幕間3、僵尸は憤怒する
抱水は近年まれに見るほどに荒れ狂っていた。
質素ながらも質のいい
仕事など到底手につきはしない。こんな自分の姿を見せたくないため、部下らは早々に下がらせてしまった。
苛々ともう
『
思い浮かべるのは、
再稼働を地気のざわめきによって知ってはいたものの――
『しかも
おのずと手に力がこもり、竹簡が軋んだところで我に返った。いかんいかん。さすがに三本目の報告書を書かせるのは、いくらなんでも顰蹙を買うにちがいない。
溜息まじりに前髪を撫で上げて竹簡を置く。
ふと窓をみれば、伏し目がちの
夜風でも浴びようかと、抱水はつま先をまわす。外へと繋がる扉をひらき、ふらふらと
死した身体に、
右翼楼のあった位置だ。つい数日前まで、ここから見通す景色には、左翼楼とならんで、“彼女”が
頬杖をついて瞳を右へと滑らせると、相変わらず堅固に佇んでいる左翼楼の姿があった。
『それもいつまで続くか分からんがな……』
ふと苦笑まじりにぼやく。あの賤竜が――“
たった一個で佇んでいる左翼楼を見るにつけて、じわじわと込み上げるものがある。
『……
おもわずと零れた呟き。それはここ三百年余り口にする機会もめっきり減った、おのが対の名前であった。それは風にさらわれて、ただの独り言で終わるはずであった。
その言葉を
「ほう、背水。……それがお前の対の名か、抱水よ」
「……ッ! 何者だ!」
声は頭上から聞こえた。あり得ない。
精神的に
『
「見ての通り、
『言葉が足りなかったな。この福峰で何をしていると言っているのだ』
袖のうちで腕を組んで、首をかしげてみせる。
平時、顔を合わせぬのが一番である相手には違いない。
自身ら陽型の長、貴竜の契約者にして、国お抱えの
「何を、と問われれば情報収集だな。今のところは」
『何の情報だ?』
「色々だな。ふむ。対価しだいで売ってやらなくもないぞ?」
『ふむ?』
抱水は考えを巡らせる。この出会いが偶然か演出されたものであるかは、さておいて。裏社会の彼だからこそ知る
あれこれと今抱えている案件を思い浮かべて――どれも異なると
抱水は再び瞳を左側へ転じる。
『賤竜の動向を探りたい』
「ほう。やはり気になるか」
やはり手にしていたか、と半眼で見やる。それで自分が黄昏(たそがれ)る姿を見ていたのだから、いい根性をしている。
「
『なら早く話せ』
「対価が必要だと言ったはずだ」
抱水は袖のうちで組んだ腕を、人差し指でたたく。
『何が欲しい? 金銭か?』
「間に合っているな」
『ならば伝手(つて)か? 福峰のもつあらゆる伝手を紹介するぞ』
「それも間に合っているな」
『ならば情報か?』
「それも間に合っている」
すべての選択肢を
『ならば、何が欲しいというのだ?』
その言葉を待ちわびていたというように老鬼は背筋を伸ばした。
「欲しいものはお前だ、抱水」
『……何?』
「風水僵尸の契約者交代の原則は知っているぞ」
『……ッ!!』
目を見開いて、さすがに袖から手を抜いて扇を顕現(けんげん)する抱水の姿に、老鬼は喉を鳴らし
「何をするつもりだ? その扇で。……自分は城の寝室に隠れ、
『黙れ』
「街の評価を知っているか? 福峰は良い街だと。飯は美味く眺めはいい。まして領主の
『黙らないか、老鬼……!!』
扇をひらいて
「宝の持ち
『……ッ』
ぎりぎりと
「まあ、といった具合で俺はこの街にいる。そういきりたつな。今すぐにとは言わない。そうだな……
『なに……?』
「三日後の夜だ、奴らが行動を移すのは。
『蟲人たちを……?』
「賤竜の現契約者が蟲人だからな。聞くところによると、契約者の命ならば、ほぼ従う僵尸らしいではないか。まったく、誰かとは
扇をおさめて
「いずれにせよ、早くに
『!』
「知らぬと思うか? 陽型の長が。……というよりも、あやつも同じことをしているからこそ、忠告も含めて告げているのだがな」
『っ、貴竜め……』
舌をうつ抱水に、ほんの
すると、ここで背後の部屋の扉ごしに近づく気を感じる。まもなく扉が打ち鳴らされて、抱水は返事を投げ、室内へと歩きだした。
「ではな、抱水。いい返事を期待しているぞ」
その声を無視している間に、瞬く間に老鬼の気は失せる。どうじに宙に浮かせていた水蛇が水路に飛びこんで、その場の名残りを跡形もなく消す。
許しを得て、扉を開けたのは主――
硬い声色で「懶漢様がお呼びです」と告げるので、嫌な予感を禁じ得ぬながら、抱水は執務室を後にした。向かうのは、城の最上階に位置する懶漢の寝室だ。
扉を守る兵士たちの前を潜りぬけて、
『主よ、お呼びにしたがい参上しました』
「入れ」
許しを得て、扉を開けると、むせるように甘ったるい
それだけで話す気すら失せたものの、抱水は主の寝そべる
近づくにつれて、その全容が露わになる。
抱水に
先ほどの
残すところ数歩という距離である。ふいと前方より投げつけられるものがあった。
抱水がおもわず飛び退って
「……っ」
あまりに無体な命だったが、抱水は受け入れた。
それが彼の主従としての在り方であり、すでに慣れたやり取りだったからだ。
寸でで踏み止まり、顔に杯が当たるのをよしとする。上等な
顔中を血まみれにした抱水は顔をぬぐい、丹念に手の甲を
「
『は』
「右翼楼が落とされたらしいなあ、抱水よ。お前にしてはしてやられたな」
『は』
「だが、それで帳消しにできるはずだ。主の血食さえあれば、お前達はどれほどにも強くなり、働き続けられるからなあ」
『は。有り難き幸せにございます』
黙々と床を舐め続ける抱水に主は嗤いを噛み殺す。
これもまた、寝所に入り浸るようになって以来の悪癖であった。
彼は抱水を
此度もまた、楽しくて仕方がないという風で、言い募ってきたのであった。
「ふ。
「……は」
抱水の心は硬く冷たく凍りついて、一瞬だけ感じた郷愁すらも残さず吹き飛ばした。
床を
確かに、身体は契約者の血液を得たことで
なぜ、自分がこのような扱いを受けねばならない。なぜ自分が、かような思いをせねばならないのか。
脳裏をめぐるのは、
八つ当たりだと分かっていたが、それでも止められなかった。
賤竜。すべてはお前が目覚めたことに端を発しているのだと。許すまい。
ぎりぎりと
決戦の時は、わずか三日後にまで迫っていた。
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