6、墜ちる竜

 世をみそなわす大龍が、ほぼ閉じかけの太陰つききらめかす頃。


 冽花と賤竜、それに浩然ハオランの三人は、夜陰やいんにまぎれて連理楼れんりろうを目指していた。


 ここ数日で兵士の数は格段に増え、屋根の上にも配備されているため、屋根伝いに進むこともできない。そのため、物陰ものかげに隠れながらひっそりと行軍(こうぐん)は続けられていた。


他妈的ちっくしょう、それにしても多いな」


「おかしくないか、この数。あれからこっちは何の音沙汰おとさたも見せてなかったっつのによ」


 ちょいと围巾ストールの縁をあげて、いぶかしげに浩然が目を細める。巡回する歩哨ほしょうの一団の動きを見つめながら、その面は険しくしかめられていた。


 同じく縁をあげた賤竜も辺りを見回しつつ、低くひとり言のようにごちた。


れたか、情報が』


「え!?」


 おもわずと勢い振り向く冽花にたいし、浩然が鼻で笑ってみせる。


「漏れるってどこからだよ? 少なくとも同志らは漏らしゃしねえぞ」


『どうかな。人の口に戸口は立てられん。数が増えれば増えるほど、“絶対”という言葉は使えなくなるものだ』


「っ、てめえ……同志らを疑うってのか?」


喧嘩けんかはよせよ! あ、やばっ!」


 くるりと方向転換し、折しも歩哨らがこちらへと来る。有無をいわさず冽花は、賤竜と浩然をまとめて家の後ろへ押しこんだ。歩哨らは何事もなかったかのように通過していく。


 ふぅっと息をはいて冷や汗をぬぐい、冽花が二人を見ると――。


「何やってんの」


「お前がこうさせたんだろうがよ!! っ、さっさと退け、てめえ!」


 賤竜が両腕で浩然を壁際に囲いこむ形になっていた。額に青筋をたてて真っ赤に染めた面で吼え――小声で吼える浩然は、賤竜を突き押して離れる。


「ったく、やってらんねえぜ。早いとこ終わらせて、虎浪軒ころうけんで一杯やりてえもんだ」


「あ、いいね。あたし、まだねえさんの油爆河蝦ヨウバオハーシア(川エビ炒め)食ってない」


紹湖酒しょうこしゅで飲むと美味いんだよなあ」


『……気が抜けているぞ、二人とも。祝杯しゅくはいの話は終えてからにしろ』


 賤竜の指摘におもわずと緩みかけた面を引き締めて、一行は先へと進んでいく。


 しかし、進めど進めど兵の数は増す一方だ。残すところ通り二本ほどに差しかかった頃には、鼠一匹逃さぬ包囲網ほういもうができあがっていた。


「このままじゃらちがあかないよ!」


「同感だな。同志らのほうのかく乱のためにも、そろそろ始めにゃならねえ」


『……行くか』


 賤竜が虚空こくうに片手を伸べて、黒き棍を呼び出したのが合図となった。


 一気に物陰からおどり出た三人は、目の前の連理楼れんりろうめざし、疾走しっそうを開始する。


 すぐさまそれに気付いた歩哨が槍を突きだし制止をかけるが、先陣を切って賤竜が二、三人をまとめてぎ払い、四人目に冽花がひざを入れ、五人目を浩然が殴り飛ばす。


 屋根の上から弓矢が射かけられたとて、賤竜が弾いている間に、その後ろから飛びだす二人が、瞬く間に屋根によじ登って兵士らを叩き落としていく。


 集まったところで所詮しょせん、人の動体視力どうたいしりょくである。同士討どうしうちを懸念し、大っぴらに彼らが仕掛けられぬのも幸いして、三人はほどなく連理楼の根本へ差しかかることができた。


