3章

1.

獅子の顎を思わせる鋭く刺々しい岩山が密集する『あぎと谷』。

激しい急流を下流へ下流へと辿り、流れもだいぶ緩やかになった所に広がる『うさぎ森』。


鬱蒼とした木々に陽の光を遮られ、暗く陰鬱としたその森の奥を、一人の少女が歩いている。

サラサラの長い金髪に、色白というには生命感の無さすぎる肌。幼く整った顔立ち。可愛らしいメイド服姿の彼女はあまりに可憐で、この森の重く淀んだ空気には似つかわしくない。

さらに、少女は何本もの長大な刀のような刃物を背負い、歩くたびカチャカチャと金属のこすれる音を鳴らしている。それがより異質さを際立たせていた。


少女は躊躇いなく奥へ奥へと進んでいく。歩みを進めるたび、森はより一層暗く、空気はさらに重くなっていく。

やがて、そこが本当に森であったのかも分からなくなるほど、不自然な黒一色に染め上げられる。


完全なる闇。


前後も左右もわからなくなるほどの暗闇を、尚もメイドは進む。

彼女の視線の先に、一点、ぽつりと赤い点が浮かび上がる。

自らの手足すらも見えない完全なる闇の中で、なぜかそこだけ映えている赤い点は徐々に大きくなっていき、次第のその全容を露わにしていく。


この闇に閉ざされた空間に似つかわしくない、豪華絢爛な屋敷だ。

深紅の屋敷。辺り一面の漆黒に映える赤。なぜ、光差さぬ暗闇に、この屋敷だけがその色を湛えているのか。

ふと、どこからともなく声が響く。


――帰ったね、99号。さっさと入んな――


低くしわがれた声が、ぶっきらぼうに命令する。

99号と呼ばれたメイドは、無言のまま屋敷の扉の前に立つ。すると、固く閉ざされていた扉はひとりでにギギギ、と軋みながら開く。

メイドが一歩、屋敷の中に足を踏み入れる。中は赤色だけでコーディネートされている以外は、何の変哲もないエントランスといった感じだ。

天井の高い広いホールには、豪華なシャンデリアが吊るされている。床にはふかふかの如何にも高級そうな絨毯。可愛らしくハートの刺繍が施されている。それら全てが赤。

ホールの中央には、左右に別れた階段が続いている。メイドは階段を上らずにエントランスの中央に立つ。


ズブズズブ……


メイドの視界が、水面に広がる波紋のように歪み始める。

屋敷のエントランスの景色はぐにゃぐにゃと捻じれ、天井も、床も、壁も、柱も全てが混ざり合い、原型を留めなくなっていく。これは空間そのものが歪んでいるのだ。

そして、風景は地面に浸みこむ水のように、実体を失い消えていく。

代わりに現れたのは、四方を囲む赤い煉瓦の壁。天井も床もなく、天地は闇が覆っている。縦にずらっと続く、深い深い穴だ。

メイドは、その穴の中心を貫く手摺のない長い長い螺旋階段に立っている。


メイドは尚も頭の中に響く、早く来い、来い、と急かすしゃがれ声に従い、階段を下りていく。

コツコツと足音だけが響く。階段は途切れることなく延々と続き、未だ底が見えない。


ズシー……ン……


突然、縦穴が微かに揺れる。


ズシー……ン……ズシーーン……ズシーーーン!!


