9、竜と水の分水嶺
世をみそなわす大龍が猫の爪先(つめさき)のような太陰(つき)を輝かす頃。
賤竜と抱水は互いに得物(えもの)を構えるなり、どちらからともなく行動を開始した。
賤竜が駆けだし、抱水がその場に留まっては扇を一閃二閃(いっせんにせん)する。
抱水の背後から二条の水蛇が顔をだし、賤竜めがけて食らいついていった。
賤竜は足を止めぬまま、目を眇(すが)めてその姿を注視(ちゅうし)する。棍を右斜めに振り抜いて、ばっさり一条を両断し、くるりと手元で回すなり、続く一条の目玉を貫いた。
二条を水へと帰(き)した目の前に、すでに水球が三つ浮かんでいた。
抱水が扇をひと薙(な)ぎすると、ふわりと浮かびあがるなり賤竜を中心に回り始める。その表面が波うち、無数の水流の矢となって賤竜を穿(うが)ちにかかる。
賤竜は棍を地面に立てるなり、足に陰気を集中させて跳躍(ちょうやく)。どうじに地面に丸い陥没(かんぼつ)があき、突出と陥没の連鎖が巻き起こった。
突出の爆発に巻き込まれて、水球が一つ弾け飛ぶ。二つの水流を棍を回して迎え撃ち、一つを棍を投げつけることで貫通(かんつう)。残る一つの水流を躱(かわ)しながら、その奥深くに腕を差しこんで破壊した。
棍を手元に顕現(けんげん)し直す頃には、抱水が駆けて肉薄(にくはく)しかけていた。
胴(どう)を狙うひと薙ぎを後ろに飛び退(すさ)ることで躱し、間髪(かんぱつ)いれずに手元で回した棍先をその腹に突きこんでやる。
『がっ……! く』
腹を押さえて飛び退る抱水になおも追撃しようとした賤竜は、次の瞬間、目の前に入りこんだ水の壁に踏み止まった。
抱水を覆(おお)う渦巻く水の壁――いや、高圧水流の渦巻きである。触れれば、たちどころに肉も骨も削(けず)れて流されてしまうだろう。
賤竜が攻め手を考える間に、再び水蛇と水球が呼び出される。
『ふむ』
咢(あぎと)をひらき空を突貫(とっかん)する水の蛇に、浮遊(ふゆう)し追尾しつつ水流の矢を放ち続ける水球。
先鋒(せんぽう)を務める三条の水蛇から逃れ、時にその軌道上(きどうじょう)に水球をいれて水の矢をいなしつつ、賤竜は渦巻きにむけて駆けだした。当然、四つの先兵(せんぺい)らも賤竜の後を追いかける。
渦巻きに肉薄するかというところで、賤竜はまた棍を地面に突き立てた。跳躍と同時の陥没。そうして、追跡対象を見失った水蛇に水球は、そのまま渦にぶつかっていく。
渦が僅(わず)かばかり綻(ほころ)んだところで、だめ押しの突出の爆発が渦中央に湧き起こった。
『ぐ、ぁあ……!!』
抱水の苦鳴(くめい)があがり、吹き飛ばされた身に、ついで大量の水が降りそそいできた。
高所にまで巻き上げていた水が一挙にその身に注がれるのだ。手足であり臣である水の反逆に、抱水は目をみひらき、雨あられの連打を受けた。
『が、は……ァッ』
渦の水から解放された時には、抱水の鎧(よろい)はなかば砕け散っていた。
水浸しの彼は震える手をついて、身を転がし起こす。少量の血を吐いて、それを信じられぬものでも見るように見つめた。
『……血食(けっしょく)が足りぬのではないか? 抱水』
静かに問う賤竜に、我にかえった抱水は口元を拭って立ち上がった。
『閉嘴(うるさい)……! お前は黙って……私に傅(かしず)いておればいいのだ!』
『それはできぬ相談だな。傅く相手はすでに決まっているゆえ』
『……ッ』
四阿(あずまや)をにらむ抱水に、賤竜は棍を振るって一喝(いっかつ)した。
『冽花に手をだせば、お前の記録に消せぬ傷痕(きずあと)をのこすことになる』
『……ふ、ふふふ。お前がそれだけ言うほどに惚(ほ)れこんだ契約者か。俄然(がぜん)、興味が――』
