幕間3、僵尸は憤怒する

 抱水は近年まれに見るほどに荒れ狂っていた。


 質素ながらも質のいい調度品ちょうどひんに囲まれた執務室しつむしつのなかを、何度も行ったり来たりしたり、爪を噛んでは頭をかき乱す。綺麗きれいに撫でつけた前髪も降りて、隙間すきまから剣呑にとがるまなじりをさらす。


 仕事など到底手につきはしない。こんな自分の姿を見せたくないため、部下らは早々に下がらせてしまった。


 苛々ともう一巡いちじゅん部屋のなかを回ると、卓上に置かれた竹簡ちくかんが目に入る。それを手にするなり、掌に打ちつけながら舌打ちまじりにぼやいた。


嗎的クソッ! 賤竜め……私になんのうらみがあり、邪魔をするのだ!』


 憎々にくにくしげに呟く、おのが同胞であり、今は敵にまわったとおぼしき僵尸の名前。


 思い浮かべるのは、と冑ごしに淡々と暗い洞のような目で世を見つめ続ける、同胞の真顔であった。何を考えているのかいつも判然としない。


 再稼働を地気のざわめきによって知ってはいたものの――貴竜グイロンではないのだ。そんなもの知ったことかとばかりに、仕事に打ち込みつづけた結果がこの様(ざま)だった。


『しかも右翼楼うよくろうを狙うなどと……私を虚仮こけにしているとしか思えん』


 おのずと手に力がこもり、竹簡が軋んだところで我に返った。いかんいかん。さすがに三本目の報告書を書かせるのは、いくらなんでも顰蹙を買うにちがいない。


 溜息まじりに前髪を撫で上げて竹簡を置く。


 ふと窓をみれば、伏し目がちの太陰つきが冷たく阳台バルコニーを照らしだしていた。


 夜風でも浴びようかと、抱水はつま先をまわす。外へと繋がる扉をひらき、ふらふらと太陰つきの光のもとへと歩みでた。


 死した身体に、太陰つきから降る陰気が心地よく染みる。


 阳台バルコニー手摺てすりにもたれかかり、すみに浸かったような街を見やると、左の視界がぽっかりと開けているのに気がついた。


 右翼楼のあった位置だ。つい数日前まで、ここから見通す景色には、左翼楼とならんで、“彼女”が煌々こうこうと神秘的な姿でたたずんでいた。


 頬杖をついて瞳を右へと滑らせると、相変わらず堅固に佇んでいる左翼楼の姿があった。


『それもいつまで続くか分からんがな……』


 ふと苦笑まじりにぼやく。あの賤竜が――“五陰ごいん龍頭りゅうとう”、陰型の長が動きだしたのだ。


 風水僵尸ふうすいきょうしの力に優劣ゆうれつはないといえど、気を遮断しゃだんする力がある彼に、自分の水がどこまで通じるかは分からなかった。この水の都をもってしてもだ。


 たった一個で佇んでいる左翼楼を見るにつけて、じわじわと込み上げるものがある。


『……背水ベイシュ


 おもわずと零れた呟き。それはここ三百年余り口にする機会もめっきり減った、おのが対の名前であった。それは風にさらわれて、ただの独り言で終わるはずであった。


 その言葉をひろう者がいなければ。


「ほう、背水。……それがお前の対の名か、抱水よ」


「……ッ! 何者だ!」


 声は頭上から聞こえた。あり得ない。万象ばんしょうの気を感知する自分が遅れを取るなどと――だが、ひょいと屋根の縁から顔を覗かせた髑髏面どくろめんをみて、一気に肩の力がぬけた。


 精神的に疲弊ひへいしている身だ。害意はないと知る気配など捨て置いたのだろう。


イー――いや、老鬼ラオグイではないか。そこで何をしている?』


「見ての通り、暗躍あんやくだ。俺の十八番おはこではないか」


『言葉が足りなかったな。この福峰で何をしていると言っているのだ』


 袖のうちで腕を組んで、首をかしげてみせる。


 平時、顔を合わせぬのが一番である相手には違いない。


 自身ら陽型の長、貴竜の契約者にして、国お抱えの凶手あんさつしゃ集団を取りしきる元締もとじめである。


「何を、と問われれば情報収集だな。今のところは」


『何の情報だ?』


「色々だな。ふむ。対価しだいで売ってやらなくもないぞ?」


『ふむ?』


 抱水は考えを巡らせる。この出会いが偶然か演出されたものであるかは、さておいて。裏社会の彼だからこそ知る伝手つて、情報は事欠ことかくまい。利用しない手はないだろう。