一段、また一段と降りていくにつれ、揺れは強くなっていく。揺れの衝撃が下腹に響くようになった頃には、頭の中で急かす声は聴こえなくなっていた。


「急ぐのだ、急ぐのだ!」


頭上から慌てた様子の甲高い声が降って来る。

メイドが声のした方を見上げようとすると、小さなふわふわした何かが彼女の手を取り乱暴に引っ張った。

メイドは勢いよく階段の外へ投げ出され、眼下を覆う闇へと落下する。

長い長い縦穴を落ちてゆく少女。それでも尚、彼女は顔色一つ変えない。

目の前では、彼女の半分くらいの背丈のウサギ……にしては大きいが……が、がなり立てている。


「99号、何をのんびりしてるのだ? 女王様がもう待ちきれずに、癇癪を起し始めておるのだ!」


長い耳を下に向けて、逆さまになったまま唾を飛ばして怒鳴るそのウサギは、白い毛に覆われた恰幅の良い体に背広を着込んでいる。

丸眼鏡をかけた顔はふくよかではあるが、目は細く吊り上がっていて神経質そうだ。

懐から懐中時計を出して、時間を確認してはしまい、また取り出してはしまい、としきりに時間を気にしては、穴の底の方と交互に見てせわしない。

穴の底に在ろう、この揺れの原因に対して酷く怯えているらしい。


そうこうしているうちに、長い長い縦穴は終わりに近づいているようで、うっすらと闇が開け始め、底が見えて来る。

螺旋階段の終着点からは、ハート柄の絨毯がまっすぐ敷かれ、彫刻が彫られた豪華な作りの扉へと繋がっているのが見える。


背広姿の白ウサギはくるりと体勢を入れ替え、軽やかに着地する。続いて、メイドの少女も長い金髪とスカートをなびかせながら静かに降り立った。


ズシィイイーーーーーン!!!!


ひと際大きく揺れる。縦穴が崩れんばかりの激しい地響きだ。

扉の奥からは、猛獣が呻くような声が聴こえ、また全身を貫かんばかりの殺気が感じられる。何か、途轍もなく巨大なものが暴れているようだ。

この扉が開かれたなら、瞬時にして揺れの主に食い殺されかねない予感がする。


「ひぇ……女王様は相当ご機嫌斜めだぞ……あとはお前に任せた! それじゃ吾輩は急いでいるから、よろしく。」


背広姿の白ウサギはわざとらしい笑顔でそう言い残し、もと来た穴の上を目指して階段をぴょんぴょんと駆け上がって行った。その足取りからは、一刻も早くこの脅威から逃れたい、という腹積もりが明らかに透けて見えた。

メイドは去り行く白ウサギを気にも留めず、扉の前に立ち軽くノックする。一呼吸の後、両開きのその扉は鈍く重苦しい金属の軋む音と共にゆっくりと開き、メイドを迎え入れた。


「うぅうううぅ……がぁああああぁあああーーっ!!」


ズシィイイーーーーーン!!!!


メイドが扉の向こうへ足を踏み入れようとした瞬間、身体を貫く重低音の唸り声と爆風が吹き荒れた。

彼女は吹き飛ばされないように踏ん張るが、華奢な身体は徐々に押し出され、床には引き摺り後が刻まれる。その傍を何かが通り抜け、背後でドシャッ、ベチャッと湿った音を立てる。


それは――肉片。


手、足、頭、どこの部位かわからない臓物。千切れ飛んだ、人間のそれ。襤褸切れ同然となった金髪の彼女と同じメイド服が血に染まり、そこから肉片が飛び散っている。かろうじて形を留めている部品から、金髪のメイドと同い年くらいの少女だと見て取れる。

メイドは床の沁みと化した哀れな少女には目もくれず、扉の向こうの部屋へ再び歩みを進めた。


扉の向こうはまるで別世界であった。天井が空のように高く、それを支える柱は巨木、いや塔と言っても過言ではないほどの大きさで屹立している。

金髪のメイド少女の身体が華奢であるせいではない。その部屋は、何もかもが巨大。人間の建築技術で建立するなら何十、何百年かかるだろうか、神話や御伽噺にある巨人の住処を彷彿とさせるスケール感であった。


その広い、いや、広大と形容しても差し支えない部屋に置かれた物体は、知らぬ者が見れば、一見どこぞの王族の墳墓もしくは神殿か何かに見えるであろう。しかし、これは見上げても視界に納まりきらないほど巨大な「椅子」だ。

全体が金や銀で出来ており、精巧な彫刻と赤く輝く紅玉があしらわれている。これを作るには、おそらく鉱山の一つ二つは掘り尽くしてしまうだろう。それほどに豪勢な「玉座」だ。

その玉座に鎮座する主は、やはり常識外の巨体。ぶくぶくと膨れ上がった醜い肉塊にも見えるそれは、確かに人の姿をしている。対照的に、それを包んでいる赤いドレスは豪奢で煌びやかだ。

