第1話

「じゃあ、先にお風呂入っているから」

「ああ」

 薄暗いラブホテルのベッドの上で、陽太は裸のまま風呂場に向かって歩いていく女を横目で追った。風呂場のドアが閉まる音が響き、かすかに水音が聞こえる。陽太はベッドから起き上がり、自分の鞄から煙草と手袋を取り出した。煙草を口にくわえて火をつけ、手袋をつけると、陽太は女の鞄に手を伸ばした。

 「無防備なやつだな」と心の中で嘲笑しながら、財布の中身を確認する。札を手ではじいて枚数を数え、二万ほど自分の財布に押し込むと、女の財布を鞄の中に戻した。ソファーに腰かけて、これからどうやって切り抜けるかを考えながら息を吐く、ソファーに座ると、乱れたシーツがよく見える。陽太はシーツから目をそらし、天井に向かって煙を吐いた。



 ラブホテルから出ると、ひんやりとした空気が体を包んだ。先ほどまで肌を寄せ合っていた二人には、少々辛い寒さだった。女は身震いしながら陽太の逞しい腕を抱きしめる。

「ホテルのお金、払ってくれてありがとう」

 陽太はすぐに女と別れるつもりだったが、女はまだ一緒にいたいと言わんばかりに、陽太の腕に絡みつく。

「ごめんな。明日早いから……」

 精一杯残念そうな顔をして、その柔らかい身体を離すと、女は少しうつむいたが、すぐに陽太に笑顔を見せた。

「わかった。とっても楽しかったから、また会いたい」

 微笑んで女の頭をなでると、女は満足そうに笑っていた。

「じゃあ、また会いましょう。雄二さん」

「はい。ではまた……」

 もう二度と使わない名前と、もう二度と会わない女に向かって手を振ると、女は駅に向かって歩いて行った。

 女の姿が小さくなっていくのを確認すると、陽太はラブホテルのすぐ脇にある路地裏に入っていった。路地裏の真ん中で安酒をあおっていた老人が、陽太を見てすっと体を細めた。茶髪に金を散らした髪をかきむしりながら、褐色の大男は煙草を吸いながら路地裏を進んでいく。陽太は看板も何もない、ボロボロの階段を下った先にあるバーに入った。喫茶店のような温かで落ち着いた雰囲気のあるバーだったが、中では壮年の男たちが集まって、険しい顔で何か話をしている。陽太は無表情のままカウンターの横を速足で通り過ぎ、バーの店主に顔を見せた。店主は陽太の顔を見るなり、笑顔でカウンターの中に通し、奥にある扉を開けた。陽太はそこから、さらに地下につながる階段に入った。

 暗い階段を下りた先には、クラブがあり、比較的若い男女が音楽に身を任せ、体を揺さぶったり触れ合ったりして楽しんでいる。陽太はそこも速足で通り過ぎ、大きな鉄製の扉の前に立つ警備員に会釈した。屈強な警備員は、陽太の顔を見るなり、笑顔で扉を開けた。陽太は扉の奥に続く廊下を歩いた。

 薄暗い廊下を歩き続けると、暗証番号ロック付の重厚な扉が見えた。暗証番号0122を入力してロックを解除し、扉を開けた。壁や天井まで真っ白な廊下に、目がちかちかするほど赤いカーペット敷かれた廊下が現れた。地下の割に空気が澄んでおり、心なしかスパイシーな高級感のある香りがする。これまでの薄暗い道のりからは想像もできないほど明るい空間で、最奥には金の装飾が施された豪華な扉ある。陽太はまぶしそうに瞬きをしながら、真っ直ぐ赤いカーペットの真ん中を歩いた。豪華な扉の少し手前に、「STAFFONLY」と書かれた小さな扉がある。陽太はその小さな扉を開けた。

陽太は体をかがめて部屋の中に入る。ロッカーの立ち並ぶ部屋の中で、壮年の男と若い男が立っていた。二人は何か話しているようだったが、陽太が入ってくる音で会話が遮られたらしい。二人とも驚いたように陽太の顔を見ていた。驚きも束の間で、壮年の男は陽太の顔を見て、ふっと笑顔を見せた。

