6章

1.

硬い鱗に覆われた尻尾が頭上から振り下ろされる。

鋭く尖り、幾つもの返しが付いた銛のような先端が、リオンのすぐ脇を掠め地面に突き刺さる。

剥き出しの岩肌の地面は、まるで抵抗することなく抉られ、尻尾が引き抜かれると、返しによって掘り起こされ大穴が穿たれる。


「はぁっ……はぁっ……く、くそっ……」


リオンは何度目かの竜の攻撃を何とか躱すが、既に息はあがっていた。

翻って、彼はまだ竜に対して有効打を与えられていない。

竜の体表を覆う鱗は硬く、並の武器では攻撃したならば斬るどころか武器の方が折れてしまうだろう。が、リオンの剣ならば十二分に戦えるはずだ。あぎと谷の知性あるドラゴンを、倒すまでいかなくとも深々と斬り裂いた腕ならば。

であるにも関わらず、一方的に劣勢を強いられているのは、生来の自信の無さもあるが、ドロシーやスケアクロウの身を案じる故だ。


薙ぎ払うように振るわれたワイバーンの尾を、リオンはかろうじて防ぐ。

銛のような尾先と剣が鍔迫り合いの態勢になり、火花を散らす。じりじりと銛の切っ先がリオンに迫る。

ワイバーンの尾先は猛毒の毒針になっており、尾の一撃をまともに喰らわずとも、毒針が掠りさえすれば命取りになってしまう。


必死に竜の攻撃を押し返すリオンの耳元に、空間の歪みが出現する。


「何やってるのニャ! そんなやつ、さっさと倒しちゃうニャ!」

「うわぁ!? こんな時に、急に出てこないでくれよ!?」


そこから顔だけ出して、ちゃちゃを入れるチェシャ子の声。少し休んで体力を回復したらしい。


「あんた、いつまでビビってるニャ! そんなへっぴり腰じゃ竜を仕留めるなんて無理ニャ!」


図星を突かれてリオンは言葉に詰まる。チェシャ子の言う通りだ。反論したかったが、しかし実際手が思うように動かない。

上層に残ったドロシーが気がかりで戦闘どころではないのもあるが、恐怖がリオンの身体を支配しているのも事実。

村を焼き払い、父を殺した竜は憎い。できることなら父より受け継いだ剣を叩きこんでやりたい。

そうは思っていても、あの日、目に焼き付いた竜の恐ろしく圧倒的な姿は、リオンのトラウマとなっていた。

村が蹂躙されていた間、何もできなかった自分。竜に勝てないのではないか、という強い思い込みと生来の臆病さも相まって、彼の剣技を著しく鈍らせていた。

とはいえ、いつまでも苦戦しているわけにはいかない。

99号は……ククは、一人で二頭もの竜を相手にしている。一刻も早く加勢してやらなければ。

そうだ、ククはどうなっただろうか。リオンは竜の尾の圧力に耐えながら、ククが戦っているであろう方を見やる。


剥き出しの岩肌の空間は、天辺が見えない程に背の高い石柱がいくつも乱立している。ある程度上の方からは彫刻が掘られており、おそらくは上層の橋を支えるものと思われる。ここは遺跡の最下層なのだろう。

その石柱をいくつか隔てた離れた場所で、もう一頭のワイバーンとあのウォームが咆哮を上げながら暴れている。まるで纏わりつく小虫を追い払うかのように。

目を凝らすと、竜たちの周囲を何かが凄まじい速度で跳ねまわっている。それがもう一頭のワイバーンの傍を通り過ぎるたび、火花が散って奴の鱗が剥げていく。そのワイバーンは既に全身のあちこちに裂傷が走り、ボロボロだった。

遠目にはわからないが、竜に一方的にダメージを与えているのは、間違いなくククだ。彼女がもう一頭のワイバーンとウォームを足止めしてくれていなければ、自分などとっくに囲まれて貪り喰われてしまっていただろう。


