3、炭焼き小屋での歓談

 遠く、美味そうな匂いがした。ふわりと甘くやわらかい、粥が煮えるらしき匂い。


 自分の腹の音で目を覚まし、冽花はぼんやりと瞬いた。


 暗がりに見知ったようで馴染みの薄い天井が沈んでいる。見るのは何度目だろうか。


「……いま」


 何刻なんじだ、と吐きだす声が掠れた。数度咳き込んで寝返りをうつと、額から手拭てぬぐいが落ちた。拾いあげてみるとまだ冷たい。替えられてそう時間は経っていないようだ。


 寝台わきの棚に水差しと木杯、それに木桶きおけが置かれていた。体を伸ばし、水差しと杯をとる。乾いた体にしみいる水を喉鳴らして飲み干し、冽花は窓の外を眺めた。


 墨色の夜空に弓なりの太陰つきが浮かんでいた。弦は下をむいており、柔らかい光を零している。あれが目玉というのなら、ずいぶん眠そうな面してるんだな、なんて寝起きの頭は呑気に思う。


 杯らと手拭を置いて、その場でぐぐっと伸びをした。


 三日三晩寝こんだ体はすっかりカチコチに固まり、軽く伸ばすだけでもいい音を鳴らした。遅れて右肩が上がるのに気付く。服の上から触れても、もうそこに痛みも違和もほぼ存在しなかった。


「……気ってすげえな。自覚するだけで傷の治りも違うんだ」


 改めて感じ入っていると、ふと奥の部屋から足音が聞こえだす。同時に美味そうな匂いも強まり、冽花は鼻をひくつかせた。


 ほどなく燭台を手に、盆に深碗をのせた賤竜が姿を現した。


 文字どおりの素顔をさらす武具を解いたパオ姿であり、真顔といえど親近感が湧く。解けかけた三つ編みも今はきっちりと結い直されていた。


『起きたのか。熱は……下がったようだな』


「うん。なに作ったんだ? 賤竜」


鴨蒜蛋粥ヤーサンダンジョウ(鴨と野蒜の卵粥)だ。もう頬の腫れも引いただろうが、念のためにな』


 想像以上に豪華な食事に口笛をふいて冽花は喜ぶ。両手を出すと盆ごとよこされたため、遠慮なく匙をとって頬張った。


「ん! うまい!」


『何よりだ』


 記録を頼りにこうして作られる料理には外れがなかった。


 やさしい塩加減にほっとするもつかの間に、溶き卵をゆっくり蒸らしたらしくふぅわり蕩ける卵の層に陶然とする。噛めばほろっと崩れる鴨肉。刻み野蒜ねぎがむつこさを消して、いくらでも食べられる美味さに仕上げている。空っぽの胃が大喜びだ。


 あの後――あの石窟せっくつから脱出した直後とは、雲泥うんでいの平和がそこにはあった。


 あの後、冽花と賤竜は深い山中に放り出されたのである。


 てっきり老鬼のねぐらにでも行き当たるかと踏んでいたが、これはこれで難儀なんぎであった。


 付近の岩棚いわだなに、あの勾玉と同じものが埋められていたため、別の出口に行き当たったのだろうが――胸を撫で下ろすもつかの間に、再び冽花が発熱したのだ。


 詮無せんなきことでもあった。賤竜によって止血をされたとはいえ、まともな手当ても休息もせずに、ここまで来たのだ。賤竜の見立てでは、初めて気を使ったことによる負荷もかかったとのことであった。


 ぐったりした冽花を抱えて、賤竜が地気の流れを頼りに下山していた折だ。この炭焼き小屋を見つけて、人気がないのをいいことに間借りした次第であった。それから三日三晩うなされて休息して、今がある。


 行儀悪くさじをかじりながら、冽花はおのが連れを見つめた。


「賤竜は食わないの?」


『此はむくろであるからして必要のないものだ』


「あ、そっか。僵尸きょうし……なら血ぃ吸うか?」


『今はいい。気持ちだけ受け取っておく』


 ん、と片腕を突きだす冽花に、賤竜はそっと押してよこしてくる。


これのことはいい。食え』


「分かった」


 腹は減っているため、素直に冽花は引き下がった。もうひと口頬張って、広がる滋味じみに頬を緩ませる。そんな彼女をかたわらに立って眺めているため、近くの椅子いすを勧めて座らせた。


