第4話
涼はロッカールームのソファーに顔をうずめていた。誰かが入ってきたが、気にせずソファーに深く顔をうずめた。ヒールの足音が、どんどん近づいてくる。
「わかっていたけど、こりゃあひどいね」
上から女の声が聞こえて、涼は不機嫌そうに顔を上げた。
「……なんでこうなっているか、わかっているくせに」
涼のか細い声に、女は大声で笑った。涼は表情を少しも変えずに、不機嫌な顔のまま女を見つめていた。女は涼の頬を両手でつかんで、頭ごと持ち上げると、ソファーに入り込んで涼の顔を自分の太ももにうずめさせた。
「わかっているさ。私がアンタだったら、もっと荒れていただろう」
涼は首を動かして、女の顔を見上げた。女は優しい笑顔を浮かべていた。
「今日はいいさ。昔のように泣きな」
涼は女の腰に腕を回すと、腹に顔を押し付けて泣いた。女は涼の頭を、ずっと名で続けた。
数十分後、涼は女の太ももの上で寝息をたてていた。女は涼の頭を撫でながら、遠くを見つめている。二人だけの無音の空間に、突然ノックが響いた。
「……どうぞ」
女が小声で返事をすると、壮年の男が入ってきた。入ってくるなり、女は壮年の男に静かにするよう唇の前に人差し指をたてた。男は少し驚いたが、女の太ももを見て状況を理解し、女の目を見て頷いた。
「……マリ、やはり君に任せて正解だった」
「……二十年近くの付き合いですから、慣れたものです」
マリと呼ばれたこの女は、涼が盗んだ(貢がれた)金を管理する集金担当者であり、涼にとって姉のような存在だ。かつては涼と共に現場担当者としてはたらいていたが、三十五を過ぎてからは現場に出ることよりも、新人の教育を任されることの方が多くなっていた。
壮年の男は、陽太の集金担当者だ。『ベット』の総合プロデューサーで、全体の演出なども担当している。常に白いスーツを身に着けて、「橘」と彫られていた銀色の名札を胸につけている。組織内でも色んな意味でよく目立つ男である。
「今回の陽太には、驚かされました」
マリがそう言うと、橘はふふっと笑った。
「私もだよ」
「私は、陽太がここに来たばかりの頃から彼の集金担当者として働いてきたけどね。あんな情事は見たことなかった」
橘は髭の生えた顎をさすっていた。
「集金担当者として、盗んだ金額の低さに驚いているのかと思いましたが、やはり性行為の話でしたか」
マリが微笑みながら言うと、橘は低く笑った。
「マリも経験があるだろうが、盗みで失敗するのはよくあることだ。五百円しか盗めなかったことには、さして驚いてはいない」
「陽太がここで人気がある理由は、彼自体のエンターテインメント性でも、顔の良さでもなく、予想の当たりやすさからだ。下手ではないのだが、情事がいつも同じようなもので、長く陽太を観ている者の中には、彼の性行為に飽きを感じ始めている者もいるだろう。私はそれが不安だった。飽きから、陽太の人気が失われてしまうのではないかと思っていた」
橘はぐっとこぶしを握りしめた。マリはそのこぶしに冷たい視線をむける。
「だが!その不安は払拭された!お前も見ただろう。あの陽太の必死な姿を!それに見とれる観客たちの目を!あれほど魅力的なセックスができるのなら、なぜ最初からやらなかったんだと陽太を責めたいくらいだ!俺が不安に思っていた時間を返してくれ。陽太はやはり素晴らしい男だ」
声をはる橘に、マリは静かにするようたしなめた。
「興奮を抑えられないのも無理はありません。ですが、涼が寝ていますので」
橘は冷たい目で涼を見つめていた。それを横目で感じながら、マリは寝息をたてる涼の頬に手を当てた。
「……涼が、これだけ荒れるのも理解できます。この子にとって二つのショックを与える性行為でしたから」
橘は涼の寝顔を覗き込み、怪訝そうに顔を歪めた。
「陽太と涼はそういう関係だと聞いていたが、事実なのかい?それなら、ショックを受けるのも分からなくはないな」
「さあ?二人の関係は私にだってわかりません。二人とも、誰とでも寝るような人でしょう?こんなところにいるんだから」
マリの言葉に、橘は小さく声を出して笑う。マリの表情は笑顔だったが、冷たかった。
「単純に、自分のよく知る人の知らない一面を見てしまったことへのショックだと思います。この子は昔から馴染みが少なく、仲良くなった人のすべてを知りたがる、依存体質のような一面がありますから……」
「なるほどな。……ではもう一つは?」
マリは涼の唇に優しく触れた。唇が切れて血が出た跡がある。