 が、あと一歩というところだ。


 その目の前に素早く滑りこんで立ちはだかる者たちがあった。


 冽花は目を疑った。


「っな……なんで!? あんたたち……」


 それは獣の耳や尾、腕や手足をもつ同胞――蟲人こじんたちであった。


 彼らは手に手に棍や長刀をたずさえ、有無を言わさず肉薄してくる。


 その一糸乱れぬ統率に既視感きしかんをおぼえ、冽花はほどなく三日前の出来事を思い出した。


「あんた達、三日前捕まった……!?」


 その声に、冽花に仕掛しかけた長刀使いがせせら笑う。


「っ、はは。あの場にいたのかよ、お前!? そうだよ! 抱水ほうすいの野郎に言われたんだ! お前たちをぶちのめしゃあ……無罪放免むざいほうめんだってなあ!!」


「っく!」


 さすがに無手むてでは相手取れず、围巾ストールを跳ねあげ、腰帯に差していた短剣を抜く。


 切り結ぶ長刀を受け流し飛び退る。


抱水バオシュが……?」


「ぁン? バオシュ? 抱水だっつってんだろうが。……くっくっく、いい根性しやがるじゃねえかァ。白墨党の奴らと蟲人の同士討どうしうちとはなあ!」


 口元をにやつかせながら、なおも蟲人は冽花に切りかかる。大きく出られぬ冽花は、その剣筋を避けるとまた一歩退いた。


「聞いたぜぇ? 港湾地区こうわんちくの奴らを解放するとかなんとか。可笑おかしいったらありゃしねえ。それならなんで俺たちは救ってくれねえんだ? あァ?」


「っ、それは……」


「お前たちぁ目先のことしか考えてねえんだよ。やるなら全部だ、全部。でなきゃ、こうしてなあ……足元掬すくわれんだよぉぉ!」


「っく、ぁ……!」


 嵐のような連撃が湧き起こった。男の蟲人のそれだ。捌くのだけでもひと苦労である。


 耳障りな剣戟音けんげきおんとともに、少しずつ腕にしびれが溜まっていく。


 そのなかでも冽花の脳裏のうりに、ひと際こだましているのが、先の蟲人の言葉であった。



『なんで俺たちは救ってくれねえんだ?』



「……っ」


 奥歯おくばを噛み締める。


 抑えるのにも限界が訪れて、あわや手から短剣が弾かれる――そんな時であった。


『悪いが、うちの契約者の腕は二本しかないものでな』


 なにも言えない冽花にかわり、淡々とした低い声色が応じた。


 ついで真っ直ぐに突きだされる棍が、蟲人の胸元へと吸いこまれる。大人一人がゆうに吹き飛び、地面に転がるその上に、ついでとばかりに投げ飛ばされた一人が乗せられる。


「っぁ……」


『やはり情報が漏れていたらしいな。組織の者でなくとも、この分では港湾地区の側にも潜り込むのは容易たやすかっただろう』


「じぇ、賤竜……」


『ん?』


 躊躇ためらいなく同胞を突き転がした賤竜を、なんとも言えぬ顔で冽花は見上げる。なんとも言えぬため、ただ見つめるしかできなかったが、賤竜はほどなく察したようだ。


『此にとってはお前が最優先事項さいゆうせんじこうだ』


 言うなり、振り向きざまに迫ってきた一人の足元を薙ぎ払い、腹部を突いて黙らせる。


 加減はしているのだろう。なにせ投擲とうてき一つで、虎の身を貫通かんつうさせるほどの威力が出るのだから。


 向こうで浩然もまた、腹をくくった様子で二人同時に相手取っている。もたついているのは冽花だけだ。


「あたし……あたし、は……」


 指が白くなるほどに固く短剣の柄を握るが、先のようにもたげることができない。その手は手枷てかせめられたように重たかった。


 先ほどの蟲人の言葉が、頭から離れずにいる。だから動くことができない。


「そんなつもりじゃなかったんだ……あたしは。あたしは、区別してるなんて……」


 そう、そんなつもりじゃなかった。

 土台、そこまで深くものを考えて生きちゃいない。

 ただ自分と同じように苦労して、苦しむ仲間たちを助けたかっただけだ。


