10、新たな旅立ち

 賤竜救出作戦から、早くも三日もの歳月が流れた。


 その間に福峰(ふくほう)では色々なことが起きた。


 まず、突如(とつじょ)として領主の懶漢(ランハン)が“病に伏せている”との公表があった。

 長らく抱水(バオシュ)が表舞台に立ち続けた理由が明かされ、民衆は驚きつつ、口々にその健闘(けんとう)を称えた。そうして、一日でも早くの領主の快癒(かいゆ)を祈ったのであった。


 第二に、蟲人(こじん)らの不当な扱いへの言及(げんきゅう)だ。此度(こたび)の三つの塔破壊(とうはかい)から船舶奪取事件(せんぱくだっしゅじけん)を重く見たものか、蟲人たち側の陳情も受け入れる旨が通達された。


 これには反発もあっただろうが、冽花らにとっては祝杯ものだ。この街に来て三回目の紹湖酒(しょうこしゅ)が傾けられ、油爆河蝦(ヨウバオハーシア)(川エビ炒め)が供(きょう)されたのだった。


 第三は――今、冽花(リーホア)が借りている部屋で、窓辺(まどべ)で陽射(ひざ)しを当てているものだ。


 白と黒の勾玉である。そう、あのすべての始まりである勾玉がもう一対見つかったのだ。


 発見場所は左翼楼(さよくろう)の柱のなかである。


 あの破壊活動は、あらかじめ冽花が弱い箇所(かしょ)を陰気で傷つけておき、後から仲間たちが後押しすることで可能としたものだったのだが。最上部の柱から出てきたらしい。