 間近でそうやって座っていると、本当にただの人間のようであった。


 横目で盗み見ては、冽花は再び口をひらく。


「しっかし、本当になんでも出来るよな。米はここのだけど……それ以外は全部あんたが採ったんだろ? これ」


しかり』


「薬湯も湿布も作るしさ。本当、何者なんだろうな。義弟おとうとは武挙に受かってたっていうし、武官ぐんじん? ……それにしても万能すぎるだろ。助かってはいるけども」


 冽花の言葉に首をかしぐ賤竜であった。


『此に生前の記録は存在しない』


「分かってるって。それでもさ、気になるんだよなー。我らが哥哥あにさまが、どんな人間だったかってのはさ」


 にんまり笑った末にもうひと口匙を頬張った。


 ふと遠い目をする。目覚める前も見ていた夢を思い起こした。


 満開の杏の花園で、やんちゃをする仔猫にたいし不器用に撫でてみせた男。


 おもわず自分の額に触れると――目の前で、賤竜がより首を傾けてみせた。


『……過剰な陽気は見当たらぬが……』


「熱ないって、だから。何気に失礼だよ、あんた」


 半眼になると瞬きかえす。常識はずれなのは僵尸らしい。


 抗議ついでにお代わりを要求すると、素直に二杯目が出された。病み上がりのくせに三杯平らげた冽花は、やがて空っぽの碗に匙を置いて、満足の溜息をついた。


「あ~、食った食った。ご馳走さま」


『その分なら早晩動いても問題なかろう。陰気、陽気ともに安定している』


「やった。……あ、今なら話せるぜ。なんか聞きたいことあるんだろ?」


 腹が満ちて頭が回転しだしたのだろう。ふと思い出して、冽花は賤竜を見た。


 魘されている夢うつつのなかで、そんなやり取りをした記憶があった。


 賤竜はどこか驚いたように目をみはってきた。


『覚えていたのか』


「うっすら~とだけどな。気になって、しばらくうつらうつらしてた記憶がある」


『それは悪かった』


「いいよ。で、なに? 聞きたいことって」


 ベッド上で胡坐をかいて、冽花は身を乗りだした。


 賤竜は指を二本立てては、こう切りだしてきた。


『聞きたいことは二つある。一つは今の龍盤ロンパンの情勢についてだ。現王朝名げんおうちょうめいに加え、年号や政治体制……誰の治世か、どういった政策をとっているのか。あらためて活動しだす上で最低限の知識は仕入れておきたいからな』


「なるほど」


『二つめはお前が言っていた“組織”についてだ。こちらも把握しておきたい』


「なるほどなるほど、了解した」


 頷きかえし、冽花は腕組みした。どのように話していこうかと、脳内であらかた筋道を立ててから口をひらく。


「ん、まずは王朝だな。今はらん王朝がとりしきってる。年号は瑞恵、瑞恵十五年だ。外を見てれば分かるだろうが、季節は穀雨こくうごろ。で、……政治体制は帝政だ。皇帝は“藍円栄ラン・ヤンロン”、太祖から数えて三代目にあたるな」


『ふむ、王朝ふくめて、あらかた体制は変わっていないようだな。此が眠りについたのは、太祖の御世であった』


「げ。ってことは三百年ちかく、あそこで寝てたのかよ」


 冷たく恐ろしいくだんの場を思い出し、身震いが生じる。そんな冽花に賤竜が反応しては、布団をかけるべく立とうとするので、冽花は片手をだし話を続けた。


「あとは政策だな。どういった、ねえ……うーん……自分ら本位な印象しかないな。暗愚とまでは言わないけど、あたしら下々には目もくれない。地方のやつらが躍起になって胡麻をすってるけど……それも、どこまで見てるか分からないよ、ありゃ」


