7章

1.

「う……」


スケアクロウは背中の痛みに思わず呻く。

目を開けると、遠くにうっすらと天井が見える。

彼がいた遺跡のホールは薄暗く、天井など暗がりに隠れてしまい見えなかったはずだ。

そういえば、妙に蒸し暑い。辺りに目をやると、火が煌々と燃えている。燭台の火などではない。

石畳の床に山と積まれているそれの一部が崩れ、溶けて燃え上がっている。それが暗がりを照らしていたのだ。


「金貨……俺のお宝は!?」


ハッと気づき、スケアクロウの意識は完全に覚醒する。

そうだ、俺が手に入れたお宝は、『ギャブレットの冠』はどこだ。

頭を触ってみても、それらしい感触は消え失せている。無くしてしまったのか?


「クロウ! 目が覚めたのね? だったら、速く逃げるわよ!」


乱暴に手を引かれ、背後に引っ張られる。

声の主はドロシーだ。彼女の水色のローブは裾が無惨に焼け焦げ、帽子はなくしたのか被っていない。

振り向きざまに、彼女の亜麻色の長い三つ編みがスケアクロウの頬を撫でた。


「ま、待て! ギャブレットの冠がねぇんだ! あれを探さねぇと……」

「今はそんな場合じゃないわ! まずはあれから逃げないと!」


ドロシーは宝への未練を断ち切れないスケアクロウを一喝し、彼の手を引いて有無を言わさず走り出した。

背後から、何か巨大なものが物凄い速度で迫って来る気配を感じる。


――あの、翠玉色の竜だ。

スケアクロウは思い出した。


「そうだった。俺は竜が吐いた炎を喰らって……待てドロシー、おまえには呪縛の魔法をかけてたはずだ。なぜ動けた?」

「知らないわよ! どうせ竜にビビって、集中力が切れたんでしょ?」


いや、スケアクロウが聞きたいのは、そんなことではない。


「……違う、そんなこたどうでもいい。何で俺を助けた? 俺は、おまえを……」

「いちいちうるさいわよ!」


金銀財宝の山々を縫い、二人は手を取り合い走り続ける。

しかし、彼らを追う巨大な存在は、そう時もかけずに彼らに追いついてしまう。

頭上からの凄まじい風圧が二人を襲う。

周囲の財宝の山々は、頂上から徐々に吹き飛ばされ崩れていく。

皮膜の乾いた羽音と共に巨体が舞い降り、地響きを立てて着地する。


「どうした? 逃げぬのか……盗人どもよ。」


無機質な翠玉色の鱗に覆われた鎌首に表情などはないが、二人の姿を映すその鋭い目には、蔑みの色が見える。

翠玉色の竜は二人を舐めまわすように眺めているだけで、今すぐ襲い掛かって来る気配はない。だが、殺気だけは絡みつく蛇のように、二人の身体に纏わり着いて来る。


ドロシーは踵を返し、スケアクロウの手を引いて走る。

だが、竜からは逃げられない。竜は彼らの頭上を飛び越え、再び眼前に立ち塞がる。


「どうした、どうした? それ、逃げてみせよ。」


竜はやはり襲って来ない。

完全に遊ばれている、とスケアクロウは思った。

あの巨大でこの身のこなしだ。その気になれば、とっくに爪で引き裂かれるなり、ブレスで消し炭にされるなりしているはず。

そうしないのは……決まっている。自分たちを”生かして帰す”つもりなのだ。

徹底的に絶望を与え、どう足掻いても竜には敵わぬと思い知らせる。竜への恐怖を植え付けられた人間は、村から村へとその恐ろしさを伝え広める。そうすることで、竜に逆らおうと考える人間はいなくなり、従順な”家畜”の出来上がりだ。

俺たちの村は、パンテーラはこの竜の牧場に過ぎないのか――怒りがこみ上げるが、人間の力でどうしようというのか。ギャブレットの冠の魔力ですら通じなかった奴だ。冠を失った今、奴に一矢報いることさえ叶わない。


「あんたなんかにっ……!」


ドロシーが竜に向かって飛びだした。

目には涙を溜めている。彼女も同じ気持ちだったのだろう。

悔しさに声を震わせながら、古代語呪文<エンシェント・スペル>の詠唱を始める。だが、無茶だ。


「ドロシー!? おい、よせ!」


スケアクロウの制止も聞かず、ドロシーは詠唱を続ける。


「こんな奴に! こんな奴にっ……私たちの村を自由にさせてたまるもんかっ! 私の最大の魔法、くらえぇえっ!」


――水のを司るウェンディヌ、汝の加護を願う……汝の悲哀を込め、抱擁せよ! 全てを凍てつかせ、氷に閉ざせ! 凍結する世界<ダイヤモンドダスト>!――


ドロシーが気合いを吐き出すと、竜の周囲の温度が急激に低下し始め、氷が結晶を作り出す。

氷の結晶は空気中の水分をみるみる吸収し、巨大化してゆく。

やがて一抱え程にもなった氷塊と共に、大気が流動し、氷の嵐となって竜の巨体を包み込む。

氷塊の嵐は僅かな放電を起こすまでに加速し、竜を打ちつける。

お婆ちゃんが自室で厳重に封印していた、絶対に開いてはならないと言いつけられていた禁呪書を盗み見て、独自に習得した彼女の最大の魔法。

今の彼女の習熟度では、この呪文を唱えることは命と引き換えにもなりかねない。


徐々に凍ってゆく竜の巨体。が、竜は苦しむ様子もなく平然としている。

翻って、ドロシーの方は無理な魔力の放出が祟ったのか、倒れる寸前だ。


「くっ……! こんな奴なんかに……こん……な、や……つっ……」

「よせって! おまえの方が先にくたばっちまうぞ!」


スケアクロウが杖を無理やり奪って、ようやくドロシーは魔法の行使を停止する。


「どうした、もう終わりか? 涼しいだけだったぞ。気が済んだならば、次はこちらから行こう……」


ドロシーの全力の魔法も、竜の翠玉色の鱗には僅かな霜を付着させるのみに終わった。

竜は首を一振りして身体の霜を払うと、深く呼吸して膨らませた喉元を赤熱させる。


ゴオォオオオォオオッ!!


