第7話

 部屋の前で少しの間、凜子さんと雑談をしたあと、私はまた図書室へと向かった。

 今日は朝から天気が良いので、外で読書をすることに決めたのだ。

 図書室の奥にある書架で、適当な小説を一冊抜き出す。それから校舎の外へ出て、グラウンドの見えるところにあるベンチに座って、ページを開いた。

 手に取ったのは十九世紀の英国の看護師の伝記であった。裕福な家庭に産まれ、美しく、けれどもその人生を献身にささげた人。彼女は生涯独身であったらしいけれど孤独でなく、それでいて幸福だったのだろう。

 読み終えたところで、私は顔を上げた。目の前には、背の高い男性が立っていた。

「やぁ、こんにちは」彼は言った。

 私は驚いて、立ち上がった。

「すみません。気付かなくて……」

「いや、こちらこそ邪魔をして申し訳なかったね」

 その人は長身で、細身だった。

 この敷地内にいる男性はみな学校職員たちだ。それから、出入りの業者が時々。

 彼は物理のY先生であった。都会の有名な大学を出て、二十六歳からこの女学校に勤めているひと。地元はこの学校から車で三十分も掛からないところらしい。

「何か、ご用ですか?」

 私が尋ねると、Y先生は困ったような顔をした。

「いや、少し見かけたから。きみ、看護師を目指しているの?」

 Y先生はそう尋ねた。

 私は「いいえ」と答えた。

「ただ、ナイチンゲールという偉人が好きなんです」

「そっか」

 Y先生は小さく微笑んでから、「きみなら、医者だって目指せるかもしれない」と言った。

「まさか。唆さないでくださいよ。それに医療従事者に憧れているわけでもないんです」

「そうなのかい?」

「はい」

 私は答えて、ふたたびベンチへと腰を下ろした。

「誰かのために自分の人生を捧げたいとも思えないし……」

「ああ、なるほど」

 と、Y先生は頷いた。

「父がよく言うんです。師のつく職業の方は、みな聖職者だと」

「おや、教師も?」

「父が言うには」

 私は苦笑いを浮かべて、続けた。

「少し古臭い考えですわね。身を削って働くだなんて……」

「うん、確かにね」

 Y先生は顎に手を当てて、しばらく考えていた。

「しかしね、僕も教育者の端くれとして思うんだけど、教育とは、ある意味において宗教に似ているんだ」

「教育が……?」

「そうだよ。教育も宗教も洗脳を伴う」

「あら、過激な発言……」

 私はくすりと笑って、はしたなくないように口を手で覚した。Y先生は私を見つめながら、話を続けた。

「だから聖職者というのもあながち間違いではないと思うんだよね。まあ、きみのお父さまが願っているのは、師のつくものは身を粉にして働くべし、ということだから主旨は異なっているんだけど」

「そうかもしれませんね」

 私は同意した。あるいは、同意してみたくなった。

「父は少し身勝手なひとですわ」

「親を疑うのも成長の一つかもしれないね」

「そうでしょうか」

「そうだよ。僕はそう思ってる。もちろん、僕の意見だけどね」

「考えておきます」

「ありがとう」

 Y先生はにこりとした。それから腕時計を見て、そろそろ部活の時間だ、と言った。先生は、ソフトボール部の顧問であった。

「じゃあ、また」

 と、グラウンドの方へと去っていった。

 私も自分の腕時計を見ると、十時の十分前を指していた。私は本を書架へ返したあと、空いた席へ座って英語のワークを開いたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る