4章
1.
「きゃっ!?」
「おっとと、大丈夫かい?」
ドロシーが砂利に足を取られ、転びそうになるのをリオンが支える。
彼らは、ごうごうと音を立てて流れる急流の脇を歩いていた。足元は岩と砂利で起伏が激しく、体力のない女の子には厳しいかもしれない。
その岩場を挟み込むように、槍のように鋭く切り立った岩山が立ち並ぶ。さながら獣の牙のよう。
竜の住まうはぐれ山へと続く、険しい谷『あぎと谷』だ。
リオン、ドロシー、スケアクロウ、ブリガンドの一行は、谷川沿いを上流目指して歩いている。
「あ、ありがと……」
差し出された腕の感触に、ドロシーは微かに頬を赤く染める。
いつも頼りなさげな彼だが、身体は鍛え上げられているようで、たくましく引き締まった筋肉に覆われた腕はやはり男のもの。立派な騎士なのだな、と彼女は思った。
「ちっ、お熱いこった……おわぁ!?」
二人のやり取りを見て舌打ちするスケアクロウだったが、急に倒れ込んで来たリオンに不意を突かれ、前のめりにつんのめってしまう。
ドロシーの手を引いて歩き出そうとした矢先、リオンもつまずいて転んだらしい。
「痛ってぇな!? 気ぃ付けろよ! お高くとまってるから足元が見えてねぇんじゃねぇのか、貴族のお坊ちゃんよ。」
「ご、ごめん……でも、そんな言い方しなくたっていいじゃないか……」
ドロシーは幾度となく見て来た、彼らの喧嘩を見て思う。
いつの頃からだろうか。私たちの間に溝が出来たのは。幼い頃、スケアクロウとはどこにでもいる子供たちと同じように、友達同士だった。昔は三人でよく日が暮れるまで野原を駆け回り、大人たちを心配させたものだ。
いつしか、お互いがお互いを異性として意識し始めた頃。スケアクロウは自分たちに笑顔を見せることはなくなった。特に、リオンに対するあたりは辛く、憎しみがこもっているようだった。
何故こうなってしまったのか。そういえば、子供の頃にお婆ちゃんに聞いたことがある。スケアクロウの家系は罪人の末裔で、大昔に彼らの故郷を追われ、自分たちの村に流れ着いたのだと。
お婆ちゃんは言っていた。スケアクロウと遊ぶな、とは言わないが、気を付けなさいと。あの頃のドロシーは、大好きなお婆ちゃんが友達のことを否定的に言うのを嫌だな、と思いながら聞いていた。
普段は温厚で、村の子供たちにも慕われているお婆ちゃんですら、スケアクロウに対してはそういう目で見ているのだ。村の大人たちのスケアクロウに対する風当たりも想像に難くない。
自分たちも、もしかしたら周りの大人の顔色を伺い、スケアクロウを避けていた節があったのかもしれない。もちろん、彼を差別するつもりは毛頭ない。
だが、既に彼との間に溝が出来てしまったのは事実。昔のように、無邪気に笑いあうことは不可能であろう。
ドロシーは寂しく思う。が、少しではあるが希望がなくもない。
彼はこうしてリオンの竜退治の旅に付いてきてくれた。スケアクロウも、自分の住む村を守りたいという気持ちがあるのかもしれない。この旅を機に、村の人々の誤解を解き、十年来こじれて来た友情を修復できれば……
唯一つ、気になるのは、彼がはぐれ山を見つめていた時の目――もしかしたら、何か自分たちには計り得ない別の目的があるのだろうか。いや、そんなことは今考えても仕方のないことか。
考えが堂々と巡り、溜息をつく。ふと気づくと、リオンとスケアクロウがこちらを見ていた。
「あっ……ご、ごめん。ちょっとボーっとしちゃって。」
考え事に気を取られ、ドロシーは少々遅れを取ってしまった。慌てて彼らの後を追いかける。
「ふん。ツキのものだとか言い出したら、置いてく所だったぜ。」
スケアクロウのデリカシーのない言葉にドロシーは食って掛かる。それをまぁまぁ、とおろおろしながら宥めようとするリオン。
この他愛ないやり取りも、昔は当たり前のようにしていた。ドロシーはむくれながらも、ありし日の頃を懐かしく思っていた。
さて、そろそろ陽が高くなってきて、腹も空いてきた。一行はこの場で休憩を取ることにした。
ドロシーはお婆ちゃんから譲り受けたタリスマンを手に、ブリガンドに命令する。ブリガンドは激しい水の流れの中に立ち、両腕を広げて水中に見える影に狙いをすました。
丸々と太った岩魚だ。悪名高いあぎと谷に足を踏み入れる者はなく、谷川に生息する獲物は皆手つかずのままのようだ。
ざぶん、と水しぶきを上げ、水面をブリガンドの腕が切り裂くが、水中の影はそれをするりと抜け、いずこかへ去ってしまう。
「やれやれ。化け物の巣が目と鼻の先にあるってのに、ノンビリ魚獲りなんかしていていいのかね。」
自分の背丈よりも高い大岩の天辺に寝転びながら、スケアクロウは呆れ声で言った。
「大丈夫。ブリガンが反応してないってことは、周りに魔物はいないから。今のうちに腹ごなししておかなきゃでしょ……っていうか、あんたも手伝いなさいよ!」
こちらに一瞥もしないで空を見つめるスケアクロウに、ドロシーは食って掛かる。
「あ、じゃあ僕も手つだ……」
リオンは手甲を外し、インナーの袖をまくってやる気満々に言い出すが、その言葉はドロシーに遮られる。
「リオンはいいわ。流れに足を取られて溺れちゃいそうだもの。鎧を着たあなたを抱えて泳ぐの無理だし。」
「そんなぁ、ひどいっ!?」
ドロシーの冷たい返しに肩を落とすリオン。