スケアクロウは咄嗟にドロシーを押し倒し、地面に伏せさせる。その直後、猛烈な火炎が二人の頭上を通過して行った。

凄まじい熱によって髪の焦げる臭いがしたかと思うと、背後で財宝の山の一つが爆発を起こす。

弾けた金貨は超高熱で熱され、溶金の雨となって降り注ぐ。


「いけねぇ!」


スケアクロウはドロシーに覆い被さり、溶金の雨をその身に受ける。


「ぐぁっ……!!」

「クロウ!? 何を……ダメよ、どきなさい!」


じゅうじゅうと肉の焼ける嫌な音がする。

スケアクロウは背を焼かれる激痛に顔を歪める。ドロシーは目に涙を溜め、そこを退くよう懇願するが、彼は決して動かない。

溶金の雨が止む頃には、スケアクロウの背中は無惨にも黒焦げになっていた。


「クロウ、背中を見せて。すぐにお婆ちゃんの薬を……」


ドロシーは急いで鞄をまさぐるが、肝心の薬は見つからない。

スケアクロウが背に負った傷は、もはや火傷と呼べる程度を遥かに超えている。早く手当をしなければ、命にかかわる。

そう思うと、余計に焦りが募り、手つきが覚束なくなってしまう。自分に治癒の奇跡が使えたら。こんな事なら、お婆ちゃんの言う通り、魔法の勉強ばかりしていないで毎日神様にお祈りするんだった。

そんなドロシーを制止し、スケアクロウはよろめきながら立ち上がり、彼女を背にする。


「いらねぇ。それよりドロシー、俺が動いたら、おまえはすぐ逃げるんだぞ」

「!? あなた、何言って……!?」


焼け落ちて大穴が開き、もはや衣服として機能していないジャケットを脱ぎ去ったその身体。

黒焦げになったその背に巻きつけられた、炸裂筒の束。

ドロシーは、スケアクロウが何を考えているのか、瞬時に理解した。


「あばよ、無事に逃げ切ってくれ。リオンの野郎には謝っといてくれな。」


そうとだけ言うと、スケアクロウは眼前の竜に目がけて走り出した。


「ほう……」


翠玉色の巨大な鎌首は、それを避けるでもなく、向かって来る男を興味深そうに眺める。

持前の俊足でスケアクロウは竜の頭部に取りつき、指に嵌めた火打石仕込みのリングを鳴らす。

一瞬、辺りは閃光に包まれた。


カッ!!――


耳を引き裂くような大音響が、友人の名を叫ぶドロシーの声を掻き消す。

翠玉色の鎌首は赤黒い爆炎に飲み込まれ、爆風が少女の亜麻色の三つ編みをはためかせる。

爆風が止むと、黒煙が視界を遮る。それが徐々に薄くなっていった先には、既にスケアクロウの姿はなく、ただ、翠玉色の巨体が変わらずに悠然と在るのみであった。


「ああ……クロウ、どうしてそんな早まったことを……」


ドロシーはその場を動けず、ただ膝をつき泣き崩れる。

竜はその無力でか弱い姿に、呆れたように言った。


「愚かな。あの男が命を賭して逃亡の機会を生み出したというに……さて、もう我を楽しませるものは見れまい。そろそろその手足を一本ずつ食いちぎろうと思うのだが、構わぬな? なに、まだ殺しはせん。汝らには”家畜を調教して”もらわねばならぬからな。」


ズシン、ズシンと地響きを立てながら、翠玉色の巨体がゆっくりと近づいて来る。まるで、観念した獲物を嬲るかのように。

突起だらけの厳つい影がドロシーに落ちる。それでも彼女は動けなかった。

先割れた長い舌が、まるで品定めをするかのようにドロシーを撫でる。

ぬめぬめとしたおぞましい感触を全身に感じながら、ドロシーは思った。リオン、最期にあなたに会いたい、と。


目を瞑って蹲り、竜の牙がその身を貫くのをただ待つばかりのドロシー。

彼女の耳に、待ち焦がれた彼の声が微かに聴こえた気がした。



2.

「ドロシィイイイーーーーッ!!」


今度はすぐ傍で聴こえた。彼の声が信じられずに、ドロシーは顔を上げる。

見上げるとはっきりと見えた。あの臆病だった幼馴染の彼が、勇ましく竜に立ち向かう姿が。

リオンはドロシーを飛び越え、竜の眉間目がけて剣を思い切り振り下ろした。


”獅子奮刃!!”


野獣の爪牙の如く、獲物を引き裂く必殺の剣。

父・ユリウスより受け継いだ、シーザー家に伝わる剣術の奥義。あの山のような巨体のウォームをも屠った技だ。

その一撃が、憎き翠玉色の竜を遂に捉える。


ガギィイィイイイン!!