『…………そうか』


 一気に深刻げな渋面にかわり両手を組む姿を見て、冽花は首を傾げた。


「そんなに不味まずいこと?」


『不味いとも。此はもともと治山治水ちさんちすいもとに、風水守護でもって皇帝のまつりごとを補助するよう造られたのだからな」


「わあ。意味わかんないけど、ぜんぜん縁もゆかりもねえあたしが連れ出しちゃあ不味いってことだけは分かるわ」


 なにやら難しいことを言ってきたため、冽花は笑って済ませた。ひらりと片手を振って告げる。


「でもまあ、その辺りは目をつぶってほしいんだけどね。あたしもあんたに用があったんだから」


『先に言っていた妹妹メイメイの件か?』


「それもあるんだけど……」


 少しだけ言い淀むとともに、冽花は目を伏せた。


「次の組織について。あたしらが蟲人こじんであることに関係してるんだよね……」


『蟲人であることに?』


 今度は賤竜が首をかしげる番であった。冽花は両手を広げてみせる。意識して猫耳を彼へとむけて、尾も膝のうえに載せた。


「どう思う?」


『ん?』


「見た目は普通の人間――……に、近くなっちゃったあんたから見て、あたしをどう思う?」


「…………ああ」


 得心がいった様子で賤竜は頷いてきた。


『過去の契約者らをかんがみるに、特異な存在ではあるな』


「はっきり言ってくれんじゃん。つまりはそういうことなんだよ。普通の人間からすると、あたしらは“違う生き物”なんだよね。獣の特性をもつし力は強いしでさ」


 溜息をついて、ぱたりと冽花は両腕を落とした。


「ありていに言って、ハクガイされてるわけ。酷いところだと奴隷扱いとか、蒐集コレクション目的で攫われるやつらもいる。そんな現状を少しでもよくしたいっていう集団だよ。白巾はくきん党……もしくは白墨はくぼく党っていうんだけど」


如何いかなる文字を書く?』


「白いぬの……それに白い入れずみの墨の字を使う。あたしは入れてないけど、肩に白い龍の墨をいれたり、白布を巻くんだ。……あんたの情報が得られたのも、その組織の情報網に引っかかったからなんだ」


『ほう。秘されていそうなものだが』


「確かな筋って話だよ。“龍涎大湖りゅうぜんだいこの同志を救えるかもしれない”って。その力をもった存在の――」


 ここで冽花の瞳が揺れた。はくり、と口を開け閉めしてうなだれる。


 賤竜は瞬きを落とし、やはり首をかしげた。


『冽花?』


「…………力をもった存在の……手がかりになるから、って。それで、あたしらは盗みに入ったんだ。あんたを手に入れるために」


 ぎゅっと掛布団かけぶとんの縁をつかんで、冽花は唇を噛みしめた。


『? それはもう聞いたぞ。組織としても個人的にも、此を探していたのだろう』


「そう。そうだけど……そうじゃないんだ。そう、じゃないんだ」


 冽花は再び顔をあげて賤竜を見ることができなかった。


 きっと不思議そうな顔をしているから。ずっと真顔でいるように見えて、微細びさいに表情を変える。きっと純粋に不思議に思って訊ねているのだから。何ゆえ、それほどに苦しげな顔をするのかと。


 冽花は、今にして気付いた罪悪感に胸をぎりぎりと締めつけられて堪らなかった。それでも口をひらく。賤竜はそうしなければ、いつまでも待ち続けるだろうから。


龍涎大湖りゅうぜんだいこ東の街、福峰ふくほうに……たぶん、あんたの同胞なかまがいる。あそこの蟲人の扱いは酷いんだ。タダ同然で人足をやらせて、そのくせ、逃げだす自由すらも与えない」


 賤竜が静まりかえった。冽花はその沈黙が恐ろしくて身を縮こまらせた。自然と言葉を重ねる。それは独白にも懺悔めいたものにもなりつつあった。


「あたしらだけじゃ駄目なんだ。あたしら、だけじゃ助けられない。だから……」


 ぎゅっと指を白く染め、布団を握りしめて告げた。


「だから、あんたを探したんだ」


『――……なるほどな』


 ようやく賤竜が言葉を発した。が、次の瞬間放たれた言葉に、冽花は凍りついた。


『此を、対風水僵尸目的で扱うつもりか』


「……っ!」


 端的に問われた言葉にきゅうし、応じることができない。布団を握る手を震わせる冽花に、賤竜はもうしばしの沈黙をもった。


 そして、ほどなく小さい溜息が聞こえた。


 冽花は顔を跳ねあげかけ、そして、頭に載った冷たい手の感触に瞬く。


『構わない。此はお前の道具だからな』


 賤竜は変わらない静謐せいひつまとっていた。その目は細められて、どこか慈愛すら感じる眼差しを湛えていた。その言葉とは裏腹に。


 冽花はおののいて、うろたえて、大きく肩を跳ねさせた。首を振って言い募る。


「……っ、や、待っ……」


『そうだな。まずは連絡を取らねばなるまい。この場合は人質がいるようなものだ。上とみつに連携をとって、襲撃手順しゅうげきてじゅん侵入経路しんにゅうけいろ、それから万全ばんぜんした撤退行動てったいこうどうまで詰めるべきだろう』