スケアクロウは面倒そうに溜息をつくと、身体を起こす勢いでそのまま飛び上がり、岩の上から降りて来る。シーフを名乗るだけあり、一行のうちでは一番の身のこなしだ。
「ったく、仕方ねぇ。あの鉄のお人形をどけな。余計に魚が逃げやがる。」
ドロシーは渋々とブリガンドを川から上がらせる。狩りや漁など、サバイバル技術に関してはスケアクロウの方がずっと詳しい。それはわかっているのだが、竜退治のためにお婆ちゃんが持たせてくれたタリスマンの力を軽く見られるのは悔しい。今後の課題はゴーレムの器用さについてか、と彼女は考える。
スケアクロウはリオンの傍に転がっている木切れを拾うと、腰に差したナイフを抜き削り始める。
「これだけ乾いてりゃ十分だな。ふん、悪くない撓りだ」
あっという間に竿が削り出されてしまう。
その様子に感心するリオン。スケアクロウは答えずにリオンの袖へと手を伸ばすと、一部をビリりと破く。
「わぁっ!? な、何するんだよ!?」
服の切れ端を器用に解き、捩り合わせて竿の先端に括り付ける。釣り糸の完成だ。
次いで、スケアクロウは辺りを見回す。崖の下に何かを見つけたようで、そちらへ小走りに向かう。
「ふん。崖から落ちて死んだ動物か。これは使える」
スケアクロウは白骨化しかけている動物の骨から針を、僅かに残った毛からルアーを作り出す。
「すごいなぁ、クロウは。」
「ええ、器用よね。性格には難ありだけど。」
なくなった袖を名残惜しそうに弄りながら言うリオン。ドロシーも肩をすくめながら答える。
スケアクロウは即席で作った竿で釣りを始める。糸を流れの中へ投げ入れ、しばし竿を握った手首をくいくいと小刻みに動かすと、餌と誤認したらしい魚が寄って来た。
幾らも待たないうちに、丸々と太った岩魚が釣り上げられた。
「ざっとこんなもんよ」
ものの数分で七匹。釣果は上場だ。
スケアクロウとドロシーは薪として使うために拾ってきた木切れの中から、細い枝を選んで岩魚に刺していく。
その様子を見ているリオンは、何やら物言いたげだ。
「え~っと、二人とも……これ、このまま焼くのかな……?」
どうやら魚を丸ごと焼くのに抵抗があるようだ。スケアクロウは露骨にイラつき、これ見よがしに舌打ちをする。
「まったく、まだ魚の目が怖いの? 子供なんだから……いいわ、私が捌いたげる。クロウ、ナイフを貸して。」
ドロシーはスケアクロウの腰に手を伸ばし、すいっとナイフを抜き取る。
不服そうにする彼を余所に、平らな石をまな板替わりに岩魚に刃先を入れる。
「ふふっ。こう見えて料理は得意なのよ。お婆ちゃんにみっちり仕込まれたんだから。」
そう得意気に言い、ナイフを引く。
サクッ……
「!? わぁあっ、ち、血が出てるよ、ドロシー!?」
「ち、ちょっと失敗しただけ! 大丈夫! お婆ちゃんからもらった、我が家秘伝の薬が……」
しかし、切れたのはドロシーの指先だった。ほんのちょっと皮を掠めただけだが、リオンは大袈裟に騒ぐ。
スケアクロウはやれやれと肩をすくめ、ドロシーからナイフを奪い取る。
「見ちゃいらんねぇな。この分じゃ貴重な薬も竜と戦う前に使いきっちまうぜ。いいか、見てな、坊ちゃん嬢ちゃん。」
ふん、とニヒルに笑うと、スケアクロウはドロシーを押しのけて岩魚を手に取る。
岩魚の腹を上に向けると、ナイフの刃先をエラの隙間にするりと入れる。そのままくるりと手首を返し、岩魚を回転させるとエラがぽろりと落ちて来た。
次に、肛門にナイフを入れ腹を開き、刃先で内臓を掻き出すと、川の水に浸けて血を洗い流す。先程、リオンから掠め取った袖の切れ端で、水分を丁寧に拭き取る。
そして、胸ビレの後ろに切り込みを入れ、次に尻ビレの付け根から頭側へナイフを引き、背骨の手前まで身を開く。
頭の後ろからナイフを入れ、刃を背骨に当てながら尾ビレまでスッと引くと、岩魚の半身が綺麗に切り取られた。
魚を裏返し、反対側も同じように捌いていく。
切り取った半身身から腹骨を削ぎ取り、最後に皮目を下にして端に切り込みを入れ、ナイフの背を立てて皮を引く。
鮮やかな手つきで、あっという間に岩魚を三枚におろしてしまった。
「はぁ……ホント、器用よね。クロウは。」
やはりスケアクロウの手際の方が遥かに良い。見事な手前を見せつけられ、彼女は見た目によらず家事能力で勝る彼に、少々の嫉妬と尊敬の念を覚える。
「ふん……ちょっとした生活の知恵ってやつさ。」
スケアクロウの言葉は、どこか寂し気だった。
日々の糧を得るために、何でも自分でやるしかなかった。村では彼を相手にまともな商売をしてくれる店はなかったからだ。
彼は、今までどれほどの孤独を感じていたのだろう。
リオンは意を決して、スケアクロウに言った。
「ねぇ、クロウ。僕、竜を退治したら、領主として村の皆に言うよ。もう、君に辛くあたるのはやめ……」
「うるせぇ! 余計なお世話だ! 世間知らずのお坊ちゃんの世話になんぞ、誰がなるか!」
スケアクロウはリオンの言葉を遮り、激高して彼の胸倉を掴む。
「ちょっと! 二人とも、やめなさ……」
ドロシーが二人の仲裁に入ろうとした、その時だった。
ガシャン!!――
静かに待機していたブリガンドが剣を抜き、急流に向かって構える。
「!!??」
三人は川底から鋭い殺気を感じ、武器を取ってブリガンドの後に続く。
川の流れは荒れ狂い、物理的にあり得ない方向へ渦を巻き始める。
渦の中心には、こちらに無機質な視線を向ける巨大な爬虫類の頭――竜の顔があった。
2.