巨体の足元には、金髪の少女と同じ年の頃、メイド服を着た少女たちがずらりと整列し傅いている。


「あがぁあああ……はら……へったぁあああああーーーーー!!」


ドレスを纏った肉塊は、破城槌のような太い腕らしき器官を振り回しながら、唸り声を上げる。

そのたびに、巨体に傅くメイドたちは吹き飛ばされ、バラバラに四散する。

余りにも凄惨な光景だが、金髪の彼女はおろか、メイドたちは皆悲鳴を上げるでもなく、恐怖に怯えるでもなく、無表情のまま静かに立っている。


「99号、帰って来たニャ!? 早く女王様を何とかしてニャー!」


そんな地獄の中、場違いにも素っ頓狂な声が響き、金髪の少女に何者かが飛びかかって来た。

声の主は少女に抱き着き、胸元に頬ずりしながら縋るような視線を向ける。


褐色の肌に紫と藤色の縞々の燕尾服、ズボンはかぼちゃのような形のもっこりしたブリーチズ。ミディアムの黒髪には動物のような耳、尻からはしっぽが生えていて、全体的に猫のような印象だ。

背も歳も金髪の彼女よりも少し上に見える。


「チェシャ子じゃ、もう女王様をご機嫌を直せないニャ! 99号、あとはよろしくニャ!」


チェシャ子と名乗る褐色の猫耳少女は、ビシッと大げさに敬礼してみせると、素早く金髪の少女の背負うリュックの影に隠れる。


99号と呼ばれた金髪の少女はリュックを降ろすと、おもむろに中へ手を突っ込む。取り出したのは、森で手に入れたマンドラゴラの実だ。

そして、頬の辺りを人差し指と親指でつまむと、何やら引っ張り出した。頬からしゅるしゅると、紐のような物が伸びる。

次第に、99号と呼ばれた少女の小さな口元に、だんだんと亀裂が浮き出て来る。それは頬へと広がり、耳元を通り過ぎ、頸椎近くにまで達する。

よく見ると、少女の口には縫われていた跡があり、他にも全身に同じような縫い目が見られる。

少女の愛らしかった口が、ばくん、と90度近く開く。喉へと達する穴が丸見えになり、メイドは紐をつまんでいた指を離し、そこへ深々と腕をねじ込む。

腕が引き抜かれると、そこには手のひらよりも少し大きめの瓶が握られていた。


金髪の少女は口を閉じ、瓶の蓋を捻る。頬からは縫い目から解けた紐がだらり垂れている。手に握られた瓶からは、得体の知れない汁(体液?)がだらだらと滴り、異様な光景だ。


「んニャッ!? この匂い、鼻がからいニャ~! チェシャ子嫌いだニャ~!」


瓶の口から漂って来る、薬味と唐辛子の発酵臭。

チェシャ子はそれを嫌い、両手で鼻を覆いながら少女から数歩後ずさりする。

少女は瓶の中身をマンドラゴラの実の欠片にたっぷりとかけると、それを持ったまま高く跳躍した。長い金髪とメイド服のスカートがなびく。

玉座に鎮座する醜く巨大な肉塊が、グバッ、と割れる。底無しの崖のような真っ暗な裂け目に、白く、太い鋭利な棘が並ぶそれは、歯。巨大な口だ。メイドは一飲みにしようと迫り来るそれを躱し、マンドラゴラの実を投げ入れる。


「!!!???」


ボンッッ!!