「悔しさでしょう。やっと陽太の人気が落ちて、自分がナンバーワンに立てる。そう思っていたものが、一気に崩れ去った瞬間だった」
橘は少し眉間にしわを寄せた。マリは橘を見上げて、目いっぱいの笑顔を見せた。
「この子、結構負けず嫌いなんですよ。飄々としていながら、常に陽太の玉座を狙っています」
橘はマリの言葉と態度に顔色を変えた。不機嫌丸出しで「そうかい」と吐き捨てると、わざとらしく大きな足音を立てながらロッカールームを出ていった。
再び二人きりになったロッカールームで、マリは涼の頭を撫で続けていた。
陽太は決心した。白鳥美羽の学生証を盗んでしまっていたことを、集金担当者である橘にうちあけ、学生証を処分してもらおう、と。いつまでも持っていてもしょうがないうえ、これ以上学生証のことで悩むのも嫌だった。ポケットの中に学生証を突っ込み、速足でロッカールームに向かう。意を決して扉を開けると、橘がすぐ目の前にいた。橘は陽太を待っていたかのように、満面の笑みで近づいてきた。
「いやあ、陽太。君は本当に素晴らしいね」
陽太の背筋が凍った。橘がこう言ってくるのは、陽太が本当に素晴らしいことをしたときか、失敗を皮肉って言っているかの二択だ。陽太の心当たりは失敗しかなかった。きっと橘は盗んだ金額の少なさで、客を失望させたこと怒っている。あるいは、金以外の面倒ごとを盗んでしまったことに気づいているか。どちらにせよ、ここで答え方を間違えると、とんでもない目に遭うことは間違いない。
「いや、私はそんな良い人間じゃありませんよ」
額からこぼれた大粒の汗が、頬骨を伝うのを感じながら、陽太は慎重に言葉を選んだ。
「何を言っている。君は本当に素晴らしい。私はもう、あの時の観客の顔が忘れられないんだ」
これは観客を失望させたことを言っている。陽太はそう確信した。陽太はまっすぐ橘を見つめていたが、その姿をきちんと捉えることはできなかった。視界が歪み、汗が噴き出てくる。肌寒い時期にこんなに汗をかきたくない。陽太は気持ちを落ち着かせようとしたが、橘はそんな陽太の様子を気にも留めず、ゆっくりと陽太に近づいてくる。後ずさりしたい気持ちでいっぱいだったが、足はもうどうにも動かなかった。橘は陽太の目の前で止まると、一層笑みを深めた。
「あんないいセックスができるなら、なぜ今までやってこなかったんだ」
「???」
陽太は橘が何の話をしているのか分からなかった。肩に力が入ったまま、小声で
「セックスとは、性行為のことですか」
と、少年のような問いを橘に投げかけた。
「……そうだよ?」
あまりに拍子抜けした陽太の問いに、橘も困惑している。全く心当たりのない陽太はまだ緊張が解けないままだった。
「陽太は、いつも余裕そうに人を抱くだろう。相手の方はお前の動きすべてに嬌声をあげ、涙とよだれでぐちゃぐちゃになりながらお前を受け止めるのに、お前はすました顔をしている。それがお前のセックスの魅力であった。しかしまあ、最近はそのスタイルに観客も飽きを感じ始めていた。お前の人気に関わることだから、俺は結構この事態を重く受け止めていたんだが、お前はまったく気にしていないようで、少し不安に思っていたんだ」
陽太の肩の力が、徐々に抜けていく。橘はそんなことに目もくれず、一人で話し続ける。
「お前も色々考えていたんだな。いつものお前からは想像もできないくらい余裕のないセックス、観客はもちろん、私も、あの賭けの場にいた人は全員度肝を抜かされたよ。そして皆、お前のセックスにくぎ付けになっていた。盗んだ金額は少なく、誰しもが予想を外して損したが、そんなことどうでもよくなるくらい素晴らしいものだったよ」
ここでようやく陽太は、橘が白鳥美羽との性行為を褒めていることに気づく。肩の力は抜けきったが、陽太としては何がそんなに良かったのか分からなかった。自分でも、いつものように事を進められなかった、いつもとは少し違う行為になってしまったとは思ってはいたが、それでも大して変化はないだろうと思っていたのだ。
「また君の人気に火が付いたようだよ。この前のセックスをみて君にハマったという声をよく聞く。いつも通りで構わないけど、たまには前にみたいにひと味違うのも見せてほしいな」
橘は笑顔のまま、陽太の肩をたたく。陽太が小さく「分かりました」と呟くと、橘はそのまま上機嫌でロッカールームの外へ出ていった。
橘が扉を閉めるのを感じながら、陽太はポケットの中の学生証を握りしめ、しばらく呆然と床の汚れを見つめていた。
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