第5話
翌日も、陽太は淡々と仕事を終わらせた。これまで以上に陽太に期待のまなざしを向ける橘に、いつものように盗んだ金を渡した。橘はいつもより上機嫌で、金を受け取ると笑顔で本部に向かっていった。陽太は橘を怒らせたくはないが、期待に応えようとする気もないため、いつも以上に頑張ろうとすることはなかった。
橘とは対照的に、陽太の気持ちは晴れなかった。陽太は、性行為や盗みで認められても、少しも嬉しくはなかった。「こんなつもりじゃなかったのに」そう思った瞬間、胸が締め付けられるような思いに駆られ、陽太は考えることをやめた。
ずっと処分してもらおうと思っていた学生証が、いまだにポケットの中にいることも、陽太を苛立たせた。それに関しては、自分が悪い。誰のせいにもできない。それは分かっていたが、何かのせいにしたくてたまらなかった。陽太は不機嫌に任せて、学生証を仕事用のウエストポーチのサイドポケットに突っ込んで、そのままロッカーにぶち込んだ。もう学生証のことなど考えたくなかったのだ。
ロッカーの扉を閉めると、涼がロッカールームに入ってきた。陽太は久しぶりに涼と会ったような気がして、涼に近づいていった。いつもなら、ふやけた笑顔で陽太に近づき、抱きついてくる涼だったが、今日は機嫌が悪いのか、陽太が近づいていっても無反応だった。涼は陽太に構わず、まっすぐ自分のロッカーに向かっていった。今までにない涼の様子に、陽太は戸惑いながら涼を見つめていた。
「……何?」
涼は準備を進めながら、怪訝そうに呟いた。陽太も涼に特に用があるわけでもなかったので、涼の態度に戸惑った。何か言わなければと、涼から視線を外した。ふと、長机に一つだけ置かれている紙袋が目に入った。
「お前、橘さんから桃もらったか?今みんなに配り歩いているようだけど……。あそこに置いてある紙袋、お前の分じゃないのか」
陽太は紙袋を指差す。涼は首を回して紙袋を見て、ため息をついた。
「僕、桃アレルギーだよ。いらないから、陽ちゃんがもらって」
「二つもらっても困る」と陽太は思ったが、そんなこと言えるような雰囲気でもなかった。陽太は黙って長机の上の紙袋を取りに行った。
陽太が桃の入った紙袋を手に取り、帰り支度を始めた頃、涼は黙ってロッカールームから出ていった。涼がどうしてこんなにも不機嫌だったのか、その理由は気になったが、わざわざ追いかけて聞きにいくほどでもなかった。陽太も帰り支度を済ませ、煙草臭いロッカールームを後にした。
路地裏にでると、同業者と思われる若い女が、壁に手をついて吐いていた。酒臭さではない、奇妙な匂いが鼻をつき、陽太は足早に大きな通りにでた。人の声がうるさい大通りには、小さな粉雪が舞っていた。陽太は、ビルの明かりでちらりと輝く粉雪を、しばらく見つめていた。寒空の下、粉雪を吸い込むように深く深呼吸をすると、少し落ち着くことができた。今日は疲れたから、その辺でラーメンでも食べようかと考えながら、陽太は夜の街を歩いた。
ある朝、マリがロッカールームに入ると、涼が鏡の前で化粧をしていた。
「今日は随分早いね」
「うん。リピーターでね、結構長い時間一緒にいる予定だから」
深いブラウンのアイシャドウを、平たい筆で目じりにのせる。マリは涼の隣に座り、涼が化粧をする姿を静かに眺めていた。
涼が『ベット』において人気を得ている理由の一つに、その顔の美しさがある。白くて艶のある肌に、大きくて形の整ったアーモンドアイ、ぷっくりとした唇、元ホストという経歴にも納得のいく顔面である。その顔面は涼が努力で手にした顔面であり、朝起きた瞬間からこの顔が完成しているわけではない。すっぴんの涼は、三白眼で、エラの張った輪郭に、薄い唇。整形で手に入れた二重で整った目元が悪目立ちするほど、全体的に顔の印象が薄い。不細工というわけでもなかったが、全体的にはっきりしない、決して美少年とは言えない顔立ちだった。そもそも、既に美少年などと呼ばれるような年齢でもなかった。肌の粗は年々目立ち、一度肌荒れすると治るのに時間がかかるようになっていた。涼は加齢に抗い、自分をもっとよく魅せるために、何年も研究して一番自分に合った化粧とスキンケアをみつけ出し、今でも美少年の称号を死守している。その努力をずっとそばで見てきたマリは、手慣れた手つきでアイラインをひく涼に、愛おしさを感じずにはいられなかった。