マンドラゴラの実が裂けめの奥へ消えると、醜く巨大な肉塊は炎の塊を吐き出し、天を仰いでもがく。


「からっ!!?? からぁあああ~~~ぁあい!!?? でも、ちょっとうまっ!!!! からうまぁあぁあぁあぁあ……」


醜く巨大な肉塊はひとしきりもがいた後、力尽きたかのように動かなくなった。



【マンドラゴラの即席カクテキ】

・材料

マンドラゴラの実:適量


・たれの材料

出汁

米粉

にんにく

生姜

唐辛子

魚醤

砂糖

他、秘伝の配合でたくさんの材料を混ぜます。


[1]マンドラゴラの皮を向き、実を角切りにする。

[2]秘伝のたれで和えたら完成。冷蔵庫で1日寝かすと味が馴染んで美味しい。

※たれのレシピは秘密。99号の腹の中で特殊な発酵をしているので、人間には調理不可能でしょう。



巨人の住処のような部屋は、大雨が降ったかのように水浸しになっている。肉塊が流した大量の汗だ。

心なしか、肉塊が縮んで見える。ゆっくりとそれは起き上がり、見上げる金髪のメイドに迫る。今までブヨブヨの塊にしか見えなかったものに、顔らしき器官が形成されており、二つの窪みの奥にある黒く艶やかな玉が、金髪の少女のの姿を映す。肉塊の巨大な眼だ。


「99号……とりあえずはご馳走様。ちと足りないが、美味かったよ……」


先程、金髪の少女の頭の中に響いていた、早く来いと急かすあのしゃがれた低い声だ。


「わらわの舌を満足させるとは、さすがはこのユディト様の『アリス』だ。」


肉塊は満足そうに”目”を細める。

この赤いドレスを纏った醜き肉塊の名はユディト。不思議の森に巣食う魔女。通称『ハートのクイーン』。

森に迷い込んだ子供の心臓を喰らう、とパンテーラの地に生まれた者なら知らぬ者はいない、有名なおとぎ話に出てくる恐ろしい女王。だが、事実は違う。真の魔女の姿は、おとぎ話などよりも、もっともっと、恐ろしい――


「だがね、99号……あの人間どもを生きて帰したのは何故だい?」


クイーンの目が突如赤く燃え上がる。チェシャ子が、金髪の少女の背負うリュックの影でビクッと身を縮ませる。


「わらわのテリトリーに入り込んだドブ鼠は捕えよ……『アリス』どもにはそう命令していたはずだねぇ?」


ゆっくりとした調子ではあるが、ドスの利いた声には明らかに怒りが籠っている。

クイーンのだぶついた肉は千切れんばかりに引きつり、目の窪みは釣り上がり、鬼神の如き形相で金髪の少女を凝視する。

背後では、チェシャ子が涙目になって震えている。ガタガタとその音がこちらまで聞こえて来そうだ。


「……人間たちは、まだウサギ森に留まっていた。だから、不思議の森に入らないよう、森の外へ出した。」


金髪の少女は初めて言葉を発する。臆する様子を見せず淡々と答えるその声は、鈴が鳴るように可愛らしいが、表情と同じく感情を感じられない。

クイーンの全身がメキメキと軋みながら隆起する。血管が浮き出、肉塊を裂く亀裂のような大口を醜く歪ませる。その怒りが部屋中の空気をびりびりと震わせる。


「嘘ヲつけ……おまエ、戻りかけタのだろウ? 生きテいた頃ノ記憶ガ!! わらワの好物ヲみすみす逃した上!!わラわの育てたマンドラゴラを無断で摘ミ取りおってぇえええエえ!!」


ベチャグチャドシャヌチャッ!!


怒りに任せて巨木にも匹敵する腕を振り回すクイーン。脇で整列していたメイドたちが吹き飛び、壁や床に激突して四散する。

チェシャ子は「さっき美味しいって食べてたじゃん」と叫びながら部屋の隅へと逃げだす。


「そのせいで、主は体内に食べられた人間の怨念をため込んだ。それ以上膨れ上がったら、命にかかわる。」

「わらわガ太りスぎとぬカくぁwせdrftgyふじきこlp!!!!!!」


金髪の少女の淡々とした反論に、激高するクイーン。その咆哮は意味を持つ言葉ではなく、大気を震わせる雷鳴のよう。もはや癇癪などという規模ではない。荒れ狂う暴風雨、天災と形容していい。

クイーンの足元のメイドたちがみるみる減っていき、肉片の山が築かれていく。

凄惨な光景を目の当たりにしても、毅然と答える金髪の少女。だが、その態度がクイーンの神経を逆撫でしてしまった。


ズンッ――!!