金属同士が激しくぶつかり合う、甲高い衝突音がホールに響く。

翠玉色の竜の巨体が仰け反り、突起だらけの凶悪な鎌首が大きく弧を描き、財宝の山の一つへと墜落する。

大量の金貨が弾けて宙を舞い、雨となって降ってくる。


「リオン……本当にあなたなの? すごい……」


毛皮のマントをはためかせ、颯爽と着地するリオンの後ろ姿に、ドロシーは目を見張った。

あの臆病で頼りなさげだった幼馴染が、幼い頃、自分に引っ張ってもらわないと何もできなかった、彼の背中が大きく逞しく見える。あの恐ろしいドラゴンを、一撃の元に叩き伏せた。

ドロシーの瞳に涙が溢れる。先程までの絶望の涙ではない。ああ、やっと、勇気を出してくれた。やっと自分の力を信じてくれたのだ。

と、唐突に彼女の傍らに空間の歪みが現れ、チェシャ子がにゅっと顔を出す。

ドロシーは思わず小さく悲鳴を上げる。ふと、背後に小柄な気配を感じ、振り向くと99号が立っていた。


「ああ……クク、良かった。あなたたちも無事だったのね。」


小さなククの腰をぎゅっと抱きしめる。

そして、誰にともなく涙に震える声で言った。


「クロウが……クロウが死んじゃったよぅ……私を守って、クロウが……」


ククは涙に濡れるドロシーの顔を不思議そうに見つめる。

彼女にとって、他人の感情に触れるのは初めてのことだった。

どうして良いのかわからず、ドロシーの頭をそっと撫でてみる。ドロシーは泣き止まず、ますますククを抱きしめる腕を強める。

リオンの方を見ると、彼も倒れた竜の方を向いたまま構えを解かないでいるものの、僅かに肩が震えている。

ドロシーに対して何か間違ったことをしてしまったのだろうか、とククは少し困ったように眉をひそめる。チェシャ子に目で助けを求めるが、彼女は相変わらず空間の歪みから顔だけ出し、からかうようにニヤニヤとしている。


「ごめんね、クク。泣いてなんていられないよね。」


ドロシーは吹っ切るかのように顔を拭い、杖を持ち直して竜の方へと向き直る。

そう、まだ戦いは終わってはいない。竜の気配は消えていないのだ。

竜の鎌首が再び宙に弧を描き、無機質な眼光をこちらに向けて来た。

リオンの渾身の一撃が叩きこまれたはずの眉間には、傷一つ付いていない。


「人間にしてはやりおる……今のはなかなか効いたぞ。あれほどの衝撃を受けたのは、この百余年なかった。」


竜の裂けた口の端がさらに深く切れ込む。笑っているのだろうか。

リオンはもう一撃、竜に叩き込もうと剣を振り被るが、踏み込もうとした所で咄嗟に防御に切り替えた。

竜の凄まじい咆哮が轟き、風圧が彼の攻撃を阻んだのだ。


グギャァアアオオオオォオオオオン!!


翠玉色の巨体がホールを揺るがす。

その姿はさながら、金銀財宝の海を掻き分け進むガレオン船だ。

リオンは勇敢にも立ち向かうが、ドラゴンの猛突進の前には、人間の一撃など宙を舞う木の葉にも等しかった。

何とか剣で衝撃をいなし、脇へと逸れるリオン。


ククはドロシーをチェシャ子に預けると、背負った刃のうち一本を抜き、竜の眼球目がけて飛ぶ。

いくら硬い鱗を持つとはいえ、目が弱点でない生物などいない。

だが、竜は瞼すらも恐ろしく硬く、閉じられた目に刃は通らなかった。

竜の巨体が急制動し、財宝の山を薙ぎ倒しながら、ククの方へと向きを変える。

鋼鉄の処女<アイアンメイデン>の如く、鋭い牙が上下にびっしりと並ぶ凶悪な咢が彼女を襲う。

ククは竜の上顎を蹴り、何とか避ける。すれ違い様に眉間に一太刀浴びせるが、やはり弾かれてしまった。


「ウォームも硬かったけど、こいつはそれ以上だ……クク、何か良い手は思いつかないかい?」


リオンの問いかけに無言のクク。無表情ではあるが、きっと彼女もどう攻めるか考えあぐねているのだろう。

翠玉色の竜の身体は、鱗はもちろん蛇腹の隙間、目、口内に至るまで、弱点と思える箇所ですら剣が通らなかった。

いったい、どうやってこんな化け物を倒せというのか。

圧倒的なまでの力の差を見せつけても尚、竜は勝負を急ぐ素振りを見せない。じわじわと嬲り殺しにして楽しむつもりなのか。

リオンは自らの無力さと理不尽なまでの竜の強さに歯噛みする。いっそのこと、やぶれかぶれで突貫してやりたい衝動に駆られる。

いつものリオンであれば、恐怖が心を塗りつぶして、一歩も前に進めなかっただろう。ところが、今のリオンの胸に宿る勇気の炎は、今回は悪い方へと働いてしまった。


「くっそぉおおっ! おまえなんかに、父さんの領地を……村のみんなを好きにさせてたまるかぁああっ!」


闇雲に竜へと突っ込むリオン。しかし、こんなものは蛮勇に過ぎない。無策で剣を振り回して勝てる相手ではないことは明白だ。

竜の尾がリオンに向かって振り下ろされる。余りに不意のことに、ククの助けも間に合わない。


ゴッ!!――


突如、炎の矢が後方から飛来し、リオンを追い越して竜の眉間に命中する。

迸る爆風にリオンは煽られ、お蔭で竜の尾から逃れることができた。


「ニャ~!? 何してるニャ、三つ編みちゃん! じっとしてるニャ~!」


少し離れた所に空間の歪みが出現しおり、杖を構えたドロシーと慌てるチェシャ子が立っていた。

リオンを救うために、ドロシーは残り少ない魔力を全て振り絞ったのだろう。肩で大きく息をしたまま、その場を動かない。


黒煙を掻き分け、翠玉色の鎌首がドロシーを睨む。

ダメージはほぼ無いようだが、その声には苛立ちが募っていた。


「……蠅のように煩い盗人どもだ。少々鬱陶しくなってきた。」


竜が深く息を吸い込むと、頭の中で耳鳴りが響き出す。ホール内の空気が急激に薄くなっているのだ。

リオンは自分の愚かな行為を激しく後悔した。気圧が変わる程の深呼吸。間違いなく今までで最大級の火炎が放たれようとしている。自分が先走ったばかりに、大切な幼馴染に防ぎようもない業火が浴びせられようとしている。