 あれこれと今抱えている案件を思い浮かべて――どれも異なると一蹴いっしゅうした。


 抱水は再び瞳を左側へ転じる。


『賤竜の動向を探りたい』


「ほう。やはり気になるか」


 やはり手にしていたか、と半眼で見やる。それで自分が黄昏(たそがれ)る姿を見ていたのだから、いい根性をしている。


彼奴きゃつの目的から居所いどころまで、寸分たがわず知っているとも」


『なら早く話せ』


「対価が必要だと言ったはずだ」


 抱水は袖のうちで組んだ腕を、人差し指でたたく。


『何が欲しい? 金銭か?』


「間に合っているな」


『ならば伝手(つて)か? 福峰のもつあらゆる伝手を紹介するぞ』


「それも間に合っているな」


『ならば情報か?』


「それも間に合っている」


 すべての選択肢を一蹴いっしゅうされて抱水は額に青筋をたてた。元来そう気が長い性質(たち)ではない。


 苛立いらだちまぎれに振り返り、一歩、老鬼のいる屋根へと歩を踏みだした。


『ならば、何が欲しいというのだ?』


 その言葉を待ちわびていたというように老鬼は背筋を伸ばした。幽鬼ゆうきのように白い指で、抱水をさしてくる。


「欲しいものはお前だ、抱水」


『……何?』


「風水僵尸の契約者交代の原則は知っているぞ」


『……ッ!!』


 目を見開いて、さすがに袖から手を抜いて扇を顕現(けんげん)する抱水の姿に、老鬼は喉を鳴らしわらってみせた。


「何をするつもりだ? その扇で。……自分は城の寝室に隠れ、日々贅ぜいの限りを尽くす。まつりごとはほぼお前任せだ。守る価値のある主人だとは思うまいがな」


『黙れ』


「街の評価を知っているか? 福峰は良い街だと。飯は美味く眺めはいい。まして領主の懶漢ランハン様が豊かな暮らしを約束してくださる……だそうだぞ、抱水(ほうすい)よ」


『黙らないか、老鬼……!!』


 扇をひらいて一閃いっせんすると、下界の水路から水蛇がもちあがる。だが老鬼は逃げない。


「宝の持ちぐされというものだ。お前はもっともっと価値があり、有用性を高められる。俺ならば、お前をもっと有効活用できる契約者を用意してやれる」


『……ッ』


 ぎりぎりと奥歯おくばめて、抱水は震える手で扇をもつ手を押さえつけていた。牙を剥きだし、肩で息をする抱水をどう見たか、ほどなく老鬼は肩をすくめてみせた。


「まあ、といった具合で俺はこの街にいる。そういきりたつな。今すぐにとは言わない。そうだな……餞別せんべつがわりに情報はくれてやろう」


『なに……?』


「三日後の夜だ、奴らが行動を移すのは。港湾地区こうわんちく蟲人こじんらを解放するため、港では船を、街では残る左翼楼さよくろう、連理楼を襲撃する」


『蟲人たちを……?』


「賤竜の現契約者が蟲人だからな。聞くところによると、契約者の命ならば、ほぼ従う僵尸らしいではないか。まったく、誰かとは大違おおちがいでうらやましいものだが。つまりはそういうことなのではないか?」


