2-2、石窟に眠る僵尸
「――……ッぅ!!」
冽花は顔をかばい、飛び退ろうとした。が、その寸でで顔かばう手を
彼女は見た。棺に開けられた穴より伸びる手が、彼女を捕らえていることに。
その力は恐ろしいほどに強く、引きずられて棺に手をつかされた。
棺のなかの誰かと目が合ったような気がした。ついで、ばりばりと紙のように穴の縁が
龍の首を模した
赤い液体でずぶ濡れたそれは、恐らく男であった。
骨ばった冷たい手が冽花の胸元に移動し、ぐっと引き寄せてくる。男もまた体の各部へ管を絡みつかせたまま、その身を寄せてきた。
はあっと吐きかけられる息が冷たく土臭く、
途端にどくり、と心臓が脈打つ感覚をおぼえ、くらりと冽花の目の前がまわった。
(あ。これ……
ごくり、と喉が鳴った。
冽花は成されるがままに肩へと手をついては、唇から
その吐息につられたかのように一度だけ骸の鼻が鳴らされると、彼の顔が冽花を向いた。
冽花は逆らわなかった。むしろ、自分から棺へ乗り上げるなり、骸の首に手をまわして体をもたれさせた。
彼の唇へとおのがそれを当てる。
骸の動きが止まった。が、すぐに冷えた舌が伸ばされ、冽花の口の合わせ目をなぞった。素直にひらくと探るように
「んッ。ぅ……ン……ッ、ふ」
舌先がこじるように動いて血を
張られた頬の内側を弄られるのは辛かったが、それにも増して、冽花はその身の冷たさ――骸の
乳飲み子のように自身の血を吸う骸の背を
骸の冷たさ。骸の内に溜められた――真っ黒くて冷たい力、
それは呼吸をするのと同じように自然とできた
息を吸うとともに吸いだすと、骸の肩が小さく揺れた。宥めるように背をさすって、なおも吸い続けると、骸もまた舌をおずおずとそよがせるのが分かった。小さく鼻をならし笑う。
いつしか二人は舌を
互いのものを吸いあげて、共にあることのなんと心地よいことだろう。このまま一つに溶けてしまえばいいのに――そうとさえ思いだした頃である。
ずいぶんと骸の陰気を吸って、熱が下がってきたせいもあるだろう。冽花の理性がようやく首をもたげだしたのだった。
はあ、と満足の息をもらして唇を離す。躯はなおも
くすぐったさに肩を震わせて、はたと気付く冽花だった。
「……っっ、じゃ、ね――よ!! なにやってんだ、あたしは!?」
顔を真っ赤にして怒鳴りつける始末。先まで回していた腕で、今度は逆に骸の胸を突き押しにかかった。が、骸の力が強い。背にまわった腕はびくともせずに、すんすんと鼻が鳴らされて、その顔が冽花の肩へとむいた。
「放せよ! はな――うわッ!!」
片手で背を押さえたまま、もう片手で冽花の
いよいよ
『
「……え?」
『陽の気……これは
真っ直ぐに彼女を見つめてくる骸に、
先までとは打って変わって、理性的な瞳がそこにはあった。
躯は首をかしげながら、なおも言い募ってくる。
『
言いながらさらに顔を寄せると、無造作に傷を舐めあげてきた。
理性――否、根本のところは変わらなかった。あまりに
「! ……ッいッ……ぎゃっ!? なにすッ――」
たまらず声をあげて傷をかばうとその手を取られる。またすました面で応じてくる。
『血止めのためだ。此らのだ液にはその
言って、犬歯に似た
『逆に牙には毒がある。血を固まりづらくする毒だ。
もっともらしく言いながら再び傷に顔を寄せるため、ぎりぎりと歯を食いしばって、冽花は
「あんた、っ、本当に止まんなかったらはっ倒すからね!」
『問題ない。過去、五百十二件の事例が有効性を告げている』
ちゃっかり血の跡までねぶられて、ぞくぞくと背筋を震わせた。
肩が済めば一度上にあがり、「うひっ」と冽花が身をすくめるのにも構わず、額の傷にも触れる。鼻先にまで降りようとしたため、それは全力で制した。
また肩から前腕、手の甲へ。指先ときて――骸の動きが止まる。
見れば、伏し目がちの目が探るように
『契約者よ、再度問う。お前は
声の質が硬く変わったような気がして、おもわず手を引こうとすると引き戻される。
『答えろ』
「……っ、グイロンだかのキ? を纏ってるのは……たぶん、刺された
『老鬼』
「
思い出すとむかっ腹がたってきた。仲間も殺された上に――行き場のない怒りを、もう片手を握りしめることで耐える。そんな冽花の拳に再び冷たい手が触れてきた。
『此を探していたのか?』
再びかけられる声には静寂が戻っていた。見つめてくる眼にも
「……うん。組織としても個人的にも」
『組織?』
「話せば長くなる。とにかく、あんたを探してたんだ。会わせたい奴がいて……」
そこで思い立って、冽花は骸の
「冑、取ってみてくれないか」
『冑を?』
「そう。顔が見たいんだ」
「早く」と身をゆすって急かすと瞬きが数度。ゆっくりとその手が冑の
冽花は期待をこめて見つめる。両手で
「……おお……」
夢の中そっくりの同じ顔。同じ切れ長目の
おもわず感動する冽花であった。ここまで長かった……とついつい生まれて以降の思い出に浸りかける。も、ほどなく何ぞや
つるりとした染みのない頬も、
「あ。角がない」
『角?』
「額にあっただろ、ここ。黒い一本角がさ」
ぱちりと瞬く賤竜は応えない。冽花は賤竜の手にした冑や先ほどの棺のなかも見たが、見つからないので首をかしげた。
「どこに落っことしたんだ?」
『……その前に。お前は此の生前を知っているのか』
「知っているも何も。生まれてこの方、ずっと夢で見てるよ。あたしは――」
『此に生前の記録は存在しない』
口に出そうとした言葉が半ばで引っ込んだ。冽花は目を皿のように見開かせて、賤竜を見返す。賤竜は胸に手を
『此は
はくりと一度だけ空気を飲んだ。意味もなく口を開け閉めしてから、冽花は細い声で訊ねる他ない。
「じゃあ、こうして話してるあんたは?」
『仮初の人格を
「……
『ない。過去三百年の
淡々と賤竜は首を振り返した。
彼女の元主人の一人であっただろう骸は、そうして彼女の感慨を切り捨てた。
冽花は
目の前がじわじわと滲むのを感じていた。
「っ!」
それが嫌で、震える拳を賤竜に叩きつけていた。
賤竜は拳を受けながら静かに瞬いていた。
鼻をすする冽花が落ち着くまで、しばしを要した。
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