どうすれば彼女を助けられる? いや、もはや考えるより先に身体が動いた。

ドロシーを助けられるなら、この命がどうなっても構わない――


「うぉおおおおおおっ!!」


叫びと共に振り下ろされた獣の爪牙の如き斬撃は、竜の眉間を激しく打ち付ける。

そして、鈍い音がして、竜の口は強制的に閉じられ、漏れ出していた火炎は黒煙と化して消えた。


竜は一瞬、戸惑った。

鈍い音? 先程まで、人間の剣など我が鱗が弾き甲高い音を立てていたはずだ。

無敵の防御力を誇る翠玉色の鱗が、眉間のたった一枚ではあるが、”剥がれかけている”?

なるほど、少々遊びが過ぎた。人間など脆弱な下等生物ではあるが、伝説にもあるように、確かに古より怪物や邪悪なる神を退治して来たのも人間であった。敗北してやる気などさらさら無いが、油断して万一奴の英雄譚の彩になるのも癪だ。

翠玉色の竜は冷静に、正確にリオンの死角を突き、爪の一撃を繰り出した。

奥義の連発によって疲労していたリオンは、その一撃を察知することがでできなかった――


金属同士がこすれる脳天を貫くような音が響き、激しい火花が瞬く。

石の床をがらん、がらんと何度か跳ね、ドロシーの前にそれが転がって来た。

一見、ズタズタに引き裂かれた毛皮に包まれた鉄の塊に見えた。彼女はそれが何なのかすぐには理解できない。いや、信じたくなかった。


「リオ……ン……?」


みるみるうちに赤黒く染まっていく、その塊に手を伸ばし触れてみる。覚えのある温もり。

血まみれになって、ピクリとも動かないリオン。

抱き起こそうとリオンの背に手を回して、ドロシーは戦慄した。指が深い溝に食い込む感触がする……彼の背に深い傷痕が刻まれている。

そして、手を止めた。その傷痕からどくどく流れる冷たいものを感じたからだ。

これはもう、助からない。ドロシーの瞳からとめどなく涙が溢れて来る。


「リオン……ねぇ、起きてよ。クロウも、ブリガンも死んじゃったんだよ。私にはもう、あなたしかいないのよ……」


みるみる体温を失っていくリオンの頬に手を当てる。だが、その呼びかけは彼には届かない。



そして、遂に99号の刃が根元からへし折れる。

竜への攻撃を幾度も試み、また竜からの攻撃をいなし続けていたが、刃が金属疲労の限界に達したのだ。

キン、と折れた刀身が石の床に落ちるより速く、99号はすかさず新たな刃を抜いた。今、三つ編みの魔法使いの少女は無防備な状態だ。何としても竜を食い止めておかなければならない。


「華麗なる刃の者よ、何故に汝は人間に与する?」


竜は少しも動じずに、99号に語り掛ける。彼女に幾度斬りつけられようとも、自らの翠玉色の鱗には傷一つ付かないという揺るぎない自信。古の時代より幽けき者を平伏させ続けてきた威圧的な声で言葉を続ける。

そして、竜は99号のことを理解しているようだった。


「汝からは命のにおいがせぬ……屍の人形――あの魔女の使いであろう? 奴は森に籠り外界のことには干渉しないはず。現に我がこの地に降り立ってより数百余年、我と衝突したことはなかったではないか。その使いである汝が何故、我と敵対するのだ?」


99号はコアが脈動するのを感じる。

何故、人間に手を貸すのか。確かに竜の言う通り理由はない。

竜がパンテーラの地に現れた頃、奴は今と同じように暴れまわっていた。縄張りをどれほど侵されようと、この地に住まう人間たちが幾人餌食にされようとも、主は興味なさげに「放っておけ」とだけ屍人形たちに言っていたものだった。

では、何故。彼女は自分自身に問いかける。

自分は今、主の命に背いている。本来、屍人形<アリス>には有り得ないはずだった。だからこそ、彼女自身にもわからずに混乱する。「これは何なのか」。

心、感情――そういった概念にさえ、彼女は辿りつけない。


「珍しいものよ……いや、哀れと言うべきか。操り人形に過ぎぬ屍が”葛藤”とは、な。そのままでおればよい。人間がどうなろうと、汝には関係のないことなのだからな。」


巨大な影が99号を頭上を素通りする。翠玉色の竜は99号に興味をなくし、その牙の矛先をドロシーへと向けたのだ。

地響きと共に眼前に現れた竜の前肢に、チェシャ子は空間の歪に隠れるのも忘れて震え出す。

ドロシーは泣きはらして赤くなった瞳を、動かなくなったリオンであった物から、突然現れた巨大な翠玉色の巨体へとゆっくり移す。見上げる程の高さから、一遍の慈悲も感じられない無機質な眼光が、彼女を刺し貫く。


「人間よ、よもや遊びはせぬ。我が吐息で汝を焼き焦がし、炭となったその身を汝の故郷へ放ってくれよう。さすれば、この地の人間どもは二度と我に逆らおうとは思うまい……」