「よかった。戻ってきてくれたか」

 陽太は頷くと、壮年の男に、先ほど女から盗った金、ラブホテルの料金を抜いて一万と数千円を渡した。男は金額を数えると、にっこりと笑った。

「いい塩梅だな。多すぎると危険だが、少なすぎるとつまらない。これぐらいだと賭けも盛り上がるな」

「帰りの交通費は残してやるくらいがちょうどいいんですよ」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 陽太がそう言うと、壮年の男は笑いながら陽太の肩をたたき、部屋から出ていった。

「……陽ちゃんお帰り」

 若い男がとろんとした笑顔で陽太に話しかける。

「涼、お前も今終わったところか」

 涼は頷くと、すがりつくように陽太に抱き着いた。甘ったるい香水の香りが、陽太の鼻をつく。

「今日の人、激しかったんだ。すごく疲れちゃった」

 涼は上目使いで陽太を見つめると、かかとを上げて陽太の口に舌を入れた。陽太もそれを拒むことなく、迎え入れることもなく、涼の好きなようにさせた。涼の舌ピアスが、陽太の歯に当たる。そのたびにカチカチと音が鳴り、陽太は顔をしかめた。涼の舌が口から離れると、陽太は鞄から水の入ったペットボトルを取り出した。

「変なにおいがする」

「えへ、おしっこ飲まされちゃった」

 あざとく笑う涼を睨みながら、陽太はがぶがぶと水を飲む。それを見て、涼は頬を膨らませた。

「陽ちゃんフェラの後にキスしてくれないタイプでしょ」

「それとこれとは違うだろ」

 ため息交じりに陽太が言った瞬間、隣の大部屋から音楽が流れてきた。

「……始まったね」

 涼は音楽が聞こえる方に、冷たい視線を向けている。

「見に行くか」

 陽太が涼に声をかけると、涼は「悪趣味」と低い声で呟いて、部屋を出ていく陽太の後についていった。


 二人は部屋を出ると、隣にあった豪華な扉を開けた。扉を開けた瞬間に、大きな音楽と話し声が耳にとびこんできた。小さなライブハウスのような、客席とステージが目の前に広がる。地下独特の湿った匂いと、人の熱気で、秋の夜とは思えないくらい暑苦しい空間だった。客席はほんのりと赤や紫色の照明が照らされて薄暗かったが、ステージには大きなスクリーンと元気な司会者がいて、うるさいくらいに明るかった。客席の前の方には革製のソファーが並んでおり、そこには畏まった格好をした壮年の男たちが座っている。客席の後ろの方には、肘と酒くらいしか置けない小さなテーブルが並ぶ立見席があり、そこには比較的若い男女がいた。すべての客が、スマートフォンを大事そうに握り締めている。

 陽太と涼は、速足で客席の一番奥に移動し、壁にもたれかかってスクリーンを眺めた。

「あ、一昨日やったやつが発表されているのか」

 しばらく二人は、会話もなくただスクリーンを見つめていた。司会者の大きな声が響くたび、会場は盛り上がったり落胆したりを繰り返す。そんな会場で、静けさを保つ二人の姿は異様だったが、客席の人間は二人に目もくれず、スクリーンに釘付けになっていた。

「あれ、悠希は?発表飛ばされているけど」

 涼の問いに、陽太は声を出さず両手首を二回ほど打ち付けた。

「あー、警察に捕まっちゃったか」

 爪を噛む涼を尻目に、陽太はため息をついた。司会者の声が会場に響き渡る。

「さて、お次は人気ナンバーツー「R.Y.O」の発表です!を貢がせる彼のスタイルには、これまでのデータは一切当てにならない!予測不能な、まさにギャンブル!さあ今回、彼が貢がせた金額は一体いくらでしょうか!」

 涼は大げさに肩を落とした。

「また人気ナンバーツーだよ。どう頑張っても陽ちゃんの人気を超えられないな」

「お前のセックスは万人受けしないからな」

 からかい交じりに陽太が言うと、涼は「そお?」と首を傾げた。目尻には笑顔がみえる。

客は一斉に手元のスマートフォンを操作した。スクリーンには三万、五万、四万五千と様々な金額が表示されていく、屈強な男たちが客席を巡回し、金を集めている。集められた金はステージに上げられ、なにやら番号順に整理されて並べられている。その作業が落ち着くと、司会者は再びマイクを握りしめた。