 ――その行動が、誰かを選んで切り捨てることに繋がるなんて、これっぽっちも思いはしなかったのだ。


 うつむいて首を振る冽花を、賤竜は困ったように見つめ。一拍おいた後にその頭に手を置こうとする。が、――ふと、おもむろに冽花に背をむけ、棍を構えた。


 ぞわりと尾の毛が総毛立つのを感じ、冽花は賤竜の肩ごしに見やる。


 今しがた皆で駆け抜けてきた道――暗夜あんやの暗がりに満ちるそこを、ゆっくりと、綺麗に隊列を組んだ火の明かりが進んできた。


 先頭を行くのは、ぽつりと灯る白き陽光である。


 それが兵士らを従えて進む、今しも鉄扇てっせんに陽気を帯びた抱水だと知れるのは、間もなくのことであった。


 一気に警戒度を跳ねあげた二人は、目を逸らさぬまま言葉を交わす。


『すでに陽気が充填じゅうてんされている。来るぞ』


「うん……! 浩然、抱水が!」


「うっせえ! こっちも手一杯なんだよ!!」


 浩然の言葉に、冽花は刹那せつな、瞳をむけるが……唇を噛む。


 まだ腕は重たいままだ。だから“加勢にいきたいが、もう時間がない”。自分にそう言い訳して、賤竜とともに抱水を待ち受ける形をとった。


 しずしずと進む一団が足を止めたのは、彼我ひがの距離が五丈(15m)ほどとなった頃であった。


 口元に閉じた扇のさきを当てた抱水は、ゆるりとその場を見渡す。そして、いまだ取り込み中の浩然に目をつけた。


 気づいた冽花が注意をうながすと同時だ。その扇がはらりと開かれる。後ろ手の一閃がきらめく風を巻き起こした。


「浩然、そっちに来る!」


「なっ!? ……っくそ、仲間ごとやるだと!? ぐぁああ!!」


 水路から起ちあがった水蛇が、そのまま真っ直ぐ突貫とっかんする。進路上の蟲人らをなぎ倒し、あぎとをひらいて迫るそれから、なんとか浩然は数歩飛び退く。


 それが限界だった。蟲人の力をもってしても。すぐさま追いすがられ。ひと呑みに飲みこまれて、その身が天高くさらわれていく。


「浩然!!」


 冽花は身を乗りだし見上げて、行く末を追い――うねくる蛇は水路を目指して落下してくる。


 おもわず駆けだそうとしたが、振り向く賤竜に肩をとらえられた。その顔は険しく顰められており、まるで先の浩然のようで――首が横に振られた。


『もう間に合わん』


「……ッ」


 賤竜の言う通りだった。


 飛沫しぶきをあげて水蛇は水路に飛びこみ、水を割って悠然(ゆうぜん)と進み始める。さざ波がじょじょに遠ざかっていくことから、どこかに運んでいくつもりなのだろう。なかの浩然の安否あんぴは別として。


『誰が仲間か。使えぬ獣どもが』


 フン、と鼻を鳴らし、侮蔑ぶべつをふくめた冷めた声色がその場を震わせる。


 再び扇を口元に寄せた抱水だ。肩を揺らし、冽花はにらみつけるものの、弓なりに細めたまなこが返るばかりだった。


 抱水はつかの間に冽花を見た上で、その前を陣取じんどる賤竜に瞳をうつす。


『久しぶりだな、賤竜』


『抱水』


『三百年ぶりか。最後にお前を見たのは……そう、お前が凍結指定(とうけつしてい)を受けた折だ。場所は蒼天宮そうてんきゅう。懐かしい。もう三百年も経つのか……私が背水と別れたのも……』


 ふと扇で顔を隠し、顔をそむけては肩を落とす。その肩が小さく震えだすのを見て、冽花は一瞬、泣いているのかと思った。


 が、違うということに気付いたのは。


 次の瞬間、その唇から狂おしいばかりの情念じょうねんあふれだしたからだ。


『っ……背水ベイシュ。背水、背水、背水!! ああ、愛しい背水! 憎らしい背水! 我がうるわしきもこの心をかき乱しつづけるつい!! お前たち陰型が封印されてから、もう三百年経った! 私は、我らは、狂おしきほどにお前たちの帰還を待ち望んでいたのだ!』