ドロシーはもはや抵抗する気さえ起らなかった。

愛情を注いだゴーレムも、親しかった幼馴染も、密に想いを寄せていた彼も、全て失ってしまった。

ここで抗った所で、何になると言うのか。一人では竜と戦うことさえできない。いや、それさえもどうでもいい。何も残されていないのに、生きる意味も見出せない。いっそ、ここで殺してもらえたら……


竜を前に逃げようともしないドロシーを見て、99号はふと思い出した。

いつの頃だったか、同じような体験をしたことがある――クイーンに初めて謁見した時のことだろうか。

彼女はまだ人間であった。

醜く巨大な肉塊のような存在を前にして、彼女は恐怖に打ち震えていた。

ふと、自分を柔らかいものが包み込む。その柔らかいものも震えていた。姉だった。

姉は肉塊に必死に懇願していた。妹を助けて、と。

肉塊は顔と思われる器官を醜く歪ませる。嗤っているのだろうか。

そして、肉塊はこう言った。ならば、自らを差し出せ、と。

姉はこちらを振り向き、にこりと笑ったような気がしたが、その先のことは思い出せない。


コアの片隅にあった在りし日の想いが、次第に大きくなり99号の全身を駆け巡る。

三つ編みの少女に縫い付けてもらった肩口のアップリケに熱を感じる。

気付くと、既に身体が動いていた。

竜の尾先から背へと駆け上がり、鎌首まで一気に跳躍する。


「……クク!?」


絶望に沈んでいたドロシーの瞳は生気を取り戻す。彼女の瞳には、竜の頭上を舞うククの姿が映っている。


「魔女の使いよ、あくまで我と敵対する気か……だが、無駄な事。汝の刃では、我に傷を負わせることすら……」


ゴスッ!!――


翠玉色の竜は、未だかつて感じたことのない感覚に、言葉を詰まらせる。

眉間が焼けるように熱い。この脳天から背筋を一直線に貫く鋭い感覚は――痛みだ。


ギャァアアアァアアアアアオオオォオオ!!!!


激痛に耐え切れず悲鳴を上げたのも、この世に生を受けて以来初めてのことだった。

何故だ。この身体を覆う翠玉の鱗は、如何なる攻撃をも跳ね返してきたはず。現に、この少女の刃は我が鱗の前にへし折れたはず。それなのに……いや、今、眉間を穿っているのは、刃ではない。


翠玉色の竜の眉間を深々と穿つ物。

それは、ククの失った足の代わりに括り付けられた、ワイバーンの角だった。


「バカな!? 我が眷属の角だとて、この最強の防御を誇る翠玉の鱗を貫くなど……!?」


――違う。竜の鱗を貫いたのはククの一撃だけじゃない、とドロシーは確信していた。

スケアクロウの命を賭した自爆、リオンの勇気と命を燃やした剣技、自分の全てを込めた魔法。それらが竜の鱗の一枚に確実にダメージを与えていき、僅かに剥がれかけさせたのだ。

そして、最後にククの一撃が、遂にその鱗を刺し貫いた。皆の想いが、一つになって翠玉色の竜に一矢報いたのだ。


ククはワイバーンの角を括り付けた腿に尚も力を込め、竜の眉間を抉っていく。

竜は苦しみの余りのたうち回る。その勢いで大量の血液を辺りに飛び散らせ、金銀財宝の山々を赤く染めあげていく。


「グガァアアァアア!! 何故だ、魔女の使いよ! 汝が主の命なのか!? 何故我を害するのだぁあぁあっ!?」


半狂乱になり叫ぶ竜に、ククは淡々と答える。


「あなたの言う通り、女王はあなたに興味などない。私はただ食材を採りに来ただけ。」

「食……材、だと……!?」


竜は耳を疑った。

食材を採りにきた、だと? はぐれ山は我が眷属が粗方食い尽くし、生命の気配はもはや無い。だからこそ、久しぶりに人間の集落を襲い、供物を供させたのだ。ならば、何を採りに来たと言うのだ?

まさか……我か? 生物界最強の竜である我を、竜族の中でも高貴なる翠玉色の鱗を持つこの竜王を……食う気でいるのか?


初めて感じる痛みによる狂乱と、可憐な少女の見た目に寄らぬ度し難い発言への怒り。

竜はなりふり構わず、眉間に張り付く小さな蠅を振り落とそうと暴れまわる。

翠玉色の巨体が石の床を砕き、財宝の山を吹き飛ばす。さらなる出血をも厭わず、ホールを揺るがす程に鎌首を激しく打ち付けるが、小さな蠅に過ぎないその少女は、なおも眉間に激痛を与え続けている。


「危なっ!? 危ないニャ! 三つ編みちゃん、早くこっち! 巻き添え喰らっちゃうニャ!」

「でも、ククが……」


激しい揺れの中、チェシャ子は大急ぎで空間の歪みを生み、躊躇するドロシーとリオンをその中へと回収する。

そして、先程とは打って変わって余裕の笑顔をドロシーに向ける。


「99号に任せてけば大丈夫だニャ。フワフワ剣士さんもきっと助かるニャ。今日の晩御飯は焼肉食べ放題を期待しとくニャ♪」


その笑顔の意味する所を、ドロシーはすぐには理解できなかった。

これから始まるククの”ショータイム”を目にするまでは。


99号は、ドロシーたちの無事を確認すると、新たな刃を抜いた。

平たく刃のない刀身の表面に、無数の”返し”がびっしりと並ぶ。それは、今までの刃とは明らかに異質だった。

もはや武器と呼ぶのも憚られるそれを、99号は構えた。


――大鱗引き・鎧剥ぎ――


99号は失った足に括り付けたワイバーンの角を引き抜き、竜の欠けた鱗に平たい刀身の返しを引っ掻け、一気に引いた。


ガギュンッ!!