ゴォオオォオオオオオ……
まるで何百匹もの獣の群れが咆哮しているかのように、空気を震わせながら渦巻く川の流れ。
その中心に鎮座する竜は、鱗がなく表皮は茶褐色でヌメヌメとした粘膜に覆われている。
頭は大きく、角も棘もなくつるんと丸みを帯びていて、目玉は真っ黒で飛び出している。
口は喉の付近まで裂け、人間など一呑みにしてしまいそうだ。
竜というよりは……そう、山椒魚に近い。
時折、竜の周囲を取り巻く渦から水しぶきが弾丸の如き勢いで飛び出し、リオンたちを打ち付ける。
彼らは飛沫の勢いに吹き飛ばされないよう、立っているのがやっとだった。
「クケケ……馬鹿な餌どもが、自ら竜の狩場に入って来やがった。」
喋った、とリオンたちが驚いた瞬間。
べッ、と渦の中の竜は、口から何かを吐き出した。
リオンたちの前にゴトリと落ちたそれは、溶けかけた動物の死骸。
「ちっ、あの時気付くべきだったか。さっき釣り具の材料にした死骸は、崖から落ちたんじゃねぇ。こいつが食い散らかした跡だったってわけか。」
スケアクロウが吐き捨てるように言う。
リオンはありったけの勇気を振り絞り、竜に向かって怒鳴った。
「貴様は……ぼ、僕の村を襲った、あの翡翠色の喋る竜の仲間なのか!?」
「クケ……偉大なる古代竜<エンシェント・ドラゴン>の末裔である、我らが『翡翠鱗の竜王』様のことか? そうか、おまえらは王の新しい下僕となった人間どもだな。それならば、何故ここにいる? そろそろ、俺たちのために供物の準備をせねばならん時期だろうが?」
完全にこちらを見下した様子で言う、渦の中の竜。
リオンは、その言葉に全身の血が沸騰するかのような、激しい怒りを覚える。しかし、心とは裏腹に、足が震え今にも斬りかかろうとする気持ちに歯止めをかけている。情けないかな、それが彼の命をつなぎとめてもいた。
「……もしや、とは思うが……おまえたち、王を倒そうなどと愚かな考えを持っているのではなかろうな……クケケ! 毛無し猿どもが、王の御前に辿り着けると本気で思っているのか! この俺、王よりこのあぎと谷の谷川を預かりし、『仄暗き激渦(げきうず)の主』がその浅はかな知恵しか持たぬ頭を噛み砕いてくれる!」
竜が吠えると、奴を取り巻く渦がより一層勢いを強める。
開かれたその大口からは、唸りとも呻きともとれない不気味な声が漏れ聴こえて来る。
「『古代語呪文<エンシェント・スペル>』……? いえ、違う……みんな、気を付けて!」
ドロシーが叫ぶ。
――流れたゆたう我が眷属どもよ……唸れ! 逆巻け!――
竜の一声と共に、渦はみるみる膨れ上がり、溢れ出た。
それは巨大な壁となってリオンたちに影を落とす。
「山に……津波!?」
膨大な量、暴力的な圧力の激流が、岸辺のあらゆる物を飲み込み迫り来る。
回避しなければ……いや、間に合わない。切り立った崖に挟まれたこの谷間で、一体どこに逃げようと言うのか。
人間にどうこうできる規模ではない。自然すら操る竜の力の前に、彼らはただ呆然とするのみだ。
――風を司るシルフィード、汝の加護を願う……吹き頻れ、そして我らを狙う礫を逸らせ 気流の外套<ウインドシール>!――
激流に飲み込まれる直前、ドロシーがリオンたちの前に立ち、呪文を唱えた。
ドロシーの杖の先からつむじ風が吹き、激しい気流と化してリオンたちを包む。
『古代語呪文<エンシェント・スペル>』――魔法を発動させるために唱える呪文。古の魔導士が始祖であり、この世界を形成する元素を司る精霊たちと特殊な言語で契約する。
契約が成功すると、使用者の魔力と引き換えに精霊たちはその力を振るう。例えば、『火蜥蜴<サラマンドラ>』であれば火を用いた魔法を行使することができる。初歩的なものであれば火種の無い所で火を起こすことができるし、戦闘においては火を槍のように尖らせ、敵を刺し貫くこともできる。
今、ドロシーが唱えたのは『風伯<シルフィード>』の力を借りる呪文だ。
風を司る精霊シルフィードの巻き起こす風を纏い、盾として用いる。本来であれば、自分に向けて射られた矢や投擲武器の軌道を風の力で逸らすためのものだ。当然ながら、これほどの規模の津波を防いだことなどあろうはずもない。
風の盾は、確かに激流からリオンたちの身を護ってくれている。が、それを制御しているドロシーは辛そうだ。
水しぶきが風の盾の内側に侵入し、彼らの衣服を濡らす。明らかに押されている。
「くっ……やっぱり、竜が使ったあの魔法は……」
それもそのはず。竜の操る激流は、魔法と呼べるものではない。
おそらく、あぎと谷に住む水の精霊はこの竜の支配下にある。それを主が下僕に命令するように、自在に使役しているのだろう。
言うなれば『始原の魔法<イニティウム・マジック>』。人間が体系付けた精霊の「力を借りる」魔法とは、根本的に異なる「本能」だ。人以上の霊格を持ってして使用できる技。
「きゃぁあっ!?」
遂に、ドロシーの風の盾は霧散してしまった。
激流がリオンたちを直撃する。スケアクロウが、ブリガンドが、大蛇の如くうねる流れに呑まれていく。
「……ドロシー、君だけでも……!」
リオンは押し流されながらも、ドロシーの手をしかと握った。
この手だけは死んでも離さない、と。
スケアクロウは、先ほど寝転んでいた背の高い岩の上に泳ぎ着き、何とか這い上がった。
「げほっ、げほっ……く、クソがっ……」
飲み込んでしまった水を吐き出し、膝をついたまま辺りを見回す。
辺りは一面の水。
川も岸辺も区別がなくなり、流れに逆らいあちこちが渦巻いている。まるで伝承にある世界を洗い流すという終末の大洪水のようだ。
あまりの光景に息を飲む。おそるべき竜の魔力。
ふと、リオンの姿が目に留まる。
彼は細く頼りない枯れかかりの木に片手でしがみ付いており、今にも流されてしまいそうだ。
「くくっ、いいザマじゃねぇか。お坊ちゃんよ。」
スケアクロウは黒い笑みを浮かべ、腰のナイフに手を伸ばす。
そして、リオンの首筋に狙いを定める。
ザバッ!!
