8、竜の帰還

 世をみそなわす大龍が、陽の目を翳(かげ)らせる頃。


 暮れなずむ空をしり目に、長い渡り廊下を歩く抱水の姿があった。後ろには日傘(ひがさ)を捧(ささ)げ持った従者を連れており、半日晒(さら)した賤竜の面を拝むつもりであった。


 ぐるりと渡された渡り廊下をなおも進んでいくと、次第に濃い水の香りが鼻をかすめるようになる。


 抱水は快さげにその香りを嗅いで、扇の下で口元を緩める。


 ほどなく見えるのは、六割を翡翠(ひすい)色にきらめく池で占めた、水の庭園だった。


 そこかしこに樹木や四阿(あずまや)が配され、見事な太湖石(タイフウシー)(竜涎太湖産の穴ぼこだらけの石)を見ることができる。


 そして、池に浮かぶようにして建つ四阿のたもと。そこが賤竜の繋がれた場所であった。


 朱塗(しゅぬ)りの橋を渡っていくと、相変わらず鏡の群れに囲まれて、鎖で縛められ座りこんだ――風光明媚(ふうこうめいび)な場所では、一種異様な光景に出くわすことができた。


 抱水は昨日との差異(さい)を見てとるなり、ますます上機嫌(じょうきげん)になる。


 ぐったりと首を項垂(うなだ)れた賤竜は反応を返さず、ただただその全身から溢(あふ)れる煙が周りの八卦鏡(はっけきょう)に吸われ続けていた。


 残すところ数歩で足を止めるなり、そっと声をかける。


『你好(ごきげんよう)、賤竜。調子はどうだ?』


 すると、小さく鎖(くさり)を鳴らし、賤竜の首がわずかばかりもたげられる。は、とそれだけの行動で息が漏れることに、なおも抱水は嬉々(きき)として扇の下の唇を緩めた。


 ややあって掠(かす)れた低い声が返る。


『いい、とは言えん、な……』


『結構(けっこう)。鎧(よろい)が消えたな。もう構築する力もなかろう。明朝あたりにはそろそろ陰気も尽き、契約者から得た血食(けっしょく)の気も尽きかけるだろうよ』


『…………』


『契約者が恋しいか? 案ずるな。今配下の者に行方を追わせているところだ。無事捕らえることができた暁にはご対面といこう。もっとも、その後どうするかは考え所ではあるがな。そやつにも相応の恨(うら)みがあるゆえ』


『っ、冽花に、手は……』


『ほう? 冽花。冽花か。ふふ。お前が契約者の名を呼ぶところを初めて見たぞ。道具とおのれをそしって憚らず、自身すら“此(これ)”呼ばわりのお前がな。……惚(ほ)れでもしたか?』


 何も言わない賤竜のもとへと抱水は歩み寄っていく。それに応じて付近の兵士らが鏡を背(そむ)けるために、易々(やすやす)と彼は賤竜のもとへ赴くことができた。


 前髪をつかんで、その顔をもちあげさせる。


『五陰(ごいん)が龍頭(りゅうとう)、賤竜。お前はお前がしでかしたことの重さを、しかとその目で焼き付けるべきだ。赦(ゆる)すまい。赦すまいぞ。我が背水(ベイシュ)への思いを弄(いろ)うたこと、私を虚仮(こけ)にしたことを、しかと悔いてその記録に刻むといい』


 吐き捨てるように告げて擲(なげう)つように手を離すと、元通りに賤竜はうなだれ直した。


 これですっきり言いたいことは言い終えた抱水は、そのまま踵(きびす)を返そうとした。が。ふいと後ろから聞こえてくる呟き声に足を止めた。


『……も、仕事か? 抱水』


『なに?』


『これから、も、仕事か。さぞや雑務が増え……忙しく、なっているだろうな』


 怪訝に振り返った抱水に、賤竜は小さく笑みをうかべた。まだそんな力があるのかと、抱水が畳んだ扇を振りかぶった、その時だった。


『我らが抱水(ほうすい)様が、“またしても”巨悪(きょあく)を打ち砕いてくださった』


 それは町民がよく口にする言葉であった。


 抱水の手がぴたりと止まる。打たれる寸前で動きを止めた扇は、賤竜の頬(ほほ)の横からその顎下(あごした)へと移り、再びその面をもちあげさせた。


『……何が言いたい?』


『いや。お前にしては……町民に、顔が知れていると思ったまでのことだ。もともと文官務めを得手(えて)とする、お前のこと。契約者の影に隠れることは、あっても……かほどに表に出たことは、今までなかった、はずだ……』


