優しい失恋
濵口屋英明
優しい失恋
「前の車を追ってくれ!」
「なんだ、それ」
ご陽気に車に乗り込んできたハルナを俺は軽くあしらった。ハルナは明らかに酒に酔っていた。いつもと同じ、楽しい酔い方をしていた。こっちまで楽しくなる気持ちのいい酔い方だ。
「もう、ノリ君。冗談、冗談。どうも、マイケル・ムーアです。ギャハハハ!」
「はいはい。じゃあ、行くよ」
後部座席にぐてーと座ったハルナをバックミラーで確認すると、俺は車を出発させた。
「いや、悪いね、いつも送ってもらって」
酔いが醒めてきたのか、口調がいつものハルナに戻ってきた。
「別に」
「家まで送るのって、本当はタカ君の仕事なのにね」
タカは俺の親友でハルナの恋人だ。
「しょうがないだろう? タカは車の免許を持ってないんだから」
「それなのに『女の一人歩きは危ないから送ってもらえ!』なんて言うんだから。それで、いつも車を運転することになるノリ君の苦労も考えろっていうのよ」
窓に恋人の顔を思い浮かべたのだろうか、ハルナはプンスカ怒りながら窓ガラスをコツンと叩いた。
「いいよ、別に。俺、車の運転は好きだから。それに……」
「それに?」
「い、いや、なんでもない」
危ない。余計なことを言うところだった。俺はフーと細く息を吐いた。
「こんなかわいい子とドライブできて楽しいなって?」
「なっ!」
「照れない、照れない!」
ハルナが俺の肩を後ろからバシバシ叩いた。
「だ、誰が親友の彼女に手を出すんだよ!」
「あ~、美しいね~、男の友情」
ハルナは男の友情を愛でるように、胸に手を当て、まぶたを閉じ、感慨深げな笑みを浮かべた。その直後、何かを思い出したかのようにハッと目を開けると、ハルナは俺の肩をツンツン突いた。
「ん?」
「この間、タカ君にね」
「うん」
「ノリ君とタカ君が仲良すぎるから『私とノリ君とどっちが好き?』って聞いたの」
何ともバカバカしいことを。俺とハルナがタカを取り合う。想像しただけで気分が悪くなった。
「当然、ハルナが好きって答えたんだろう?」
「うん、そうなんだけど……、答えるまでに少し間があったよ」
「やめて~、気持ちの悪い」
俺は吐くようなジェスチャーをした。それを見てハルナはカラカラと笑った。
「とか言って、私のタカ君を盗らないでよ!」
「マジやめて。それ以上言われたら本当に吐く」
ハルナはまたカラカラと笑った。ハルナがあんまり楽しそうに笑うから俺は嬉しくなった。
「ノリ君は彼女できた?」
笑いが少し落ち着いてきたハルナが唐突に尋ねてきた。俺は動揺してハンドルを少し揺すった。
「え? ……いや、まだ」
「好きな人は?」
ハルナはバックミラー越しに無邪気に笑いかけてきた。
「好きな人は……いるよ」
俺の告白を聞いてハルナのテンションは跳ね上がった。
「えーっ! マジ! どんな子? ねえねえ、どんな子?」
「どんな子?」
「芸能人で言うと?」
ハルナは助手席の枕部分にほっぺたをくっつけるぐらい前のめりになっていた。好奇心いっぱいといった感じで、俺に向けられたハルナの目はランランと輝いていた。
「うーん、むずかしいな。強いて言うなら」
「うんうん!」
「映画『少年メリケンサック』の宮崎あおい」
記憶をたどるようにハルナは前のめりをやめて目を上に向けた。しかし、なにも思い出せなかったようだ。また先ほどのように前のめりになり助手席の枕にほっぺたをくっつけた。
「わかんない。詳しく」
「えーと、明るくて、素直で、一途で、少し無遠慮で」
「少し無遠慮って、なに?」
ハルナは首をかしげた。
「人の心にズケズケ入り込んでくる感じ」
まだハルナは首をかしげたままだった。
「えー、例えば?」