しかし、そのナイフが放たれることはなかった。
水面から飛び出してきた鉄の腕に、ナイフを持つ手を掴まれたからだ。
「ちっ。ブリキ野郎が、流されてなかったのか。」
ブリガンドだ。ドロシーの持つタリスマンの魔力で、甲冑に仮初の命を吹き込まれたゴーレム。
主であるドロシーと彼女に命じられた者を自らの危険を顧みずに護る、完全な自律行動が可能なリビングアーマーである。
ブリガンドが動くということは、ドロシーも無事ということ。スケアクロウは安堵するかのような表情を一瞬見せるが、すぐに苛立ちも募らせる
リオンのもう片方の腕に、気を失ったドロシーが抱かれているのが見える。
「おら、離せよ木偶の坊。掴まれたまんまじゃ、おまえのご主人様を助けられねぇ。」
ブリガンドの手を乱暴に振り払い、ナイフをしまう。
その瞬間、背後におぞましい巨大な気配を感じる。
「クケケ……どうした? そのナイフであの鎧のガキをやるのではなかったのか?」
振り向くと、そこには、『仄暗き激渦の主』と名乗った竜の、ぬめった不気味な顔が急流を割って鎮座していた。
「あのガキを殺して、魔法使いの女をモノにしたいのだろう? クケケ、そう顔に書いてあるぞ? どうした、やらんのか?」
まるで心を読めるかのように、竜はスケアクロウの心の内を抉り出す。
そうだ、ずっとリオンを憎んで来た。苦労を知らない奴が憎い。臆病で甘ったれのクセに、村の連中にちやほやされる奴が憎い。自分と違って全てを持っている奴が憎い。ドロシーの心を掴んで離さない奴が憎い……
「……うるせぇよ、気色悪いトカゲ野郎!」
いらつきが限度に達したスケアクロウは、瞬時に四本のナイフを抜き、竜に向かって放った。
四本とも竜の顔面に命中、うち一本は右目を潰す。
続いてブリガンドが剣を抜き、竜に飛びかかった。彼の背丈ほどもある大剣が、深々と竜の脳天に突き刺さる。
「!? やった、凄いよ! クロウ、ブリガン!」
少し離れた場所でリオンがこちらに気付き、声援を贈る。
しかし――
「な、何っ!?」
竜はまるでダメージを受けていないかのように、一切の苦痛を見せずにスケアクロウを嘲る。
「クケケ……そうか、あれか。人間の言う情という奴か? クケケケ! バカバカしい!」
竜の右目に刺さったナイフが零れ落ち、ブリガンドが振り落とされる。
竜の顔に深く刻み込まれた五つの傷は、みるみるうちに塞がっていく。
「では、おまえのその情とやらをズタズタにしてみせよう!」
竜はスケアクロウを揶揄うように笑いながら、彼の立つ岩を避け奥へと泳いでいく。
そこには、枯れ木に掴まり流れに耐えるリオンの姿。片手には気を失っているドロシーを抱えており、剣を取ることはできない。
無防備な彼らに、無慈悲にも竜の大口が迫る。
「やめろぉおおーーっ!!」
スケアクロウの叫びも空しく、竜の大口がリオンとドロシーを呑み込もうとした、その時。
――シュパン!!
いつか聞いた、風を切るような音。
竜の巨体の頭上を、小柄な人影が掠めて行ったのを、スケアクロウは見た。あまりの速度に何者かは判別できなかったが、美しい金髪が翻ったような気がした。
「……えっ?」
リオンは、襲い来る竜の影がいつまでも自分の頭上に覆い被さっているだけで、いつまでも向かって来ないことに気付く。
今まさにリオンを呑み込もうとしていた竜の大口は、彼の眼前で開いたまま動かずにいた。
「クケ……?」
竜は自らの身体に起こった異変に気付いた。そして、まず疑問の声を上げ、それはすぐに苦痛を表す呻き声へと変わった。
「グ、グゲェエエエッ!?」
竜は一度だけ大きく身をよじらせると、その態勢のままピタリと動かなくなる。
すると、ずりっ、と厚い革を引き千切ったような乾いた音を立て、竜の巨体が真っ二つに割れ、水柱を挙げながら水没してしまった。
「な、何が起こったってんだ……?」
スケアクロウは何が起こったのか、理解できなかった。自分の投げナイフや、ブリガンドの大剣が急所を深々と貫いても平然としていた奴だ。
それが立った今、何の前触れもなく死んでしまった。
リオンも、もはやこれまでか、と覚悟をしていた手前、目を白黒させている。
「う……ん……?……あっ、あのコは……」
リオンの胸元でドロシーが目を覚まし、宙を弱弱しく指差す。
刃を携えた、可憐なる少女。長い金髪をなびかせながら、それはふわりと、スケアクロウの立つ岩の上へと降り立った。
森で助けてくれた、あの金髪のメイドだ。
「んニャー!! 99号、また勝手なことしてー! また女王様に怒られても知らないニャ!」
「うわぁ!?」
頭上から聞こえて来た声に、リオンが驚く。
見上げると、彼が掴まっている枯れ木の上の空中に、褐色肌の少女の半身が浮いている。
腰から下は見えず、その辺りの空間が陽炎のようにもやもやと歪んでいる。
「ニャ? チェシャ子の転移の魔法に驚いちゃったかニャ♪」
頭でぴこぴこと動いているそれは、どう見ても動物の耳にしか見えない。褐色肌の少女は呆気に取られているリオンとドロシーに得意げに笑いかける。
辺り一面に渦巻いていた激流は、竜が死んだためか既にその流れを止め徐々に引き始めていた。
3.