『それは……』


『契約者の命に、よるものか、それは分からない。が……問題は、さほどに起きる障害に、幾度もお前が出くわしている、これに尽きるのだよ。本来、さような障りを生まぬように――……街を調整すべく造られた風水僵尸(ふうすいきょうし)の身の上で』


 ふいとその声音に力が戻った。抱水はハッと上体を退く。


 気だるげに伏せられていた賤竜の瞳が開かれていた。その目は射抜くように抱水を見つめて、その腹の底まで深く見通すようであった。


『分かっているはずだ。分かるはずだ、此らならば。どこに、いつ頃障りが生じるのかを。お前は知った上でその対応に追われていた、違うか? 抱水』


『…………何を言っているのか……』


『此が龍脈(りゅうみゃく)を断ったことによって、様々な不具合が生じたはずだ。本来、起こり得た障害がな。……あの龍脈はあまりに綺麗(きれい)に整えられすぎていた。この喜水城(きすいじょう)が栄達(えいたつ)するように、それ以外は切り捨てると言わんばかりに。その結果が、諸々に生じる歪(ひずみ)であり、ひいては港湾地区(こうわんちく)の荒廃(こうはい)ではないのか」


『……ッ』


 抱水は数歩後ずさるなり、扇で口元を隠した。引き攣(つ)った顔を賤竜に見られるわけにはいかなかったからだ。それでも、最大限の虚勢(きょせい)すら賤竜には効かない。


 洞(ほら)の底のような目で抱水を見つめながら、賤竜は告げる。


『お前は風水僵尸として、一番やってはいけないことをしている。万象(ばんしょう)に影響を与えうる龍脈、それを契約者に諫言(かんげん)することもなく、私利私欲(しりしよく)のため捻(ね)じ曲げている。――何故(なぜ)だ、抱水? 何がお前にそこまでさせるのだ。お前は務めにだけは人一倍――』


『誰か! おい、お前! 鏡をこやつに向けろ! この減らず口を黙らせるのだ!!』


 おのれの罪を暴き糾弾(きゅうだん)する声に、もはや聞いていられずに抱水は言葉を遮った。


 素早く後ろに後退すると、兵士らが元通り鏡を賤竜へと向け直す。低い唸(うな)り声をあげて、賤竜は黙りこくった。


 自然と息をあらげながら抱水は哂(わら)った。そう、結局のところ、こやつが自身の虜(とりこ)であることには変わりない。何を言ったところで、何をすることもできやしないのだと。


『決めたぞ、賤竜。お前は貴竜の奴に引き渡してやる。ただし、契約者はお前の目の前で惨(むご)たらしく殺(あや)めてやることにしよう。新たな契約者がいかな人物であるか楽しみだな?』


『抱……水……』


『お前が告げた通りに私は忙しいのだ。失礼させてもらう』


 歪(いびつ)に口元をゆがめるまま、抱水は袖(そで)をはらい、踵(きびす)を返す。今度こそ、従者を引き連れてその場を後にしていく。


 あとに残されたのは、真っ赤な血のような夕陽とそれに晒(さら)される賤竜、長く影を伸ばす兵士らが数名のみであった。刻一刻と空は赤みを増していき、じょじょに昼と夜の境目を薄めていく。


 ふ、と兵士の一人が欠伸(あくび)をした。上司が去ったことによる緊張が解かれたのもあるだろうが、もともと夕刻(ゆうこく)は疲労(ひろう)が溜まり、気勢(きぜい)がそがれる時間ではあった。


 土台、監視対象(かんしたいしょう)が拘束(こうそく)を振りほどけぬほど弱った相手である。元が抱水と同種族だとはいえ――いや、だからこそ、兵士らは舐(な)めていたのだろう。


