第3話

 路地裏に入って、優から盗った小銭入れの中身を確認した。小銭入れの中には五百円玉が一つ。陽太が普段盗ってくる金額の、半分以下の金額だった。陽太はその場に座り込んで落胆した。しかし、それは盗んだ金額のせいではなかった。

 今日も、地下では『ベット』が行われていた。客は大金を握り締めて、司会者とスクリーンにくぎ付けになっている。その会場のすぐ近くの部屋は、陽太などの現場担当者が集まるロッカールームになっている。人数分のロッカーと、いくつかの机とソファー、ドレッサーが並んでいる。奥の扉を開けると、ステージに繋がっている廊下が続く、もともとはライブハウスの楽屋に使われていた部屋なのだろう。こじんまりとした部屋だが、陽太にとっては落ち着ける場所の一つであった。盗んだ金を管理している集金担当者という役割の男に金を渡すと、陽太は必ずここにやってくる。特に来る必要もなければ、来なければならない場所でもなかったが、なぜか足を運んでしまうのだ。

 いつものようにロッカールームに入ると、涼がうずくまってソファーで寝ていた。涼はここで寝泊まりすることも多い。陽太にとってはよく見る光景だった。三人掛けの大きなソファーなので、涼の足元には一人が座るに十分なスペースがあった。陽太はそこに腰かけ、ぼんやりと向かいの誰も座っていないソファーを眺めていた。何も考えずぼうっとしていたが、手はウエストポーチの中で煙草をとり、それに火をつけていた。

 煙草を吸い、一息つくと、眠っていたはずの涼が起き上がって陽太に顔を近づけていた。

「起きていたのか」

「さっき起きた」

 涼は横から陽太の肩に顎をのせ、上目遣いで陽太を見つめた。陽太は涼の顔に静かに煙をはいた。煙草の煙が、涼の頬をかすめて広がっていく。

「……いつもの煙草?」

「そう、ラッキーストライク」

 陽太はウエストポーチから煙草の箱を出した。

「ねえ、禁煙するんじゃなかったの」

 涼にそう言われて、陽太は自分がいつの間にか煙草を咥えていたことに気づく。苦笑して煙草の箱をウエストポーチに戻すと、その手をそのまま涼の頭の上においた。

「ここに座るとどうしても吸ってしまう。癖になっているようでは、先は遠いな」

 陽太のつぶやきに耳を傾けながら、涼は陽太の太ももに頭を乗せて横たわった。陽太は猫を撫でるかのように、涼のふかふかの黒髪を撫でた。二人はしばらくそうしていたが、やがて涼が思い出したかのように口を開いた。

「そういえば、陽ちゃん今日現場だったでしょ?いくら盗ってきたの?」

 陽太が頭から手を離すと、涼は寝返りを打って下からまっすぐ陽太を見あげた。涼に見えるように、陽太は手のひらを大きく開いた。

「五万?」

「いいや、五百円だ」

 その言葉に、涼は少し目を丸くして、何かを悟ったかのようにゆっくりと目をつぶった。

「失敗したの?」

「うん」

 短く返事をすると、陽太はポーチから一枚の紙を取り出して、涼に見せた。涼は小さく声を出して驚いた後、しばらく呆然とその紙を見つめ、やがて憐れむように笑った。

「あーあ、やっちゃったね」

 陽太の手には、一枚の学生証があった。大きく書かれている「白鳥美羽」という名前は、今日会った女からは聞いていない。しかし、その学生証の写真に写っている、いかにも優等生そうな女子高生は、どことなく今日会った女に似ていた。瑞々しく真っ直ぐ伸びた黒髪は、今日陽太が何度も撫でて乱した髪だった。その大きな黒い瞳は、何度も陽太が何度も涙で濡らした瞳だった。

 今回の陽太のように、小銭入れや財布など、金を入れる小物そのものを盗むことは、現場担当者の中では禁忌に等しい行為だった。小銭入れはまだ許されるが、財布ごと盗むのはご法度であり、そうするくらいなら盗まない方がいいくらいである。財布ごと盗むと、現金以外の余計なもの、身分証明書やクレジットカードなども盗んでしまう。これらは処分が面倒くさい。また、盗まれたものが現金だけなら、盗られるほど無用心だった自分が悪いとあきらめてしまう者も多いが、財布ごとで盗まれると、あきらめがつかず盗人を探し始める者もいる。盗まれた財布が誰かの形見や贈り物であれば、なおさら面倒だった。

 陽太が今回相手をした「優」こと白鳥美羽も、財布は持っていた。しかし、財布を盗めば面倒なことになることくらい陽太は重々承知であったため、盗める金額が少なくなるが、現金以外のものを盗んでしまう可能性の低い小銭入れを盗んだ。主に盗みの上手さで、この世界から評価されている陽太には、盗まないという選択肢はなかった。小銭入れに入っている金など、端金である。客からは盗んだ金額が少ないと失望されるかもしれないが、盗んでこないよりはマシだった。財布と違って、小銭入れならいらないものまで盗んでしまう面倒ごとは避けられる……と陽太は思っていた。