「クク……やっぱり、君は何て強さなんだ……」


リオンの瞳は、もはや眼前の敵を映してはいなかった。

徐々に切り刻まれ、解体されていくワイバーンの姿。ククのその鮮やかな技に見惚れ、今まさに自分が戦っていることすら忘れてしまいそうになる。

スパン、と平手で頭をはたかれ、リオンは我に返る。思わず剣を握る手が緩む。

ワイバーンの毒針とリオンの剣がこすれ、尻尾が物凄い速度で脇を通過していく。


「い、いきなり何するんだ!? 危ないじゃないか!?」

「おめーはブァカなのかニャ!? 戦闘中に余所見するヤツがあるかっつーのニャ!」

「う……そ、そうだけど、だったらチェシャ子も手伝ってよ……君だって、僕なんかよりずっと強いんじゃないの?」

「だ~から、チェシャ子は戦闘員じゃないのニャ! んじゃ、あとよろしくニャ!」


チェシャ子は例の転移魔法で、さっさと空間の歪に隠れてしまう。


「ず、ずるいなぁ……でも、君の言う通りだよ。チェシャ子」


リオンは再びククが戦っている方を横目で見る。

長い首がゴトリと落ちるのが見えた。ククは既にもう一頭のワイバーンを仕留めたようだ。

彼女を見習わなければ。リオンは剣を構え、無数の牙をこちらに向ける鎌首と対峙する。


「待ってて、今行くから……クク……ドロシー!」


リオンの頭上と足元から牙の挟撃。それを横っ飛びで躱す。

鱗に覆われた凶悪な咢が、今まで彼が立っていた空間を空振りし、飛び散った唾液がリオンの頬を汚す。

一回転して受け身を取り、頬を拭うとすかさず撓る尻尾が背後から飛んで来た。

立ちあがるを止め、態勢を低くする。尾の蛇腹が頭を掠め、切られた毛が数本宙を舞う。

毒針に刺されずとも、この体格差では何を喰らっても大ダメージは必至だが、翼手竜<ワイバーン>はブレスを吐けないだけ、遠距離攻撃の手段を持たないリオンにとっては幸いだった。

とは言え。いくら意を決したとは言え、怖いものは怖い。気を抜くと腰が引けてしまいそうだが、幼馴染の彼女のことを思うと、僅かながらも勇気が湧いて来る。


心に灯る小さな炎を消さないように、リオンは己を奮い立たせた。


翼手に生える鋭い鍵爪が振り上げられたのを見て、リオンは竜に向かって駆ける。生じた風圧に耐え、竜の足元へと滑り込んだ。

今こそが『機』。父より受け継いだ剣技、その奥義である一撃を食らわせてやる。剣の訓練はあまり真面目には取り組んでいなかったが、今ならば撃てる。


――”獅子奮刃”!!


気合いと共に剣を振り上げ、切っ先で弧を描いて後方へと斬り払う。

リオンの高められた闘気は、剣を通して放たれ、猛獣の爪牙を思わせる鋭さを以てワイバーンに襲いかかる。

その剣圧は対峙していたワイバーンを石柱群ごと薙ぎ倒し、地面には巨大な爪痕のような亀裂を深く刻み込む。

分断されたワイバーンの巨体は大量の体液を吹き出しながら、力なく崩れ落ちた。


「や……やった……僕の手で、竜を倒したんだ……見てたかい、チェシャ子!」


生命力を燃やして放った渾身の一撃のため、リオンの疲労は小さいものではなかったが、初めて一人で得た金星に彼は打ち震えた。


「はいはい、すごいすごい。早く99号を助けに行くニャ」


チェシャ子の反応は薄かったが、父譲りの剣で竜を倒すことができたことにリオンは満足していた。

足が若干震えているが、自分は竜と戦える。そう思うと、技を放った疲れも気にならない。これからは自分の剣にも少し自信が持てるだろう。



2.