 抱水はなにせ、賤竜をして“文官勤めが上手い”と言わせる、同胞(どうほう)のなかでも特に人に近しい在り方を選んだ僵尸である。


 部下たち相手には極度におのれを出すことを嫌っていたものだから。


 真っ赤な夕陽が兵士の頭と、そして、瞳を鈍(にぶ)らせていた。


 そこにきて、ふいと彼らの耳に、けたたましく打ち鳴らされる鐘の音が響きわたる。


 火事を表わす半鐘(はんしょう)であった。


 この福峰(ふくほう)は火事が起きても延焼(えんしょう)しにくい性質をもつ。水の都だけあり、鎮火(ちんか)のための豊富な水源が確保できるとどうじに、水路沿いの家々にも工夫が凝らされている。


 民家には木造が多いまでも、“風火壁(フェンフゥオビー)”と呼ばれる、反りかえり出っ張った軒先が延焼を防ぐ。軒先部分だけを煉瓦造(れんがづく)りにしているため、火が燃え移りにくいという利点もあった。


 そのため、これほど執拗(しつよう)に半鐘が打ち鳴らされることは稀なのだが――。


 顔を見合わせる兵士らに、続いて空気を掻(か)き毟(むし)るような轟音(ごうおん)が襲いかかる。それは忘れようとしても忘れられない、この街の象徴的建築物(しょうちょうてきけんちくぶつ)が失せた日に轟(とどろ)いた音と同じで。


 兵士らはいよいよもって顔を突き合わせて騒ぎ立てるのであった。


 そんな兵士らの喧騒をよそに、ふと賤竜の瞼(まぶた)がもちあがった。緩く瞬きをおとし、瞳を虚空(こくう)へとさまよわせる。


「……冽……花?」


 その呟きを聞いた者はいなかった。聞いたところで一笑(いっしょう)に付(ふ)したに違いない。こんな城の奥深くに、お前の契約者が現れるはずがないだろうと。救いなどありはしないのだと。


 だが、実際、冽花は来ていた。それもごくごく近くまで。兵士らが新たな喧騒(けんそう)を聞きつけて、前を向くまでもう幾ばく。


 ずぶ濡(ぬ)れの蟲人(こじん)の女が疾走してくるのを見つけて、目を見開くまであともう少し。


 赤く血のような夕陽のもと、賤竜は待ち続けるのだった。



 ※※※



 けたたましく鳴り響く鐘の音が、街を物々(ものもの)しく震わせている。


 先ほどは巨大な質量が崩落(ほうらく)するらしき音も聞いた。作戦は上手くいっているようである。


 冽花と浩然(ハオラン)は城の周囲を張り巡らされた水路のなかにいた。冽花はぴったりと城の壁に背中を預けており、浩然が身をのりだし、跳(は)ね橋を見上げていた。


「……行ったか?」


「いや、まだもうちょっとだろう」


「……っ、つ、めてえ。凍(こご)えっちまいそうだ」


「我慢(がまん)しろ。俺はその状態で右翼楼(うよくろう)まで泳いだんだからな――っと」


 折しも、跳ね橋のうえを数多の馬群(ばぐん)が駆けだしていく。首を引っこめつつ、目を細めて浩然が見やるに、中央を一等奢侈(しゃし)な飾り物をした馬が駆けていた。


「たぶんアレだな。行ったぞ」


「あ、ありがてえ。これ以上浸かってたら泳げもしなくなるところだったぜ」


「そんときゃ引っぱってでも連れてってやるよ。……頼まれたからな」


 鼻の下をこする浩然に、冽花は瞬く。


「なんだよ」


「お前って悪ぶってるけど、実はいい奴だよな」


「……ほっとけ。ほら、開けるんだろ」


 浩然が顎でしゃくったのは、鉄製の格子(こうし)が嵌(は)められた戸だ。波うつ水路に面したそれは、城の排水設備(はいすいせつび)の出入口だった。


 冽花は頷くと瞳を閉じて、網の想起(イメージ)をその場に広げていく。同時に両手に陰気を宿し、居並ぶ鉄格子のなかから三本を選び、一本一本の一部に短剣の刃を押し当てた。