 扇をおさめてあごに手をあてがう抱水に、もう一度老鬼は肩をすくめてみせた。


「いずれにせよ、早くにりをつけたほうがよかろう。賤竜がこの街の龍脈をた以上、遅かれ早かれ、お前たちのはかりごとが知れる恐れがある」


『!』


「知らぬと思うか? 陽型の長が。……というよりも、あやつも同じことをしているからこそ、忠告も含めて告げているのだがな」


『っ、貴竜め……』


 舌をうつ抱水に、ほんのわずかばかり同情の眼差しが向けられた――気がした。


 すると、ここで背後の部屋の扉ごしに近づく気を感じる。まもなく扉が打ち鳴らされて、抱水は返事を投げ、室内へと歩きだした。


「ではな、抱水。いい返事を期待しているぞ」


 その声を無視している間に、瞬く間に老鬼の気は失せる。どうじに宙に浮かせていた水蛇が水路に飛びこんで、その場の名残りを跡形もなく消す。


 許しを得て、扉を開けたのは主――懶漢ランハン付きの侍従じじゅうの一人だった。


 硬い声色で「懶漢様がお呼びです」と告げるので、嫌な予感を禁じ得ぬながら、抱水は執務室を後にした。向かうのは、城の最上階に位置する懶漢の寝室だ。


 扉を守る兵士たちの前を潜りぬけて、豪奢ごうしゃな扉のまえで立ち止まる。


 咳払せきばらいののちに背筋を伸ばし、可能なかぎり、細く柔らかい声色で室内へと呼びかけた。


『主よ、お呼びにしたがい参上しました』


「入れ」


 許しを得て、扉を開けると、むせるように甘ったるい薫香くんこうが顔に吹きつけてきた。


 それだけで話す気すら失せたものの、抱水は主の寝そべるベッドへと一歩一歩近づいていく。


 近づくにつれて、その全容が露わになる。


 肉塊にくかい、といって過言ではない人間だった。傍にはあられもない姿の女どもが転げている。


 抱水にまつりごとを押しつけるようになり幾ばくか。酒と女色にょしょくにふけり、かつての――抱水を皇帝より賜(たまわ)った頃、未来にむけて輝かせていた瞳は、もうどこにもなかった。


 先ほどの老鬼ラオグイの言葉があったせいだろうか。抱水はその姿を見て、ほんの僅かばかり、郷愁きょうしゅうを抱いてしまった。だからだ。おもわず反応したのは。


 残すところ数歩という距離である。ふいと前方より投げつけられるものがあった。


 抱水がおもわず飛び退ってかわ――「主からの血食けっしょくだぞ。有り難く受け取るがいい」。


 「……っ」


 あまりに無体な命だったが、抱水は受け入れた。


 それが彼の主従としての在り方であり、すでに慣れたやり取りだったからだ。


 寸でで踏み止まり、顔に杯が当たるのをよしとする。上等な翡翠ひすいでできた杯は、砕けることなく床へと転がり、残りわずかな血液を床へと零した。


 顔中を血まみれにした抱水は顔をぬぐい、丹念に手の甲をめあげる。そうしている間に、主は低く喉を鳴らしながら床をも指さしてきた。


勿体もったいないことをする。床が汚れたな、抱水よ」


『は』


 ひざをついて犬のようにいつくばり、床を舐めることをもよしとする。……よしとする。そうしながら主のお言葉を聞く。


「右翼楼が落とされたらしいなあ、抱水よ。お前にしてはしてやられたな」


『は』


「だが、それで帳消しにできるはずだ。主の血食さえあれば、お前達はどれほどにも強くなり、働き続けられるからなあ」


『は。有り難き幸せにございます』


 黙々と床を舐め続ける抱水に主は嗤いを噛み殺す。

 

 これもまた、寝所に入り浸るようになって以来の悪癖であった。


 彼は抱水をいらい、その小さい自尊心を満足させる。抱水が完璧な執政をおこなうほどに、その無体は苛烈ぶりを増すのであった。


 此度もまた、楽しくて仕方がないという風で、言い募ってきたのであった。


「ふ。いやしき野良犬がごとき様だ。他の者が見たらどう思うか。なあ、抱水。……だがな、主は分かっているぞ、お前ができた犬であることはな。今度は上手く取り計らうように」


「……は」


 抱水の心は硬く冷たく凍りついて、一瞬だけ感じた郷愁すらも残さず吹き飛ばした。


 床を綺麗きれいに舐め終えた後に、無造作むぞうさに退室を命じられる。


 確かに、身体は契約者の血液を得たことでうるおった。だが、立ち上がる抱水の心は、主に背をむけた直後から、烈火れっかのごとくに荒れ狂った。


 なぜ、自分がこのような扱いを受けねばならない。なぜ自分が、かような思いをせねばならないのか。


 脳裏をめぐるのは、かぶとごしにほらのような瞳をむける僵尸。


 八つ当たりだと分かっていたが、それでも止められなかった。


 賤竜。すべてはお前が目覚めたことに端を発しているのだと。許すまい。ゆるすまいぞ、右翼楼を落としたことも含め、この借りは必ず返させてもらう。


 ぎりぎりと奥歯おくばを噛みしめて、震える拳を握りしめて誓う。


 決戦の時は、わずか三日後にまで迫っていた。

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