岸辺を呑み込んでいた水はすっかり引き、川の流れは元の様相を取り戻していた。
ドロシーの話では、竜の魔力によって無理やり流れの方向を変えられただけで、水量自体が変わったわけではなかったらしい。そのためか、地面が再び顔を出すのにそう時間はかからなかった。激流に削られ、少々地形は変わったしまったが。
リオンたちの前には、以前森で出会った不思議なメイド服姿の少女が立っている。
長いサラサラの金髪、生命感が無い程に白い肌、背に差した何本もの長大な刃物。
今回もまた、細腕に似合わぬ膂力で竜を瞬時に両断してしまった。しかも、妙なお供も連れている。
何もない空間から、よっこらせと足を引き抜く褐色肌の少女。
上着は燕尾服、ズボンはかぼちゃパンツのようなブリーチズ、ミディアムの黒髪にはぴこぴこと猫の耳のような突起が動いている。尻からは尻尾にしか見えない何かがゆらゆらと揺れている。
「き、君たちはいったい何者……? ……いや、その前にお礼を言わないとだね。」
「おい待て、そいつらが味方と決まったわけじゃ……」
「私たちを二度も助けてくれたのよ。少なくとも敵ではないでしょ。」
多少の混乱を帯びるリオンたちのやり取りを余所に、金髪の少女の視線は彼らを通り越して、その向こう側に注がれている。
岸辺に取り残された、真っ二つになった竜の残骸だ。
「あの恐ろしい竜さえも倒してしまうなんて、すごい剣技だよね。僕も見習いたいよ。」
少女の視線を追い、振り向くリオン。竜の残骸を眺めながら、小さくため息をつく。
華奢な身体なのに、リオンが必死に会得した父直伝の剣技も遥かに超える、その技。あとどれほどの鍛錬を積めば、その域まで辿り着けるのだろうか。
金髪の少女は、無言のまま両断された躯を見つめ続ける。
「99号? 嫌ニャ予感がするんニャけど……」
手にした長大な刃を納めない少女の様子に、不安そうに猫のような褐色肌の少女が尋ねる。
「もしかして……あれ、まだ死んでニャい?」
三人は褐色肌の少女の疑問に驚愕する。
身体の正中線から両断されて、生きていられる生物がこの世に存在するのか。まさかとは思うが、武器を離さないメイドの様子にただならぬものを感じ、彼らは身構える。
全員が竜の残骸に注視する。冷や汗と共に、リオンはごくりと生唾を飲み込む。
その時、竜の残骸の片割れがピクリ、と動いたような気がした。
「!?」
ドロシーは感じた。
竜の魔法が解け川が元の流れに戻って以降、荒ぶっていた谷川の水の精霊たちは穏やかになっていた。
それが、今この瞬間、再び暴れ出したのを。
「グ……ゲゲ……こ、この俺様をこんな目に遭わせやがって……貴様、何者だ……」
竜の縦に裂けた口がそれぞれ動き、言葉を発する。
やはり竜は生きていた。何という生命力。
「だが、『仄暗き激渦の主』の名は伊達じゃねぇ……この程度では死なんぞ! 俺様の再生力を舐めていたようだなぁ!!」
竜の二つの半身が起き上がると、断面から紅色の肉が盛り上がり、触手のように伸びて左右互いに絡み合う。
切り口が見えなくなる程に、肉の触手が密度を増すと、竜の黒々とした体表の色と同化し、完全に傷が塞がってしまう。
数秒もしないうちに、竜は完全に復活を遂げてしまった。
「うわぁっ、来るよ!?」
竜がその巨体でリオンたちに突進する。
砂利の地面も進路を塞ぐ岩もお構いなしだ。目の前にある物全てを抉り、粉砕しながら向かって来る。
リオンたちは横に飛んで何とか躱し、態勢を立て直す。金髪の少女は猫耳の少女を小脇に抱え、軽やかに舞い苦もない様子で躱す。
「ちっ、だったらくたばるまで攻撃し続けるしかねぇ!」
スケアクロウはズボンに付いている幾つものホルスターから、筒を一つ取り出した。
親指と人差し指をパチンと鳴らすと、指に嵌めていたリングから火花が発生し、筒の先から伸びる紐が発火する。筒の紐はちりちりと小さく燃えながら短くなっていく。
スケアクロウは、それを竜の振り向きざまに、頭部目がけて投げつける。
ドガァアアーーーン!!
命中と同時に筒は爆発し、竜の頭の半分を吹き飛ばした。
「へへっ、俺特製の炸裂筒だ。おら、坊ちゃん、ビビってる場合じゃねーぞ!」
「う、うん! てやぁっ!」
「ブリガン! やって!」
スケアクロウの攻撃に続き、リオンとブリガンドも竜を両側面から斬りつける。
リオンの剣が竜の脇腹を一閃し、ブリガンドは片腕を斬り落とす。
――シュパン!
そして、一陣の風が吹き抜ける。
メイドの神速の刃が、竜の胸から首筋にかけて斬り裂いたのだ。
「ニャー♪ やったニャ……って、やっぱりやってないニャ~!?」
喜ぶ猫耳の少女だったが、笑顔はすぐに蒼白になる。
大量の体液を吹き出しながらも、竜の傷口は物凄い速度で塞がっていく。吹き飛んだ頭も、斬り落とされた腕も、新たに生え変わってきている。
「クケケ! 効かねぇなぁあああ!!」
竜が太く長い尻尾を振り回す。
それは、宙を舞い着地しようとしていた金髪の少女を捉える。
バキィイッ!!
鈍い音がして、メイドの小さな身体は吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
「あなた、大丈夫!? しっかり!」
ドロシーは金髪の少女に駆け寄るが、その惨い姿に思わず口元を覆う。
彼女は片腕が肩から千切れ飛び、身体のあちこちが裂け、目を開けたままピクリとも動かない。見るからにもう駄目だ。
「……かわいそうに……ごめんね、私たちを助けるために。くっ、斬っても砕いてもダメなら、焼き尽くしてやるわ!」
ドロシーは溢れそうになる涙を堪えて竜を睨み付け、詠唱を始める。
――火を司るサラマンドラ、汝の加護を願う……烈々と揺らめく汝の尻尾にて、絡めて捕らえよ 炎の荊<フレイムバインド>!――
ドロシーの杖の先から炎が噴き出し、細い糸のように収束する。
無数の炎の糸は幾つも網目のように交差し、竜の巨体を覆い尽くした。
――流れたゆたう我が眷属よ、我を守れ!――
周囲の空気が凝結し、水滴となって竜のもとへと集結する。
瞬時に水の膜が形成され、ドロシーの炎はそれに遮られ消滅してしまった。
「そ、それなら!」
――光を司るワルキューレ、汝の加護を願う……霹靂を打ち鍛えし輝く槍よ、疾走し貫け 電光投射<ライトニング>!――
ドロシーの新たな詠唱。
今度は杖の先が放電を始め、稲妻が竜に向かって飛翔する。
「効かぬと言っているだろうが!」
稲妻は確かに竜に直撃し、その表皮を切り裂き焦がした。しかし、それでも尚、竜は平然としている。
受けた傷も既に塞がり始め、一刻も経たずに何事もなかったように再生しきってしまうだろう。
「そ、そんな……電撃の魔法も効かないなんて……」
「おそらくは、精霊に命じて水を一瞬にして超純水に変換したんだわ。不純物が混じっていない水は、ほとんど電気を通さないもの……」
「ちくしょう、こんな化け物をどうやって倒せってんだ」