 これには賤竜(ジェンロン)も首をかしげていた。なぜなら、設計者の抱水がそれについて何も言っていなかったためである。


 彼の口ぶりから察するに、陰型(いんがた)の復活はむしろ臨(のぞ)むところであったはずなのだから。


 とにもかくにも冽花らの手に渡った勾玉は、昼には陽光を、夜は太陰光(げっこう)を浴びせられて、開錠(かいじょう)の時を今かいまかと待たれている状態だった。


 気持ちよい陽光を浴びて、冽花は伸びをする。


 と、ここできゃらきゃらと子どもが笑う、微笑ましい音(ね)が聞こえてきた。


 おもわず吸い寄せられるように扉を開けると――冽花は顔を引き攣(つ)らせてしまった。


 開け放たれた慕(ムー)の寝室で、明鈴(ミンリン)と賤竜が戯(たわむ)れている。それはいい。それはいいのだが。


 問題は、賤竜が頭に赤い手絹(ハンカチ)を被り、腕には可愛らしい猫の人形を抱いている点だ。傍(かたわ)らでは明鈴が小さい皿や器を勧(すす)めている。


 飯事(ままごと)の最中らしい。


「……なあ、それはどういった役回りなんだ?」


 おもわず近づいてツッコミ――もとい話しかけると、二人は揃(そろ)って見てきた。


 ぱっと顔を明るくした明鈴が「姐姐(おねえちゃん)!」と言って駆けくるなり、「見てみて」と彼女の手をひく。賤竜のもとへと連れてくる。


「きれいでしょう。およめさんなの!」


『ああ、此は花嫁(はなよめ)の役回りだ』


「角色不相性(ミスキャスト)にもほどがあんだろ!」


 相変わらずクソ真面目に告げる賤竜に、頭を抱えて冽花は叫(さけ)んだ。そんな冽花の指摘(してき)に、明鈴は不満げに口をとがらせる。


「えー。きれいなのに。えっと……じゃあ、姐姐が……だんなさんやる?」


「あ?」


「帅哥(おにいちゃん)がおよめさんだから、姐姐がだんなさんなの! で、これ! これもって、姐姐。んで、ここにすわるの!」


「お!? お、おう」


 ぱんぱんと賤竜の横をたたく明鈴。言い得ぬ圧に負けて、冽花は座(すわ)らされた。手にしたのはまぁるい器である。賤竜も猫の代わりに同じものを持たされる。


「これでおさけをのむでしょ? こうかんこして、もういっかい」


「ああ、合卺(ヘイジン)だな? 飲んだら一つを上にむけて、一つは下むけて捨てるってやつだろ」


「そうそう! ながぁくなかよくできるように、って。それでね、そのあと……」


「ん? まだなんかあったか?」


「ぷちゅってやるの。むちゅーってやるの、姐姐!」


「…………は?」


 冽花は目を点にする。ぷちゅ、むちゅーの意味とは。むちゅーと言っている明鈴の口が、おちょぼ口になっていて可愛いのは分かるものの。


「なにそれ」


「んもう。慕阿姨(むーおばちゃん)からきかなかった? おくちとおくちをね――」


「おっと。どんなことか分かったよ。なんだって姐さんは明鈴にンなこと教えたんだ」


「あのね、阿姨のだんなさんがしたんだって。ふわーっとしあわせになれたんだって!」


「っとっと、惚気(のろけ)だったなあ!!」


 冽花はまたまた顔を引き攣(つ)らせざるを得ない。あの夫婦の鴛鴦夫婦(おしどりふうふ)ぶりはここいらではよく知れたものだったのだ。


 そして、そんな片割(かたわ)れの薫陶(くんとう)をうけた明鈴は止まらない。しきりと身を乗りだすなり、笑顔で行動をうながしてきた。


「さ、さ、姐姐、おさけをのんで!」


「いや、明鈴……って普通に飲んでるじゃねえか、おめえ!」


 なんとか辞退(じたい)を試みたが、その前に隣が行動していた。


 この騒(さわ)ぎのなかで平然(へいぜん)と器をかたむける男、賤竜。彼は横目で見返すなり告げる。


『骸(むくろ)だが、振りならできる』


「いや、そういう問題じゃなくてさ……明鈴、あの……」


「帅哥はうえにむけてなげてね。姐姐はした!」


「……だぁぁ――ッ!!」


 逃げられない。もうこの期待に満ちた瞳から逃げることができない。冽花はやけくそになり器をかたむけた。賤竜が器を差し出してくるので、口をひん曲げつつ受け取った。


「もういっかいだよ、姐姐」


「…………ああ」


 きらっきらに輝く瞳が一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)を見てくる。冽花は再び器をかたむける振りをしながら――隣の賤竜を盗み見た。


 憎(にく)たらしいぐらいに変わらぬ真顔がそこにはあった。冽花は内心で舌を打つ。まったく真面目なんだから――けれども、ふと気づいた。気付いてしまった。


 冽花のちょうど視線の高さに持ち上がる片手。器をかたむける折に浮く、骨ばった手の筋を。どきりと冽花の胸が鳴る。そのまま勝手に瞳はその横顔へと移る。


 おのずと伏せられた目元は、思いのほか長い睫毛(まつげ)が影を落とす。


 画(え)になる男がそこにはいた。たとえ、頭に手絹(ハンカチ)を被っていたとしても。


 冽花は少しずつ首から熱(あつ)い熱が昇(のぼ)ってくるのが分かった。


 そういう目で見たことなど一度もなかった。なぜなら、賤竜はずっと“哥哥(あにさま)”であり、それ以上でも以下でもなかったのだから。


 我とわが身に動揺(どうよう)する。と、ここで賤竜の瞳が上げられた。冽花を見てくるため、ハッとし冽花は慌てて器を放り投げた。


 ここで明鈴の機嫌(テンション)は一気に跳ね上がる。小さい手を組んで、一生懸命(いっしょうけんめい)おちょぼ口で告げるのだった。


「姐姐、むちゅー」


「いやいや。いやいやいや、明鈴」


『此は別によいが』


「お前にゃ聞いてねーよ、クソ真面目がよ!」


 冽花は真っ赤に顔を茹(ゆ)であげ、いっぱいいっぱいだ。歯を剥(む)きだし、威嚇(いかく)する様をみて、何を思ったのか、賤竜が頬に手を宛(あ)てがってきた。


 かちりと冽花は固まる。賤竜の顔がぐっと近づけられる――かと思えば、至近距離(しきんきょり)で洞の底のような目が覗いてきた。


『陽気が著(いちじる)しく活性化(かっせいか)している。熱がでたのか?』


「……へ?」


「え。姐姐、びょーきなの!?」


「ちっ……ちが……ちがうから!」


 賤竜はやっぱり賤竜な解釈(かいしゃく)をするあたり、ほっとするやら何やら。冽花はぺしりとその手を払いのける。いや、のけようとし、ふと手に手を重ねて静止(せいし)した。