「待っ、て……待っ……てよ、賤竜ッ!」


 滔々とうとうと硬い声色で告げる賤竜の手を払いのける。


 歯をきだし冽花がえると、ぴたりとその口はつぐまれた。本当に道具のごとく自身の出方を待つ賤竜に、苛立いらだちまぎれに冽花は食いしばる歯の間から押しだした。


「嫌い。その言い方、嫌いだ。……この前も言ってたよな? 自分は器物だ、とか」


『言った。事実だ』


「なんだよ、それ。なんなんだよ。それこそ、ちゃんと説明しろ!」


 牀をしたたかに打つ冽花に賤竜は告げる。


『此は風水僵尸だ。風水僵尸とは、あまねく地気を手繰り操ることによって土地・地形の成形をも担い、万象ばんしょうの担い手である龍脈りゅうみゃくの制御を可能とする専用機具を指す』


 冽花の眉が寄った。それを見て、再び賤竜は口をひらく。


『龍脈。これは大地を流れ巡る不可視の力にして物質だ。風に散り、水に乗って止まりながら、つねにこの世を流動しては、ときにり、事物を生みだしている。万象の源であり、すべてのものへと作用を与えるものだ』


「すべてのものに?」


『ああ。人にも獣にも草木にも。人で言うならば、該当個人から子々孫々にいたるまで、その栄達、禍福かふく、健康まで左右することが可能だ。それが龍脈だ』


「そ、その龍脈を……?」


『制御する。地形に影響を受けるがゆえに、畢竟ひっきょう、あのような力が与えられたのだ』


 あのような力、と言われて思い出す。ただ一振りの拳で石壁を陥没かんぼつさせ、連鎖してその周りの壁も陥没・爆発せしめた力を。


 思い出すとどうじに背筋が冷たくなった。


「待っ、て。じゃあ、あんたって……地形すらどうこうする力があるってこと?」


しかりだ。そして、それはお前も同様だ』


「は?」


 寝耳に水の言葉に、賤竜は冽花の頬を指した。


老鬼ラオグイの力を見たはずだ。あれは貴竜グイロンの力の恩恵にあずかりりしものだ。契約者はわずかなりと此らの力を扱える』


「……うそ、だろ」


 呟く言葉が茫然ぼうぜんとか細くなった。冽花は自分の掌をみる。握り開きする手に変化はまったく見えぬが、その実、知らぬ間に持て余すほどの力を得ていたようだ。


 そんな冽花に、賤竜は容赦なく続けてきた。


『こうも告げた。此らは契約者にのみ従う責務をもつのだと。此はお前の道具に過ぎん。それ以上でも以下でもない。如何様いかように扱うかは、お前次第だ』


 冷淡で厳然たる言の葉にぐうっと言葉に詰まり、冽花はうなだれた。牀に手を落とし、きつくきつく握りしめる。


 自分が与えたもの以上の情報を一気に与えられてしまい、頭が破裂しそうだった。


 首を何度も振って、そんな自分を持ち直そうとする。吐く言葉は自然と弱々しいものになった。


「……わ、かんない。分かんないよ……フースイシュゴ、とか……龍脈だとか力だとか。なんにも分かんない……!」


『そうか。それも一つの選択なのだろう』


 賤竜は目をとじ溜息をつくとともに立ち上がる。そんな彼のパオの裾をおもわず捕まえていた。


 冽花はすがるような目で見上げた。賤竜は淡々と、洞のように開かれた瞳孔の目で彼女を見返した。


「す……少なくとも、あたしは、あんたのことを道具なんて、考えちゃいない」


『そうか。……それもまた事実なのだろう』


 賤竜の声が平板さを失くさぬはずなのに、どこかいなす響きを感じるのは。冽花がりせいをもつ生者だからなのだろうか。罪悪感を、覚えるからなのだろうか。


『話はこれで終わりだ。もう休め。明日にはここを発つ』


「……ぁ」


 ゆっくりと解かれる手に、おもわず声がもれる。そのことに対し、一度だけ賤竜は目を向けたものの、結局冽花は何も言えなかった。


 盆を手にし、また奥へと消えていく賤竜を見送るほかはない。


 何も言えなかった。今の冽花には、彼にたいし、かけられる言葉が何一つ見つからなかったのだった。

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