2.成れの果て
執務室に男が一人。
時計の音と、思考が徐々に噛み合う音だけが響く。
先刻、末端の構成員──それも自派閥の構成員、それが漏らした言葉に囚われる幹部が一人。
「あー……」成程、会得がいった。
食わせろ。
そう云いたいのだろう。
じゃあ、それを意味する言葉を何故吐いた?考えられる事は一つしか無いが。だとしても、何故彼女なのだろうか。自分と同じ観点で、接している?そんな筈は無かろう。
「治さん」
太宰は名前を呼ばれたことに気付き、それまでの思考を一度放棄した。
「ああ、卯羅。何?」
「自分で呼びつけておいてそれは無いでしょうに」
そうだったっけ、と笑いながら誤魔化す。呆れたと溜息を吐く秘書に、愛想笑い。調子の善い人、そう笑って、卯羅は太宰の額を指で弾いた。
「痛い」
「報告書、仕上げたから確認して」
「直接出して善いと云ったろ」
この会話も自分だけの物だ。それに「最終確認は大事だもの」と応えて、紙を数枚押し付けるのも自分にだけ。
「嗚呼、卯羅!もう仕事は終わり!帰る!」
展開に付いて行けていないのは無論卯羅だけで、太宰は呆気に取られる彼女の腕を掴み、裏口を出、自宅に向かった。
「どうしたのよ」
「何でも無い」
そうは云うが。
卯羅は、台所とも寝室とも云い難い酷く曖昧な空間で、太宰が次から次へと酒盃を空にするのを、隣で眺めながら、彼の抱える違和感を察そうと探りを入れた。
「もうお酒は止して」
「卯羅ぁ……」
硝子杯の口を手で覆い制すと、太宰は脱力するように寄りかかってきた。自分よりも二回りは大きかろう身体を、なんとなく受け止め、そのまま、彼の頭を自分の胸へ載るように誘導した。
「治さん、さっき執務室で私が呼んだの気付かなかったでしょ」
「ううん。君が何時になったら名前で呼んでくれるかなって」
「嘘おっしゃいな」
柔らかな胸からしとやかな声が届く。これでは甘えているようだなと思いながらも、動きはしない。
「今度は何考えてるの?」
「聞いたら卯羅、幻滅するよ」
あんな一言に悩んでいるなんで。愚の極みと笑われても可笑しくはない。「下級構成員が話してたんだよ……『何時に成れば秘書は下賜されるのか』って」
「ああ、そういう……」
もう馴れたよ、寂しそうに笑う卯羅。それに太宰は少しばかりの怒りと、切なさを覚えた。
「女の宿命かもしれない。治さんだって遊び倒してるんだから、気にすること無いじゃない」
「でもね、君がそういう目で見られるのが嫌だ。だから……」
ふと思い至った考えが口を吐きそうになる。それを吐露させるように髪を手が滑る。「見える処に、私の痕残しても善い?」
「頂戴。誰のか、知らしめてよ」
開けられた襟衣の襟元、覗く首筋、鎖骨、特有の谷。卯羅は好きな処を、と差し出した。それに応えるよう、悩む青年の顔を捨て、欲を眼に映し出す。首筋から谷間へと舌を這わせる。それが注射前の消毒に思えたのも束の間、獲物は頸に僅かな痛みを感じた。
「愚かだろ?さっきはあんな事云ったくせに、この先へ進みたくて仕方がない」
「しましょ?治さんが欲しい」
言葉の儘に口付け、下着に手をかける。急かすように動く自身の手に、太宰は嫌気が差しながら、従った。
卯羅も卯羅で、既に待ち望んでいる欲の果てを期待しながら、太宰の動きに従う。
こんな未熟な想いも、何時かは、思い出と成り果てると信じて。
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