『聞こえなかったか、抱水』
その一言は、ひと際低く、するどく抱水の胸をえぐった。
否、物理的に、とん、と。胸に当てられた棍先があることに一瞬遅れて気付いた。
いつ近づいた。目の前に冷えた洞(ほら)の底のような瞳がある。
『お前を、破壊寸前にまで追い込むのもやぶさかではないと言っている』
その極限にまで感情をつめ込んだがゆえ、冷えた声色よ。
あの賤竜が。
ぞくりと背筋を震わせるなり、抱水は棍を払いのけて後ずさった。
そうして、その負け犬のような自身の弱腰(よわごし)に気付く。さっと血の気がひく思いを味わい――震える唇を噛み、扇を振り上げたのだった。
脳裏には、あの言葉がこだましていた。
“ふ。卑しき野良犬がごとき様だ。他の者が見たらどう思うか。なあ、抱水”
『っ……閉(うる)、嘴(さい)……ッ! 閉嘴、閉嘴ッ! 閉嘴!!』
頭に反響するそれを振り払うように。
動きばかりは舞うように扇を一閃二閃させて、目の前の憎き面を引き裂かんと迫る。畳(たた)んでは上手に振りかぶり、幾度(いくど)も幾度も叩き伏せるように振り下ろした。
が、すべてを賤竜は捌(さば)ききって喉(のど)へとむけて突きを放つ。針の穴を穿(うが)つがごとき後(ご)の先(せん)に、抱水は目を見開き、その身で受け止めた。
死して呼吸を忘れた喉が、それでも引き絞(しぼ)られ、壊れた笛のような音をたてる。
『あ、ガ……っ、く』
『抱水』
『っ、ぅ……るさ……その、目で……そんな目で、私を見るな!!』
背を丸めて喉を押さえながら、抱水は噛(か)みついた。
背筋を震わせつつ伸ばし、潰(つぶ)れかけの喉を振り絞る。
力を振り絞って睨(にら)みすえた先に見る、賤竜の目が、気に入らなかった。
真っ直ぐ迷いのない、ともすれば、希望に燃えているとも思える瞳が。
捕らえていた折はあんなに悄然(しょうぜん)としていたものを――たかが小娘が一人来たくらいで。
いや、と抱水は歯噛(はが)みする。その小娘の存在が重要なのだと、彼は苦々しく思いつつも心得ていた。きっと誰よりもよく心得ていた。
なぜならば、彼自身が一番欲していたものだからだ。
契約者の存在――その協力と信頼を。
たとい隣にいなくてもいいのだ。この身に血食という形で確かな力が与えられていれば。加えて、信頼してもらえれば言うことはない。
心を通わせられたならば、後顧(こうこ)の憂(うれ)いなく十全の機能を果たすことができる。
仮初(かりそめ)とはいえども心をもち、されど他に左右される風水僵尸のもつ、一種の特性であり、強さにも弱さにも繋がり得るものであった。
かつての抱水も持ち合わせていたが……今はない強さであった。
奥歯を噛み締めて、吼(ほ)えざるを得ない。それは一種の威嚇(いかく)であるとともに、おのれを鼓舞(こぶ)するためのものであった。
『私は……《陽之溢水型(ようのいっすいがた)》、抱水! 福峰が長、懶漢(ランハン)の風水僵尸にして、福峰の守りを司るものだ! 私には価値がある。お前など到底及ぶべくもない価値がな! 壊されるわけがない……倒れてなるものか!!』
鋭く切る啖呵(たんか)の後に大きく踏みこんでいく。が、一歩を踏んだその瞬間だった。
がちん、と異音が生じた。見れば、振りかざした扇に突き当てられる棍があり、賤竜が目をすがめて見据えていた。
低く唸るようにし彼は問いかけてくる。
『……何をそんなに
ひゅっと息を飲んだ。その問いに背筋が冷え、胸を引き絞られるような感覚を覚えたためであった。抱水は瞬きを重ねて、開いた口をわななかせる他ない。なんとか絞りだす声も弱々しいものであった。
『……っ、閉(うる)、嘴(さい)。黙れ』