「締め切らせていただきます!今回は皆さま低めの予想になっておりますね!早速ですが今回の結果を発表します!」

 そこまで一気に言う司会者に、涼は顔をしかめた。スクリーンに表示されている数字は、一の位、十の位、百の位と徐々に桁が増えていく。それから目をそらすように、涼は頭を垂れて大きくため息をついた。

「あーあ、これはみんな外すよ。今回は結構な大金をもらったんだ」

「二十万円です!」

 陽太には、涼の声と司会者の声が重なって聞こえた。スクリーンにはでかでかと金額が表示され、愉快な音楽が鳴っている、しかし、客席は落胆の声で満たされていた。

「相手は年下の女じゃなかったか?よくこんなにも貢がれたな」

 陽太に目配せし、涼は短く答えた。

「リピーターだよ。僕のこと、可愛がってくれるんだ」

 それを聞いて、陽太も納得したのか、小さく頷いてスクリーンに目を戻した。

 ステージに積まれた金は、屈強な男たちによって回収されていく。残念がる声や不満は所々で聞こえるが、誰一人として席を立たなかった。

「さて、お次は人気ナンバーワン「ヨタ」の発表です。常連さまはもう彼の盗んでくる金額くらい予想がつくでしょう!先ほどのように、大きく外すことはないと思われます」

 不必要なくらい大きい声が響くなか、涼はふっと小さく笑った。

「何がおかしい」

 怪訝そうに陽太が言うと、涼はへらへらと軽い笑顔を浮かべた。

「なんで「ヨタ」ってコードネームにしているんだろって思ってさ。なんか可愛い」

「そうか。まあ、かわいげのない人間だからな。名前だけでも可愛くありたいんだよ」

 陽太の顔には、さっきまでの不機嫌な表情はなく、柔らかく冷たい笑みを浮かべていた。涼はその笑顔を覗き込んで静かに微笑んだ。

「それでは、皆さまの予想をお聞かせください」

 司会者の一声で、会場の客は再びスマートフォンを操作した。

 ここでは、法律も倫理もない、問題まみれの賭博が行われている。陽太や涼は、それに関わっている。

ネット上で性行為の相手を探し、一夜限りの関係を楽しんでいる人間は、この世の中にたくさんいる。陽太や涼などの「現場担当者」と呼ばれるスタッフは、性行為の相手を探している人間に近づき、彼らと体を合わせる。そして、行為を済ませた後は、バレないようにこっそり財布から金を抜く。この賭博は、その盗んだ金額を当てるものなのだ。客は現場担当者が盗んだ金額の予想をつけて金を出し、客の中で一番正解に近い予想をだした者が掛け金の二倍の金を得る。ぴったり当てた者には、なんと掛け金の五倍の金額が返ってくる。しかし一番予想金額が近い者でも、正解の金額と一万以上の差がある場合は、誰にも金は渡らない。シビアな賭けだが、たとえ大負けしても、客は満足げに会場から出ていく。予想をどれだけ外そうが、賭けに参加しただけで、特典として現場担当者の性交渉の様子を収めたビデオが、全ての客に配られる。リアルな隠し撮りで、むしろそれを目当てに来ている客も多い。この組織では、ほかにもたくさんの賭け事を行っているが、この『ベット』と呼ばれる賭け事が一番人気だった。

現場担当者のほとんどが男性だが、性交渉の相手は女性とは限らない。相手は老若男女様々で、じっくり愛撫をする丁寧なセックスからクスリを使ったセックスまで、幅広いジャンルを取り扱っている。

特に涼は現場担当者の中でも異質で、盗みを働かず、性行為の相手から金を貢がせている。ゆえに高額になることも多く、客の予想は当たりにくい。過去にホストをやっていた涼ならではの、特徴的なやり方だった。貢がれる金額は高額で、その金額を予想するのは困難だ。それゆえに金目当ての客からは嫌われていたが、中性的で男からも女からも美しいと思われる容姿と、ファンサービス、どんな行為もどんな相手も受け入れられる性的趣向の幅の広さから、熱烈なファンが多い。そのファンの応援だけで、この会場の人気ナンバーツーになったと言っても過言ではない。