「ニャ―ーッ!? 99号ーーっ!!」


チェシャ子が悲鳴を上げる。彼女の目の前に、まるで天井が落ちて来たかのようだった。

床にめり込んだ隕石の如き拳。それが乱暴に引っこ抜かれると、反動でバラバラになった四肢が床に跳ねる。クイーンの怒りの一撃が、金髪の少女を蠅のように叩き潰してしまったのだ。

チェシャ子は見開いていた目を思わず覆い、へなへなとその場に崩れ落ちる。


「チェシャ……ボサッとしてないでサッサと片づけな。わらわはこれから一眠りする。起こすんじゃないよ。」


クイーンは玉座の背もたれに膨れすぎた巨体を預けると、そのまま大いびきをかいて眠ってしまった。爆音を発するいびきに合わせて膨張・収縮を繰り返す肉塊のような姿は、まるで巨大な臓物にも見える。

チェシャ子は、ようやく静かになった暴君を決して起こさぬよう、息を殺しながらメイドたちの破片を拾い集めるのだった。



2.

金髪の少女は思い出していた。まだ番号で呼ばれる前の、あの頃のことを。


少女は一面の花畑に腰を下ろし、花を摘んでいた。

一緒に来ていた姉は、木陰で独り本を読んでいる。少女よりも長く美しい金髪の彼女は自慢の姉であったが、本の虫で読書中は構ってくれないのが玉に瑕だ。今も読書に夢中でこちらには関心がないようだ。

少女は摘んだ花で冠を編むが、それもだんだんと飽きてきた。

退屈だな、何か面白いことないかな、そう考えていると、一匹の可愛らしいウサギが跳ねていくのが見える。

わぁ、可愛いウサギ。少女はあのウサギはどこに行くのだろうと思い、後をつけてみたくなった。姉は勝手に遠くへ行くなと怒るのだろうが、どうせ今は本に夢中で気づきはしない。

少女は作りかけの花冠を放り出して、ウサギの後をついて行く。


ウサギは森へと入っていく。

少女は一瞬、躊躇する。森には入るなと、普段から姉にきつく言われていたからだ。

だが、好奇心もある。森にはきっとリスや小鳥など、たくさんの可愛い動物が住んでいるのだろう。そんな動物たちと仲良くしたいな。

おとぎ話にあこがれる純真な少女は、好奇心に負けて森へと足を踏み入れる。


ウサギは尚も森の中を進んでいく。

どうも、ただのウサギではないらしい。懐から何かを取り出し、ブツブツとつぶやいている。

よく見てみると、ウサギは懐中時計を手にしているではないか。しかも、四つん這いでぴょんぴょん跳ねていたのが、いつの間にか人間のような二足歩行に変わってきている。

変なウサギ! 少女はこのウサギにますます興味が湧いた。二本足で歩くウサギなど見たこともない。これはきっとステキな出来事が起こる予感がする、と。


少女はわくわくしながら森の奥へ奥へと進んでいく。

森の中は次第に暗くなっていく。辺りにはリスや小鳥どころか、少女と不思議なウサギ以外、動くものの気配は全くない。だが、少女はそんなことは気にも留めない。

強い好奇心が彼女を麻痺させているのか。それとも、別の、何か得体の知れない力が働いているのか。普通の女の子であれば、この状況が異様であることに気付き、すぐにでも引き返すであろう。

しかし、金髪の少女は恐怖心など微塵もなかった。自分の前を行く不思議なウサギに引き寄せられるように、歩みを止めることはない。


やがて、辺りは一切の光も差さぬ完全な闇となる。

自分の手足すら見えない暗闇の中、なぜかウサギの姿だけはハッキリと見える。

本当に森の中にいるのかどうか、それすらも認識できなくなった頃、ウサギの行く先の遥か向こうに、赤い点が浮かび上がる。ウサギはその赤い点を目指しているようだ。

どれくらい歩いたろうか、永遠とも数瞬とも錯覚するほどに時間という概念を失いかける。気づくと、前方に見えていた赤い点はいつの間にか視界に納まりきらない程の大豪邸になっていた。


