、陽太は必死に言葉を続けた。沈黙が一番怖かった。

「でしょ!」

 ひなは旦那の写真を嬉しそうに見つめている。陽太はそのうちに一瞬でふきでた冷汗を拭った。同じクラスで共に学んでいた級友が、成功していること、結婚していること、その現実に自分のみじめさが引き立てられて、陽太は今すぐここから逃げ出したかった。そして大声で叫んで、自分を殴り殺してしまいたかった。なんで自分はこんなことをしているのだろう。もっと『良い人生』を歩むはずだったのに。過去に戻れるなら戻りたい。今の自分は死んでしまえばいい。様々な思いが胸の中にあふれ、苦しくなった。どうしようもなくつらい気持ち、何もしていないと飲み込まれてしまいそうだった。陽太はすぐにひなからスマートフォンを取り上げて、後ろから首筋にキスをした。ひなが驚きと快楽が混ざったような声を出す。陽太は再びひなに覆いかぶさると、唇に激しくキスをした。

 どうしようもない自己嫌悪や後悔に襲われるたびに、陽太は性行為に溺れて気を紛らわせていた。幾度もそれを繰り返すうちに、もう性行為なしでは精神的な安定を保つことができなくなってしまった。そのことにまた自己嫌悪に陥り、また性行為に走る。一種の依存のような悪循環ができていた。陽太はもうこの仕事から逃げ出したくてたまらなかったが、仕事で性行為ができて、かつ相手を探す手間もなく、一度限りの手軽な関係で性行為をすることができるこの環境は、陽太にとって非常に都合がよく、もうやめられなくなっていたのだ。



 帰路につくころには、陽太は精神的にも肉体的にも疲れ切っていた。終電で寝てしまっては大変なので、意識を保っていることに必死だった。しかし、何か考えるとつらく苦しい気持ちが舞い戻ってしまいそうで、ただひたすらにぼうっとしているしかなかった。

 何も考えないようにしていても、暇があると何か考えてしまう。陽太はぼんやりと今日の性行為を思い返していた。ひなの旦那の顔が思い出されて、嫌な記憶も引き出されそうになったが、陽太はそれを必死に振り払った。

 ひなの旦那とは、高校三年間同じクラスで、かなり仲は良かった。しかし、高校を卒業してからは一度も連絡をとっていない。それどころか、陽太は二十歳頃に、それまで使っていたメールアドレスや電話番号などの連絡先をすべて変えてしまったので、旧友は誰も陽太の連絡先も、今何をしているのかも知らない。

 ひなの旦那との楽しい思い出がよみがえって、陽太は深くため息をついた。ひなの旦那はいいやつだ。努力で成功を手にし、いわゆる「良い人生」を送っていると聞いても、彼なら納得できる。しかし、彼は「いいやつ」であるだけで、それ以上の魅力もないのである。

「そりゃあ、嫁さん遊んじまうよな。」と陽太はまた深いため息をついて、激しく移り変わる夜の景色をながめていた。


 電車を降りると、橘に今日盗んだ金を納めなければと、夜の駅を速足で駆け抜ける。しかし、駅を出たところでその足は止まってしまう。

「あれ……今日いくら盗ったんだっけ……?」

 思わず声に出してしまった。陽太は必死に今日一日を思い返して、左手で鞄やポケットの中をあさる。金の感触はなかった。そう、今日陽太はひなから一銭も盗っていないのである。現実逃避に夢中になって、本命である盗みという仕事をし忘れてきたのである。一気に冷汗が噴き出てきた。荒く息をつきながら、脳内で必死に言い訳を考えながら、陽太はとにかく足を動かした。


 地下に入り、ロッカールームにたどり着くも、そこに橘はいなかった。勢いよくドアを開けたので、中にいた涼がびっくりして陽太を見た。しかし、陽太はそれにかまっているほど余裕はなかった。すぐに踵を返して、橘の部屋に向かった。

 橘の部屋の重厚な木でできたドアをノックして、返事も聞かずにドアを開けた。そこでは橘とマリが赤いソファーに腰かけて、二人でコーヒーを飲んでいた。おそらく、何か重大な話をしている所だったのだろう。驚いてこちらを見る二人の顔を見て、陽太ははじめて自分に余裕がないことを実感した。小さく深呼吸をすると、できるだけ申し訳なさそうな顔をした。

「どうした。」

 橘は驚いた顔のまま立ち上がり、陽太に問いかける。

「お話し中にすみません。今日の報告を……。」

 そう言いかけると、橘は「ああ」と思い出したかのように声を出した。

「なんだ、そのことか。……それで、いくら盗ってきたんだ。」

「それが……本当にすみません。今日は一銭も盗れませんでした……。」 

 陽太の答えに、橘は一瞬眉を上げたが、怒っているわけではなさそうだった。

「そうか。そういうときもあるさ。無理に盗んで、現行犯逮捕されるよりは大分マシだよ。映像はあるから、客は満足するだろう。」

 橘の言葉に、陽太はほっと肩を撫でおろした。

「ねえ、陽太。大丈夫?すごくやつれているけれど……。」

 マリが心配そうに陽太を見上げている。橘も陽太の顔をまじまじと見て、眉をひそめた。

「確かに疲れが見えるな。……陽太、しばらく休みをとれ。安田には、俺から言っておくから。」

 陽太は首を振った。

「大丈夫ですよ。明日一日お休みをもらっていますし、私は仕事をしている方が楽なので。」

 早口に話す陽太に、橘は呆れたような笑顔を浮かべていた。

「……そうか。じゃあ次の予定もよろしく頼むよ。」

「はい。……では、失礼しました。」

 橘の言葉に安心した陽太は、二人に軽く頭を下げて部屋を出ていった。

「……本当に大丈夫なのですか。陽太、相当疲れているように見えましたが。」

 橘は再びソファーに腰かけると、深いため息をついた。

「疲れているのは確かだろうな。でも、あいつ自身も言っていたように、あれは仕事をしていないとダメな人間だからな。」

「……意外です。陽太がこの仕事にそこまで熱意を抱えているとは思っていなかった。」

 橘はコーヒーを飲みながら、マリの言葉に眉をあげた。

「……まあ、厳密に言うと『仕事をしていないとダメ』ではなく『セックスをしていないとダメ』なだけだな。」

「そうなんですか。そんなに性行為が好きなようにも見えませんが。」

「好きだからしているのではないからな、あいつの場合は。」

 言葉を濁す橘に。マリは少し口をゆがめた。それを見て、橘はふっと笑った。

「マリ、お前は過去の嫌な記憶、後悔に苛まれて、苦しくなったり、死にたくなったりすることはあるか?」

 急な橘の問いかけに、マリは少し動揺した。

「え……。まあ……そのような経験は、何度かあります。」

「そういう時、お前はどうする?」

「え……。えっと……趣味のこととか、仕事のこととか他のことを考えて気を逸らします。」

「そうだろうな。大抵の人間は、そういう時に趣味や仕事を利用する。何かに没頭していないと辛くなるからな。」

橘の顔に、悲しみの色が浮かぶ。

「陽太には没頭できるものが、セックスしかないんだよ。」

 マリはコーヒーカップをもったまま、顔を歪めた。

「……彼には趣味がないんですか。」

「……おそらく、ないのだろうな。」

「……寂しい人ですね。」

 二人の間に沈黙が流れた。その機会を待っていたかのように、マリはコーヒーを口に含んだ。



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