一方、陽太は話術もなければ、顔もそれほど整っていない。男女どちらの相手もするが、涼ほど幅広くはない。大柄で骨のしっかりした体つきは魅力的であったが、それだけでは『ベット』の人気ナンバーワンにはなれない。陽太の人気の理由は、盗んでくる金額の安定性にある。陽太が盗んでくる金は、あまり多くない。金を盗んだことが、相手に気づかれないように、陽太は絶対に大金を盗らない。盗んでくる金が少額であるため、盗んだ金額の予想が当たりやすく、初心者が賭けるにおすすめの人物なのだ。この「金額が当たりやすく初心者向け」という評判があるがゆえに、予想を外した時の悔しさはひとしおである。「次は絶対当てる」と意気込んで、また陽太に賭けてしまい、そのまま陽太に賭け続けてしまうのだ。これの積み重ねで、陽太は『ベッド』の人気ナンバーワンに上りつめたのだった。

 今宵も、陽太の人気は凄まじく、陽太のコードネーム「ヨタ」を耳にしただけで、客は目を輝かせてスマートフォンを握りしめるのだった。

 陽太は無表情で画面を見つめていた。そんな陽太を、涼は見つめていた。

「さて、締め切らせていただきます!今回も一万円予想が多いですね!それでは早速ですが、結果を発表させていただきます」

 司会者の声が響き、会場が緊張で包まれたころ、ドラムロールが鳴り響いた。

「……今回の金額は……七千円です!」

かなり溜めて、司会者は金額を発表した。一部の客からは歓声が上がったが、会場全体としては落胆の声の方が多かった。

「ちょっと高めだね」

「ああ、確か独身の女だったと思う。もうよく覚えてないけど」

 言いながら煙草をとりだす陽太に、涼は微笑みかけて小さく「薄情、覚えてやりなよ」と呟いた。

「どうして?お前と違って、リピーターなんてありえない現場なのに、相手のこと覚えてもどうしようもないだろ。」

 陽太がそう言うと、涼は笑みを深くして、またスクリーンに目を向けた。

「さて、お次は女性担当者部門です!」

 司会者の声が、相変わらずやかましかった。

 その日、陽太は終電で帰った。陽太には明日も仕事の予定があったのだ。涼はいつも自分に賭けてくれるお得意様に挨拶をすると言って、会場に残った。

こんな時間から飯を作る気にもなれず、陽太はコンビニで売れ残っていたトンカツ弁当を買って部屋に帰った。十畳のワンルームには、ベッドと机、小さめの本棚とロボット掃除機しかなく、空間を持て余していた。陽太は見慣れた動画を垂れ流しながら無心で飯を食べた。軽くシャワーを浴びて、適当に髪の毛を乾かすと、下着姿でベッドに入ってそのまま目をつぶった。




翌日、陽太は朝から町はずれのカフェに向かった。陽太が店内に入ると、茶髪の細身な男が陽太に向かって大きく手を振っていた。その男の正面に座ると、男はにっこり笑った。

「陽太、今回の女は上玉だぞ」

 男はそう言いながらタブレット端末の画面を見せてきた。画面には若い女の横顔の写真が表示されていた。長い黒髪を持っていることは分かったが、少し写真がボケていて、顔ははっきりと見えなかった。

「黒髪ロング、お前の好みドンピシャだな」

 写真を見て、陽太は力なく笑った。男は冷めきった陽太の笑顔を気にも留めず、さらに興奮した様子で話し続けた。

「この女、年齢は二十三歳と言っているが、あまり信用はならない」

 男は画面を陽太に見せたままスクロールした。画面には下着姿の女が写っていた。鏡に映った自分を撮った写真で、スマートフォンで顔の下半分を隠していた。陽太は顔を歪ませて、すぐに周囲を確認した。男は、また笑った。

「人のタブレットの画面を見るやつの方が変態だから、気にすんなよ。それより見ろよ、これ」

 陽太はゆっくりと画面に視線を戻した。下着姿の女の体、少し痩せているが、二の腕や胸、太ももには適度に肉がついており、むっちり柔らかそうで、肌もつやつやだった。しかし、陽太はそれよりも、腕に残る細かい傷跡と目元の不自然な化粧が気になった。

