八月某日 日曜日 午後六時

 雪上たち三人は、居酒屋よしに来ていた。

 赤いサイレンを点灯した車が何台も停まっており、普段おだやかなその道路の空気は異様なほどはりつめている。どうしたのかと周辺住民が野次馬に何人か出てきていた

 九曜はかろうじて空いていた、居酒屋の隣にある駐車場に車を停めた。もしかしたら、中に入れないのではと思っていると、案の定、配備された警官に止められたが、

「九曜くん」

 中から、消えそうなほど弱々しい声がして教授が顔を覗かせた。警官が「えっ」という顔で二人を見比べる。

「彼らは私を迎えに来たんだ。通してもらって良いだろうか」

「ああ……どうぞ」

 警官は、逆に申し訳ないと頭を下げるので、九曜を先頭に、恐縮しながらも雪上たちは居酒屋の建物の中に入り、教授と合流した。

「北華さんは?」

 九曜の言葉に教授は力無く首を振った。

「先ほど、救急車で運ばれて言ったが……恐らく」

「一体何があったんです?」

 雪上は、神経が昂りその言葉を抑えることができず、せって口をついた。

 教授は無言で歩き続け、店の中に入っていく。

「あの階段から落ちたんだ」

 言葉が出なかった。

「階段から……?」

 雪上の代わりにそう言葉を言ったのは里美である。

 店の中には何人もの警官が蠢く。もう北華の姿はなかったが、階段下に血痕が見え、その言葉が事実であることを物語っていた。

 その隅で、神主が話を聞かれている。大きく目が見開かれ、切羽詰まった精神状態であると見てわかる。

「あの席で、神主さんと食事をしていたんだ」

 教授は奥の席を指す。テーブルの上には、飲みかけのグラスと手のついていくつかの料理の皿がまだ残っている。

「食事を初めて、少し経った頃。北華ちゃんが店に来て。大学の帰りだと。一緒に食事をしようと誘ったんだが、ちょっと様子が……今思えばその時からおかしかった。一人になりたいと言って、女将さんからお酒をもらって、二階の席で一人で。まあ、お姉さんの事件の直後だし、塞ぎ込んでしまう気持ちもわからなくなかった。女将さんが気にして、しきりに彼女の席を見に行ってくれたので、特に問題ないと思って」

「食事は取っていたのですが? 彼女はずっとお酒を?」

 九曜の言葉に、教授は考えるように一瞬視線を逸らす。

「うん。確かに女将さんが何度かお酒を運んでいるのは見えた。食事の皿も持って行っているのを見て、なんとか食べれているのかなと、思った」

 九曜は頷き、教授に話の続きを促した。

「私は神主さんと、まあ、たわいもない話をしていたところに、北華ちゃんが来て。神主さんと少し話したいと。席に座ったらと、私が言ったのだが、申し訳なさそうな表情を見せて、神主さんとと二人で話したい、と。それで、二人は二階の席に行って。十分もないと思う。ガタリと、大きな音がして、何かを思うと、北華ちゃんが、立ち上がったところで、大股で階段に向かっていた。神主が慌てて彼女の後を追って、そうしたら、悲鳴と大きな音と。何事かと立ち上がった時に、階段の下で、ぐったりとする彼女が」

 教授はそう言って、力無く俯く。

「北華さんは二階のどの席に?」

 九曜の言葉に教授は指をさす。それは教授たちが座っていたテーブルとは反対側。回廊はぐるりと壁を取り囲むようになっており、教授が示したのは、入口側の席だった。

 手すりではっきりとは見えないが、テーブルの上に確かに、グラスや皿が並んでいた。

「北華さんはだいぶお酒を?」

「隣で見ていたわけじゃないので、実際にどのくらい飲んだのかわからないけれど。でも、神主さんは北華さんはお酒が好きで、かなりアルコールにも耐性があって、多少はどうってことないだろうと。まあ、こんな時ぐらいは、あまり注意するものと言っていたので、私もその通りだと。だけど、こんなことになるなら、無理にでも一緒に食事をするように押しとどめるべきだった」