所々鱗が剥げ、裂傷だらけのワイバーンの死骸が立ったまま絶命している。

長い首は根本から切り離され、足元に横たわっている。

切り口からは噴水のように、大量の体液が噴き出し、地面に湖のような血溜まりを作る。

降り注ぐ鮮血の雨を浴び、ぴちゃぴちゃと血溜まりの中を歩く少女。長い金髪とフリフリの可愛らしいメイド服は赤く染まり、一種異様な雰囲気を醸し出している。

背負ったいくつもの刃もドロドロに血で濡れており、もはやカチャカチャとこすれる音も立てない。


手に持った刃をひゅん、と一振りし、刀身を濡らしていた血を払う。

ルビーのような赤い雫が血溜まりに跳ね、波紋が血鏡に映る彼女とウォームの像を歪ませる。


「もはや数少ない同胞を屠ってくれおって……人間という生物はどこまで傲慢であるのか……」


瞳のないウォームの顔に表情など無いが、その声は怒り満ちている。


「うぬら人間が猿同然の時代、この地上は儂らドラゴンの物であった……あとからやって来たうぬらが、我らから奪い、侵し、汚したのだ! 儂らの餌に過ぎぬ分際で――!」


ウォームが咆哮を上げると同時に、ククは走り出す。

その速度は疾風の如く、並の人間の目であればククの姿は視認できないであろう。血溜まりが跳ね飛沫だけが次々と上がり、遅れて地面を蹴る足音が鳴る。

が、どれだけ速くとも、目というものを持たず代わりに鋭い感覚器官を発達させたウォームには関係がなかった。


ブォン!!


ククは側面から迫る風圧を感じ、跳躍を止め地面に降り立った。そして、すぐさま速度に物を言わせ付近の石柱を垂直に走り始める。

突如、ウォームの尻尾――いや、先端が見えない。巨大な身体の一部が彼女を潰そうと迫って来た。

それは、攻撃とも言えないものだ。ただ、巨体に任せてもたれかかって来ているだけだが、この大きさではそれすら必殺の一撃になり得る。


ウォームの身体は押し寄せる津波のように石柱群を次々と薙ぎ倒し、遥か上層の橋が崩壊を始める。

ククは落下してくる欠片を蹴り、ウォームの頭部まで跳躍する。そして、遂に彼女の刃がウォームを捉える。


キィイン!


甲高い金属音が鳴り響き、ククは珍しく驚いたような表情を僅かに見せる。

刃はウォームに掠り傷すら負わせることはできなかった。

以前に斬った人食い芋虫の外殻よりも、ウォームのそれは遥かに硬かった。


「そのようなか細き腕で、千年生きたワシの鱗を斬れるものか……小煩い蠅めが、叩き落として進ぜよう!」


――昏がりに潜みし我が眷属よ……集い、撃ち抜け!――


ズズズズ……ボゴッ……ボゴゴッ……!


ウォームの言葉に応えるかのように、岩肌の地面が脈動し始めた。

岩の塊が地面から切り離され、粘土のように流動し球体を形作る。そして、それらはククを狙い、大砲の一斉射のように撃ち出された。


ガギギギギンッ! ギンッ! ガギンッ!