「……二十三歳かぁ」

 陽太が顎をさすりながらつぶやくと、男はにやっと笑った。

「ちょっと変だよな。嫌な幼さがあるというか、どこか芋っぽいんだよな。身体は満点だけど」

 ニヤニヤする男に、陽太は冷たい視線を向けていた。年齢不相応な雰囲気をもつ女を、陽太は非常に警戒している。男は陽太の表情を一瞬見て、画面に視線をもどした。

「文章で会話する分には、年相応というか、普通に礼儀正しくていい子なんだよ。ただ、文章から受ける印象と、実体がかけ離れているんだよな。年齢詐称の可能性はあるけど、まあ会う約束はとりつけたから、適当に会ってすませてほしい」

 基本的に、現場担当者は自分で性行為の相手を見つける。メッセージでコミュニケーションをとれるものを利用して、相手と連絡を取り、自分で性行為のアポイントをとりつける。しかし、陽太は文章で人とコミュニケーションをとることが苦手で、会う約束をとりつける段階で失敗することが多かった。そのため、この安田という男に、性行為の約束を取り付けるまでの仕事を任せている。安田はコミュニケーション能力に秀でており、とってくるアポイントの数は「ベット」で一番多かった。しかし、安田は盗みが下手で、何度も危ない目にあっていた。そのため、今は修行という体で陽太の補佐に入っている。陽太は安田から、今日会う女がどのような人で、アポイントをとるまでにどのような話をしたのかを聞き出し、その情報にそって行動している。

「……今日はどこに向かえばいいんだ。」

 コーヒーを飲みながら陽太が尋ねると、安田はタブレットを操作しながら答えた。

「夕方五時に鮒尾駅に集合だ。女の名前は優ちゃん。そんで、今回のお前の名前は健司だ。」

 女と会う時に使う陽太の偽名も、毎回安田が考えている。盗みを行うため、同じ名前を使い続けることはない。

「……時間が早いな。」

 陽太はコーヒーカップを回しながら、そう呟いた。安田は不敵な笑みを見せる。

「家の事情で、遅くても十時までに帰りたいんだとよ。家の事情ってなんだろうなぁ。門限かなぁ。二十三の娘に、門限なんてつけるかなぁ」

安田はわざとらしく体を揺らしながら、陽太の顔を覗き込むように問いかけた。陽太は何も答えず、またコーヒーカップを手に取った。

 安田と陽太は今日の現場、この先の予定について打ち合わせて別れた。カフェには一時間も滞在しておらず、陽太はついでにどこかに行くわけでもなく、まっすぐ家に帰った。まだ昼にもなっていない。冷蔵庫に残っていた食材で、適当に作り置きの料理を作ると、陽太はその料理を食べずにそのままタッパーに詰めて冷蔵庫に戻し、ベッドに身を投げると不貞腐れた顔のまま目をつぶった。

 三時半に陽太は目を覚ました。朝に作った料理を少しつまんで、適当に身なりを整え、部屋に転がっていたウエストポーチを持って、そのまま足早に最寄り駅まで向かった。

 最寄り駅から電車に乗り、三十分ほど揺られたところに、今回の集合場所である鮒尾駅がある

 鮒尾駅はそこそこ大きな駅で、近くに飲食店が立ち並び、うまそうな匂いをさせて陽太の食欲を刺激した。今から飯を食う時間はなかったが、帰りに一つ寄ってみてもいいかもしれないと、辺りの店を見渡していると、視界の端に陽太の顔色をうかがいながら近づいてくる女性が見えた。

 白いブラウスに紺色のスカート、長くて艶のある髪をもつその女性は、遠目から見ると二十代そこそこに見えたが、近づくと化粧の歪さが目立った。写真ほど派手な化粧ではなかったが、服装が大人びているせいで、拙い化粧が悪目立ちしていた。陽太はこの女が、今日会う予定の女だと確信した。

「優さんですか?」

 女を見つめて、声をかけると、女の表情はパッと明るくなった。

「優です!健司さんですよね?」

 陽太は明るい笑顔で頷いた。優はさらに笑顔になる。

「よかった。写真は見ていたけど、それよりもずっと大人っぽい人でびっくりしました」

 安田はこの子に自分のどんな写真を送ったのだろうか。後で問い詰めてやろうと思いながら、陽太は優に笑顔を向けた。

「……早速ですが、いきますか。場所はこちらで手配しているので」

 優はちらっと陽太を見つめ、照れくさそうに微笑んだ。

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