 教授は涙声になる。

「つまり、お酒を飲んで酔った状態で、階段から転げ落ちてしまったと」

 教授は頷くことも、言葉も何も言わなかった。だけど、その表情がそうだと肯定している。

「神主さんと北華さんはどんな話を?」

「向こう側の、二階の席に居たから、正直何を話していたかは……ただ少し北華ちゃんが興奮した様子で、何か言い争っている様にも……」

「教授は、実際に彼女が足を踏み外して、落ちるところを見たのですか?」

 九曜の言葉に弾けるように顔を上げる。その顔には嫌悪感が浮かんでいる。

「君、一体……」

「いや、事実を聞いたまでです」

「まさか、神主さんを疑っているのか? 九曜くん。君、一体何を考えている」

 思わず声を荒げ、警官たちの視線が教授に向き、気がつくと、俯いた。

「ともかく、里美くんはこの場にいるべきではない。早く送ってきてあげなさい」

 確かにそうだと、九曜は里美を振り返る。彼はとても不安気な表情を見せている。

 ちょうどその時、奥から女将さんがゆっくりとこちらに向かってきた。

 挨拶もそこそこに、里美を送って行くと、三人が店を出ようとすると、女将さんが気をきかせて、いくつか食事を折詰にして持たせてくれた。しばらく店を閉めなきゃ行けないだろうから持って行って。と、言葉を付け足して。

 店主は今日、ちょうど隣町との合同会合に出ており、不在だと言った。だが、事件のことは伝えているので、時期に帰ってくるだろうと言った。

 教授に、里美を送り届けたら絶対に戻ってくるように念を押されながら、再度車に戻る。

「ごめん、里美くん。まさかこんなことに」

 雪上は車に乗り込む里美にそう声をかけた。

「いえ、まさか北華さんが――亡くなったと言われてもまだ実感がなくて。悲しいのか、そうじゃないのか、涙も一滴もなくて、薄情なやつだと思いましたよね」

 どう見ても里美は落ち込んでいた。涙を流すことが全てではない。気が張っていたり、悲しみがつらすぎると涙が出ない時だってあるだろう。

「そんな風には」

「君は悪くない」

 雪上の言葉に被せるように九曜がそう言った。

「君は何も悪くない。君は何も悪いことなんてしていない自分を責めないで」

 九曜の言葉にくしゃり顔を歪め、そのまま車の後部座席に乗り込んだ。

 雪上も助手席に乗り込み、バックミラーを横目に見るが、暗くて里美がどんな表情をしているのかまではわからない。両手でしっかりと、女将にもらった折詰を爪を立てて、握りしめているのだけはわかった。

 九曜のは何も言わずに車を発信させる。

 車内の思い空気に耐えられず、雪上は思わず窓を開けた。澄んだひんやりとした夜風が入りこんでくる。

「やっぱり」

「ん?」

 後ろの席でつぶやいた里美に聞き返す。

「おかしいと思うんです。東子さんに聞いていましたが、北華さんは本当にお酒が強くて、どんなに飲んでも自分を見失わないと。そんな北華さんが、酔って階段から転げ落ちるなんて……東子さんが生きていたら、あり得ないというでしょう」

 声は震えながらも、今まで聞いた言葉の中で一番強い意志を秘めていたと感じる。

「里美くんは、聞こうと思っていたのだけど、東子さんが亡くなった夜。彼女に会った?」

「九曜さん」

 雪上は咎めるように、運転席の九曜を見た。このタイミングで聞くべきではないだろう。

「ハハッ」

 里美は嘲る。

「もし本当にそうなら……」

「本当です。本当にそうです。東子さんに呼び出されて」

「里美くん」

 雪上は今度は後部座席の里美を振り返る。

 里美は自身のスマホを取り出すと、東子から送られて来たと思われるメッセージをみせる。

 文面には、【急だけど、今日の午後十時半ごろに鍾乳洞にこれる? 話がある】と記載されている。

「東子さんから送られて来たものです。特に誰にも聞かれなかったので、言いませんでしたが、そのメッセージの通りに鍾乳洞に向かいました。着いたのは十時二十五分です。着いてからすぐにスマホを見たので――別に聞かれてもやましいことはありません。呼ばれたのは、――北華さんとのことで」