ククは四方八方から襲い来る岩石の弾を、片っ端から両断していく。

第一波は彼女が着地するより速く、全て迎撃してしまった。

半球状になった岩石がゴトゴトと墜落する中、ククは竜の血に濡れた髪をなびかせ、ふわりと華麗に着地する。


間髪入れず、第二波が放たれた。今度は頭上から雨あられと岩石弾が降って来る。

ククはもう一本の刃を抜き、二刀を以て迎え撃つ。

袈裟、左薙ぎ、右斬り上げ、唐竹、逆袈裟、右薙ぎ、逆風、左薙ぎ――凄まじい剣速の二刀は、襲い来る岩石弾を粉砕していくが……


ピシ……


微かに刃が悲鳴を上げているのに、ククは気付いた。

度重なる戦闘において、人智を超える硬度の魔物を斬り続けてきた刃に、金属疲労によって小さな亀裂が生じてしまったのだ。

さらに、第二派が終わらぬうちに第三派が無慈悲にも放たれる。

足元から放たれる岩石弾の一発目に斬りつけるが、刃が通らずに押し返されてしまう。二刀のうち一本が、遂に刃こぼれを起こしてしまった。

すぐさま別の刃を抜こうと背に手を伸ばすククだったが、間に合わなかった。上下から襲い来る岩石弾がククの小さな身体を容赦なく撃ちつける。

彼女の身体は宙に巻き上げられ、きりもみしながら落ちていく。

せっかくドロシーに縫ってもらった肩口は解れかけ、片足はあらぬ方へ捻じれている。

これでは碌に受け身も取れない。岩肌の地面に叩きつけられれば、彼女の五体はバラバラになってしまうだろう。


「ふっ……他愛ないものよな、人間とは……」


決着を確信したウォームであったが、予想に反して幽けきメイドの身体は地面に叩きつけられることはなかった。

その寸前で、何者かが彼女を抱き留めたのだ。


「クク! しっかりするんだ! ああ、何て酷い……」


赤い、鬣の青年。

何故、奴がここにいる? もう一頭の同胞が相手をしていたのではなかったのか? まさか……ウォームの疑問は、すぐに怒りへと変わる。

自らの手下が、またも倒されてしまった。餌に過ぎないはずの人間に。


「問題ない。少々破損したけど、まだ動ける。」

「し、少々ってレベルじゃないような……」


リオンの心配を他所に、平然とした顔のクク。

片足立ちでよろけてはいるものの、全く痛がる様子はない。このタフさは本当に見習いたい、とリオンは密に思った。見習った所で真似できるとは思えないが。


ククは背負っている武器の中でも、一際大きい刃を手にした。

あの時、ウサギ森でマンドラゴラを斬った時よりも、さらに無骨で大きな四角い刃。

片刃で、あの時よりも刀身の幅は遥かに広く、僅かに反り返っている。刀身の幅に比べ、刃の部分は狭い。長さはそれほどでもないが、厚みは普通の剣の倍以上はある。

斬る、というよりは、叩き割る武器と言った方が良いのかもしれない。剣よりも斧もしくは鉈に近い武器だ。大きさは規格外ではあるが。


「あなたにも協力してほしい。」

「な、何だい? 僕にできることなら、何でもするよ。」


ククはリオンに淡々とウォームを倒す算段を説明する。

ククの可憐な口元から、小さく可愛らしい吐息が漏れる。その芳香の独特さに、リオンは少々驚いた。

はて、女の子とはこんな匂いだっただろうか。幼い頃、ドロシーと鬼ごっこなどでもみくちゃになって遊んだ時は、もっと良い匂いがしたような気がする。例えるなら、甘いフルーツのような……たぶん、竜の血濡れになっているせいだろうな、かわいそうに。と思った所で我に返る。