『黙らない。答えろ、抱水。その焦りは先の、血食(けっしょく)の少なさと関係があるのか? お前の契約者の姿が見え――』
『っ……黙れェェ!!』
扇を一閃して自身の周りに水蛇を巡らせる。すると、さすがに賤竜は退くものの、その目はこちらを射抜くように見据えるままであった。胸の内の確かに痛みを覚える部分すら、見透(みす)かさんとするかのように。
震える扇を口元に寄せて、抱水は肩を揺らした。弱々しくかぶりを振って、告げるより他はなかった。
『お前には関係ない……関係ないだろう!』
『だが、我らは同胞(どうほう)だ』
『だが、敵だ』
『今はな』
『…………っ』
ぎりりと奥歯を食いしばり、抱水は上目にねめつける。
相変わらず底の読めぬ瞳で賤竜は見つめてきている。
お節介(せっかい)のつもりか? あの賤竜が。馬鹿な。
『……私が賜(たまわ)る血食が少ない。だから何だと言うのだ。傍らに契約者の姿がない。……っ、だから、何だと言うのだ』
肩が震えるのを感じる。やはり扇も震えてしまうものの、深く息を吸って、胸を張り、何でもないことでも告げるように抱水は言ってのけた。
『私が在るからこそ今日(こんにち)の福峰はあるのだ。長く、とても長く守り続けてきた。あの方の意向を守ってな。それを誇りに思えこそすれ、重責(じゅうせき)に感じたことなど――』
……本当に? 胸のうちで、誰かがぽつりと、まっ白い紙に染みを落とすような問いを投げかけてくる。
本当に重責に感じたことはないのか。本当に、自分は好きこのんで政(まつりごと)を行っていたのか。たった一人で。
抱水は一度言葉を切って、瞳を逸らす。震える息を吐いて二の句を続けた。
『……私はあの方の風水僵尸(ふうすいきょうし)だ。あの方のやり方に異議(いぎ)を唱えるなど――』
あるはずがない。そう続けようとしたが、言葉が途切れた。
……本当に? また染みのような問いかけが浮かんだからであった。
本当に異議はないのか。本当に何も思うことはないのか、と。
ぞんざいに扱われた。幾ら真心こめて尽くしても、与えられるのは無体(むたい)な仕打ちと、雀(すずめ)の涙ほどの血食のみである。第一、彼も言っていたではないか。
“主の血食さえあれば、お前達はどれほどにも強くなり、働き続けられるからなあ”
“主は分かっているぞ、お前ができた犬であることはな。今度は上手く取り計らうように”
野良犬。犬。体(てい)のいい手駒(てごま)扱い。
どんなに外から賞されるような
だが、それでいいではないか。おのれは彼に仕えるモノだ。使われる器具なのである。それで十分なはずだ。が、――抱水はおのれの胸を掴む。じくじくと小さい針で刺されるような重苦しい痛みがあり、は、と息をこぼし、小さく項垂れた。
なぜだろう。なぜ……この胸は痛むのか。
黙らざるを得なかった。言えば言うほどに胸の内から反問が湧きあがってくる。こんなことは今まで起こり得なかったことだ。なぜ。どうして。
苦しみ
『抱水。……おのれに嘘をつくのはよせ』
ハッとし顔を持ち上げれば、賤竜は目を細めていた。痛ましいものでも見るかのように、その口角はわずかに下げられている。
『此はお前よりも鈍い。此は、契約者の意に添うことを旨としている。……が、お前は、お前たちは違うだろう?』
その言葉に抱水は目を見開く。告げられているのは、他の風水僵尸たちだろう。
確かに、自分ふくめて、他の風水僵尸たちはずっとずっと好きにしている。喜怒哀楽を明らかにし、自己主張をおこない、なんなら命を突っぱねる者もいる。
貴竜が最たる例だろう。あれは契約者を逆に振り回している。
ずっとずっと、自分と自身らをそのように比較し見ていたのかと驚いた。ずっと、単におのれを道具と卑下(ひげ)する、卑屈者(ひくつもの)の悲嘆者(ひたんしゃ)だとばかり捉えていたのに。