 ぺろりと唇を舐めて、腰帯から木槌(きづち)を取り上げる。勢いよく短剣の柄にむけ振り下ろす。


 数度の試みの後に格子は折れ、二本目に取りかかる。三本取り払ってしまえば、頭一つ分入るほどの隙間(すきま)ができあがった。


「イケる?」


「イケるイケる。俺を誰だと思ってんだ? 金絲猴(きんしこう)の蟲人だぞ」


 柔らかい体を活かして、揃って格子戸(こうしど)の向こう側へと入りこむ。暗い用水路のなかを、冽花が先導する形で歩き、ときに泳いで進んでいく。


 冽花らが新たに浮上し、ひと息ついたのは、どこかの回廊(かいろう)の橋の下だった。


 喜水城(きすいじょう)の内部もまた、至るところに水路を張り巡らせた水の城である。頭上では慌(あわ)ただしく人々が行き交い、状況対応に追われているようだ。


 冽花と浩然は時機を見計らい、額を突き合わせた。


「どうする? このまま進むか?」


「いや、上がろう。いつ見つかるか分からねえし、まず時間が分かりゃしねえ。陽の目が失せきったら賤竜が牢(ろう)に戻されちまう!」


「だな。じゃあ、しゃあねえ。行くか!」


 示し合わせて橋の下から出て回廊に躍(おど)りでると、ちょうど行き当たった人が持っていた竹簡(ちくかん)の山を落とした。叫ぶ間も与えずにその一人をふん捕まえるなり、浩然が目の前でにっっこりと笑みをうかべる。


「おい、お前。聞きたい事があんだけどよぉ」


「はっ、はひ……ッ!?」


「中庭ってのァ、どっちに行きゃあ行けるんだろうな?」


「な、中庭? 翡翠園(ひすいえん)のことですかな?」


「そうそう、そこ。大人しく話してくれりゃあ、命までは奪いやしねえよ」


「ぁ、あ……」


 城の中に突如(とつじょ)として現れた蟲人(こじん)。しかも、その姿はずぶ濡れた金髪の、ガラの悪い若き青年であり、意味ありげににっこりと微笑んでいるのである。


 城勤めの者には刺激が強すぎた。


「あ、あっちにぃ……」


「あ、気絶しやがった」


「ほっとこ。道は聞けたわけだからさ」


 倒れた人をそのままに冽花らが駆けだしていくと、ほどなく通りがかった者がその人を見つけたのだろう。途端にざわめきが生じ、ついで姿を隠してもいない冽花たちは大勢の目に晒(さら)されることになった。


 各所で悲鳴(ひめい)があがり、おもわず立ち止まる人々や逃げ惑(まど)う人を押しのけ飛び越え、入り組んだ水路を、橋を駆使して駆け抜けていく。


 ほどなく仔細(しさい)は兵士らの耳にも飛びこんだに違いない。武装した集団が駆けつけてきて、二人を追いかけだした。


 肩ごしにその数を見るなり冽花は舌を打った。たいして、浩然も後ろを振り返りつつも、その顔は真剣な面持ちをしていた。


「もうちょっとなのに……」


「…………」


「浩然?」


「お前、先に行け」


「えっ」


「俺が後ろの奴らを相手にするって言ってんだよ!」


「でも浩然、いくらなんでもあの数は!」


「お前と一緒だってどうなるか分かんねえだろ! っ、いいから聞け! お前はこのままあいつを助けてくるんだ。そうしたら一緒に取って返してきて俺を助けにこい。あいつの強さは折り紙つきだからな。あれぐらいの数、屁(へ)でもねえだろう」


「浩然……」


「男ってのはなあ、やらなきゃいけねえ時があるもんなんだよ。……あれだけ自分の力に自信満々だった奴が、お前だけは託してきたんだ。俺たちの信頼を、あんな乱暴な方法で勝ち取ったやつがだ。……仲間の信頼には応えなきゃいけねえだろ」


 そう言い残すなり、浩然は有無をいわさず足を止めた。


 冽花がおもわず振り返りかけると、察したように「振り返んじゃねえ、笨蛋(バカ)!」なんて声が聞こえてきたために、ぐっと唇を噛みしめて走り続けた。


 前にもこんなことがあったのを思い出した。


 そう、あれはすべてが始まった茶家(チャか)の事件の折であった。仲間の決死(けっし)の嘆願(たんがん)をこえて、死をのりこえ、今がある。今度は失いたくない。失わないために冽花は走り続けた。


 が、目の前に光が見えてきた。あれが翡翠園か、と――ようやく目的地にたどり着いたのかと、気を抜いた。その時だった。


 尾の毛が逆立つような感覚がその身に湧き起こったのだ。この怖気、は。


 老鬼(ラオグイ)。いや、――あの時。暗がりに満ちた夜道をゆく、陽の隊列を見た時も同じ!!