皆の顔に絶望の色が見え始める。
立て続けに仕掛けた攻撃は悉くが無力化されてしまった。魔法の連続使用により、ドロシーの息は上がり始めている。
もはや、リオンたちになす術は残されていない。
水の障壁を纏った竜は、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、こちらを嘲笑っている。
「ニャニャニャ……ど、どうするニャ……チェシャ子は竜に食べられるなんて、ごめんだニャ……ん?」
物言わぬ金髪の少女の傍で震えていた猫耳の少女は、何かに気付き鼻をひくひくとさせる。
「すんすん……塩の匂いがするニャ?」
スケアクロウは、そんな場合かと舌打ちをする。
「……それは使える。チェシャ子。」
その言葉に反応するかのように、唐突に起き上がった金髪の少女。
「は……!? えっ……!?」
「あ、あなた、生きて……!?」
彼女が死んだと思っていたリオンたちは、目を白黒とさせる。
金髪の少女は猫耳の少女に何やら耳打ちすると、先ほど受けたダメージなど全く気にもせず起き上がり、急流を挟み込む切り立った崖へと走り出す。
猫耳の少女は「なるほどニャ~」と能天気な笑顔で、ドロシーとスケアクロウの手を取り、手伝えとグイグイ引っ張る。
「お、おい、何させようってんだ?」
「ち、ちょっと!? みんな、どこへ行くんだい!?」
猫耳の少女に連れていかれるドロシーとスケアクロウを背に、リオンが悲鳴に近い声を上げる。
「あんたらはその竜を食い止めててニャ! ちょっとしたら戻るニャ~!」
「えぇえっ!? 僕とブリガンだけで!? む、無理……うわぁ!?」
泣き言を言うリオンに、容赦なく竜の攻撃が放たれる。
自らの身体を覆う水の膜の一部を切り離し、砲弾のように撃ち出したのだ。
リオンは辛くも躱すが、着弾した地面は大きく抉られている。この威力では、いくら鎧を着ていても意味を成さない。
「み、みんな、早く帰って来て~!?」
リオンの悲鳴と地面の弾ける音が崖を反響する。
執事服の猫耳少女は、向こうで繰り広げられている戦いを眺めながら、耳をぴこぴことさせる。
「ふぅん、あの騎士さん、何だかんだでなかなかやるニャ♪」
竜は太く長い尻尾、鋭い爪、水の砲弾を駆使してリオンとブリガンドに襲いかかるが、彼らはそれを何とか凌いでいる。
リオンも泣きそうになりながらも反撃し、竜の身体に剣を叩きこんでいる。しかし、その側から再生されてしまい、決定打には至っていない。
「おい、猫ちゃんよ。呑気に観戦している場合じゃねーだろうが。策があるならさっさとやってくれ。」
「そうよ、リオンが死んじゃうわ!」
スケアクロウは呆れ顔で、ドロシーは切羽詰まった顔で言う。
猫耳の少女は、はいはいと崖側に向き直り岩壁を見上げる。そして、スケアクロウの持つ炸裂筒を勝手に一つ取り上げる。
スケアクロウはおい、と抗議するが、猫耳の少女は気にも留めずに話始めた。
まずは炸裂筒を崖のあちこちに仕掛けるそうだ。爆風で岩を飛ばしてぶつけようとでも言うのだろうか? だが、さきほどからずっと見せつけられているように、竜の再生力は異常だ。そんなことをした所で、またすぐに回復されてしまう。
炸裂筒の無駄遣いだ、とスケアクロウは反論するが、金髪の少女が傷ついた体でさっさと作業を始めてしまったので、ドロシーとスケアクロウは後に続くしかなかった。
リオンの悲鳴の悲痛さが増していく中、炸裂筒の設置が完了する。
それを確認すると、猫耳の少女はふむふむと頷き、金髪の少女に声をかける。
「これでOKかニャ? 99号。」
金髪の少女は無言で頷く。
猫耳の少女はドロシーの袖を掴むと、岩壁の前に立たせた。これからドロシーには炎の魔法を唱えて欲しいという。
「これで本当にあの竜を倒せるの?」
「まぁまぁ、チェシャ子と99号を信じるニャ」
ドロシーの詠唱が始まる。
川の付近は水の精霊の影響が強く、火の精霊は本来の力を発揮できない。が、やれなければリオンが危ない。ドロシーはありったけの魔力を集中する。
――火を司るサラマンドラよ 汝の加護を願う…… 燃ゆる吐息を束ね、矢となりて射貫け! 火弩<ファイアボルト>!――
ドロシーの杖の先から炎があふれる。しかし、それは収束せずにそのまま散ってしまった。
先程の魔法の連続使用に加え、炸裂筒設置の肉体労働が仇になった。ドロシーは疲れ果ててしまい、古代語の呪文<エンシェント・スペル>を唱える集中力は残っていなかった。
「はぁ……はぁ……ど、どうしよう? このままじゃリオンが……」
ドロシーは涙目になりながら肩で息をする。こんな状態では、魔法は愚かブリガンドの動きも鈍くなる。リオンがただ一人で竜に立ち向かうなど無理だ。
「おいおい、いくら俺でも爆発前に全ての炸裂筒に着火して回るなんて無理だぜ?」
スケアクロウが大げさな仕草でおどけてみせる。ドロシーはわかってるわよ、と彼を睨む。
猫耳の少女はしょうがないニャァ、と呑気な声で言うと、金髪の少女の正面に立ち、彼女の肩に手を置いた。
そして、空いているもう片方の手を……
ずぼっ!!
金髪の少女の口に捻じ込んだ。
当然のことながら、驚くドロシーとスケアクロウ。こんな時に何の冗談だ、と抗議するが、猫耳の少女は金髪の少女の口内に突っ込んだ手をぐいぐいと押し進めていく。
金髪の少女は至って無反応だ。猫耳の少女の片腕は既に肩の辺りまで飲み込まれている。見ているこちらが嘔吐きそうになる。
猫耳の少女はまさぐるように腕を動かすと、何やら得心したようで、金髪の少女の口内に突っ込んでいた腕を引き抜いた。
唾液やら何やらの液体でべとべとになっている手に握られているのは、手のひら大の小瓶だった。
「ニャ~~、99号の中、あったかかったニャ~♪」
スケアクロウがとうとうキレ出し、冗談はもういいから何とかしろと怒鳴った。
猫耳の少女はそれを軽くいなし、小瓶の蓋を開けると中から一つの丸い粒を取り出す。そして、それをドロシーに飲めと言わんばかりにアーンとジェスチャーする。
「……あ、あの、それって、もしかして……?」
ドロシーが苦笑いするや否や、猫耳の少女はその通り、と丸い粒を彼女の口へ放り込んだ。ドロシーは思わずそれを飲み込んでしまう。
「げほっ! ごほっ! ち、ちょっ、いったい何を飲ませ……!?」
むせ返るドロシーに、猫耳の少女は得意げに答えてみせる。
「それはクイーン印の特性魔力増強薬ニャ! 人間に使ってやるにはちょっと惜しい代物ニャ! とくと味わえよ~?」
ドロシーは感じていた。むせ返っている時には、既に疲れが吹き飛んでいたことを。
先程まで肩で息をしていたのに、咳が止んでみれば呼吸の乱れは嘘のように納まっていた。頭もやたらと冴えわたっている。
ドロシーは今までにない集中力で呪文を詠唱した。普通にいつもの火弩<ファイアボルト>を唱えたつもりが、予想外に巨大な炎が岸壁を直撃する。
ドガァアアアアーーーーーン!!