賤竜はなおも続けてくる。
『此がお前にしてやれることは何もない。お前の言う通りだ。それぞれの主従の在り方に、異を唱えることなどできはしない。が、……“見ていられぬ”と口にすることはできる』
そう言って、四阿(あずまや)を見やる。
『此の……いや、“俺の気が済まぬ”から言うのだ。口にせずにはいられない。動かずにはいられない。……冽花が示し、教えてくれたことだ』
賤竜の瞳が戻る。その目に、確かに穏やかな意志の光が揺れるのを見て、抱水は溜息をつかざるを得なかった。嗚呼(ああ)、と合点が入ったような思いがした。
あの賤竜がここまで言うようになった――変わったのはそれでか、と。
あの破天荒(はてんこう)な娘が体を張って声を荒げて教えたのだろう。道具とおのれを言い張る賤竜。だが、――お前もまた意志ある、心ある存在なのだと。
抱水は瞬いた後に、ふ、と扇の下で薄く微笑みをうかべる。
笑えてきてしまい堪らなかった。あの賤竜が。自分を慮(おもんばか)り――心配して話しかけてきたなどと。いけ好かない、むしろ嫌いな部類の男のはずだったのだが。
なぜだか、その変容が喜ばしく思えたのだった。
抱水もまた四阿を見やる。愉快な気持ちでいっぱいではあったが、そこは抱水である。憎まれ口の一つも叩かずにはいられなかった。
『……フン。契約者自慢も大概にしておけ』
『さようなつもりはないのだが』
『十分に自慢になっている。……まったく、妬(や)けるな』
扇を軽く振って、揺蕩(たゆた)わせていた水蛇を池へと戻す。そうして向き直る。
おのずと抱水の背筋は伸びていた。
『お前の言いたいことは分かった。だが、決着はつけねばなるまい。互いの事情がどうあれ、因果は収束させるものだ』
『然(しか)りである。それとこれとは話は別だ。が、……その前に話がしたかった』
『……変わったな、お前は。本当に』
告げると、きょとんと瞬いてくる。自覚がないのが本当に彼らしい。
説明してやる義理もないので抱水は鼻を鳴らすのみに留める。紛いなりにも彼に話したためだろうか、不思議と胸の痛みは薄れていた。
ふ、と口元を緩める。その顔には元の気高い笑みが戻りつつあった。
『やるか、では。賤竜。我らの分水嶺(ぶんすいれい)を』
『うむ。お前はお前の価値のために、此は此の価値のために、死力を尽くそう』
『ふ。吠え面をかくなよ』
互いに目を細め、あるいは笑って、二人は向かい合った。互いに始めた時と同じように、得物を構えて相対する。
先と異なるのは抱水が水を使わぬ点だ。最後の一合は互いにしのぎを削るのだと、口にせずとも伝わっていた。
――風が流れる。池の水面が波紋を築き、映りこんだ月影を千々(ちぢ)に砕いて輝かせる。
互いに互いのことのみを見据え、二人は出方を伺う。ぴんと張り詰めた静寂がその場を包んでいた。――そうして緊張が、頂きに達した瞬間だった。
二人は同時に駆けだしていた。
先手は間合いに分がある賤竜。勢い打ちだす棍を、抱水が扇でいなし、距離を詰める。
ととん、と着地した抱水は裾を
笑う抱水の目元が細まる。ふいと扇が畳まれるや、今しも突きだされたばかりの棍先が叩き落された。とん、と滑るような接近がおこなわれる。
『……っ、ぐぅ! が!』
肩口への一打。強かな振り下ろしの後に、間髪いれず横っ面への一打が加えられた。
続けて抱水が振り上げる扇を――棍から離した手で、手首をつかんで食い止める。
『ぐぅあ……!?』
がづん、と鈍い音が響きわたった。
賤竜が冑の額と、抱水のじかの額とを打ちつけたのである。
これには堪らずに抱水は上向きのけ反るしかない。その手を賤竜は放し、後退――しようとしたところで、逆に掴まれた。