「さっき言ってた、告白のこと?」

「はい」

「それに東子さんが関係あるの?」

 まさか、北華は東子さんに淡い気持ちを抱いていて、北華の告白を断ったのだろうか。

「関係がある……まあ、東子さんは北華さんのお姉さんなので、全くないわけじゃないと思うけど。……実は、もしかしたら東子さんから連絡があるかもとは思っていました」

「なぜ?」

 雪上は真剣に里美をみる。

「東子さんが僕に対して何か言いたそうにしているのは前々からわかっていたんです。だから」

「それで、東子さんとどんな?」

「なぜ、告白を断ったのかと聞かれました。僕はありのままに理由を答えて。それで、東子さんに遠慮はいらないからと」

「それはつまり?」

「鍾乳洞で僕がアルバイトをできるように取りはからってくれたのは、他でもない東子さんでした。でもその事について町ではあまり良くない噂を言う人もいました……そのつまり、僕を囲っているのではないかとか」

 もじもじとした物言いに、なるほど。と、九曜が頷く。

「それは事実じゃありません。東子さんはただひたすら優しかった。親切心で……」

「でも、それは君の主観であって、彼女が直接言った訳ではなのでしょう?」

 九曜のもの言いは、まるで、東子に見えない下心があったのだと言っている様だった。流石に、里美はむっとする。

「あまりにも失礼です」

 九曜の挑発にのった里美は抗議の声を上げる。九曜はフッと笑ったような気がした。

「悪気はない。ただ、それが本当なのか。君が東子さんを庇ってそう言っているのかと思って、そういった言い方をした」

 九曜は詫びの言葉を伝え、里美はふうと、息を吐くと怒りを鎮め、いえ。と答える。

 しかし、この里美の言葉から、本田が嘘を言っていないことがわかった。それと同時に、まさか里美が……? とも思ったが、彼が真剣に話をする様子からそれは無いだろうと雪上は思った。

「最後に、東子さんはもう一度北華さんとのことを考えて見てくれないかと言われて。それで別れました」

「別れたのは何時頃? その時、東子さんはまだお元気だったのだね?」

「もちろんです、僕はそんなことは絶対にしていません。恩人なんです。そんなことは絶対にあり得ません――時間で言うと、午後十時四十分ごろでしょうか」

 雪上はそれを聞いて、東子の死亡推定時刻には足りない。やはり里美ではない。そうわかって少しだけホッとしたが、そうすると一体誰が……?

「いや、わかっている。ただ、その後悲鳴がしたとか、誰かが来たとかそんなことはなかった? と言うか、実は君の前に本田さんが東子さんと決裂して、喧嘩別れのようなことをになったらしいんだ。それで、ドンっと彼女を押して倒したというような話を聞いているのだけど、服に土がついてるとか擦り傷があるとかはなかった?」

「え? そうなんですか? そんな様子は、わかりませんでした。東子さんはいつも通りだったし服が汚れてたかどうかも、暗かったですし、そもそも東子さんは黒っぽい服を着ることが多い人だから」

「確かに」

 雪上のその一言で、沈黙が流れた。

 家の前で車を停めると、「ありがとうございます」と、素直に折詰を持って里美は車を降りる。

「こんな事になってしまったけれど……今日は手伝ってくれて助かったありがとう」

 九曜は窓を開けて、そう礼を述べた。雪上も頭を下げる。

「また、手が必要になった時は呼んでください」

 なるべく明るい表情でそう言った里美をそのままに、二人はまた居酒屋に引き返す。

 

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