 奇妙な既視感(きしかん)があったからだ。


 頬と手より染みこんでくる冷えに、骨ばった手の感触。頬に当たっているのは、恐らく棍(こん)によるものだろう胼胝(たこ)である。


 この感触(かんしょく)には覚えがあった。でも、どこで? 賤竜にこうして触れられたことなんか――否。沸騰(ふっとう)した頭はきちんと関連情報を拾いあげた。熱に浮かされているという共通項(きょうつうこう)も手伝ったのだろう。これまた超自然的(ちょうしぜんてき)に。


 あの炭焼き小屋の記憶が蘇ってきた。朦朧(もうろう)とした意識のなかに、すっかり忘れ去られていた記憶であった。


 密かに賤竜をして、“凡骨(ぽんこつ)甘(あま)ったれ”だと評(ひょう)したアレだ。


 冽花は完全に茹(ゆ)であがった。


「こっ……」


『……? こ?』


「殺してくれぇぇ!!」


『なんと』


 突然の他殺(たさつ)され衝動に賤竜もびっくりだ。頭を振り乱し掻(か)き毟(むし)りだすため、幸か不幸かその手は外れた。冽花はなおも懊悩(おうのう)する。


 見られた。見せた。触られた。あ、あんなところも、こんなところも見せちまった!! 


 羞恥(しゅうち)と懊悩――そして咆哮(ほうこう)をあげてしまうのである。


「うわああ――ッ、あたしとしたことが! あ、あんなこと……あんなことまでしちまうだなんてぇぇ――!!」


『なんだか知らんが落ち着け、冽花』


「これが落ち着いていられるかよ!!」


 もはや冽花は、感情の閾値(いきち)をこえて涙目である。


 あんなところも見せてしまったのだから仕方ない。あんなこっ恥(ぱ)ずかしいところも見られてしまったのだから仕方なかった。もうお嫁に行けな――ぽん、と頭に載(の)る掌(てのひら)があった。よしよしと撫(な)でられる。


 冽花はぎりぎりと歯を食いしばった。そして、力いっぱい叫ぶのであった。


「そういうところだぞ、お前!!」



 ※※※



 その日の夜、冽花の部屋に賤竜が訪れてきた。


 相談したいことがあるとのことで、冽花は背筋(せすじ)を正して彼を迎えたのであった。


 椅子(いす)を勧めて、自身は牀(ベッド)に腰をおろし、彼を見やる。賤竜は相変わらず感情の読めない真顔で、けれど、少しだけ神妙(しんみょう)な面で対面に腰を据(す)えたのだった。


「で、相談したいことってなんだよ?」


『うむ。今後の方針についてだ。此は他の陽型(ようがた)らのもとにも訪れたいと考えている』


「またどうして?」


『一つは、他にも陰型の同胞(どうほう)が見つかる可能性を考えてのことだ。今回の件で、何ゆえか抱水のもとに封(ふう)ぜられていた。なら、何らかの形で、他の同胞らも配されている可能性があると見た』


「なるほどね。ちなみにお前の仲間ってあと何人いるの?」


『此度の者を除外すると三体』


「ぜんぶで五人いるわけか……ってことは陽型も五人。貴竜(グイロン)のとこも含めると、あと四か所回る必要があるわけだ」


『然(しか)りだ。また陰型の同胞をさがす以外に、陽型の同胞の動向(どうこう)もさぐる意図(いと)がある』


「陽型の仲間の?」


『……言っていなかったのだが、あの塔を破壊したのには、陽動作戦(ようどうさくせん)以外にも理由がある』


「どんな理由だよ?」


『あの場を流れる龍脈は整えられすぎていた。喜水城(きすいじょう)の栄達(えいたつ)を旨とし、それ以外は切り捨てると言わんばかりにな。その影響が、あの到着時の事件……抱水が対応していた諸々(もろもろ)の事件であり歪(ひずみ)。ひいては港湾地区(こうわんちく)の荒廃(こうはい)に繋がるのだと、此は予測している。ゆえ、その是正(ぜせい)だ』