 突如(とつじょ)として、真横をはしる水路の水が渦(うず)を巻き起(た)ちあがった。それは紛(まぎ)れもなく水蛇の形をしており、唖然(あぜん)とした冽花は抗う間もなく呑(の)みこまれた。


 暴れると鼻や口のなかに水が入りこんでくる。貴重な空気も泡となって逃げだすため、冽花は口元を押さえざるを得なかった。


 水盤(すいばん)のなかの魚のようになった彼女の前で、柱の影より覚えのある人影が現れる。


(抱水……っ)


『驚いているようだな、冽花……賤竜の契約者よ。ふふふ。なかなか斬新(ざんしん)な手口だった。驚いたぞ。出立前に、お前たちの気が城の付近をうろちょろ鼠(ねずみ)のごとく這(は)いまわっているのを感じた時にはな。……私を水で欺(あざむ)こうとは』


(ぐ……息、が……っ)


『苦しいか? ふふふ。だが我慢しろ。このまま賤竜のもとへと連れていってやるからな』


(! 賤竜のところに?)


『目の前でもがき苦しみ死ぬお前を見たならば、あの鉄面皮(てつめんぴ)も少しは色を失うのではないか?』


(……ッ、冗(じょう)っ談(だん)じゃない。この虐待狂者(サディスト)の変態背水狂(へんたいベイシュきょう)が!)


『ふふふふ、なかなかソソる顔つきをするではないか。思わず……かき乱してしまいたくなる』


(がっ……!)


 水蛇のなかが渦巻き撹拌(かくはん)される。冽花は沈んだ木の葉のごとく、天地を逆にして乱雑にかき回された。胃がひっくり返るかの衝撃を覚えて、おもわず込み上げるものを飲み下す。そこにも空気を消費し、悶(もだ)えることとなった。


『さあ、もう少しだ。ここを抜ければご所望の翡翠園だぞ。ほら、気張れ気張れ。賤竜はもう目の前だ』


(他妈(ちく)、的(しょ)……いいように、しやがっ……て)


 冽花の意識はなかばぼやけてきていた。空気が足りない。目の裏が白く明滅して、頭が破裂(はれつ)しそうなほどに痛くなった。


 狭(せば)まる視界のなかで、少しずつ美しい庭園が近づく。暮れなずむ夕陽に染まる、風光明媚(ふうこうめいび)な水の庭園だった。


 血のように真っ赤な夕陽が――池の水面(みなも)に映りこんで、きらきらとその赤き像を砕かれ煌(きら)めくのを見て、冽花は思い出していた。



 この福峰に訪れた日。賤竜が彼女に差し出し、受け取って身に着けたものを。



 冽花の手が襟(えり)から胸元へと潜り込む。同時に彼女は目をつぶった。目の裏が明滅して、頭が槌(つち)で殴られたように痛む。だが、必死に網の想起(イメージ)を広げていく。



 やはり賤竜は言っていた。

『これは後のちお前も使える技術だからな』と。

 そうして、実際に壊していたではないか。この抱水が操る水の怪物を。



『さあ、着いたぞ。あとはほれ、見えるか? あの赤い橋を渡るだけだ』


 出入口で控えていたのだろう、日傘をもった従者が抱水のもとへと歩み寄ってきた。


 抱水が一瞬目を離しながら、ついで冽花へと瞳をむける。


 その目に、赤き陽の光が真っ直ぐに突き刺さってきた。


 意味が分からなかった。次の瞬間、抱水の瞳から赤黒い煙が噴き出し、彼は両目をおさえて天を仰(あお)いでいた。


『うッ……ぐぁあああ!?』


「抱水(ほうすい)様! ――あっ!」


 抱水は見えぬ目のかわりに、全身で陰気の発生を感じていた。そうして、一拍おくれて、ばしゃん、と大量の水が弾けて床を打つ音を聞く。


 荒く咳(せ)き込む物音が数度、弱々しい喘鳴(ぜいめい)が聞こえて、ここでようやく抱水の視界に光が戻り始めた。うっすらと見えた冽花の姿は、床に四つん這いに手をついて――その首から、紐(ひも)で括った小さい八卦鏡(はっけきょう)をぶら下げていた。