「ギャァアァアアアアアアァアアッ!!??」


鈍い音とともに大量の鱗が宙をばら撒かれ、竜の悲鳴が響き渡る。

竜の眉間から突起だらけの頭頂部にかけて、ごっそりと鱗が剥げ、薄桃色の肉がむき出しになっている。

花吹雪のように降り注ぐ翠玉色の輝きの中、99号は竜の頭を駆け、さらに平たい刀身をあてがい、引いた。


ガギッ! ギュアンッ! ガギャギッ!


99号が平たい刀身を翻す度、翠玉色の鱗が剥がれ舞い散る。

あれほどに堅牢を誇った竜の身体が、たちまちのうちに丸裸にされてしまう。

そして、少女はさらに新たな刃を抜く。


――大柳葉刀・神柳――


細くしなやかでいて強靭、鉄をも寸断するという、遥か東方の島国に伝わる神秘の刀剣にも似た刃。

99号がそれを正眼に構えると、刀身に波打った美しい波紋が閃きを放つ。

鱗を失い肉を剥き出した竜は、斬られまいと必死に手足を振り回す。しかし、その爪は虚しく空を切るばかり。

目の前を跳ねまわる目障りな少女を引き裂くどころか、悉くがいなされ、引き換えに身体から肉を削がれていく。

炎の吐息を浴びせようと、口を開けた瞬間に舌をもがれる。尻尾で薙ぎ払おうとした瞬間、根本から輪切りにされる。


「グギギ……い、痛い……やめろ……も、もう、やめてく……」


自らの指ほどしかない小さな少女に、竜は懇願しながら地面に倒れ伏した。

人間を幽けき者と蔑み威圧していた恐ろしい姿は見る影もなく、ほぼ骨と筋だけになってしまった。

少女の傍らには、山と積まれている正確にブロック状に切り分けられた肉と臓物。

細かく痙攣する咢から漏れる命乞いを無視して、少女は竜の懐へと分け入っていく。すると、竜は一瞬大きくびくりと震え、それ以降は微動だにせず言葉も発しなくなった。


少し離れた所に現れた空間の歪みから、ドロシーはその光景に釘付けになっていた。

狂乱の中暴れる竜が、瞬く間に骨になっていく様を。それは、さながら”竜の解体ショー”。

幾度も見せられてきたククの人智を超えた技は、剣技などではなかった。歴とした料理の技法、包丁捌きだったのだ。



3.

ホールは静まり返っていた。


先程まで猛り来るっていた竜は、今や切り分けられた肉と臓物、骨と筋となり、市場でよく目にする肉屋の風景とそう変わりない。

肉は丁寧に血抜きまでされ、流れ出た血液は辺りに池のような血溜まりを作り生臭い臭いを放っている。

ホールに積まれた金銀財宝は赤く染まり、血脂に塗れて台無しになってしまっている。


ドロシーは冷たくなってしまったリオンを優しく抱きしめる。

照れ臭くて伝えられていなかった気持ちは、結局彼に知られることはなかった。

竜は倒れ、故郷が救われたというのに、嬉しさはなかった。ただ、彼を失ってしまった虚無感だけが、彼女の心を覆っていた。


「三つ編みちゃ~ん。お肉、分けてあげるから手伝ってほしいのニャ~。」


どこから取り出したのか、巨大なリュックサックに竜の肉をぐいぐいと押し込めているチェシャ子が、能天気な調子でドロシーに声をかける。

当然ながら、ドロシーの表情は悲しみに沈んだままだ。


「……ごめん、今そんな気分じゃないから……」


そう小さく答え、チェシャ子の方へは一瞥もしない。

出会って日が浅いとはいえ、一時は行動を共にした仲間が死んでしまったというのに、何故平気でいられるのか。

ドロシーは心の中で憤りさえ感じていた。

チェシャ子がそんなドロシーの様子に溜息をつく。すると、骨と筋だけになった竜の懐からククが出て来た。

彼女は、彼女の二回りも大きな塊を引きずっている。その塊は赤く、どくどくと不気味に脈動している。

ずるずるとそれを引きずりながら、ドロシーの傍へと歩くクク。その様子を見て、チェシャ子は「だから大丈夫だと言ってるのに」と小さくつぶやいた。


ドクン、ドクンと僅かに下腹に響く音に気付き、ドロシーは振り返った。


「ひっ……!?」


ククが引きずるグロテスクな肉塊を目にして、彼女は小さく悲鳴を上げる。

枝分かれした血管が浮き出、なおも脈動を続ける肉塊。上部から伸びる数本の管からは、その度に血液をバシャバシャと噴出している。

その肉塊は竜の心臓だった。


「あの……えっと、クク?」


ドロシーは恐る恐る、その心臓をどうするのかと尋ねる。

ククは無言のまま頷き、刃をおもむろに振り上げる。ドロシーが疑問符で頭をいっぱいにしていると、ククは刃を竜の心臓に深々と突き刺した。

竜の心臓の脈動が一瞬止まり、不規則に、小刻みに振動を始める。


ブシュゥウウウウウウウウッ!


ククが突き刺した刃を一気に引き抜くと、切り口から夥しい量の鮮血が噴水のように吹き出し、ドロシーとリオンに直撃する。


「ぎゃーーーーーーーっ!?」


静かだったホールにドロシーの絶叫が響き渡る。それも大量の血液に押されてすぐにくぐもり、掻き消えてしまう。

床には血溜まりどころか、血の洪水で川のように流れができてしまい、金銀財宝を押し流していく。

それはもう、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。


「ぶはぁっ!? な、何するんだよ、窒息するかと思ったじゃないか!」


放出される血液を顔面に受け続けたリオンは、余りの息苦しさに思わず立ち上がって怒鳴った。

……”リオンが立ち上がった”?


