第16話

 その日、私は図書室で課題をこなしていた。数学Aの課題であったが、入り組んでいて手こずってしまっていたのだった。図書館の閉館時間が迫っており、窓の外はすっかり暗くなっていた。

「……」

ふと顔を上げると、見覚えのある人物が立っていた。先輩だ。先輩はこちらに気がつくと、いつものように微笑んだ。

「先輩、どうしたんですか?」

「小春を探しに来たのよ。あなたって、いつもここにいる」

「私を?」

「えぇ。話がしたくて」

「今からですか?」

「ええ。駄目?」

「構いませんけど……」

「良かった」

 私はノートを閉じると、荷物を持って立ち上がった。それから、先輩と並んで歩いた。

「どこへ行くんですか?」

「少し、外へ出ない? 散歩よ」

「学外ですか?」

「そうね、ほんの少しだけ」

 時刻は十八時に近づいている。部活動を考慮して、寮の門限は基本的には十九時。けれど、寮生が学外へ出るには「外出許可」がいる。

 私は少しだけ悩んだが、けれどもその誘いに乗ることにした。私は今まで寮の規則も校則も破ったことは殆どないに等しかったし、先輩と二人での規律違反であれば、罰則が重いのはどうせ先輩の方だ。

「構いませんよ。でも、十九時には戻りましょうね」

「分かったわ」

 私たちは校舎を出ると、暗くなっていく道を歩き始めた。

 住宅と農地の入り混じる道を歩き、駅前を通り過ぎて、商店街を抜けると、小さな児童公園があった。

 六月に入り、少し蒸し暑い。紫陽花が道の花壇に植えられていて、夜に近づく街によく映えていた。

 公園の中には街灯がいくつかあって、そこだけ少し明るい。紫陽花もやはり咲いている。私は先輩に促され、そのベンチに座った。

「外は涼しいわね、風もあって」

「それで、お話というのは?」

「そうねぇ……」先輩は少し考え込むような仕草を見せた。「そういえば、小春は好きな人とかいるのかしら」

「いません」即答する。「どうしてそんなことを聞くのです? 先輩にはいるんですか?」

「いるわよ」先輩はあっさりと答えた。

「……へぇ」

「小春にも、いつかできるといいわ」

私の隣に腰掛けている彼女の横顔を眺めると、とても大人びているように感じられた。

「先輩はその方とは、どういった関係なのですか」

「ただの先輩と後輩の関係よ。それ以上でもそれ以下でもないわ」

「付き合ってはいないのですね」

「そういうこと」

 先輩は小さく笑みを浮かべた。先輩が嘘をつくときの癖は、すぐに分かる。この人は、自分のことをあまり語りたがらない。

「……先輩」

「なあに?」

「いえ、なんでもありません」

 私は言いかけた言葉を飲み込んだ。「変な小春さんね」と言って笑う彼女は、どこか寂しげだったからだ。

 私は何も言わずに、先輩の横顔を見つめる。私と先輩の間には微妙な距離があって、それはきっと永遠に縮まることはないのだろう。

 ふと空を見上げると、そこにはもう星が輝いていた。子供の時は、一番星を見つけるのが好きだった。今はもう、そんな無邪気な心は残っていない。

「ねえ、小春さん」

「はい」

「私のこと、嫌い?」

 私は驚いて先輩の顔を見た。先輩は真剣そのものといった表情で私を見ていた。

「どうしてそんなことを?」

「だって、最近冷たいから」

 そう言われても私は心当たりがなかった。先輩の「事件」を知ったあとも、普通に振舞っているつもりだった。

「私、何かしました?」

「いいえ。きっと、私が勝手に不安になっているだけ」

「不安? ……なぜですか?」

「あなたが遠くに行ってしまうような気がしたの」

私はますます混乱した。

「どうしてそんな風に思うんですか? 遠くに行ってしまうのはむしろ……」先輩のほうだと言いかけて、やめた。

「私はここにいます」

「知ってる。でもね、時々怖くなるの」

 先輩はそう言うと俯いて自分の膝を撫でた。私は、彼女が私に対して何を言っているのかよく分からなかった。

 なにを悲劇のヒロインぶっているのだろう、とも感じた。この人は本当に分かっていないのだ、と思った。私は街灯に照らされない部分の暗闇を見て、口を開いた。

「どちらにせよ、あと一年もないですよ」

 声のトーンはわざと下げた。

「分かってるわ」

「だったら、そんな顔をしないでください」

「うん……」

 先輩は小さな声で答えて、両手で顔を隠してしまった。

 私は、彼女が泣かせてしまったのかと思って少し心配になったが、どうやら違うようだった。

「ねえ、小春さん」

「はい」

「キスしてもいいかしら」

「嫌ですけど」

 すぐに、きっぱりと断ると、先輩は驚いたようにこちらを見た。私も、考えるより前に言葉が出ていた。

 私は目を逸らす。先輩はしばらく黙り込んでいたが、やがて小さくため息をついた。

「そう言わないで」

「駄目なものは駄目です」

「お願い。一度だけだから」

「そういう問題ではありません」

「どうしても?」

「男性とするための、練習ですか?」

「まあ、意地悪……」

「意地悪なんかじゃありません。いずれにしたって、私にはきっと必要ない」

「分からないわ」

「必要ない」私は語気を強めて言った。先輩は黙ったまま動かない。

「……ごめんなさい」しばらく経って、先輩が謝った。「ごめんなさい」

「別に、怒ってませんから」

「ありがとう」

 少しだけ横顔を盗み見ると、先輩はベンチに座ったまま、私の方を見なかった。

 それからしばらくして、私たちは児童公園を出た。帰る場所は同じなので一緒に歩いていたが、お互いほとんど喋らなかった。


 寮に着いたのは十九時の十分前くらいであった。寮母は遅くなった私たちを見ても、特に声を掛けなかった。

「あなたといれば余計に探られないのね」

 階段を昇りながら、先輩はそう呟いた。

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