歪に口端をつり上げた抱水が上向いた顔を戻す。賤竜を引くその手の力は、とても前線向きを否定していたとは思えぬ膂力であった。
『がッ! ぐッ! ぅッ、ふゥゥ……!!』
横っ面を二回張り飛ばし、ふらつく体の胸に一度、側腹に一度と打ち抜いていく。
刃を受け流すに適した鎧も叩く力には弱い。痛々しい陥没、ひび割れが生じ、ぼろぼろと緑の金属片が剥がれていく中で、賤竜は震える手から棍を取り落とした。
が、揺れる頭を振って、むける瞳には
ぐ、と
互いに肩で息をしては、しばらく身じろぎ一つせなんだ。
太陰(つき)の輝く空をみあげていた抱水は、おもむろに瞳を傍らへと下ろすなり、喉元の棍を掴んでみせた。
そして笑う。
『やはり……私は前線向きではないよう、だ』
『……十分通じる規模だったと思うがな、此は』
『そうか? ふ、ふ。……たまには、こうして動くのも、悪くないな』
抱水は棍から手を放すなり地面へと落とす。存外すっきりした面持ちとなって、微笑みまじりに賤竜を見上げた。
『私の負けだ。好きにしろ』
『ああ、そうさせてもらう』
賤竜は棍を退(ひ)くなり抱水の上から退く。おもむろに手を差し伸べたので、抱水は瞬きを重ねるなり、ふ、と苦笑を帯びるのだった。
『まったく、お前は』
『別段おかしくもなかろう? 此らは
『……案外と
その手をとって起きあがるなり、抱水は汚れをはらう。
ふと視線を感じて見遣れば、四阿から
それにも苦笑せざるを得ない。
抱水とて、驚いているのだから。あの再会、あの流れからきて――こんなにも穏やかな終わりがくるとは、夢にも思わなかった。
※※※
賤竜と抱水の決着がついた頃、ひょっこりと翡翠園(ひすいえん)に姿をあらわす者があった。
「よ。終わったみてえだな」
『浩然(ハオラン)』
「浩然だって!?」
四阿(あずまや)のなかで飛び起きた冽花は、賤竜の背子(うわぎ)がずれかけたのに身震いして包まった。
四阿に三人は集い、互いの無事を確認しあう。もっとも、浩然は血まみれのドロドロであり、冽花は途端に罪悪感を刺激されて顔をそむけることになったのだが。
「浩然、あたし……」
「あー、いいっていいって。その様子からすると、お前も色々あったんだろ? それに、正直、お前を行かせるために言った方便(ほうべん)みたいなモンだからな。あそこで死ぬつもりではあったさ」
『その割に外傷は少ないな』
「え!?」
見た目、ドロドロなのにも関わらずだ。冽花は二人を二度見する。はン、と鼻を鳴らすなり、浩然は自身の胸を親指で指してみせた。
「あったりまえだろ。白墨党(はくぼくとう)・福峰支部(ふくほうしぶ)で一、二を争う腕前(うでまえ)の浩然様だぜ? まあ、最後あたりは力も尽きて、ちぃーとばかりやばかったんだがな」
「じゃ、じゃあ」
「“通りすがりの悪党(あくとう)”が助けてくれたんだよ」
「……は?」
浩然はおもむろに腰帯(こしおび)に挟めていたものを取りだす。それは黒光りする鏢(ひょう)であり、またまた冽花は浩然の手と顔を交互に二度見することになった。顔は当然、引き攣(つ)っている。
「こっ……これ、浩然、どこで……?」
「髑髏面(どくろめん)の……おっかねえーやつが廊下(ろうか)の影から投じてきてよ。俺をぶっ殺そうとしてた兵士の首にぶち当てやがった。で、何者だって聞いたら、“通りすがりの悪党”だってよ。で、冽花に“一つ貸(か)しだな”って言ってた」
「うっ……ぐわああ――!!」
突然頭をかき乱す奇行(きこう)にはしる冽花に、浩然は目をまぁるくする。
「んだ、その反応」
『一言では言い表せぬほど因縁(いんねん)深き相手のようでな』
賤竜も心なしか同情の眼差しを向けていた。厄介(やっかい)な相手に貸しを作ってしまったようであった。