そんなことを考えている場合ではない。


「私がこれで竜に斬りつける。でも、たぶん貫けはしない。」

「じ、じゃあどうするのさ?」

「それでも刺さりはする。そのあと、あなたの剣でたたみかける。」


まず、ククがこの大きな鉈のような剣で竜を斬りつける。

鉈が食い込んだ所に、リオンがさらにククの剣の峰に向かって斬りつける。

刺さった剣をさらに剣で押し、その勢いでウォームの身体を切断しようというわけだ。


「で、でも、さっきククの剣でさえも、あの蛇みたいな竜の身体に傷一つ付かなかったじゃないか。僕なんかの剣で斬れるとは思えないんだけど……」

「問題ない。さっきは”適切な選択ができていなかった”。”これ”なら、”硬い骨だって切れる”」

「えっ?」


リオンの不安に対し、ククは淡々と答えるが、リオンには彼女の言った意味がわからなかった。

だが、考えている暇はなさそうだ。同族を倒されたウォームはリオンたちを決して許しはしないだろう。

奴を倒さなければ、上層に残ったドロシーたちの所へ駆けつけるのは不可能だ。


「許さん……許さんぞ、人間どもぉおおおおおおおおっ!」


怒り狂うウォームは、魔法を使うことさえ忘れたかのように、その巨体で突進して来た。

リオンとククは左右に飛び、それを何とか躱す。


「チェシャ子、転移。」

「だぁ~かぁ~らぁ! チェシャ子は戦闘要員じゃニャいんだってば!」


ククに呼ばれ、チェシャ子がようやく顔を出す。

二人が空間の歪の奥へと消えると、今度はウォームの頭上の空間が歪み出した。


ウォームの頭上の空間に波紋が広がり、ククが身の丈を超える鉈を構えて飛び出す。


「馬鹿め! うぬの動きなど全てお見通しよ!」


突然、ウォームの頭部に空いた穴から大量のガスが噴き出した。

視界が白く霞がかり、辺りは瞬く間にガスで埋め尽されてしまう。


「この『山穿つ地震の大蛇』を侮るでないわ! 我が毒の吐息<ポイズンブレス>を吸い込んで、生きていられる者などおらぬ!」


勝ち誇った様子のウォームだが、ククは全く堪える様子はなかった。


「な、何だと!? どういうことだ!?」


瞳の無い鎌首から表情はわからないが、ウォームは明らかに驚愕していた。ククはその隙を見逃さず、その華奢な身体に見合わぬ無骨な刃を、無慈悲にウォームの首元に叩き込んだ。


バガァッ!――


刃を弾かれた先程とは違い、くぐもったような湿った音が鳴った。

巨大な鉈の刃が、ウォームの硬い外殻を突き破り、その下の肉へと食い込んでいた。


「グギャァアアアアア! バカなぁああああっ!?」


ウォームは巨体を捩じらせ、苦痛にもがきのたうち回る。

ククは鉈の柄をしっかりと握り、振り落とされずに堪えている。そのまま叩き斬ってしまおうと試みるが、やはりこれ以上は刃が通らない。リオンの追撃が不可欠だ。


「フワフワ剣士さん! 今がチャンスだニャ!」


チェシャ子がリオンの傍に転移し、追撃を促す。

しかし……


「ぐ……はっ……」


リオンはウォームの毒ガスに侵されてしまっていた。

全身から冷や汗が噴き出し、鼓動は不規則に早まったり弱まったりしている。

目、鼻、口、耳とあらゆる穴から血が滴り、手も足も痺れ剣すらまともに握れなくなっていた。


「ニャ~~!? 何てこったぁ~~!? ど、どーするニャ!? チェシャ子は回復魔法なんて使えないし……」


不測過ぎる自体に慌てふためくチェシャ子。

リオンは落ち着いて懐をまさぐり、ある物を探す。旅立ちの時、ドロシーからもらった薬だ。

村でも評判の万病に効く薬。彼女はお婆ちゃんの手作りだと自慢げだった。これさえ飲めば……

リオンは手探りで薬を探し当て、震える指で口へと運ぶ……が、飲み込むだけの力が残されていない。

唇の感覚もなくなり、せっかくの薬を落としてしまった。

やがて意識も薄れ、膝をついて立ち上がることさえできなくなってしまう。


「こらぁ! フワフワ! しっかりするニャ! このままじゃ99号がヤバいニャ! あの三つ編みの魔女っ子がどうなってもいいのかニャ~!?」

「う……ぐ……ク、ク……ド、ロ……シ……」


チェシャ子の必死の叫びも、リオンには碌に聞こえていなかった。

意識がだんだんと溶けていく感覚に襲われ、何も考えられなくなる。全身の感覚も既にない。今、何が起こっているのかさえ理解できない。


「こ、こうなったら仕方ないのニャ……フワフワ剣士さん、チェシャ子が助けてあげるのニャ!」


チェシャ子は落ちた薬を拾い、自分の口に含む。

そして、リオンの背中に手を回し、彼を抱き寄せ、瞳を閉じ……


…………


ふんっ! と気合いを入れてヘッドロックをかます。

無理やり上を向かせたリオンの鼻に、片手の指を突っ込み鼻フックのような形で口を開かせる。自分の口に含んでいた薬をプッ、と吹き出してリオンの口に放り込んだ後、鼻フックを外して口へと手を突っ込み、喉の奥へ薬をねじ込んだ。