『凸面八卦鏡(とつめんはっけきょう)か……ッ』


「そうさ。賤竜のやつがね、あたしが……あんまりにも危難に、遭(あ)いやすいからってんで、買わせたのさ。風水も、捨てたもんじゃないね!」


 あらゆる凶事、殺気を跳ねかえす凸面八卦鏡は、抱水の身に、陽の気をいやというほど切りこませて、内部から狂わせていた。


 元より骸とはいえど人体の急所は変わらない。だからこそ賤竜も、いや、自分たち風水僵尸(ふうすいきょうし)は全員、戦う折には鎧(よろい)を纏(まと)うのである。


 ふらつき壁に背をあずける抱水のそばで従者は慌てるばかりである。元より武闘派(ぶとうは)でもないため、冽花が駆けだしていくのを止めることはできなかった。



 ここで時は帰結する。



 暮れなずむ中庭を守っていた兵士らは、ずぶ濡れの蟲人の女を見て、浮き足立った。


 ひと目見て、手負いの獣だと分かるほどに必死の形相をしていたからだ。


 鋭く後ろに引かれた猫耳に、勢い空を混ぜる尾。血走らせた目に、剥きだされた歯列の隙間からはフゥゥッと低い唸り声をあげていた。


 完全なる戦闘態勢に、未だ平和のうちにいた彼らはすぐには対応できなかった。


 が、なんとか一人が己を奮(ふる)い立たせて、声をあげて槍(やり)を振るう。も、容易く避けられ鳩尾(みぞおち)に膝を叩(たた)きこまれる。もう一人が突きこむ槍の穂をも、彼女は柔らかく身をひねって躱(かわ)し、返す手に黒きもやを纏わせて柄を握りこんだ。


 押しこまれた石突(いしづき)が、ずん、と兵士の腹に突き入れられる。


 その場の兵士を倒した冽花は、ふらつく足取りで赤い橋を渡った。


 そうして、そこで見た賤竜の姿に、目をみひらき立ち尽くしたのだった。


「……っ、賤……竜……」


『……冽……花』


「賤竜ッ……賤竜!!」


 周囲の鏡を押しのけ蹴倒しながら、冽花は進む。鎖で雁字搦(がんじがら)めの体をせめて陽の光から守りたくて、濡れた体で精一杯に包みこんだ。


『……な、ぜ、来た? ……その、姿は……』


「っ……笨蛋(バカ)っ! 他人(ひと)のことより自分の事だろ! そんなに弱って……ごめんな、賤竜。無理させちまって。ごめん、ごめん……っ」


『冽、花』


「……それに、あ……有難う、って、伝えたくて来たんだ」


 視界が滲(にじ)むのを禁じ得ず、冽花はきつくきつく賤竜を抱きしめながら告げる。


「守ってくれて有難う、って。助けて……助け続けてくれて、有難う。……こんなになるまでお前に、無理させちまうこと気付かなかった……笨蛋(バカ)なあたしを支えてくれて、ありがとう」