「え……? ちょ、リオン……?」

「……んっ? あれっ?」


唐突な出来事に、ドロシーも当のリオンも何が起こったのか理解できていないようだった。

リオンは今さっき、竜の爪を背に受けて死んだのではなかったのか。

彼は自分の背をまさぐり、傷の具合を確かめる。確かに鎧は斬り裂かれていたが、その奥の深く抉られたはずの傷は全く感触がない。しかも、何故だか身体の芯が熱く、力が漲って来るようだった。気力、体力も共に、死ぬ前(?)よりも充実している感じがする。


そういえば、ドロシーは毎度お馴染み博識なおばあちゃんから聞いたことがあった。竜の生き血は不老長生の魔力が込められており、それを飲んだ者は不死身の肉体を得ると。どんな重症・重病だろうと、死にかけだろうと、立ちどころに全回復してしまうそうだ。


「良かった……生きてて本当に良かった! リオン!」

「ドロシー!」


ククとチェシャ子の目も憚らずに抱き合うドロシーとリオン。チェシャ子はアツいアツい、と手をパタパタさせている。


「……ん? ちょっと待って、僕ってもしかして、これから歳も取らないし、永遠に生き続けなきゃならないんじゃ……?」


ふと、割と重大な疑問が頭をよぎる。


「まぁまぁ、生きてるだけでめっけもんだニャ。さぁてと、チェシャ子たちはそろそろ帰るかニャ。」


チェシャ子はそれを軽いノリで流してしまう。何か府に落ちなかったが、ドロシーが嬉しそうにしているので良しとすることにした。

ドロシーは自分たちの村へ寄らないか、とククとチェシャ子を誘う。しかし、彼女たちには不思議の森で竜より恐ろしい主が待っている。チェシャ子は適当にぼかして誘いを断った。

残念がるドロシーに、チェシャ子は餞別にと竜の肉をぎゅうぎゅうに詰めた巨大リュックを渡す。


「いいの? チェシャ子ちゃん?」

「いいニャいいニャ。チェシャ子たちの欲しい食材はしっかり手に入ったニャ♪」


チェシャ子が親指で差す方を見ると、ククが何やら円柱状の肉塊を背中に縛り付けている。

竜の尾の根元だ。チェシャ子の話によると、竜はこの部位が一番美味しいらしい。香り高い脂と濃厚な出汁が出る、とのククの談だそうだ。

ドロシーたちにはその味の想像もつかず、へぇ、と苦笑いを返すだけだった。


チェシャ子が軽く詠唱すると、空間に波紋が広がり二人がすっぽり入れる程の穴が開く。


「さてと、チェシャ子たちはもう行くニャ。そんじゃニャ、三つ編みちゃん。フワフワ剣士さん。」


相変わらずの軽いノリで手を振り、空間の歪みの奥へと消えていく。

後に続くクク。ドロシーは振り返りもせずに行こうとする彼女を引き留める。


「ま、待ってクク!」

「?」

「その……身体、大丈夫? 縫おうか?」


片足は無く代わりにワイバーンの角を括り付け、全身の縫い跡は解れかけて四肢はガタガタ。普通の人間ならば、満身創痍どころか死んでいてもおかしくない状態だ。

ククは酷い有様の自分の体を一通り見回して、問題ない、とだけ答える。全く問題ないようには見えないのだが。


「帰れば”修理”できるから大丈夫。」

「じゃあ……ここだけでも、ね?」


ドロシーは裁縫道具を取り出し、手際よく針に糸を通すと、ククの肩口の剥がれかけたアップリケを縫い直す。

一通り糸を通し、終わりに玉止めを施すと、ドロシーはこれでよし、とククの肩口を撫でる。

綺麗に縫い直されたアップリケを見て、99号はコアが少し温かくなるのを感じる。

そして、小さな声で一言、つぶやいた。


「……ありがとう……」


それを聞いてドロシーは目頭が熱くなり、ククをぎゅうっと抱きしめる。


「ううん。こっちこそ、ありがと……あなたの料理、とっても美味しかった。また会おうね……」


唐突なことにククは困惑するが、ドロシーから感じる暖かな体温は悪い気がしなかった。

しばしの間別れを惜しんだ後、不思議なメイド姿の金髪の少女は空間の歪みの奥へと消えて行った。


「……行っちゃったね。」


少し残念そうにリオンは言う。

ドロシーは頷いて、歪みがなくなり正常に戻った空間を見つめる。


二人は、ククが作った料理の味を思い出していた。

マンドラゴラのスープは、疲れた体を癒すとても優しい味だった。クロウラーの唐揚げは芳ばしく、魔物でも実はとても美味しいのだと気付かされた。

辛く長い旅ではあったが、ククたちとの道程はとても楽しくもあった。いつかまた、彼女たちとどこかで出会うことがあるだろうか。

その時は、是非村に立ち寄ってもらいたい。それまでに必ず村を復興させて、恩人たちを最大限歓迎しなければ。リオンは、新たなパンテーラの領主としての決意を胸にする。


「さて、と。帰りましょっか。そうだ、こんなにお肉をもらったんだし、今日の晩御飯は私が腕によりをかけて、バーベキューを作るわね!」

「えっ!? じ、じゃあ、僕も手伝うよ。」

「……ちょっと、えっ、て何よ。失礼ね!」


いつものようにじゃれ合う二人。そこへ……


「また指を切るのがオチだろ。俺がやってやるよ。」


突然参加してきた第三者の声に、二人はギョッとする。

竜を全て倒し、ククとチェシャ子も去ってしまった今、このホールにはリオンとドロシーの二人しかいないはずだ。しかも、聴こえてきたのは男の声。ククとチェシャ子が戻って来たわけではない。