「…………は?」


 それまで大人しく聞いていた冽花だが、ここでぐっと身を乗りだした。その目は興奮(こうふん)で早くも瞳孔(どうこう)を開いており、尾は膨れあがっている。


「じゃあ、何か? 抱水のせいで同志(どうし)らは苦しんでたって……そうなるわけかよ?」


『あくまで予測の域を出ない。が、抱水の反応を見るに、その可能性は高かろう。情報が足りぬのだ。お前も知っての通り、抱水は真面目な男だ。おのれの本分は果たす。ゆえ、おかしいのだ。かような私欲(しよく)にまみれた運用は逆に避(さ)けるはずなのだが』


「あたしはあいつを思いっきり殴(なぐ)りたい気持ちでいっぱいだよ、今。悪いけど」


『そう言うな。あの反応を見るに、罪責感(ざいせきかん)はあろう。その上でおこなっていたのだから、何らかの理由があってのことなのだ』


「……なるほどね。その理由を探るために、他の奴(やつ)らんとこにも行くってことだな?」


『然りである。また、同じことをしているのなら是正せねばならない。それが此の責務(せきむ)であるがゆえにな』


 納得がいった冽花は頷き返した。


「いいよ、付き合う。こうなりゃ乗りかかった船だ。どの道、貴竜には会いにいかなきゃならない。その前に二、三人増えようと一緒だよ」


『有り難い。出発はいつにする?』


「早い方がいいだろ。でも、その前に情報を集めなくっちゃな。どこに風水僵尸(ふうすいきょうし)がいるか調べないと」


『支部の書架(しょか)を使わせてもらえるだろうか?』


「頼んでみる。とりあえず、分かり次第出発ってことで」


 掌(てのひら)をひらつかせて冽花は締めくくった。と、ここで賤竜が目を細めているのに気付く。その表情がどこか柔らかいのを見て、冽花は首をかしげた。


「なんだよ?」


『いや。思えば、こうして契約者(けいやくしゃ)とやり取りし、事を決めるのは初めてだと思ってな』


「は? 今までどうしてたんだよ? ……あ、待った、分かった。命令されるまま従ってたんだろう?」


『その通りだ。何故分かった?』


「分からないはずないだろ。お前って、“自分が道具”以外の意思表示(いしひょうじ)、ほとんどしないんだもの」


 言われて、じわりと目を見開かすので、冽花は溜息(ためいき)をついた。


「たぶん、あたしがなんーっも知らないからだよ。まだお前が積極的に働きかけるのはさ。でなけりゃどうして、初対面のあたしを“お前を守り抜く”に繋(つな)がるんだよ」


『それは……』


「お前にだって心はあるだろ? 仮初(かりそめ)とはいえさ。最初は……あたしが見てられなくって、世話(せわ)焼いてたんだよ。今はもちろん違(ちが)うって分かるぜ?」


 足を組んでその上で頬杖(ほおづえ)をつく。にんまり笑ってみせると、賤竜は瞬くなり視線を逸(そ)らした。その瞳が今度は伏せられて、なにやら深刻(しんこく)げな色を醸(かも)しだすので、冽花は首をかしげた。


『此は……正直に言って、今のおのれの状態が把握(はあく)しきれずにいる』


「おのれの状態って?」


『例えば、ふとした弾(はず)みでお前を撫(な)でる。こんなことは今まで起こり得なかったことだ』


 掌を見下ろし、彼は眉を寄せる。そんな賤竜に冽花は瞬きを落とした。


 遅れて、おもむろにくっ、と小さく喉(のど)を鳴らす。あんまりにも賤竜が、なんてことないことで悩んでいるのを知って、可笑(おか)しくなったのであった。


 冽花の反応に怪訝(けげん)げにより眉が寄る。そのしかつめらしい反応すら今はおかしい。


「っ、悪いわるい。でも、あれ、自分でも分からないままやってたのかよ?」


『そうだが。お前には此の不可思議(ふかしぎ)な行動の理屈(りくつ)が説明できるというのか?』


「説明できるも何も、それがお前の心の動きってやつなんだろうよ」


『此の』


「心の動き。要はあたしを宥(なだ)めたくなったり、んーと……慰(なぐさ)めたくなったりしてるんだろうよ」


 自分でも言っていて面映(おもは)ゆくなり冽花は頬(ほほ)を掻(か)く。出会って幾度撫でられたことだろう。意図してやっていることだと思っていたが、まさか思わずのそれだったとは。


