第7話
陽太は橘の部屋を出て、ゆっくりロッカールームに向かった。思っていたより橘の機嫌がよく、何事もなく部屋を出られたことに安心した。冷汗をかいていたせいか、安心すると一気に体が冷えた。とにかく上着を着たい。ロッカールームの扉をノックして入ると、涼が化粧を直していた。
「おかえり。何かあったの?」
涼は陽太に背を向けたまま、鏡に映る自分の顔に集中しながらそう訊いてきた。
「俺が、へまやらかしただけだ」
涼は振り返って、上着をぬぎながら答える陽太を眺めた。
「また、学生証ぬすんできちゃったの?」
陽太は口の中で舌打ちをした。ロッカーから上着をとり、扉を叩きつけるように閉めた。
「二か月も前のことを、掘り返すな」
「へへっ、相当気にしているんだね」
一目で不機嫌と分かるくらい、陽太の表情は歪んでいた。涼は気にせずに続ける。
「それで、何をやらかしたのさ」
陽太はため息をついた。
「一円も盗れなかった」
涼は驚いて振り返った。
「本当に?珍しい……っていうかゼロは初めてじゃない?」
「そうかもな」
陽太はため息交じりにそう応えた。陽太の表情を見て、涼は眉を上げた。
「……陽ちゃん、何かあった?」
涼はまっすぐ陽太を見ていた。その目はすべてお見通しだと言うような目だった。陽太は口を開きかけ、ため息をつき、小さく首を振った。
「こんなところでは、とても言えない。誰に聞かれているか分からんからな」
ロッカーの中に盗聴器を仕込んでまで、情報を手に入れようとしている輩はいる。陽太はそれを警戒していた。
「じゃあ、このあと陽ちゃんの家にいっていい?」
涼は潤んだ瞳で陽太を見つめた。上目遣いで、子犬のようなかわいらしさがあったが、陽太はこれに舌打ちを返した。それをみて、涼は頬を膨らませた。
「もう!いつになったら家に入れてくれるの?いつも会うときはホテルかマリの家じゃん」
むくれている涼に、陽太は上着の埃を払いながら微笑み返した。
「いいホテルを見つけたんだ。そこに行こうよ」
陽太の提案に、涼は少し目を丸くして驚いたが、すぐにいつもの笑顔に戻って、陽太の提案にのった。
正直、陽太はもうへとへとだった。家に帰ってすぐに寝たいと思っていたくらいだったが、少し誰かに話を聞いてもらいたい気持ちもあった。涼はこう見えても口は堅い。それに、聞き上手と客からも評判がいい。今の陽太には、うってつけの相手だった。
涼は化粧品をすべてポーチに詰めて、鞄に押し込むと、上機嫌で陽太にすり寄ってきた。陽太も上着を羽織って、涼を連れて二人でロッカールームから出た。
マリは橘の部屋に呼び出されていたが、急に陽太が部屋に入って来たことによって、それまでどんな話をしていたか、すっかり忘れてしまった。マリは橘の部屋を眺めながら、記憶をたどった。橘の部屋は、赤いソファーが綺麗な白いテーブルを挟んで対面しており、橘がいつも座るソファーの裏には、来客のための小さな食器棚とコーヒーマシンがある。シンプルな部屋だが、どこか威圧感のある空間だった。部屋の奥に、橘の趣味である蝶の育成と標本作り専用の部屋があり、来客が座る方のソファーからは、蝶の部屋が少し見える。春になると、水槽のような大きな虫かごの中で、飛び回るアゲハチョウがたまに視界の端にちらつく。マリはこの部屋が嫌いだった。マリは現場担当者の新人教育を任されているため、新人たちの様子を橘に報告する必要があり、定期的にこの部屋に呼び出される。新人たちの身の振り方が決まる大事なやり取りだが、橘は雑談が多く、うんざりしていた。今日も、新人の身の振り方について話をしていたのだ。マリが思い出すころには、橘は雑談の気分になっていた。コーヒーカップをゆっくりゆすりながら、口角をあげている。
「マリは、こう思ったことはないか?この『ベット』にセックスは必要なのだろうか、と」
マリは「これは長くなる」と思いながら、ゆっくり橘に視線を戻した。
「今まで、性行為の必要性など考えたこともありませんでした。でも、確かによく考えたら、そこまで必要なものとも思えませんね」
「そうだろう。簡単に、現場担当者がいくら盗んでくるかを予想して、それが当たれば掛け金が倍になってかえってくる、そういうものでも賭けとして十分成立する」
「では……なぜ性行為をするのですか」
欲しい質問を投げかけると、橘は不敵に微笑んだ。
「盗みのターゲットを絞るためだよ。この世界では、警察のお世話になったらオシマイだ。そのリスクは徹底的に避けなければならない」
橘は少し前のめりになって語る。
