3、炭焼き小屋での歓談
遠く、美味そうな匂いがした。ふわりと甘くやわらかい、粥が煮えるらしき匂い。
自分の腹の音で目を覚まし、冽花はぼんやりと瞬いた。
暗がりに見知ったようで馴染みの薄い天井が沈んでいる。見るのは何度目だろうか。
「……いま」
寝台わきの棚に水差しと木杯、それに
墨色の夜空に弓なりの
杯らと手拭を置いて、その場でぐぐっと伸びをした。
三日三晩寝こんだ体はすっかりカチコチに固まり、軽く伸ばすだけでもいい音を鳴らした。遅れて右肩が上がるのに気付く。服の上から触れても、もうそこに痛みも違和もほぼ存在しなかった。
「……気ってすげえな。自覚するだけで傷の治りも違うんだ」
改めて感じ入っていると、ふと奥の部屋から足音が聞こえだす。同時に美味そうな匂いも強まり、冽花は鼻をひくつかせた。
ほどなく燭台を手に、盆に深碗をのせた賤竜が姿を現した。
文字どおりの素顔をさらす武具を解いた
『起きたのか。熱は……下がったようだな』
「うん。なに作ったんだ? 賤竜」
『
想像以上に豪華な食事に口笛をふいて冽花は喜ぶ。両手を出すと盆ごとよこされたため、遠慮なく匙をとって頬張った。
「ん! うまい!」
『何よりだ』
記録を頼りにこうして作られる料理には外れがなかった。
やさしい塩加減にほっとするもつかの間に、溶き卵をゆっくり蒸らしたらしくふぅわり蕩ける卵の層に陶然とする。噛めばほろっと崩れる鴨肉。刻み
あの後――あの
あの後、冽花と賤竜は深い山中に放り出されたのである。
てっきり老鬼の
付近の
ぐったりした冽花を抱えて、賤竜が地気の流れを頼りに下山していた折だ。この炭焼き小屋を見つけて、人気がないのをいいことに間借りした次第であった。それから三日三晩
行儀悪く
「賤竜は食わないの?」
『此は
「あ、そっか。
『今はいい。気持ちだけ受け取っておく』
ん、と片腕を突きだす冽花に、賤竜はそっと押してよこしてくる。
『
「分かった」
腹は減っているため、素直に冽花は引き下がった。もうひと口頬張って、広がる
間近でそうやって座っていると、本当にただの人間のようであった。
横目で盗み見ては、冽花は再び口をひらく。
「しっかし、本当になんでも出来るよな。米はここのだけど……それ以外は全部あんたが採ったんだろ? これ」
『
「薬湯も湿布も作るしさ。本当、何者なんだろうな。
冽花の言葉に首をかしぐ賤竜であった。
『此に生前の記録は存在しない』
「分かってるって。それでもさ、気になるんだよなー。我らが
にんまり笑った末にもうひと口匙を頬張った。
ふと遠い目をする。目覚める前も見ていた夢を思い起こした。
満開の杏の花園で、やんちゃをする仔猫にたいし不器用に撫でてみせた男。
おもわず自分の額に触れると――目の前で、賤竜がより首を傾けてみせた。
『……過剰な陽気は見当たらぬが……』
「熱ないって、だから。何気に失礼だよ、あんた」
半眼になると瞬きかえす。常識はずれなのは僵尸らしい。
抗議ついでにお代わりを要求すると、素直に二杯目が出された。病み上がりのくせに三杯平らげた冽花は、やがて空っぽの碗に匙を置いて、満足の溜息をついた。
「あ~、食った食った。ご馳走さま」
『その分なら早晩動いても問題なかろう。陰気、陽気ともに安定している』
「やった。……あ、今なら話せるぜ。なんか聞きたいことあるんだろ?」
腹が満ちて頭が回転しだしたのだろう。ふと思い出して、冽花は賤竜を見た。
魘されている夢うつつのなかで、そんなやり取りをした記憶があった。
賤竜はどこか驚いたように目をみはってきた。
『覚えていたのか』
「うっすら~とだけどな。気になって、しばらくうつらうつらしてた記憶がある」
『それは悪かった』
「いいよ。で、なに? 聞きたいことって」
賤竜は指を二本立てては、こう切りだしてきた。
『聞きたいことは二つある。一つは今の
「なるほど」
『二つめはお前が言っていた“組織”についてだ。こちらも把握しておきたい』
「なるほどなるほど、了解した」
頷きかえし、冽花は腕組みした。どのように話していこうかと、脳内であらかた筋道を立ててから口をひらく。
「ん、まずは王朝だな。今は
『ふむ、王朝ふくめて、あらかた体制は変わっていないようだな。此が眠りについたのは、太祖の御世であった』
「げ。ってことは三百年ちかく、あそこで寝てたのかよ」
冷たく恐ろしい
「あとは政策だな。どういった、ねえ……うーん……自分ら本位な印象しかないな。暗愚とまでは言わないけど、あたしら下々には目もくれない。地方のやつらが躍起になって胡麻をすってるけど……それも、どこまで見てるか分からないよ、ありゃ」
『…………そうか』
一気に深刻げな渋面にかわり両手を組む姿を見て、冽花は首を傾げた。
「そんなに
『不味いとも。此はもともと
「わあ。意味わかんないけど、ぜんぜん縁もゆかりもねえあたしが連れ出しちゃあ不味いってことだけは分かるわ」
なにやら難しいことを言ってきたため、冽花は笑って済ませた。ひらりと片手を振って告げる。
「でもまあ、その辺りは目をつぶってほしいんだけどね。あたしもあんたに用があったんだから」
『先に言っていた
「それもあるんだけど……」
少しだけ言い淀むとともに、冽花は目を伏せた。