「風水僵尸だからって、何も心まで囚(とら)われなくてもいいんじゃないか? 抱水なんて全然自由だったじゃんか。あいつなりに色々思うところはあったみたいだけど」


 四阿(あずまや)にまで聞こえてきた抱水の話し声を思い出す。


 彼は彼なりに自分の在り方に悩んでいたようだ。もっとも、窒息(ちっそく)させられかけたことや同志にしたことを思えば、同情はしきれないのだが。


「あたしも自由にやるからさ。お前も自由にしなよ、賤竜」


『それは命令か? 冽花』


「違うよ。お願いであり提案(ていあん)」


『お願いであり……提案』


 また眉間(みけん)にしわを寄せて考えるため、冽花は掌をひらつかせて応じた。


「ゆっくり考えなよ。時間はいくらでもあるんだからさ」


『……さように言ってきたのはお前が初めてだ』


「そう? じゃあ、今までが、よっぽど仕事しか頭にない人が相手だったか、お前が事務的に対応してたかの、どちらかだな」


 人は相手が人間だと思うから、対人間の対応をするのである。


 相手を道具として見ていたり、逆に賤竜のように自分を道具として扱っていれば、そういう対応を受けるのもまた必然であった。


 獣扱いが基本の、蟲人の冽花からすれば当たり前の理屈であったのだが。賤竜にはいまいちピンときていない様子であった。


「まあ、要するに自分を大事にしろってことだよ」


『それは――』


「お願いであり提案」


『……やはりか』


「逆に言うけど、あたしが命令できることなんて、ほっとんどないと思うぜ?」


 確かに熱に浮かされた折に管(くだ)を巻いたが。あれは熱に浮かされてのことなので、冽花的には無しの方向である。


 賤竜は再び目を見開かせて、冽花を見やった。


『お前は此に望まぬのか。栄達(えいたつ)や富(とみ)を』


「別に要らないな。必要なぶんはもう間に合ってるし。それに言ったじゃん。あたしは妹妹(メイメイ)の願いを果たしたいから、ここにいるんだって」


 自分の猫耳を指さして告げると賤竜は黙りこくった。


「別に偉(えら)くならなくていいし、お金もそんな要らない。そんなことしなくても、お前は、お前だからこそ価値があるんだよ。あたしにとってはさ」


『ぬう……』


「それに、今は哥哥(あにさま)だって他に、いい奴だってことも分かったし。大事な奴だよ、お前は」


 ちょっぴり照れ臭くなり冽花が肩をすくめると、賤竜は瞬いてきた。ついで、じわりと目を細めるので、つられて笑った。


「そういうこと。だから、そんな深く考えなくていい。お前はお前のまんま自由にやれよ」


『了解した』


「それじゃあ、もう夜も遅いし寝るか。明日から色々動いていこう」


 大きく伸びをし冽花が立ち上がると、賤竜も立ち上がる。扉まで送っていくと、最後に賤竜は振り返った。その目は細められたまま、低くも柔(やわ)らかい声音が告げる。


『晩安(おやすみ)、冽花』


「おっ。……うん、晩安(おやすみ)、賤竜」


 目を丸めたものの、冽花もまた微笑み返したのだった。



 ※※※



 それからさらに二日ほどかけて、二人は情報収集を終えた。


 次なる目的地は高原に位置する、花と緑の都、春海(チュンハイ)である。その場にいるであろう風水僵尸(ふうすいきょうし)の情報もつかめ、冽花と賤竜は表情をひきしめ頷き合ったのだった。