「……ぐぼぉっ!? おえっ!? げほっ、げほっ……!?」


リオンは思わず目を覚まし、激しくえずいてしまう。


「げほっ、げほっ……ひ、酷いよ、チェシャ子。ああいう時って、普通優しく口移しでするものじゃ……?」


苦しそうではあるが、リオンの顔色はすっかり元通りに戻っていた。出血も乱れた鼓動も治まっている。

さすが村一番の魔法使い、ドロシーのお婆ちゃんの薬。即効性も抜群のようだ。


「うるさいニャ! そういうことは、後であの三つ編みの子に好きなだけやってもらえばいいニャ!」

「……やってくれるかな?」

「いいから、さっさと99号を助けに行かんかーい!」


チェシャ子に尻を蹴っ飛ばされ、リオンは再び剣を取りウォームに立ち向かって行く。



ズズズズズズズ……


遺跡全体が揺れている。

上下左右どこまでも続く深く広大な空間に、縦横無尽に架けられた石橋が次々と崩れ落ち、奈落の闇へと消えていく。

遥か下、奈落の底からの振動と共に、何百匹もの獣が一斉に吠えているかのような咆哮が響いて来る。


ズズズズズズズ!!


手足の無い、小高い山ほどもある蟒蛇のような巨体が暴れまわる。

家一軒を一飲みにしそうな頭部の首元には、規格外に大きな鉈が食い込んでいる。

遺跡を揺るがす巨体の主――ウォームは首元の鉈を振り払おうと、石柱や地面に身体を激しく叩きつける。

石柱は薙ぎ倒され、岩肌の地面は砕け抉れる。その度に、メイド服の少女の小さな身体を、岩の破片が打ちつける。

捻じれていた片足は遂に千切れ飛び、どこかへと行ってしまう。それでも鉈を握る手を離さない。

彼女は、彼が来るのを待っていた。

この手を離してしまっては、せっかく打ち込んだ刃を振り落とされてしまっては、次にウォームを倒すチャンスはないかもしれない。

人間をこんなに信じたのは初めてだ。いや、女王の館にいるメイドたちにさえも、こんな信頼関係はなかったかもしれない。

遠い遠い過去、こんな気持ちを感じていたことがあったような気がする。

99号の表情が動くことはなかったが、久しく忘れていた郷愁のような気持ちに、己の中の冷たい核<コア>に少しの温度を感じた。


「クク~~~っ!!」


彼の呼ぶ声がする。確か、名はリオンと言っただろうか。

人ならざる者と知りながら、自分を温かく迎えてくれた青年。

彼とその仲間を、最初は奇特な人たちだ、と思っていた。

だが、何故だろう。女王は人間との関わりを許してはいない。本来なら、共に行動するなど考えもしないことだ。

であるにも関わらず、核<コア>の片隅で囁く声がするのだ。彼らの力になりたい、助けてあげたい、と。

気付けば、チェシャ子が止めるのも聞かずに、今こうして彼らと共に戦っていた。

99号はそんな自分に驚いていた。


「待ってて、今行く!」


リオンが剣を携えて、ウォームの巨体を駆けあがって来る。

それに気づいたウォームは、彼を振り落とそうと激しく体をうねらせる。

リオンは跳躍し、大時化の波のように押し寄せるウォームの巨体を足場に、頭部を目指す。


そして、遂にその剣が届く位置にまで登りつめる。


「クク、行くよ!」


リオンの呼びかけに、ククはこくりと頷く。


「おのれ……させるものか! 昏がりに潜みし我が眷属よ――」


剣が振り下ろされる前に、ウォームは地の精霊を行使する。

先程ククが粉砕した岩石弾の欠片が集まり、ウォームの頭部を守るように壁を形成する。

リオンの剣は岩の壁に阻まれてしまう。


さらに、岩の壁は弾け、破片がカウンターとなってリオンを激しく打つ。

リオンは一旦引き、ウォームの身体を蹴ってもう一度頭部まで飛ぶ。が、同じように二撃目も突如出現した新たな岩の壁に阻まれ、破片のつぶてによる反撃を受けてしまう。


「ぐっ……くそっ!」


それでも諦めず、リオンは再度飛ぶ。

狙うはウォームの首元に刺さる鉈の峰、ただ一点。


「無駄だ! 儂の魔法により生み出される盾は、うぬには貫けぬ!」


またしても岩の欠片が集まり、壁を形成する。