「うーん、そうだな……、無遠慮に好きな人のことを根掘り葉掘り聞いてくるとか」
「へえ。そんな人いるの?」
「おいおい」
「え?」
「いや、別に」
ハルナの好奇心は満たされたのだろうか。ハルナは前のめりをやめて後部座席に座り直して窓の外を眺め始めた。俺は何事もなく俺の恋愛話が終わったことに安堵した。と同時に少し残念に思った。
「あ、そうだ!」
ハルナが急に大声を出した。
「え、なになに?」
「今日、湾岸線を通って帰らない?」
「ええ? ちょっと遠回りだよ」
体を起こしたハルナがななめ後ろから俺の肩を掴んで揺すってきた。
「いいじゃん! 雨上がりの星空ってめっちゃキレイだからさ!」
「めっちゃキレイだから、なに?」
ハルナはほっぺたを膨らませた。
「もう! ノリ君はもっと女心を勉強しなさい!」
「今の場合は、女心って言うよりハルナ心だろ?」
俺の反論にハルナの肩揺すりが激しくなった。
「えーい、うるさい! 雨上がりの夜空に女の子がどれだけウットリするのか見せてやるから!」
「えー、マジでー」
ハルナは何度も前を指さした。
「ほれ、ほれ、さっさと行く!」
「はーい」
俺はウインカーを出すと車線変更を行い、進行方向を湾岸線へと変更した。
「もう、ノリ君はいつもそうよね」
「なにが?」
「何かしようとするときに、いつもあーだこーだ言う」
少し唇を尖らせたハルナの口調は、少し怒っているように聞こえた。
「えー、そう?」
とぼけた俺の返事がハルナの怒りに油を注いだようだ。ハルナの口調がキツくなった。
「なんていうか、心のアクセルを踏み込むのが遅い!」
「まあ、アクセルの踏み込みのことは教習所でもよく言われたけれども」
「一事が万事!」
ほら見ろと言わんばかりにハルナは『んふー』と鼻息を吹いた。
「えー、なんで俺、怒られてるの?」
「いい?」
ハルナは運転席と助手席の隙間に体をねじ込んできて俺にドヤ顔を見せた。
「男はね、少々強引でも、ぐいぐい引っ張っていくぐらいじゃないと」
「それなりにやってるよ」
「本当に~?」
ハルナはニヤニヤしながら、疑いの眼差しを俺に向けてきた。
「さっき言ってた女の子にも?」
不意打ちをくらって俺は一瞬息を詰まらせた。
「も、戻すね~」
「戻したよ~。恋バナはブーメランだと覚えておいて」
俺の驚いたのが面白かったのか、ハルナのニヤニヤは止まらなかった。運転席と助手席の隙間から体を抜いて、今度は助手席側の後部座席からバックミラー越しに俺にちょっかいを出し始めた。
「で、どうなの?」
「どうなのも、なにも」
「もう! 押しよ! 押し押し!」
ハルナはお相撲を真似て運転座席にツッパリを入れてきた。ツッパラれるたびに俺の体が軽く跳ねた。ハルナの追及に俺の鼓動も強く跳ね始めた。
「とりあえず、好きとは伝えているんでしょうね?」
「いや、……まだ」
「え~、なんで~?」
ハルナは失望の声をあげながら、ツッパリの手をダルんと下に落とした。
「まあ、周囲の状況とか、その、様々な問題が……」
弱気な俺の態度にハルナの声は再び大きくなった。
「そんなの関係ない! 自分のやりたいようにやればいいじゃない!」
「相手が困るかもしれないよ?」
「そんなのも無視っ!」
「ダメだよ」
「なんで!」
「好きな人が困るのはダメだよ」
いつになくハッキリ口答えした俺にハルナは面喰ったようだ。
「うーん。それは、まあそうだけど……」
いつもの冗談交じりのやり取りで踏み込んではいけない純情だとハルナも気がついたようだ。ハルナに気を遣わせてしまった。気まずさを紛らわせるために、俺は努めて明るい声を出した。
「まあ、この考え過ぎがダメなんだろうね。だからモテないんだ」