 旅立ちの準備にさらに二日ほどかけて、二人は今、虎浪軒(ころうけん)のまえにいた。


 折しも空は快晴であり、旅立ちには打ってつけの日だ。


 例によって二人して围巾(ストール)をきっちり巻いた姿だったが、その下に鞄を斜めがけし、その出で立ちは完全に旅装のものとなっていた。


 その場には慕(ムー)のほかに浩然(ハオラン)、明鈴(ミンリン)の、三人がつどっていた。


 明鈴は腕に人形をだいて、しょんぼりと項垂(うなだ)れている。二人が旅に出ると分かって以来、ずっとこの調子だ。


 明鈴を気にしていた冽花は、慕が前に進み出てきたため顔を上げる。


 慕はその手に竹皮でくるんだ包みを携(たずさ)えていた。上になにやら小さい皮袋が載(の)っている。二つ合わせて差し出すので、冽花は目を瞬かせながら受け取った。


「餞別(せんべつ)だよ。昼に食べる弁当と……少ないけどさ、取っときな」


「少ないけど、って……姐(ねえ)さん、これ」


 おもわず皮袋をつまみ上げて、冽花は瞠目(どうもく)する。ずしりと重たく膨(ふく)れた袋からは、小気味(こきみ)よい銭(ぜに)の音(ね)が聞こえた。


「これ、どうしたの?」


「なに、老後の楽しみに旦那(だんな)と旅行でも、と思ってね。蓄(たくわ)えてたのをちょいと切り崩したのさ」


「それって……!」


「いいんだよ。あたしにはこの子がいるしね。当分遠出はできやしないし、また貯めるとするさ。それよりも可愛い妹分の門出(かどで)だ。奮発(ふんぱつ)しなきゃあ女がすたるってもんだ」


 お腹をひと擦りした後、慕は快活に歯を剥(む)きだす。冽花はおもわず、彼女と包みらとを交互に見て、震える唇を噛みしめた。


「あ……ありがとう。大事に使わせてもらう。弁当も、大切に食べるから」


「ああ。帰ってきたくなったら、いつでも帰っておいで。ここはあんたの家も同然なんだからさ」


 ぐりぐりと頭を撫(な)でられ、くすぐったげに笑った。


 ここで浩然が進み出てくる。彼が用があるのは賤竜のほうらしい。大股(おおまた)に彼のもとへと歩み寄っていく。


「おう、賤竜。達者(たっしゃ)でな」


『ああ、お前も』


「白墨党を代表して、あらためて礼を言わせてもらうぜ。今回の作戦の成功は間違いなく、お前あってのものだったからな」


『礼を言うのならば冽花に。此はこの場でおのが性能を発揮したに過ぎない』


「そういうこと言うから俺にお鉢(はち)が回ってくるんだよ。ったく……素直に受け取れよ、仲間の言葉ぐらいはさ」


『仲間?』


 瞬く賤竜に浩然は肩を竦(すく)めてみせる。事もなげに頷いて。


「おうよ。俺たちはもう仲間だろ? 少なくとも同志らや俺はそう思ってるぜ」


『……生きた人間に、さように言われるのは初めてだ』


「じゃあ、初めての仲間だな」


 拳(こぶし)を突きだす浩然。が、やはり賤竜は目を瞬かせるのみのため、身ぶりで自身の拳同士(こぶしどうし)をかち合わせた。おずおずと賤竜も拳を突きだす。二人の拳がぶつかり合った。


「我が心は常にお前とともに在(あ)り、ってな……白墨党創始者(はくぼくとうそうししゃ)の言葉だ。他の支部にも話は通しとくから、余裕(よゆう)あったら顔出しとけよ」