「それで、それどうするの?」

 陽太は学生証を見つめた。写真の中の少女が、真剣なまなざしでこちらを見ている。陽太はまた煙草の箱を手に取った。

 実は陽太が金以外を盗んでしまうミスを犯したのは、今回が初めてだった。すぐに集金担当者に盗ってしまった学生証を渡して処分してもらうべきであったが、五百円しか盗めなかった挙句に、いらないものまで盗んでしまったとなれば、集金担当者にどんな顔をされるか分からない。陽太は臆病で、プライドが高かった。正しい対処法は分かっていても、それが実行できなかった。

「切り刻んで捨てるの?」

 涼はそんな陽太の性質を理解していた。この提案は、陽太の性格を加味したうえでの最善の方法だった。しかし、涼の提案に陽太は顔をしかめながら、煙草を咥えた。

「写真を切り刻むのは、抵抗がある。」

 咥えた煙草が邪魔をして、妙にこもった声しか出なかった。涼は「そんなこと言っている場合じゃないでしょ」と内心呆れながらも、そんなことを陽太に言ったってどうにもならないことは分かっていた。陽太が煙草に火をつけて、一息つく動作をぼんやりと見つめていた。

「こいつ、すっぴんの方が可愛いな。化粧で不細工になるなんて、もったいない」

 陽太はまじまじと学生証の少女を見つめた。涼は何も言わず、ため息をついて目を閉じた。

「……学生証って、再発行できたよな」

 目をつぶっていても、音から陽太が学生証を涼の顔の前でペラペラと振っているのが分かって、目障りだった。煙草の匂いも今日は不快に感じた。

「しらないよ」

 短く答えると、涼は陽太の太ももから頭を上げ、ロッカールームから出ていった。

 涼のいないロッカールームは、妙に静かだった。特にやることもないので、陽太は煙草を吸った。

 一服終えて外へ出ると、少し肌寒かった。陽太にしては早い帰宅で、帰りの電車は会社帰りのサラリーマンでいっぱいだった。スーツの上から上着を羽織っている者もちらほらいた。そんな中で、長袖のシャツにスキニージーンズの陽太はよく目立った。陽太はイヤホンで耳をふさぎ、金髪の混じった茶髪を無意識にいじりながら、最寄りの駅までつり革を握っていた。

 優こと「白鳥美羽」の学生証を盗んでしまってから、二週間がたった。しかし、陽太はまだ学生証を処分できていない。ずっと財布の中にしまってあるのだ。誰かに見られたら、誤解されかねないが、それでも陽太は処分することができなかった。もう二週間も経ってしまったから、このまま放置しておいた方がいいのかもしれないと思い始めている。きっと美羽はとっくに学生証を再発行して、もう盗まれた学生証のことなど忘れている、財布の中から学生証が見えるたびに、陽太はそう自分に言い聞かせて逃げていた。盗んでしまったその日に、集金担当者に処分してもらっていれば、この二週間もっと気を楽にして生きられただろう。面倒ごとを放置するとロクなことがないことくらい陽太も分かっているのに、それでもできなかったのだ。



 地下ではこの日も『ベット』が行われていた。ちょうど陽太と優の行為と盗みの結果が客に発表される日だった。この日陽太は休みを取って、会場に近づくことすら拒否した。盗みの上手さがウリであるのに、盗みで失敗してしまった。同僚や客から失望の目を向けられるのが怖かったのだ。案の定、いつも盗んでくる金額の平均を大きく下回る、五百円という金額しか盗めなかった失態は、多くの客を失望させた。陽太が盗んだ金額が発表された時、会場は動揺とため息に包まれていた。最近は涼の方が予想しやすい金額で、特に今回は涼にかけていた客の方が儲けた。涼はこれ幸いと、会場の客に挨拶して回って、新規ファンを増やそうとしていた。しかし、金額こそ期待はずれだったものの、陽太の性行為の映像は過去最高に評判がよかった。すべての現場担当者が盗んだ金額を発表し終えて、締めに参加者全員に配られる行為中の映像、そのサンプル動画が会場で流される。陽太の性行為の様子が映し出された途端、客はみな困惑と興奮をその顔に浮かべていた。いつもの陽太は磨き上げられたテクニックで相手を骨抜きにし、自分は余裕の表情でことをこなしていた。しかし、今回の優との性行為では、陽太にいつもほどの余裕はなく、優が離れないようにしがみつき、体のあちこちに噛みつき、快感を貪っていた。その必死さには、陽太の性行為を見慣れるほど見てきた固定客も思わず生唾をのみこむほどだった。結果、盗みの失敗を映像で補う形となり、金額が発表されて会場でため息をついていた客も、会場を出ていく頃には次の陽太の性行為が待ち遠しいと興奮をもらしていた。

 陽太の、普段とは違う性行為に驚いたのは客だけではなかった。同僚である現場担当者や、集金担当者、そして会場でマイクをふるっていた司会者までも、声を失っていた。涼は、唇を噛みしめてその映像を見ていた。



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