我ながら自虐が過ぎたなと思った。まあこの場を明るくするためだからいいか、とか考えながらハルナを見ると、ハルナは笑わず真面目な顔だったので少し驚いた。
「そんなことないよ。ノリ君、モテると思うよ」
「そ、そう?」
「少なくともタカ君よりは」
心がチクッとした。
「おいおい、自分の彼氏をそんなふうに」
俺はできる限り平静を装った。
「本当に、そう思うよ」
悪気のないハルナの言葉が俺の心を刺激する。
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ……」
急に何も知らないハルナに怒りが湧いてきた。俺の気持ちをまるでわかってないハルナをわからせたいと思った。純粋無垢な顔をしたハルナを見て、俺は気持ちを抑えられなかった。
「じゃあ、なんで、タカと付き合ってるんだよ」
「え?」
「俺とタカ、ハルナと知り合ったのは同時だよ」
「……」
「タカより俺の方がモテるなら、俺と付き合ってるはずだろ?」
「……」
「だったら……」
「なんで?」
黙っていたハルナが口を開いた。
悲しそうな、謝っているような声が、俺の想いをまっすぐに見つめているように感じた。
「なんで、そんなこと言うの?」
「あっ……」
「なんで、今?」
「……」
「私、困っちゃうよ……」
もう、バックミラーは見ることができなかった。ハルナが声を詰まらせたのが答えだった。
「……あー、なんだかなー」
俺は再び無理をして、明るい声を出した。
「え?」
泣きそうになっていたハルナが驚いて顔を上げた。
「酔っちゃったかなー」
パワーウィンドウのスイッチを操作し、俺は運転席側の窓を少し開けた。
車はいつの間にか湾岸線に入っていて、潮の香りを含んだ冷たい風が、ずいぶん薄くなった車内の空気に引っ張られるように飛び込んできた。
「酔った?」
「ほら、雨上がりの星空があんまりにキレイなんで、雰囲気に酔ったというか、その……」
俺は早々に取り繕う言葉をなくしてしまった。そうして、少し黙った後、俺とハルナは同時に笑い出した。
「フフフ」
「ハハハ」
ハルナはひとしきり笑うと、ホッとした顔をした。そして、少し濡れた目を細めて笑顔を見せた。
「でしょ? 女心がわかってきた?」
「あ、これか。これが女心? 勉強になりました」
俺はペコペコと頭を下げた。ハルナはヨシヨシと何度か頷いた。
「じゃあ、いま学んだことを活かして、前へ進んでください」
「前へ?」
ハルナは濡れたまつ毛で何度もまばたきしながら、バックミラー越しにまっすぐ俺を見つめてきた。
「そう。前へ」
そうか。ハルナは優しいな、と俺は思った。なんて優しい失恋。
その清々しさに気持ちを新たにすると、俺は、いつものように少しおどけた。
「前って、どっち?」
ハルナもいつもの明るさで笑った。
「それを、今、私に聞く?」
「あ、すいませんでした」
「まったくもう!」
ハルナは大げさに怒ったふりをして、フンッとしかめた顔を窓の方へ向けた。
窓の外には湾岸線の道路照明灯がオレンジの尾を引いて流れていた。窓から飛び込んでくる灯りは車内を明滅させ、まるで、今この瞬間を古いフィルムで撮影しているかのように感じさせた。
ハルナはいつの間にか顔をしかめるのをやめて、窓の外を眺めていた。
ハルナも俺と同じように、今この時が素敵な思い出になると感じてくれていたらいいなと俺は願った。
「でも、また」
「また?」
「また、こうやってドライブしようね」
「うん」
おわり
優しい失恋 濵口屋英明 @hamaguchiya
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