二人は新たな敵の襲撃と認識し、武器を構える。

リオンは自信に満ちていた。竜の血を浴びた今ならば、どんなに強い敵が来ようともドロシーを守ってやれる。


二人の前に、錆付いて半壊した鎧を着た『骸骨<スケルトン>』が現れる。

背丈は彼らの半分ほどだ。かつて、この遺跡が栄華を誇っていた頃、ここで竜と戦ったドワーフの戦士の成れの果てなのだろう。

リオンはドロシーを退がらせ、スケルトンに剣を向ける。


「ま、待て! 俺だ! こんなになっちまったけど、俺だって!」


スケルトンはアンデッドとは思えない程、人間くさい仕草と言葉でリオンに剣を引くよう訴える。

リオンはそのスケルトンの声に聞き覚えがあることに気付き、驚いた。


「ク、クロウかい!? そ、その姿は……!?」

「えぇっ!? クロウ、あなた爆発して死んじゃったんじゃ……!?」


リオンの言葉にドロシーも目を見開く。

スケアクロウはドロシーを竜の炎から守るため、自爆して木っ端微塵になってしまったはず。それがどうやって蘇ったのか。それも、どうしてドワーフの遺骸なんかに?


「ギャブレットの冠の力らしい。あれは無くしちまったが、被った時に冠の魔力の一部が俺の中に残ったみてぇでな。ネクロマンシーの術で、こうして蘇ることができたってわけよ。元の体は粉々になっちまったんで、仏さんの体を借りてはいるがな。」


にわかには信じがたいが、確かに声はスケアクロウのものだ。言っていることも辻褄が合う。


「その……何だ。悪かったな、二人とも。お前らにはだいぶ酷いことをしちまったし、言っちまった。一遍死んで、変なしがらみも全部吹っ飛んだよ。許してくれなんて、とても言えねぇが……最後に謝らせてくれ。」


スケアクロウはあばよ、と踵を返そうとするが、ドロシーはその背中に向かって、バカ、と叫ぶ。


「そんなこと……そんなこと、もうどうでもいい! 良かった……どんな姿でも、生きててくれて良かったわ、クロウ。」


ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、絞り出すような声で言うドロシー。リオンも、泣くのを堪えて何度も頷く。


「い、いや待て! 俺は本当にお前らに受け入れてもらう資格なんかねぇんだ! 俺たち一族はな、実は……」


躯の姿を借りたスケアクロウは、自分の身の上を話し始めた。

スケアクロウの一族は罪人の末裔で、どの国にも受け入れられずパンテーラの地に流れてきた。それは本当のことだ。

しかし、実は目的があってパンテーラに定住したのだ。

ギャブレットの冠――未知の魔法、ネクロマンシーを自在に操るための秘宝。それを手に入れ、絶大な魔力を以て自分たちの国を興すことが目的だった。

それがパンテーラの地のどこかに存在することを突き止め、お誂え向きに人の好い領主様までいる。彼らは領主――リオンの父・ユリウスの優しさに付け込み、そこを拠点に冠を探しあて、ゆくゆくは領地を奪うつもりでいたのだ、と。


スケアクロウは額を地面に擦り付けて謝罪する。自分は最低のペテン野郎なんだ、と。

だが、リオンは優しい眼差しでスケアクロウに手を差し伸べた。


「父さんは……全部知ってたよ。」


リオンの衝撃的な告白に、スケアクロウは言葉を失った。

リオンは言う。

生前のユリウスはスケアクロウの父君の企みを知った上で彼らを受け入れた。先人の罪を負わされ、どこからも爪弾きにされれば、人の心は歪んでしまう。では、彼らは癒されることも安息の日々を送ることも許されないというのか。

どうせギャブレットの冠は到底人の力で手に入る場所にはない。いずれ諦めもつき、村人たちと交流する中で、彼らも穏やかな心を取り戻してくれるだろう。

人の良心を信じたのだ。


スケアクロウは思い出した。

そういえば、親父は死の床で言っていたような気がする。

もう、過去のことは断ち切らねば、と。

自分はその言葉を、老人が寄る年波に勝てずに野望を諦めたとしか思わなかった。だが、違っていたんだ。

親父は、村の真の一員として俺が迎え入れらるよう、ユリウスと和解したかったんだ。


スケアクロウは骸の体になってしまったのがもどかしかった。ようやく、幼馴染たちとの溝を埋められたというのに、眼球すらないこの顔では泣くこともできない。でも、心臓のない空虚な胸は、幸せでいっぱいだった。

三人は、もう一度友達になれた。


「クロウ! 本当に良かったよぉおお~~!」


リオンは感激の余り、クロウに抱き付かんばかりに駆け寄る。

今回ばかりは。彼もその抱擁を受けるつもりでいた。が、寸前でぴたりと止まった。


「……何だよ?」

「いや、その……やっぱり、骸骨にハグするのは抵抗あるなぁって……」

「!? わ、悪かったな! これしか依代がなかったんだよ! じゃあ、てめぇの身体を寄こせってんだ!」


リオンとクロウの見慣れたやり取りに、ドロシーは懐かしくなって思わず吹き出した。


「ふふっ。帰ったら、うちの薬草畑の案山子に憑依しなさいよ。その姿じゃ、村の人たちが怖がるわ。」

「……ちっ、何だかドロシーのゴーレムになるみてぇで癪だが……まぁ、しょうがねぇか。」

「そうね。私があなたのご主人様よ。崇めなさい? クロウ♪」


ホールに若者たちの伸びやかな笑い声が響く。

竜の脅威は去り、パンテーラの地に平和が訪れた証だった。

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