炸裂筒は一斉に引火し、大爆発を引き起こした。
「きゃぁっ!?」
「うぉおっ!?」
「フニャ~!? ちょっとやり過ぎたかニャ~!?」
皆が爆風に煽られ吹き飛ばされる中、金髪の少女は崩れ落ちる岩壁に向かって飛びだした。
「クケェ!? な、何だぁ!?」
「うわっ!? み、みんな、大丈夫なのか……?」
突然起こった爆発に、リオンも竜も度肝を抜かれたようで、一時戦いの手が止まる。
降り注ぐ石や砂利から身を守りながら、爆風が止むのを待つ。
ふと見上げると、一際大きな岩の塊が、竜の頭上目がけて降って来るのが見えた。
その傍らを、片手で刃を構える金髪の少女が舞う。
「何……? あのガキ、生きてやがったのか! だが、そんな岩程度で俺様の水の障壁を破壊できると思うなよ!」
竜は避けるまでもないと言わんばかりに、両の前肢を広げ迎え入れるように立つ。
が、その岩は水の障壁に直撃せず、竜の頭上で粉々に砕け散った。金髪の少女が瞬時にして微塵に斬り刻んだのだ。
少女は空中で尚も長大な刃を振り続け、岩は粉末といっても良いほどに細かく寸断される。辺りにその塵が漂い、視界が僅かに白く濁る。
「うっ、目が沁みる……ん? しょっぱい?」
リオンは偶然口に入ったそれに、強い塩味を感じる。
「グゲゲ……く、苦しい……!?」
竜が突然苦しみ出した。
まるで陸に打ち上げられた魚のように、大口を頻繁にパクパクと開閉させている。
呼吸ができずに苦しんでいるようだ。
「ま、まさかこの粉……塩!? 岩塩か!? 貴様、俺様の障壁に塩を……」
竜は、ふわりと華麗に着地した金髪の少女を睨みつける。
このままでは不味いと感じたのか、精霊に命じ、障壁を解こうとするが……竜の纏う水が瞬時にして凍りつく。
「ニャハハ、上手く行ったニャ? 99号♪」
いつ戻って来たのか、リオンとブリガンドの背後には猫耳の少女とドロシー、スケアクロウが立っていた。ドロシーの氷の魔法が竜を縛めたようだ。
しかし、今まで古代語魔法は全く通じなかったのに、いったいどういうことだろうか?
「なるほど、そういうことか。淡水に住む山椒魚は、塩水の中じゃ酸欠になるってか。」
スケアクロウは感心したように言う。
そう、あぎと谷には大量の岩塩が埋蔵されている地層がある。大昔はこの辺り一帯海だったのだろうか。もちろん、この辺りの岸壁も豊富な岩塩で出来ているので、それを利用させてもらったという訳だ。
リオンは仲間の姿に安堵するが、竜はまだ死んだわけではない。
「ググ……くだらねぇ! こんな氷ごとき、すぐにぶち破ってやる!」
竜が吠えると、氷に亀裂が入った。みしみしと音を立てて、それは急速に広がっていく。
「でも、その不純物だらけの氷じゃ、さぞ電気をよく通すでしょうね!」
「!!?? ま、待て……!」
焦る竜の声を無視して、ドロシーは電撃の魔法を詠唱する。
バリバリバリバリバリバリ!!
ドロシーの杖から迸る凄まじい放電の中で、竜はのたうち回り絶叫と共に焼け焦げていく。
「ぎゃぁあああああああああ…………に、人間如きに……この……『仄暗き激う』ぐふっ……」
竜は自らの名を再び誇示する前に絶命した。
断末魔の叫びが終ると、竜の身体は真っ黒に焦げ固まり、少し触れただけで崩れてしまう。
いくら再生力が強くとも、肉体の芯まで残らず炭化させられては、復活することは叶わないだろう。
その哀れな姿を見て、猫耳の少女はつぶやいた。
「あ~あ、あいつらって何でこう長ったらしくって仰々しい名前を名乗ってるんだろ~ニャ?」
4.