闇に映える深紅の屋敷――


屋敷から発せられる、魂を食らい尽くさんばかりの威圧感。

ここまで来て、少女はようやく自らの過ちに気付く。好奇心はすっかり消え失せ、恐怖心が彼女の心を支配していた。心臓を鷲掴みにされるような恐怖。少女は激しく後悔した。


「ここまで辿り着いてしまったんだね。愚かで無知な女の子……」


ウサギはこちらを振り向き、人間の言葉でそう呟くと、屋敷の扉を開けて中へ入って行ってしまった。

取り残された少女は、背後から自分の名前を呼ぶ声を聴く。姉が迎えに来てくれた?

姉には叱られるだろうが、それでいい。もう二度と言いつけを破ったりしない。そう思いながら、少女は涙を浮かべていた瞳をこすり、笑顔を作って振り向いた。


「目を覚ますんじゃ、99号。」


そこに立っていたのは姉ではなく、少女よりも背の低い奇妙な男だった。

少女はこの男を知っていた。値札が付きっぱなしの異様に大きなシルクハットをかぶり、ボロボロのジャケットの上から白衣を羽織った小男。

少女の顔から笑顔が消え、”いつもの”無表情に戻る。ああ、そうだった。この記憶は、既に遠い過去のものだったのだ――


…………


…………


金髪の少女は冷たい金属の台の上で目を覚ます。

周りはタイル張りの床、壁。天井からは眩しいくらいにライトが照り付ける。

あちこちに血だまりができていて、ノコギリや大きな鋏ややっとこ、杭や金槌などが無造作に放置されている。

また、大きなバケツの中には手や足、人間のどの部分かわからない臓物などが無造作に詰め込まれている。

手術室、というのだろうか。拷問部屋の方が近い気がするが。


少女は身を起こそうとするが、上手く起きられない。手足が錠のような物で台に拘束されている。


「んニャーーッ! 99号、気が付いて良かったニャ~!」


上手く動けない少女に、抱き着いてくる者がいる。チェシャ子だ。どうやら彼女はクイーンの暴虐の犠牲にならずに済んだようだ。

少女の首筋が何かおかしい。少女はおもむろに天井を見上げる。いや、彼女の意思で見上げたのではない。なんと、そのまま少女の首が反対側へと回り込み、ころりと胴体から離れ落ちたではないか。

皮と皮の間に縫われている糸に引っかかり、頭が宙ぶらりんになる。それでも少女は”生きている”。何とも不気味な光景だ。


「これこれ。まだ仮縫いの段階なんじゃから、乱暴に扱うんじゃない」


白衣姿の初老の男が、胸に着けた水玉模様の蝶ネクタイを結び直しながら、チェシャ子を諌める。

少女の夢の中に出て来たシルクハットの男と同じ姿だ。


「ニャ~……マッドハッタ―先生、いつもご苦労なのニャ」


チェシャ子は少女の頭を元の位置に戻しながら言う。

シルクハットに白衣姿というこの奇妙な小男は、『いかれ帽子屋<マッドハッタ―>』。ハートのクイーンに仕える医者だ。手術室とも拷問部屋ともつかないこの部屋は、彼の診察室である。

クイーンが癇癪を起してバラバラにしたメイドたちの修復や、クイーンの体調管理が仕事だ。


「なぁに、『屍人形<アリス>』どもはコアが潰れん限り、縫えば元に戻るんじゃから、楽なもんじゃ。今回はまた一段と数が多かったがの。それより猫耳の、ワシゃあんたを手術してみたいのう。どうじゃ、いっぺん全身に複雑骨折とか、Ⅲ度熱傷とか負ってみんか?」