「相手はネット上で出会った人間と、会ったその日に体を重ねているような人間だ。人に言えないようなことをしているのは、お互い様だからだ。盗みにあったとしても、周りの仲間に盗みに遭ったと泣いて、注意喚起して、慰めてもらって次の相手を見つけて、それでおしまい。通報まで至ることも少なくはないが、足のついていない犯人を捜すなんて容易じゃない」
「心置きなく盗みを行える環境を作るために、セックスは必要なんだよ。犯罪が横行する環境には、きまってセックスがある。セックスを通じて、そのロクでもない環境にアクセスしているのだよ」
橘は満足げな笑みを浮かべながら、背もたれにもたれかかった。マリは背筋を伸ばしたまま、ゆっくり微笑んだ。
「そうだったんですね」
「そうだ。あとは、現場担当者を集めるためにも、セックスの存在は大きい。『ただセックスをするだけで稼げる』と言っても、嘘にはならないからな」
「ええ、私たちもそれでつられましたから」
橘は大声で笑っているが、マリはもうこの話題に興味を失っていた。微笑んでいながらも、頭の中ではほかの話題に切り替えるにはどうしたらいいかを考えていた。
「……陽太も、そのうたい文句につられたのですか?」
橘の笑いがピタリと止まった。顎をさすりながら、斜め右の方向を見つめている。これは橘が言葉を選んで話し始める前に必ずする仕草だった。
「いや、違う。陽太は『ベット』を試験的に始めたときに、捨て駒として起用した」
「え……」
マリが露骨に驚いたのをみて、橘は少し寂しげな笑みを浮かべた。
「あの時のあいつは、今以上に自暴自棄で、自分の人生なんてどうでもいいと思っているようだった。でも死ぬほどの勇気はなくて、とにかく落ちるところまで落ちて、死ぬしかない状況に陥るのを待っていた」
橘は、同情の笑みを浮かべた。
「生き方を間違えたらしい」
「生き方……?」
そうつぶやいたマリを、橘は真剣な眼差しで見つめた。そして、ため息をつくと、髭の生えた顎をさすった。
「あいつが大学に通っていたのは知っているか?」
「え、初めて聞きました」
マリが持ったコーヒーカップが、皿に当たってカチャリと音が響く。
「詳しいことはわからないが、大学に入ったものの、自分生き方がこれであっているのか、分からなくなったらしい。それでどうしても大学に行けなくなり、結局留年して、大学をやめたそうだ」
橘はコーヒーカップをとり、冷めきったコーヒーに映る歪んだ自分の顔を眺めた。
「『私は生き方を間違えた。それでも、臆病なので自分の人生を絶つこともできない。私に死に場所を与えてください。』と、初めて会ったとき陽太はそう言っていたよ。私は大学に行ってないから分からないが、陽太にとって、「生き方を見失ったこと」と「大学をやめたこと」は絶望そのものなんだろうな。おかしいくらいの後悔の念に苛まれていたよ」
マリはテーブルの一点を見つめていた。衣食住の揃っている恵まれた環境で生きてきた陽太には、自分たちとはレベルの違う悩みを抱えていたと知ると、何とも言えない気持ちになった。マリはゆっくりと目を閉じ、橘は大きくため息をついた。
「悲しいよな。俺からしたら、大学に入れているだけで人生勝ち組だと思えるのに。頭がいいのも問題だよな。生きる意味とか、自分の生き方とか、考えなくてもいいことまで考えちまうんだから」
マリがゆっくりと目を開けた。明らかに何か考えている様子のマリに、橘は微笑みかけた。
「お前や、涼も、そんなこと考える余裕なんて無かっただろう。陽太の悩みは、お前たちには理解できまい」
マリは橘から目をそらし、小さくため息をついた。
「そうですね。その日を生きるために、セックスも盗みも詐欺も、何でもしてきましたから」
橘が同情の笑みを浮かべたことを視界の端で確認しながら、マリはゆっくり目を伏せた。
「だからこそ、不思議なのです。生まれ育った環境も、抱える悩みも正反対のあの二人が、仲良くやっていることが」
橘は眉を上げて、小さく笑った。
「そうだな。生きてきた世界が違いすぎる二人だ。ここでなければ、間違いなくあの二人は出会っていなかっただろう」
マリが橘を見つめると、橘は前のめりになって呟いた。
「しかし、あの二人の関係、いつまで続くかな」
趣味の悪い橘の笑みに、マリは顔を歪ませた。
涼は、ラブホテルの部屋に入るなり、部屋の探索を始めた。ベッドはキングサイズで、風呂場も広く、ジャグジー付の真っ白なバスタブがある。家具一つ一つ見ても、独特の安っぽさがなかった。