マリがふっと微笑むと、涼はそれを横目でちらっと見て、鏡越しに頬を膨らませてみせた。
「ごめん。涼、化粧うまくなったなぁって思って……」
マリがそう言うと、涼は視線を下に向けた。
「毎日やっているからね。もう……何年も……」
再び訪れた静寂に、心地よさを感じ始めたころ、涼が口を開いた。
「……自分で手に入れた幸せが一番信じられるんだ」
涼の言葉に、マリは頷き、目をつぶった。
「いろんな人から恵んでもらった。このアイシャドウも、リップも、全部」
涼は化粧ポーチから一つ一つ化粧品を取り出す。カチャカチャと音が響く中、マリは静かに目を開けて、涼のブラウンのアイシャドウを見つめた。
「全部、いつかはなくなってしまう。もらったときは嬉しかった、幸せだった。でも、今ではその幸せも薄れていった」
冷たいロッカールームに、涼の声だけが響く。
「化粧品はそうでも、化粧の仕方は違う。変化することはあっても、なくなることはない。自分が生み出したものだから、忘れるわけがない。化粧を初めてした時、自分の顔が変わった時の喜びは、今でも化粧をした顔を見るたびに感じる。自分で得た幸せは、決してなくならないし、ずっと自分に幸せを与え続けてくれる」
涼はアイライナーを手に持ったまま、鏡を見つめている。左目だけアイラインをひいた、不自然な顔が鏡に映っている。
「わかっているんだ。人から与えられる幸せを、口を開けて待つより、自分で行動して幸せを追い求めて、自分で幸せを手にした方がいいってことくらい」
マリは顔を伏せたまま、涼の細い手首を見つめている。
「わかっているはずなのにな。それでも、人から与えられる幸せを望んでしまう。その時だけのものだと分かっていても、ベッドの上で抱きしめられると、胸がとろけてしまいそうな感覚に襲われて、ずっとこのままでいたい、また抱きしめてほしいって思ってしまう。プレゼントをもらうと、モノよりも自分にそれだけお金をかける価値があると思ってもらえていることが嬉しくて、貰うという行為に依存してしまう」
やっと、マリは涼の顔を見ることができた。涼の目は涙をいっぱいにためていた。マリと目が合うと、涼は泣きそうな顔のまま不器用に微笑んだ。
「ねえ、僕って馬鹿なのかな。わかっているのに、自力でつかむ幸せより、人から与えられる幸せの方を求めてしまう。そっちの方が価値のあることと思おうとしてしまうんだ。分かってるんだよ。分かってるけど、なんていうか、もう、考え方を変えられないんだ」
マリは涼を抱きしめて「大丈夫、大丈夫だから」とか細い声をもらした。
「自分で幸せを手にしたいと思っていながら、何をすれば自分が幸せになれるか理解していないから、人から与えられる幸せを得るために必死になっている。虚しいだけ、そんなことするなら、自力で幸せをつかむためにあれこれすべきなんだよ。人から与えられる安っぽい幸せばかり求めて、僕はいつになったらこの地獄から抜け出せるんだろう?」
涼は目に涙を浮かべながらも、化粧を崩さまいと懸命に涙が落ちるのをこらえていた。
「でも、この地獄が結構居心地が良かったりするんだ。僕は普通の社会では生きていけないから」
低い声でそう呟く涼の目は、絶望で満ちていた。マリは目にたっぷり涙をためたまま、涼から体を離すと、涼はマリを見て、へへっと笑った。
「なんで姉さんが泣いているの」
涼はたまに、マリのことを「姉さん」と呼ぶ。ヘラヘラとしている涼に、マリは少し呆れていたが、そう呼ばれると何も言えなくなってしまう。涼は「姉さん」と呼ぶと、マリがこうなってしまうことを分かって言っているのか、マリには分からなかった。どちらにせよ、ずるい弟だとマリは苦笑し、もう一度涼を抱きしめた。
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