 扇が取り払われ、弓なりに歪む唇が現れる。獲物をつかむ猛禽もうきんあしゆびがごとく、わななく片手をゆっくりと握りしめ、抱水は爛々らんらんと光る目で賤竜を見つめた。


 骨ばった指が彼を指さす。


『よく帰還した! よくぞ帰還したものだな、賤竜! それだけはめてやってもいいぞ』


『ああ。この仕儀しぎを収めた後には、他の者も探しにいかねばと考えていたところだ』


『名案だ。是非ぜひとも手伝いたい――と言いたいところだが、そうだな。このさわぎに蹴りをつけねば、先には進めまい。なんとも残念なことだ』


 これみよがしに首を振った後に、ふいと抱水の面から笑みが消えた。


『ああ、そうだ。この憎しみを消化せねば、到底とうてい先になど進めはしない。――お前、この私の気持ちを察しつつも右翼楼うよくろうを手にかけたな?』


 寝耳ねみみに水の冽花は、おもわず賤竜の背を見つめる。確かに言われてみれば、「落とす」と言いだした折に、最初から右翼楼へ狙いを定めていた。


 賤竜は顎をひいて応じる。


『ああ。遠目からでも二つの塔は伺えたゆえな。一見して、お前たち二人を見立てたものだとはすぐ分かった』


『あまつさえ、この連理楼を狙うとは。……ふ、ふふふっ。覚悟はできているのだろうな?』


『ああ。受けて立とう』


『っ、その余裕が、昔から気に喰わなかったのだ!』


 围巾ストールを取り払い、濃緑の鎧具足よろいぐそくを纏う賤竜にたいし、抱水もまた陽気を体に纏わせて、黒い鎧を装着する。長いすそをひるがえし、彼は再び扇をかかげた。


 水路から三条の水蛇が起ちあがり、それぞれ三方向から賤竜めがけて食らいついていく。


『すぐさまこの場を離れろ、冽花。えを食うぞ』


 端的に告げて、残る兵士たちを見やった上で、賤竜は駆けだした。


 棍に陰気を纏わせるなり、一条の蛇の軌道上から体を低くし、その喉を突き、あるいは振り返りざまに他の蛇の目を貫く。


 最後の一条をあぎとの底まで貫き通したところで、三条が一挙に水へと変じた。


小癪こしゃくな。では、これはどうだ?』


 再び扇を振るって、今度は大きな水球を作りだすので、賤竜は足を速めながらも、棍を持ち上げ直した。

 水球は宙でふるると震えると、四方八方に圧縮あっしゅくされた水の筋をばらまき始める。


 三日前に店主相手におこなった技の無差別版むさべつばんだ。賤竜は再び陰気を纏わせた棍を回し、一つ一つを弾き落としながら、水球へと迫った。


 重たい破裂音があがり、水球の中央が貫かれる。あやまたず水にす賤竜に、抱水は舌打ちをもらし、ここで後ろに飛び退った。


 が、再び扇を振るう間を許さずに、賤竜の突きが迫る。硬い金属音をあげて打ち合い、なおも後退する抱水は、おもむろに連理楼れんりろうをみあげて跳びあがった。


 賤竜がそれに続く。彼の後を水路からもちあがった蛇が追いかけていく。水蛇の相手をしながら、賤竜は抱水を追いかけだした。


 残された冽花といえば。指示通りにこの場を離れるべく、よじ登れる屋根を探したが、ふと思い出したように地表を見下ろした。


 抱水が連れてきた兵たちは不気味なほどの沈黙を守っている。


 試しに横にそうっと数歩ずれてみたが、待機姿勢を崩そうとしない。


 彼らからしてみれば、上役の抱水の危難だというのに。そして、冽花を捕らえる絶好の機会だというのに。


 “まるで何かを待ち受けているかのように見える”。


 冽花は眉を寄せたものの、結局、その違和感の正体を掴むことはできなかった。


 依然として戦いは続いていたし、この多勢に無勢だ。万が一にも賤竜の荷物になることは避けたかったからだ。さっさと逃げ道の確保とばかりにきびすを返しかけたところだ。


 ふと視界のすみに入ったものに動きを止めた。


 それは倒れ伏したままの蟲人たちだった。賤竜に倒されたまま、抱水に薙ぎ払われた時のまま、彼らはその場に捨て置かれている。


 少しだけ躊躇ためらったものの、冽花は彼らのもとへと進路を変えた。


 一人一人に肩を貸して、広場のすみまで運び――女の身で男を運ぶのである。時間がかかるのも、引きずるのも許してほしいものであった。


 二人目を運び終える途中だ。頭上で轟音ごうおんが生じた。


 見れば、四階部分の柱が砕けて外に零れ落ちている。


「うわわわ!」


 慌てて蟲人を下ろし、とっさにその上に覆いかぶさる。辛くも破片が飛んでくるのみで、柱は冽花たちから離れた場所へと落下した。