「ニャんで!? チェシャ子死んじゃうニャ! お断りニャ!」


ハッター先生のジョークはジョークに聞こえない、とチェシャ子はアカンべを返す。事実、マッドハッタ―の顔はニヤけているものの、目は笑っていなかった。

マッドハッタ―は少女の首を針と糸で縫い合わせながら、話を続ける。


「ところで99号、材料は集まったのかね?」


金髪の少女は「まだ」とだけ答える。

マッドハッタ―は深くため息をつき、深刻そうな面持ちになる。


「今一度念を押すぞ。女王の無限に膨張し続ける食欲――いや、『蝕欲』に呪われた身体は、いずれこの国を押しつぶすじゃろう。もはや普通の治療法では、呪いを解くことはできん。じゃが、世の中には神話に謳われるような、霊験あらたかな薬や食物――『ヨモツヘグイ』の伝説がそこら中に点在しとる。それらをかたっぱしから試してみるしかない。しかも、女王の肥えた舌が受け付ける程の、『神の領域の薬膳料理』でなければならん!」


金髪の少女はこくりと頷く。

そしてまた、ぽつりと言葉少なく一言だけ言う。


「では、拘束を解いて」

「……いんや~、もうしばらく、自由を奪われた美少女の艶姿を拝んでいたいのじゃが……」


スパーーーン!!


年甲斐もなく鼻の下を伸ばすマッドハッタ―を、どこから持ってきたのかチェシャ子がハリセンで一閃する。

マッドハッタ―は、ずれ落ちそうになるシルクハットの上から頭を抑え、蹲りながら声にならない悲鳴を上げた。シルクハットの隙間からは、頭髪が無くなりかけツルリとした頭頂部が覗く。


少女とチェシャ子は、以前マッドハッターから聴いたことがあった。

醜く膨れ上がった肉塊のようにも見える巨体の『ハートのクイーン』ユディトだが、元からあのような姿だった訳ではない。

この地にパンテーラという名が付く遥か以前のことだそうだが、クイーンは見目麗しい絶世の美女であった。元々美食家ではあったが、現在のように無制限に食物や本来口に入れるべきではない物まで食らうような貪欲な化け物ではなかった。

『蝕欲』という病。呪いと言ってもいい。これを患って以来、クイーンは普通の食事を受け入れなくなった。世界中から名のあるシェフを拉致……いや招聘し、最高の食材と技法を凝らして作った料理さえも、クイーンの口には合わなくなった。冷徹ではあったが、節度と品のある性格も、感情と欲望に忠実なケダモノに成れ果て、空腹に怒り狂った彼女は口に合わない料理人を次々と食い殺した。

その時、クイーンは人間の味を知る。以来、クイーンは森に迷い込む人間たちを捕らえて食らうようになる。それだけでは飽き足らず、それまでこの世界には存在しなかった者たち――魔物を召喚し、世界中に開け放った。人間に仇なし、肥え太った魔物はクイーンにとって珍味であるという。神話や英雄譚は、実はここから端を発している。

そして、何でもかんでも無差別に食らい続けた末、彼女は今のような姿になってしまった。玉座の間はかつて今よりもずっと小さく、普通の人間と同様の広さで事足りており、屋敷の最上階にあった。あのような巨体に成長するにつれ、屋敷の中には納まりきらなくなり、癇癪も天変地異のレベルにまで酷くなったため、屋敷の地下に封印されるように居続けることになったのだ。


ハートのクイーンの『蝕欲』の病には、人間の使うあらゆる薬や魔法など役に立たない。伝説級の霊薬や禁呪も試してみたが、病の進行を一時的に抑えはしたものの、治癒には至らなかった。

残る手段は、未だかつて誰も試みたことのない方法……伝説に謳われる魔物や幻獣、植物、あらゆるアイテムを組み合わせた「薬膳料理」。それによって、クイーンの体内に溜まりに溜った毒素を浄化できないか、というものだった。要はダイエット食だ。


マッドハッターは、ずれたシルクハットを直しながら言う。


「わかった、わかった。時間もない、早よ旅立つが良い。それと、女王からのお達しじゃ。今回はチェシャ子も着いて行け。99号が余計なことをせんように、とのことだそうじゃ」


チェシャ子はまさか自分にお鉢が回ってくるとは思っていなかったようで、耳と尻尾をピンと逆立てて驚く。


「んニャ!? チェシャ子は執事の仕事が……うぅ、しょうがないニャ。99号、チェシャ子を怖い魔物から守ってニャ……?」


チェシャ子は縋るような瞳で金髪の少女を見つめる。

少女は至って無表情であった。

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