 ほろほろと零れ落ちる涙が賤竜の肩を濡らす。


 賤竜は冽花の横顔を見るなり、そっと目をつぶって、その肩に頬を寄せたのであった。


 おのれのなかを蝕(むしば)む衝動に耐えて。


『謝る必要はない。礼も、必要などない。此は――』


「道具だから、って言うつもりだろ? でも、それじゃあ、あたしの気が済まないんだ。あんたを道具と思えないあたしからしたら、どうしても言っておきたかったんだよ」


『……そう、か』


 噛み締めるように賤竜は告げる。その口元が震えて、わずかに食(く)いしばった歯が――牙(きば)が覗(のぞ)くのに冽花は気付かなかった。


 けれど、かわりに冽花はそっと体を離すなり笑った。


「さっきそこで抱水に会ったよ。してやられたけどさ、やり返してやった。あんたが買えって言った八卦鏡で」


 賤竜は冽花の胸元にさがる八卦鏡を見下ろす。その折に、濡れて張りついた冽花の服――から覗く、白い喉元(のどもと)に目がいって、なおも歯を食いしばった。


 さすがに冽花はその様子で気付いた。賤竜の異変に。


 ふと、その笑みを深くする。


「辛いんだろ、賤竜。老鬼(ラオグイ)から聞いたよ。その煙、あたしから受けてる血食(けっしょく)の気も出てるんだってな。……腹減ってるんだろ」


『……っ』


「いいよ。我慢(がまん)しなくていい。ぜんぶ受け止めてやるから」


 顔をそむけた賤竜の頬を両手で挟みこんで、冽花は顔を近づけていった。その目の前で、これみよがしに舌を突きだし、先端を噛みきってやる。


 香る鉄さびの匂いに賤竜が釘づけになるのを見て、ひと際鮮やかに笑い、その身へ体を預けた。唇同士を重ねあわせる。


 冷たい舌と熱い舌が絡み合い、陰気と陽気が吸い上げられる。冷たくなった冽花の体は陰気をたっぷりと含めて、渇(かわ)いた賤竜の身を潤(うるお)していった。


 はあ、と熱っぽい吐息をどちらからともなく吐く。ふと冽花は気付いた。賤竜の目が、自分の喉を見つめていることに。両腕をひろげて、大仰(おおぎょう)に首をかしげてみせる。


「お代わり、要るかい?」


『頂こう』


 抱き締めるのとほぼ同時だ。賤竜の牙が、冽花の皮膚(ひふ)を食い破った。


「うっ……い、てぇ……ッ」


 冽花の目から涙がぽろぽろと零れる。だが賤竜はやめない。なおも牙を食いこませては、唇を被せてその血を啜(すす)りだした。


 冽花は震える手で賤竜の背をさする。出会った時と同じように。最初の吸血と同じよう、その身を落ち着かせて安心させられるように。


 賤竜は目を伏せていた。契約者の甘美な血液を吸い、次第に満ちてくる力を感じながら――目を閉じる。うっすらとその唇が笑うように弧を描いたのを、この場の誰も見ることはなかった。


 ここでようやく追い付いてきた抱水は、事がすべて遅かったことを悟った。


 天を仰(あお)ぐ。大龍の陽の目は光を失せつつあり、賤竜は契約者を得た。


『振り出しか……』


『――いいや、これで終わりだ、抱水』


 その言葉とどうじに賤竜の体を濃い陰気が取り巻いた。


 頭を取り巻いて鋭角的な輪郭(りんかく)を形成、手足と胴(どう)を取り巻いて、鱗状(うろこじょう)に金属を連ねた鎧具足(よろいぐそく)が形成された。最後に裾の長い背子(うわぎ)が背から降りると、鎖が千々(ちぢ)に四散する。


 決然けつぜんたる瞳が抱水を射抜いた。右腕に冽花をしっかりと抱え、膝をつく姿勢から、まっすぐに賤竜は見上げてきている。


 その身にもはや憔悴しょうすいの色はなく、逆に溢れんばかりの力強さが感じられる。抱水がおもわず息を飲むほどに。


『決着をつけよう』


『っ……よかろう。その余裕、今度こそ粉々にしてやる』


 気圧されたものの、抱水もまた扇を開くなり、黒き鎧を纏う。


 勝負の開始は――太陰(つき)が輝きだして後に。にらみ合う二人は頭上の空をあおぎ、どちらからともなくそう結論づけた。


 賤竜は冽花を抱え上げると四阿(あずまや)に運ぶ。そこに彼女を寝かせて、背子(うわぎ)をかけた。


「賤竜……」


『案ずるな。お前のことは必ず守り抜くゆえに』


「そうじゃなくて」


『ん?』


 額をも撫でようとした手を冽花は受け止めるなり、にぃっと強気に歯を覗かせて笑う。


「勝てよ。信じてるからな」


『――……知道(ジーダオ)(了解した)』


 賤竜の背が心なしか伸び、しかと冽花の瞳を見つめて頷き返した。


 そんな二人の様子を、抱水は苛立(いらだ)ち紛(まぎ)れに見つめて――ふと、虚空を眺めるのであった。


 その瞳に映るのは郷愁(きょうしゅう)か、はたまた。抱水は口元に扇を寄せる。


 太陰が昇るまで幾ばく。少しずつ空に深い青が溶けていき、暗黒が滲み広がる。その折までのしばしの静寂が訪れていた。

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