「次の組織について。あたしらが
『蟲人であることに?』
今度は賤竜が首をかしげる番であった。冽花は両手を広げてみせる。意識して猫耳を彼へとむけて、尾も膝のうえに載せた。
「どう思う?」
『ん?』
「見た目は普通の人間――……に、近くなっちゃったあんたから見て、あたしをどう思う?」
「…………ああ」
得心がいった様子で賤竜は頷いてきた。
『過去の契約者らを
「はっきり言ってくれんじゃん。つまりはそういうことなんだよ。普通の人間からすると、あたしらは“違う生き物”なんだよね。獣の特性をもつし力は強いしでさ」
溜息をついて、ぱたりと冽花は両腕を落とした。
「ありていに言って、ハクガイされてるわけ。酷いところだと奴隷扱いとか、
『
「白い
『ほう。秘されていそうなものだが』
「確かな筋って話だよ。“
ここで冽花の瞳が揺れた。はくり、と口を開け閉めしてうなだれる。
賤竜は瞬きを落とし、やはり首をかしげた。
『冽花?』
「…………力をもった存在の……手がかりになるから、って。それで、あたしらは盗みに入ったんだ。あんたを手に入れるために」
ぎゅっと
『? それはもう聞いたぞ。組織としても個人的にも、此を探していたのだろう』
「そう。そうだけど……そうじゃないんだ。そう、じゃないんだ」
冽花は再び顔をあげて賤竜を見ることができなかった。
きっと不思議そうな顔をしているから。ずっと真顔でいるように見えて、
冽花は、今にして気付いた罪悪感に胸をぎりぎりと締めつけられて堪らなかった。それでも口をひらく。賤竜はそうしなければ、いつまでも待ち続けるだろうから。
「
賤竜が静まりかえった。冽花はその沈黙が恐ろしくて身を縮こまらせた。自然と言葉を重ねる。それは独白にも懺悔めいたものにもなりつつあった。
「あたしらだけじゃ駄目なんだ。あたしら、だけじゃ助けられない。だから……」
ぎゅっと指を白く染め、布団を握りしめて告げた。
「だから、あんたを探したんだ」
『――……なるほどな』
ようやく賤竜が言葉を発した。が、次の瞬間放たれた言葉に、冽花は凍りついた。
『此を、対風水僵尸目的で扱うつもりか』
「……っ!」
端的に問われた言葉に
そして、ほどなく小さい溜息が聞こえた。
冽花は顔を跳ねあげかけ、そして、頭に載った冷たい手の感触に瞬く。
『構わない。此はお前の道具だからな』
賤竜は変わらない
冽花はおののいて、うろたえて、大きく肩を跳ねさせた。首を振って言い募る。
「……っ、や、待っ……」
『そうだな。まずは連絡を取らねばなるまい。この場合は人質がいるようなものだ。上と
「待っ、て……待っ……てよ、賤竜ッ!」
歯を
「嫌い。その言い方、嫌いだ。……この前も言ってたよな? 自分は器物だ、とか」
『言った。事実だ』
「なんだよ、それ。なんなんだよ。それこそ、ちゃんと説明しろ!」
牀をしたたかに打つ冽花に賤竜は告げる。
『此は風水僵尸だ。風水僵尸とは、あまねく地気を手繰り操ることによって土地・地形の成形をも担い、
冽花の眉が寄った。それを見て、再び賤竜は口をひらく。
『龍脈。これは大地を流れ巡る不可視の力にして物質だ。風に散り、水に乗って止まりながら、つねにこの世を流動しては、ときに
「すべてのものに?」
『ああ。人にも獣にも草木にも。人で言うならば、該当個人から子々孫々にいたるまで、その栄達、
「そ、その龍脈を……?」
『制御する。地形に影響を受けるがゆえに、
あのような力、と言われて思い出す。ただ一振りの拳で石壁を
思い出すとどうじに背筋が冷たくなった。
「待っ、て。じゃあ、あんたって……地形すらどうこうする力があるってこと?」
『
「は?」
寝耳に水の言葉に、賤竜は冽花の頬を指した。
『
「……うそ、だろ」
呟く言葉が
そんな冽花に、賤竜は容赦なく続けてきた。
『こうも告げた。此らは契約者にのみ従う責務をもつのだと。此はお前の道具に過ぎん。それ以上でも以下でもない。
冷淡で厳然たる言の葉にぐうっと言葉に詰まり、冽花はうなだれた。牀に手を落とし、きつくきつく握りしめる。
自分が与えたもの以上の情報を一気に与えられてしまい、頭が破裂しそうだった。
首を何度も振って、そんな自分を持ち直そうとする。吐く言葉は自然と弱々しいものになった。
「……わ、かんない。分かんないよ……フースイシュゴ、とか……龍脈だとか力だとか。なんにも分かんない……!」
『そうか。それも一つの選択なのだろう』
賤竜は目をとじ溜息をつくとともに立ち上がる。そんな彼の
冽花は
「す……少なくとも、あたしは、あんたのことを道具なんて、考えちゃいない」
『そうか。……それもまた事実なのだろう』
賤竜の声が平板さを失くさぬはずなのに、どこかいなす響きを感じるのは。冽花が
『話はこれで終わりだ。もう休め。明日にはここを発つ』
「……ぁ」
ゆっくりと解かれる手に、おもわず声がもれる。そのことに対し、一度だけ賤竜は目を向けたものの、結局冽花は何も言えなかった。
盆を手にし、また奥へと消えていく賤竜を見送るほかはない。
何も言えなかった。今の冽花には、彼にたいし、かけられる言葉が何一つ見つからなかったのだった。
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