涼は上機嫌にベッドに飛び乗り、陽太もそれに続いた。布団はふかふかで、嫌な匂いもしない。二人は布団の中に入り、満足げに深呼吸をした。涼は陽太の方に寝返りをうち、身体をよせ、服を脱がせようとしたが、陽太はそれを拒んだ。
涼は黙って仰向けになり、天井のシャンデリアを見上げた。
「……すごく良いところだね」
「そうだろう。来たことあるか?」
「……ない」
「そうか」
涼の言葉の真偽を追及しなかった。涼は再び寝返りをうって、体を陽太の方に向けた。陽太はずっと天井のシャンデリアを見つめている。ピンク色の照明で、陽太の顔は赤く染まっていた。
陽太は天井を見つめたまま、今日あったことを一通り話した。今日の現場が地元だったこと、相手が旧友の妻だったことを、淡々と語り続けた。涼は陽太が大学をやめていることを知っている。陽太がこのようにどうしようもない劣等感と後悔に苛まれることは、今回が初めてのことではなかった。涼にとっては、たまに見る陽太の一面の一つにすぎなった。特に相槌を打つわけでもなく、黙って、頷きながら、陽太の話を聞いていた。話し終えると、陽太は深いため息をついて、両手で顔を覆った。乾いた手のひらの匂いに包まれる。
「情けないだろう。大学をやめたのも自分のせい、この仕事を始めたのも自分の意思、それなのにちゃんと「普通」に成功している友人を見ると、劣等感で死にたくなる。死にたくて消えたくてたまらないのに、そんな時でもセックスだけはできるクソ野郎だよ。セックスをしているうちだけは、嫌なことも何もかも忘れることができる。俺はセックスのことを精神安定剤だと思っているらしい。だからいつまで経っても、こんな仕事をやめられない。劣等感は消えない。最悪だよ」
陽太は布団にくるまったまま、涼に背を向けた。
「大丈夫だよ。このままこの仕事で生きていけばいいじゃん」
涼は陽太の背中に抱きついた。
「お前はそれでいいのか。このままこんな仕事を続けて、世間からはみ出たままでいいのかよ」
陽太の怒号のような低い声が、柔らかい布団の中で響く。涼は目をつぶった。
「こんなことやめてさ、真面目に働きたいって思ったことぐらいあるよ。お天道様の下で働いて、ちゃんとしたお給料もらいたいよ。でも、父親が母親を殺すようなロクでなしの家で生まれて、戸籍もなくて、学校もマトモに通ってないような僕は、こういう場がお似合いなのかもしれない。ずっと生きるために必死で、まともなお金の稼ぎ方なんてわからないんだもん」
陽太は唇をぎゅっと結んだ。涼が語る度に、背中に息がかかる。
「社会で働いている人たちはきっと、両親に愛されて育って、ちゃんと学校にもいって、真面目に働くことができる環境が用意された中で、きちんと生きてきた人たちなんだよ。そんな中に僕が飛び込んだら、僕は周りと比べて育った環境も劣悪で、可哀想なやつって思われるんだ。僕は自分のことが好きだし、今までの環境も嫌いじゃないけど、世間から見たら最悪だ。僕は普通の社会で働いたら、今まで気にもしなかった、自分の育った環境に劣等感をもってしまいそうなんだ。自分のことがきらいになってしまうのが一番怖い。その点ここはいいよ。どいつもこいつも問題だらけ、僕に貢いでくれる子さえも、みんな何か闇を抱えている。みんなどこか可哀想なんだ。そういうの見ているとさ、安心できるし、クソ環境でも頑張って生きてやろうって思えるんだ。傷の舐め合いもできるからね」
涼は陽太から離れ、天井を見上げた。シャンデリアが瞬いている。
「社会は、社会のキレイなところで育った人たちだけで回っているんだ。ゴミみたいな僕は、社会という渦の下に落ちて溜まっていくだけ。底の方が性に合っているんだよね」
涼は再び目をつぶった。
「陽ちゃんは、まだ戻れるんじゃない?綺麗な社会に」
陽太は何も言わなかった。涼はゆっくり目をあける。
「でも、僕は陽ちゃんに離れてほしくないな〜。ずっと僕のライバルやっていてほしい。陽ちゃんここでは大人気なんだよ?「普通」の中で劣等感まみれで生きていくより、ここで輝いて生きたほうが幸せなんじゃないの?」
陽太は寝返りをうち、涼の方に体をむけた。陽太の曇った表情に、涼は困ったように笑った。
「せめてさ、僕が戸籍とるまで一緒にいてよ。今は部屋も借りられないから、マリの部屋に居候しているけど、そのうちこの仕事やめて、戸籍とって一人暮らししたいとは思っているんだ。それまでは、一緒に「底」を楽しもうよ」
涼は少年のような笑顔を見せた。陽太もそれを見て笑ったが、返事はしなかった。
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