「ま、とりあえず、これ返しといてくれよ。関係あるっつーんなら、またどこかで会えるかもだろ?」
「うぇー。これ持ち歩くの正直きっつい」
『此(これ)が持っていようか』
素直に賤竜に差し出し、冽花は立ち上がった。背子(うわぎ)を賤竜に返そうとして――やっぱり寒いので、失礼して羽織(はお)らせてもらう。
「これからどうしよっか……」
「そりゃ脱出……だけどよ。裏も表もこうも盛大(せいだい)にやらかしちゃあな」
浩然は抱水を見やる。抱水は静かなものだ。というより地面に座したまま、口元を扇で隠し、知らぬ振りを決め込んでいた。賤竜とああは言い合ったものの、やはり立場を鑑みては、“なれ合わぬ”という意思表示をおこなっているのだろう。
「いっそ、抱水(ほうすい)を人……僵尸質(きょうしじち)にするか? 今ならイケそうだが」
「っ、駄目(だめ)。人として今はやっちゃ駄目だし、それに……一生消えない亀裂(きれつ)が生まれそう」
『同感だな。忘れぬだろうな、抱水は』
「でも、じゃあ、どうするよ。水路に潜るにしても、城中蜂の巣つついたみたいな騒ぎになってんだぜ。それに体力面を考えてもよ……賤竜の奴を正面においても、この前みたく正面突破はきついぜ」
「うーん……」
三人で頭を悩ませる。と、ここで当の抱水が見かねて声をかけてきた。
『おい、何をもたついている?』
「えっ」
『僵尸質でもなんでもすればよいではないか。私は負けた身だ。賤竜を虜(とりこ)にしたように、お前たちも私を自由にする権利があるだろう』
「ええーっ」
まさかの本人からの申し出に面食らって冽花が瞬いていると、抱水は鼻を鳴らしてくる。
『別段おかしくもあるまい? と、いうよりか、賤竜の契約者よ。お前こそ、私に恨みの二つ三つあるのではないか? 賤竜を虜にした件に蟲人らを囮にした件……なによりも、溺死させかけた件において」
「そりゃあ……何も思ってないっつったら嘘になるけどさ。だからって僵尸質は……」
頬を掻いていると、横から意外な賛同があがった。
『此は上策だと思う』
「えっ」
『元より有効打がない以上、乗らぬ手はなかろうよ。唯一の問題点だった因果、倫理面についても解消されている。これは一種の策謀にあたる』
「策謀って……」
『獅子身中の虫とはこのことだな。まず、私がお前たちを逃すべく尽力しているとは思うまい。……ん、いや、語弊(ごへい)があったな。目障りな敵を退散させるのに一役買っているとは思うまい』
「…………お前って、本当、素直じゃねえんだな」
『閉嘴(うるさい)』
呆れる冽花に、そっぽを向く抱水。
そういうわけで、本人公認の僵尸質脱出作戦が敢行(かんこう)されたのであった。
賤竜に頼んで、ひとまず抱水を後ろ手に捕まえてもらう。
『苦しゅうない、賤竜。もそっと強く捕らえねば、らしくは見えぬだろう』
『こうか?』
「……なんかなー。来た時の緊張感どこ行った? 逃げる前って気がしないよ」
しきりと首をかしぐ冽花の横で、頭の後ろで手を組む浩然がのろのろと続いていく。
そのまま翡翠園を出たわけだが、当然、城のなかは地獄絵図(じごくえず)となった。
見るだに痛々しい抱水、しかも囚われの身の姿に、侍女(じじょ)らは手に手をとって「抱水(ほうすい)様!」と嘆(なげ)き声をあげたし、兵士らは遮二無二(しゃにむに)突貫(とっかん)しようとした。そのつど、賤竜が抱水の首へ手をかける振りをせねばならなかった。
抱水は虜(とりこ)(仮)の身でありながら、実に堂々と満足げな素振(そぶ)りで回廊(かいろう)を進んでいた。
その折に、
『……誠(まこと)に慕(した)われていたのだな、お前は』と。