「あ、あぶねえ。ここでも駄目なのかよ……」


 見上げた先では、四条もの水蛇を相手取りながら、賤竜が先ゆく抱水を追っている。


 途中途中で柱に拳を入れ、水蛇を突っ込ませているのを見て、ちゃっかりしてるなあと冽花は感心したのだった。


 連理楼もまた少しずつ崩壊を開始している。抱水は――もちろん、それに気付いているのだろうが。もともと得物から見ても、接近戦は得手としていないのかもしれない。


 そんな楽観さえ浮かんだ冽花は、再び蟲人を運ぶ作業に戻る。その平穏は連理楼が崩壊するまでの間だけ続いた。


 先日と変わらずにゆっくりと連理楼が沈みこみ始める。


 その頂からともに崩れ落ちる抱水は、追いついてきた賤竜と激しい攻防を交えていた。


『おのれ……おのれおのれ、連理楼までも!!』


 閉じた扇を怒りにまかせて叩きつけてくる抱水に、棍先でいなしつつ冷静に賤竜は指摘する。


『盾にしたお前が悪いと思うが』


閉嘴うるさい! 私はお前や貴竜のように、前線であくせくと動く仕様タイプではないのだ!』


 吼えつつ見下ろすも、頼みの綱の水路は小蛇のごとく小さい。


 つづいて賤竜が突きだす棍を、辛くも扇で受け流すも後がなかった。――そう、賤竜も、無論、地上で見守る冽花も考えていた。


 二撃めを入れようとしたところだ。ふいと賤竜は吼え続ける抱水が言葉に反し、口元をわずかばかし緩めているのに気付いた。いぶかしげに目を細める。


『何がおかしい?』


『む、おっと。……く、ふふふ。そうだな。そろそろ猿芝居さるしばいもここまでにするか』


『何?』


『何のために連理楼を犠牲ぎせいにし、ここまで来たと思っている?』


 抱水は手を伸ばし、逆に賤竜の棍を握りしめる。ぐっと己を引き寄せるなり、その目の前で、それはそれは嫌味ったらしくあざ笑ってみせたのだった。


『お前の契約者は今、私の兵の手のうちに在ることを忘れるな』


『!』


 賤竜はおもわず見下ろして視た。この場を離れろと言ったはずの冽花がまだ眼下におり、あまつさえ、先だっての蟲人こじんを運んでいる姿を。


 とっさに棍を消し、崩れる連理楼の瓦礫がれきを足場に疾走し始める。遠ざかるその背を見てわらい、抱水は高々と扇をかかげて白く輝かせた。


 一方、地上ではその合図を見た兵が動きだしていた。足並み揃えて冽花へと迫りくる。


「な、なんだよ! 今まで死んだみてえに動かなかったくせに!!」


 最後の一人――あの長刀の蟲人を運ぶ途中でいた冽花は、おもわずと蟲人を離すなり、短剣を抜き放っていた。腕の重たさなど、とうに忘れ果てていた。


 多勢に無勢。だが、やれるか? 冽花は自身の四肢に陰気を纏わせようとする。


 先日、賤竜から教わった“弱い部分”を打つ技でいくべきか。


 この前覚えた網の想起イメージからの一撃、あれなら団体の気を逸らすこともできようが。土壇場どたんばで使えるだろうか? ぐるぐると緊張した思考はめぐる。


 が、彼我ひがの距離が三条余り(10m)に迫る頃だ。両者の間に着地してくる影があった。見るなり、すぐさまほっと表情を緩めた冽花は、その名を呼ぼうとした。


「ジェ――」


 だが、頭上から間髪いれずに降る声に、その笑みは凍りついたのだった。


『今だ、構え!』


「っぇ」


 冽花はぎょっとし頭上を見上げた。抱水だ。煌々と輝く扇のさきで自身らを指している。


 乾いた音をたてて、一斉に兵士らは持っていた槍を地上へと落とした。


『――放て!!』


 代わりにその手に巻きつけ隠していた暗器――流星錘りゅうせいすい(長縄、鉄鎖に錘をつけた武器)を手に、次々と賤竜にむけ投じてくる。


 棍を再び手にし、幾つか薙ぎ払ったものの、相手は軟兵器である。棍先に絡まり、くるくると棍もつ腕を巻き取られてしまう。


 そのうちに四肢はおろか胴にも縄は回り、十重二十重に拘束を受けることとなる。


 だが、そんな状況でも賤竜はうろたえなかった。全身に陰気を纏わりつかせて、兵士たちと引き合いながら、拮抗に敗れた縄からちぎりだしたのである。


 時間さえあれば、賤竜は容易くこの包囲網さえ抜け出せたに違いない。

 そう、時間さえあったならば。


 ひと足遅れて、抱水の身が地上へと降りゆく。その唇には相変わらず笑みがたたえられていた。彼は逆さまに見上げた。


 世をみそなわす大龍が、ゆっくりと伏し目がちの太陰光げっこうを薄れさせているところを。