『ああ。…………礼を言う、浩然』


「あ? ……なんか変なもんでも食ったのかよ、お前」


『此は骸(むくろ)であるが故(ゆえ)にものは食えぬ』


「あー、全然普通だったわ」


 ぼりぼりと浩然は頭を掻(か)いた。そうして、ふと思い出したようにここで後ろを向いた。


 話がひと段落したのは慕も同じようである。やはり傍らを見るなり、一人だけぽつんと取り残された明鈴の背に手を添(そ)えた。


 明鈴は人形に顔をうずめ、じっと黙りこくっていた。


 冽花は少しだけ躊躇(ためら)ったものの、意を決して彼女のもとへと一歩を踏んだ。腰を曲げて視線の高さを合わせるなり、目を細めて、柔らかい声で呼びかける。


「明鈴」


「っ……姐姐(おねえちゃん)」


 びくりと明鈴の体が強張った。そうして、顔を跳ねあげた拍子に、そのつぶらな瞳から涙が零れ落ちた。その後はもう止まらなかった。

 我慢していたのだろう。その顔が歪み、後から後から溢れだしてきた。


 冽花は堪らなくなった。膝(ひざ)をついて抱き締めにかかる。


 明鈴はいつかの出会った折のように、声をあげて泣くことはなかった。ただ静かに涙の雫の粒をこぼし、そっと冽花の肩に頬を預けるのみであった。


「姐姐、いっちゃう? ……明鈴、おいていくの?」


「……うん。これから行くところは危険だから、明鈴にはここで待っててほしいんだ」


 明鈴は小さくしゃくりあげた。幼い身に“待っていてほしい”は難しい。いつまで、と冽花が言及しないのも頷きがたかろう。


 かわりに明鈴は、その小さい手で、そっと冽花の服の裾(すそ)をつまんだ。


 泣き濡(ぬ)れた顔が冽花を見上げる。


「……姐(お)、姐(ねえちゃん)」


「うん?」


「い……いい子にしてたら……っ、また、来てくれる?」


 その言葉はこの子にとって最大限の譲渡(じょうと)であり、望みであったのだろう。


 両親を亡くし、救い主をも失おうとしている彼女の、精一杯(せいいっぱい)の我儘(わがまま)であった。


 そんな健気(けなげ)な姿に、冽花は目を瞬かせた後、笑い返した。目尻をさげ、ひと際柔(やわ)らかく笑っては、後ろ頭を撫でたのであった。


「あったりまえだろ。つーか、いい子にしてなくても来るよ。明鈴はあたしの妹分なんだからさ」


「いもーと?」


「妹。家族っつってもいいかなー」


 かぞく。そう呟いたところで、再び明鈴の顔が歪(ゆが)んで、大粒の涙を零しだした。その背を擦ってやりつつ、ふと冽花は賤竜を見上げる。


 賤竜も歩み寄ってきたので、冽花は明鈴の背をたたいて注意を促(うなが)した。


「ほら、帅哥(おにいちゃん)が一緒だからね。大丈夫、ちゃんと帰ってくるよ」


『任せておけ。冽花のことは此が責任をもって守り抜くゆえ』


 賤竜もまた腰を曲げて視線を近くするなり頷いたので、明鈴は瞬くと、一拍(いっぱく)おいて鼻を啜(すす)った。その顔に少しだけ微笑みが戻る。


「…………ぅ、ん。おねがいね、帅哥(おにいちゃん)」


『うむ』


「姐姐も、およめさんとなかよくするんだよ」


「ぶっ!!」


 まさかの切り返しに盛大に噴(ふ)く冽花。


 それを聞いた周りの反応といえば。慕はにやにやと笑い、浩然は“またやってるよ”とばかりに呆(あき)れて後ろ頭に手を組んだのだった。


「お、およめさんかどうかはアレだけどさ。うん、仲良くするよ。……大事な奴だからね」


「ひゅーっ」


「姐さん、ちょっと黙って!」


 冽花の返答に、ようやく明鈴は服から手を放した。その身から冽花が離れても、もう新たな涙を零すことはない。


「着いたら手紙を書くよ。向こうにあった美味(うま)いもんとか、どんな場所なのかとか、たくさんたくさん書くからな」


「うん、たのしみ。……路上小心(いってらっしゃい)、姐姐、帅哥(おにいちゃん)」


「うん、いってきます」


『行ってくる』


 冽花と賤竜は顔をみあわせて、片や笑い、片や目を細める。


 再び慕と浩然に瞳を転じると、彼らもまた口々にあらためて見送りの言葉を述べてきた。


「我走了(いってきます)――!!」


 冽花は大きく手を振って、賤竜は会釈をまじえながら。二人はその場を後にしていく。


 向かう先は波止場(はとば)である。そこで船を使って湖を渡り、陸路で目的地を目指すつもりだ。


 空は雲一つない快晴。絶好の旅立ち日和である。


 何度も振り向きつつ歩いていた冽花は、ついに三人の姿が見えなくなった折に、一度だけ鼻を啜(すす)った。賤竜が見やってくるので、鼻を擦って小さく笑い返す。


 背筋を伸ばして前を向く。足並みそろえて、新たな地へ。


 二人の冒険はまだまだ始まったばかりであった。

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