そっと賤竜が告げた折になど、少しだけ顔を俯(うつむ)けては。
『当然だ。……人一番仕事は熟(じゅく)す、私だからな』
口元をわずかに綻(ほころ)ばせて、そうと潜めた囁(ささや)きにて応じたのだった。
城を出た後は、折しもちょうど騎馬隊(きばたい)が戻ってきたために、馬を要求し、抱水を乗せて冽花らは出発した。完全に最後まで針の蓆(むしろ)であった。
衆目(しゅうもく)へと触れる前に、通り二、三本入った路地裏(ろじうら)で馬ごと抱水を解放する。
軽く首を左右に折り曲げ、肩を回して、抱水は冽花らに向き直った。
『ではな、お前たち。後は自身らでなんとかするよう』
「……世話? に、なったな、抱水」
『礼など要らない、賤竜の契約者よ。私は負けた身としての作法を尽くしたに過ぎん』
扇で口元を隠し、抱水は小さく目元のみで笑みを形作った。
『それに、そろそろ蹴(け)りがついた頃だろうしな』
「え?」
『なんでもない。……そうだ、賤竜。ちこう寄れ』
『ん、なんだ?』
不思議そうに瞬く賤竜に、より一層目元を撓めては抱水は手招きした。応じて近づいた賤竜の耳元へと身を寄せるなり、扇で自身らの口元を隠す。何事か囁きかける。
傍から見るに、実に楽しげな素振りであった。対して賤竜は瞬きを重ねるのみである。最後に「しっ」と抱水が歯の間から息を抜いた音が、冽花たちには聞こえてきた。
そっと抱水は身を離すなり、悠然(ゆうぜん)と微笑んで、馬の背にのり馬首(ばしゅ)をめぐらせる。あとは振り返ることはなく、その場を後にしていった。
ぽかんとした浩然にたいし、何を言っていたのか気になった冽花は賤竜をつついてみる。
「なあ、何言ってたんだ? あいつ」
『……秘密だ』
「えっ」
意外な言葉が返ってきたため、目を点にした。クソ真面目に賤竜は告げる。
『秘密にせよと言われた。ゆえ、お前にも話すことはできん』
「え……えー。そう言われると気になんだけど」
『…………悔いのないように、とは言われた』
「は? ……なんだそりゃ」
結局、深くは告げてくれぬため、早々に諦めてしまった。
冽花たちは夕暮(ゆうぐ)れ時の騒ぎも収まりつつある街を行く。
その足取りは軽く、途中で屋根に飛び乗るなり、家々をこえて渡り歩く姿すら軽やかであった。
蟲人二人と僵尸一人の凱旋(がいせん)は続く。美味しい晩御飯(ばんごはん)にありつけるまであと少し。今度は本当の祝杯(しゅくはい)をあげられるまで、あともう少しであった。
※※※
馬に乗って帰還した抱水は、部下たちらを筆頭(ひっとう)に城中から歓待(かんたい)を受けた。心配と安堵(あんど)の雨あられである。おもわず扇で口元を隠すぐらいにはその反応は暖かかった。
手当てを休息をと騒ぐ彼らを宥めて、ひとまず主人である懶漢(ランハン)に報告をするとの旨で、抱水は人払(ひとばら)いを済ませて、その寝室へ向かった。
たどり着いた寝室の前には――物言わぬ骸(むくろ)と化した兵がおり、扇で隠さぬ唇が緩むのを、抱水は禁じ得なかった。
扉を開ける。
すると、むせかえるような血臭(けっしゅう)が、たちどころに押し寄せてきた。
抱水にとっては甘美な、主の血の香りであった。
ゆっくりと牀(ベッド)へと近づいていくと、その脇の椅子(いす)に腰かけていた老鬼(ラオグイ)が片手をあげた。
「ずいぶんと楽しんできたようだな、抱水。いい面になった」
『そうか? ふふふ、文官勤めの身とはいえ、たまには体も動かさねばというところか』
「違いない。それで、目的のものはそこにいるぞ」
老鬼が指さした先に、黒々とした塊が蟠(わだかま)っている。
抱水は目を細めるなり、なおも緩慢な足取りで歩み寄っていった。
「積もる話もあるだろうと思ってな。半死半生(はんしはんしょう)には留めてある」