岩の壁は正確にリオンの剣を防ぎ、反撃してくる。何度攻撃を試みても、結果は同じはずだった。

しかし、今度ばかりは違った。

リオンの剣が触れる直前、岩の壁がぐにゃりと変形し、空間に溶けるように掻き消えた。


「何だと!? ワシの盾が……どこへ!?」

「ここぞの場面でチェシャ子の転移魔法ニャ! 岩の盾は亜空間にさよならニャ~! 今ニャ、フワフワ剣士さん!」


空間が歪み、チェシャ子が顔を出して叫ぶ。

跳躍したリオンは剣を大上段に構え、握った手に力を込める。ククが飛び退いたのを確認すると、それを気合いと共に振り下ろした。


”獅子奮刃”!!


凄まじい剣圧が地面に巨大な爪痕のような亀裂を刻み込む。それでもウォームの硬い外殻は、やはり傷一つ付いていない。

――が、首元に食い込んでいた大鉈が、剣圧によって押し出され、その勢いで地面に突き刺さった。

キン、と甲高い音が響く。

その音を合図にしたかのように、ウォームの巨体がぴたりと止まる。


ドズン、と地を揺るがし、ウォームの巨大な頭が地面に落下した。

続いて、首無しの蟒蛇のような巨体が崩れ落ち、再びを地響きが起きる。

首の切り口から大量の体液が間欠泉のように噴き出し、岩肌の地面がみるみる赤く染まっていく。


「や……やった……」


血溜まりの中に着地するリオン。血塗れになるのも構わず膝をつき、肩で息をする。

立て続けに奥義を放ったため疲労はピークだが、傍らに舞い降りて来た彼女の顔を見て、それも和らぐ。

血溜まりに飛沫すら立てずに、ふわりと華麗に着地するクク。

片足のククはバランスを崩してよろける。リオンはそれを優しく支える。

彼女の足はどこへ行ったのだろうか。またドロシーに縫ってもらわなければ。

辺りを見回すが、それらしいものは見当たらない。


「クク。君の足、見つからないね……僕がおぶっていくからさ、背中に掴まって」

「それだとあなたが剣を使えない。」

「でも、その足じゃまとも歩けないよ。」

「あれを……」


両断されたワイバーンの死骸を指差すクク。

リオンはククとワイバーンの死骸を交互に見つめ、その意図を読み取れずにポカンとする。


…………


リオンはマントの端を細長く千切り、ククの足にしっかりと結び付けた。


「クク、本当にこれでいいのかい?」


困惑するリオンにこくり、と頷きを返すクク。

二、三度足踏みをして、千切れ飛んだ足に付け足されたモノの具合を確かめる。

それは地面にざくざくと刺さり、岩肌を容易に削ってしまった。


――無くした足の代わりに括り付けられた物は、ワイバーンの角だった。


フリフリの可愛らしいメイド服と長い金髪は竜の血に塗れてズタボロ、細く華奢な肢体のうち、千切れた片足に無骨なワイバーンの角先が無理やり継ぎ足されたその姿は、何ともおどろおどろしい。

これで本当に歩けるのか、とリオンは心配に思うが、当のククは特に不便もなさそうだ。

ふと、遥か上空から獣の咆哮が聴こえる。かなり遠くから聴こえたはずなのに、それは下っ腹に響き、背筋が凍りつく。身の毛もよだつ、とはこのことを言うのだろう。

人間の本能に刻み込まれた、自らの生命を脅かすものに対する絶対的な恐怖。

あの時も同じものを感じた。リオンの村を蹂躙した、あの翠玉色の竜の咆哮。やはり、奴はここにいる。


「ドロシー…クロウ、待ってて。すぐ行くから!」


ただ一つ、あの時と違うのは、今のリオンの心は竜の恐怖に押し潰されることはない。

大切な幼馴染、仲間のためならば、どんな困難にも立ち向かえる。多少怖いことは怖いが。


心に勇気の炎を灯した獅子の騎士は、仇の竜を目指して走り出した――



少し遅れ、彼に着いて行く99号の後ろ姿を見送るチェシャ子は、深くため息をつく。


(少し人間に肩入れし過ぎだニャ……もしかして、女王様の言う通り、本当に記憶が……だとしたら……)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る