 ほどなく、空中を降る抱水の姿が影となり、白く明けゆく光に呑まれだした。


 朝の訪れだった。


「っ、賤竜!!」


 ぞくりと背筋を震わせる冽花が、賤竜の背に手を伸ばした。


 その瞬間だ。抱水、賤竜、両名の体から赤黒い煙が迸った。


『――……ッ!』


 途端に賤竜の動きが気忙しくなる。嫌がるように身をよじり、棍を振るって縄を引きちぎろうとする。が、やはり幾重にも巻きついた縄がそれを許さない。


 降り立った抱水は賤竜の脇をすり抜けるなり、自軍へと四度目の指示を投げた。


『第二隊、八卦小隊はっけしょうたい、前へ!!』


『っ! く……』


 初めてだ。初めて賤竜があせる声音をもらした。


 そして――“八卦”。その響きにぞくりとまた冽花は背筋を震わせて、兵士らを見やる。


 まさか、と思った。そうでなければいいという願いは、果たされなかった。


 素早く自軍に戻る抱水と入れ替わりに、二列目の兵士らが姿を現す。


 その手には紛うことなく八卦鏡はっけきょうが携えられ、一斉に朝の光を宿し、賤竜へと向けられた。


「ああ、ああぁぁ……」


 冽花の唇から絶望の声が迸る。その衝撃は、自分の手に短剣があるのも、これが最後の賤竜に近づく時機であったことすらも失念させてしまった。


 この世を逆さまに映しだす凹面八卦鏡おうめんはっけきょう


 かつて賤竜が告げていた。



『転じて凶事をひっくり返すという意味で、家の内外の凶方位にかけられる代物だ。また陰気を収束して封じ、陽気を集めて運気を上げる……太陽の象徴たる道具でもある』


「へえ。……って、なんでそんな遠ざかるわけ?」


『……陰気を収束して封じ、陽気を集めるとも言ったはずだ。此らにとっては脅威となる道具でもあるのだよ』


「へええ。お前でも苦手なものってあるんだ?」


『当然だ。通常の僵尸とは異なり、生米でも鶏の生血でも臆しはしないがな。太陽だけは苦手だ』



 太陽と、凹面八卦鏡。その二つの脅威が、いま、猛威を振るう。


『ぐ、ぅ、ぁ……!』


 初めてだ。初めて、賤竜の口から苦鳴がまろびでたのだった。

 焼きごてを肌に押しつけたような音を生み、なおも煙は噴出し続ける。その煙が無数の八卦鏡に吸いこまれていく。


「じぇん……賤竜、そんな……うそ、だ……嘘だ!!」


 冽花は目の前で起きることが信じられずにいる。


 あの賤竜が。管蛇くだへびに呑まれかけたとて、人面虎じんめんこ相手でもおくれをとらなかった賤竜が。


 人の手で捕らえられ、今しも危難を迎えているなどと。


 それが、自分を守るために起きた出来事であることが、受け入れられなかった。



 自分の行動が、誰かを選んで切り捨てることに繋がるなんて、これっぽっちも思いはしなかったのだ。



 冽花はふらふらと賤竜に歩み寄らんとする。その手に短剣があるのも忘れて、ただただ、おのがために動いた僵尸のもとへと近づかんとした。


 が、そんな彼女を肩ごしに賤竜は振り返った。片目をつむり、奥歯を噛んだ必死の形相だったが、喘ぎあえぎに天をあおぎ。


 ひと際高らかに、助勢を乞うたのだった。


『っ、はお……らん……浩然ッ! 冽花を頼んだ!!』


他妈的ちっくしょう、引き受けてやるよ!!」


 折しも生還し、ようやく戻ってきた浩然である。


 彼は横手の水路から飛びあがりざま、風のように駆けてきて冽花を担ぎ上げた。


 手から短剣を零れ落とし、冽花はようやく我に返って浩然を見やる。


「ちょ、ちょっと、はな……放せよ、浩然!」


「うるせえ、退却だ!!」


「そんな! 賤竜は……!」


 見れば、賤竜は押し寄せる兵士らによって突き転がされて拘束されている。冽花は再び手を伸ばしたが、浩然が走りだしたことで彼我の距離は遠ざかるばかりだった。


 最寄りの家の屋根によじのぼり、逃げ去る二人にたいし、兵士らはもう顧みることすらしない。最初から賤竜の拘束が目的だったのは明らかだった。


「賤竜! 賤竜――――ッ!!」


「諦めろ、冽花。ありゃもう無理だ!」


「賤竜ッ、いやだ、賤竜―――――!!」


 嫌だと叫ぼうが、何度呼ぼうが、賤竜は応えなかった。彼女の後を追うことも、彼女の言葉に呆れたように、時に目を細めて応えることも。もう、ありはしなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る