『ちょうどよいぐらいだ。これぐらいがちょうどいい』
短い蝋燭(ろうそく)に照らされた薄暗い部屋のなかで。床に崩(くず)れた肉の山として在(あ)る主のもとへと、抱水は跪(ひざまず)いた。そっと柔らかい声で囁きかける。
『主よ、聞こえますか』
「……お、お…………抱……水」
『はい、抱水でございます。貴方(あなた)の風水僵尸(ふうすいきょうし)、貴方の臣(しん)なる抱水でございますよ』
「お、お……たすけ……ろ、抱水。そのおと、こを……け、せ」
『仰(おお)せのままに。――と言いたいところですが、無理なご相談です』
「……ぅ、あ……?」
『貴方はこれから死ぬのですから。見なさい、主よ。貴方の血潮(ちしお)がこんなにも零れている。かほどに命の雫を零しては、いくら陽型の私といえど助命は叶いません』
「ぅ、あ、あ……抱水、抱、水……」
膨(ふく)れた指が救いを求めて抱水のつま先へと懐(なつ)く。が、それを見下ろし、抱水はふと眉尻(まゆじり)をさげて告げた。
『少しでも福峰(ふくほう)を、政(まつりごと)を……私を顧(かえり)みてくだされば。こういった結末は起こり得なかったでしょうね』
立ち上がり、その丸々と肥(こ)えた手の甲に足を置く。最初は軽く、徐々に力を込めていく。
『……っ、この私を虚仮(こけ)にしよって。この私の忠誠(ちゅうせい)を虚仮にしよってからに。許さない! 赦(ゆる)さぬぞ、主ッ!! 私は犬ではない……貴方に唯々諾々(いいだくだく)と従うだけの獣ではないのだ!』
言葉とともに足を振り上げて、何度も何度も踏みしだく。足元の感触(かんしょく)が、柔らかい人の手のそれから、靴底(くつぞこ)に纏(まと)わりつく肉の感触に変わるまで踏みしだき続けた。
肉塊(にくかい)はか細い悲鳴をあげて身を捩(よじ)ろうとしたが、もうそんな力も残ってはいぬのだろう。ぶるぶると震え、その脂肪(しぼう)に埋もれた瞳から細い涙の筋(すじ)を流していた。
「ぁ、あ……あ……」
『主よ。龍脈(りゅうみゃく)にまでこの記憶を持っていきなさい。魂魄(こんぱく)に刻んで、次はもっと有益(ゆうえき)な生を送れるように』
にっこり優しく微笑んで、抱水は片足を上げた。震え続ける肉塊はまるで怯(おび)えた仔犬(こいぬ)のごとくに彼を見上げていた。
抱水の柔らかい微笑みが――歪(いびつ)に吊(つ)りあがる。
『活該(ざまあみろ)』
その靴底が深々と肉塊の面(つら)を踏み抜いたその時だ。老鬼が無雑作(むぞうさ)に鏢(ひょう)を投じた。
あやまたず延髄(えんずい)に深く食い込んだ鏢は、瞬く間にその命を奪(うば)い去っていった。
「これにて完了、だな」
『うむ。……して、私の契約者はどこにいるのだ?』
「街の宿で待たせてある。こちらを適当に済ませた上で来い。城の連中は、今のお前の言葉ならばほぼ無条件に聞くだろうからな」
『フン』
「口元が緩んでいるぞ。別れの挨拶(あいさつ)もきちんと済ませてこいよ、抱水」
立ち上がって、窓から失せていく老鬼を見送り、抱水は片足を上げる。
そこに在るのは単なる肉塊である。契約が切れた以上は、その血潮(ちしお)の香もまた、単なる血臭でしかなかった。煩(わずら)わしげに扇で扇(あお)ぎながら抱水は踵(きびす)を返した。
扉が音をたてて閉まる。懶漢(ランハン)――この福峰において、史上最高だと謳われた名領主は。
その実、愚かで怠惰(たいだ)だった男は。こうして誰に見送られることもなく、誰に惜しまれることもなく、人知れずその生に幕を下ろすこととなったのであった。
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