陽は既に落ちかけ、あぎと谷に夜が訪れようとしている。
死闘の末、『仄暗き激渦の主』と名乗る竜(正直、きちんと名前を憶えている者はいないのだが)を倒したリオンたちは、疲れた体を癒すためにここでキャンプすることにした。
目的地のはぐれ山は目と鼻の先。憎き仇敵・翡翠色のドラゴンと戦う前に、英気を養っておかなければならない。
焚火を囲むリオンたち。メイド服の金髪の少女と執事服の猫耳少女も共にいる。
ドロシーはお婆ちゃんから譲り受けた裁縫道具を使って、金髪の少女の傷を縫い合わせている。
「いや~、99号を治療できる人がいて、良かったニャ~。」
猫耳の少女は、スケアクロウが獲った魚を生焼けのままパクつきながら言った。
「治療だなんて、そんな大げさなものじゃ……お裁縫だけは、お婆ちゃんからしっかり習ったから、得意なのよね。でも、本当にこんなのでいいのかしら……?」
ドロシーに医術の心得はない。ただ本当に、衣服を繕う要領で縫い合わせているだけなのだ。それでも金髪の少女は痛がる様子もなく平然としている。
やがて全ての傷を縫い終わると、ドロシーは余った糸を噛み切り玉止めを施す。千切れ飛んだ腕もすっかり元通りに縫われており、金髪の少女は特に不自由もなさそうに手を握ったり開いたりしている。
「本当に元に戻っちゃったね……」
リオンは金髪の少女の様子を見て呆気に取られている。
スケアクロウは呆けてる場合じゃねぇ、とそんなリオンを戒める。
「この女……腕が千切れても平気な顔して、アンデッドなんだろ。あの時こいつに会った森……ガキの頃に聞いた話じゃ、魔女が住むっていうじゃねぇか。こいつら、魔女の手先なんじゃねぇのか。」
スケアクロウはナイフを抜き、金髪の少女に向ける。
「ニャヒヒ、だったらどうするニャ、シーフさん? チェシャ子たちをやっつけちゃうかニャ?」
猫耳の少女は怖がるでもなく、むしろニヤニヤと笑みを浮かべ、スケアクロウを鼻で嗤う。
「やめなさいよ、クロウ! この人たちのおかげで、私たちはまた命拾いしたんじゃないの!」
ドロシーはスケアクロウの手を掴み、ナイフを引っ込めるように諭す。
内心、ドロシーは思う。仮に彼女らが魔女の手先だとして、戦うことになったとしても、自分たちは勝てないだろうと。リオンよりも遥かに優れた剣技を持ち、不死身の身体の金髪の少女。尽きかけた魔力と体力を瞬時にして回復してしまう薬。猫耳の少女も、ひょうひょうとしていて実力は不明だが、彼女は空間転移魔法の使い手ではないのか。そんな上位魔法、ドロシーのような駆け出しが習得するには何十年の修行が必要だろうか。
いったい、彼女たちは何者なのだろう。森で出会った時と同じ疑問を抱く。だが、何者であれ、二度も助けられたのは事実だ。
ちっ、と舌打ちをしてナイフを納めるスケアクロウ。彼も実際に戦って彼女らに勝てるとは思っていない。
そんなドロシーとスケアクロウのやり取りを見て、猫耳の少女はにゃふん、と勝ち誇ったように微笑む。
(……この兄ちゃん、なかなか鋭いニャ~)
とは口には出さなかった。
「それよりも、まだ名乗ってなかったわよね。私はドロシー。魔法使いよ。で、こっちのちょっと頼りなさそうなのがリオン。一応騎士よ。で、こっちの性格悪いのがスケアクロウ。長いからクロウって呼んであげて。」
「ちょ、一応って!?」
「このクソアマ、人のことボロカス言いやがって……」
ドロシーは簡単に自己紹介と旅の目的を話す。
数カ月前、生まれ育った村を襲った竜。その竜を退治するために旅をしていること。退治できなければ、竜の支配に従い、村の人間と家畜を供物として捧げなければならないこと。逆らおうものなら、村は滅ぼされてしまうことを。
(ニャるほど、外界では今そんなことにニャってるのね……これ、昔の女王様のせいだって知ったら、この人たち怒るかニャァ?)
猫耳の少女は、主人が太古の昔に行った愚行が今も遺恨を残していることに、内心呆れかえる。が、彼らにそれを話した所で今更どうしようもないので、黙っていることにして自己紹介を返す。
「チェシャ子はチェシャ子ニャ♪ こっちのかわゆいメイドさんは、99号! チェシャ子たち、おいしい食べ物を探して旅してるんニャ♪」
かなり適当な自己紹介だが、まぁ嘘は言っていない。
人間と繋がりを深く持つと、彼女の主の怒りを買ってしまう。今でもかなり危ない状況ではあるのだ。
リオンたちは微妙な表情だ。変わった名前だ、とでも思っているのだろう。
「と、ところで、この辺りで獲れる美味しいものって言ったら、何なんだろうね。やっぱり、あぎと谷の岩魚なのかな?」
リオンがふと口にした素朴な疑問に、金髪の少女――99号がぽつりと一言だけ答える。
「竜の尾……」
「は!?」
その答えに、聞いていないと言わんばかりに、執事服の猫耳少女――チェシャ子が声を上げる。
「ち、ちょっと待つニャ、99号!? そんな、危険な食材じゃなくても……」
「竜の尾を手に入れるには、この先のはぐれ山が都合が良い。」
「へぇ、僕たちと同じ目的地じゃないか! ちょうどいいや、一緒に行こう!」
大慌てのチェシャ子とは対照的に、無表情にぽつり、ぽつりと語る99号。リオンの申し出には、構わない、とだけ答える。
頼もしい仲間が増えて大喜びのリオン。ドロシーも同じくらいの歳頃の女の子と知りあえて嬉しそうだ。
スケアクロウは彼女たちを警戒しつつも、目的のために利用してやろうとでも企んでいるのだろう。
「……あ、99号さん、ちょっと見せて?」
ドロシーは、ふと99号の肩口に違和感を感じた。
襟をめくってみると、先程縫い合わせた部分の皮膚が微妙に突っ張っている。竜の一撃を受けた際に、少々抉り取られ減ってしまったためだ。
「これじゃ動かしにくいでしょ。う~ん、人間の体にこうするのは、どうかとも思うんだけど……」
ドロシーは突っ張っている部分の縫い目を鋏で切ると、鞄から一枚の布きれを取り出す。
それを慣れた手つきで、99号の減ってしまった皮膚に継ぎ足した。
「……これは?」
99号は、肩口に現れたフワフワの感触を不思議そうに撫でている。
動物の形をした可愛らしいアップリケだ。
「熊?」
「ウ・サ・ギ・です! どうかな? それで肩の張りはなくなったと思うんだけど……」
ウサギというには少々耳の長さが足りない。まるでシロクマのようだ。デザインセンスは余りないが、僅かに肩にあった突っ張るような感覚はなくなった。
99号は問題ない、とだけぽつりと答える。
「そう、良かったわ。クク。これからよろしくね」
「クク?」
ドロシーの言葉に、99号は首を傾げる。
「うん。あなたのあだ名。99のクク。それに、とっても料理(Cook)が上手だしね。」
ドロシーはにこり、と微笑みを返す。
「よろしく、クク!」
とリオン。
ちっ、面白く無さそうに舌打ちするスケアクロウ。
「ニャー! 99号だけズルいニャ! チェシャ子も可愛いアップリケ、付けてほしいのニャ~」
「あなたに縫い付けたら、痛いんじゃない?」
ドロシーのツッコミに、あ、そうかと頬を掻くチェシャ子。
あぎと谷の夜は更けていく。
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