八月某日 日曜日 午後一時

 鍾乳洞から来た道まで戻った時にはもう十二時になる頃だった。ちょっと立ち寄るつもりがだいぶ時間が経っていたらしい。

 無事にここまで来れたことにほっとしながらも、今度は別の意味で心配になる。午後の一時が約束の時間だ。それまでに昼食(教授の言う海鮮)をとって、余裕をもって向かう必要がある。

 しかし、雪上の心配をよそに、その道まで戻ってくるとそこからスムーズで、道沿いに観光客向けの食堂を見つけ、昼食を済ませるため、立ち寄った。店内はそれほど混んでなく、料理はすぐに運ばれてくる。店を出たのは十二時四十分頃。安堵しながら車に乗り込み、小味渕の家に着いたのは、それから間もなくのことだった。

 海沿いの青い屋根の特別変哲もない家だ。ただ、その隣には古めかしい年代もの平屋木造の建物が並んでいる。

 家の前のスペースは広く、その一角に車を停車した。

 十二時五十五分。

 もともと用意して持って来た手土産をかかえ、教授はインターフォンを押した。

 「はい」

 少し消え入りそうなかすれた声がして、中から出てきたのは七十代くらいの男性だった。

「祥大の小笠原です。今日はどうぞよろしくお願い致します」

「ああ、これはこれは遠い所をわざわざ」

 この人が小味渕か。

 大きめのメガネ。笑うと目が細まり、目尻のしわが濃くなる。ベージュのパンツにブルーのチェックシャツが色鮮やかだ。

 小味渕は靴棚の上にのっかった鍵を持って、サンダルをはく。

「上がってくださいと言いたい所なんですが、ぜひ、あちらから見てもらった方がいいと思いましたので。どうぞこちらへ」

 きょとんとした、三人を引き連れて向かったのは、家の隣。平家の細長い建物だ。

「こちらは?」

 小味渕がかちゃがちゃとかぎを開けるところ、教授が訊ねる。

「こっちが、元々の家だったんです。今住んでるのは、新しく建てた家です。今、住んでいるのはこっちですが」

 小味渕はそう言って、今出て来た隣の青い屋根の家を指す。

「では、昔はこの建物に住んでいらっしゃった?」

 九曜の言葉に小味渕は大きく頷く。

「ええ。学校にあがる前のほんの幼い頃の話です。その時の記憶があるかどうかと聞かれると、朧げなものですが……こっちの新しい家が出来てからは、物置として使用されていました……どうぞ」

 鍵をあけ、癖のある扉なのか、力を込めて開けるとようやく開いた。

 教授が先に入り、九曜と雪上がそれに続く。

「わあ」

 懐かしいような香りがした。雪上は縁もゆかりもない場所なのだけど。

「綺麗にされているんですね」

 九曜がキョロキョロと見回しながらそう言ったが、綺麗にしているというよりもほとんどものがないと言った方が正しいかもしれない。

 中に入ると、柱はいくつか残っているが、おそらくいくつかの部屋があったのだろうと言う場所は壁や襖が取り払われており、ただっぴろい空間がそこにあるだけだった。

 恐らく土間だったのだろうと思われる場所には、長方形の花コウ岩が並べられ、段差を作り、小上がりのような空間が設けられいる。その奥の方に、木箱が二つと、アルミでできた本棚があり、本が並べられている。

「ここが私の資料置き場となっているのです。まあ、本当は向こうの家でえっちらおっちらやっていたのですが、あまりにも色々と増えすぎてしまって、ついにカミさんに怒られてしまったのですね」

「あらあら」

 教授はゆったりとそう言いながら、見回して、「こちらの資料を拝見されていただいても?」と聞き、「もちろんです」と、小味渕は何度も頷いた。

「先ほど、実際にひしゃく岩を見て来ました」

 教授は棚の資料に目をやっている時に、九曜がひょいと小味渕に話かけた。

「行かれましたか。ひどい風だったでしょう」

「本当に。とても風が強い場所でした」

 その通りだと雪上も相槌を打つ。

「あの辺りはいつも風が強いのですか?」

「まあ、海ですからね。まあ、しかし、あの様に常に強い風が吹き付ける場所ですから、逆に神聖視されていたのでしょう」

「案内板を見ましたが、昔は女人禁制だったとか」

 小味渕は九曜の言葉にこくりこくりと頷いた。

「ええ。そうなんです。まあ、昔はひしゃく岩だけではなく、海全体と言った方がいいかもしれませんね」

「と、言いますと?」

「つまり、海――漁業はこの辺りでは男性固有の職業だったものですから、女性は認められなかった。その延長線上で女性が海に出ることはよくないとされていたんですね」

「ですが、あのひしゃく岩は祈りを捧げた少女が岩になったと見ましたが……」

 二人の話を聞きながら雪上は思わずそう言葉を挟む。

「おっしゃる通りです。なぜ、海に少女がと、聞かれたいのですね?」

 小味渕は柔らかい口調で話を続け、雪上はこくこくと何度も頷いた。

「それには、ここにも伝わる民話があるのですが……えっと、すみません。ちょっと教授、失礼しますね……あ、あったあった。これを見て下さい」

 小味渕は棚から一冊のノートを取り出す。ノートと言っても、A四サイズのノートを横半分に切り取ったくらいのサイズで、左端が二穴パンチで開けられ黒い紐でつづられ、表紙には”NO4”と書かれ、ほうじ茶で染めた様な味わいのある色をしている。

 小味渕はそれをめくりあげる。手書きで書かれており、昔から調べたことをそうやって記録しているのだろうかと思った。

「ああ、これです」

 見つけたページを九曜と雪上に向けてみせる。教授も横から覗き込んでいた。

 

 

 ひしゃく岩

 

 

 昔々。

 まだ、木造の船が使われていた時代。

 漁に出る時は誰もが、龍神様にお参りをしてから船を出していた。

 それでも、海が荒れてひどい時が何度かあり、漁へ出ても戻らないものもあった。

 そんな時は、天気が回復するまで岬から何時間も、食べず飲まず眠らずに祈りを捧げたものだ。

 祈りの捧げるのは神聖な少女である。

 少女は前触れもなく山から現る。

 彼女達は龍の住処を抜けてきたと伝えられる。

 彼女達が願えば、天気はすぐに好転した。

 しかし、願いを終えた彼女達はひしゃく岩となり、戻る事はなかった。

 

 

 見せてくれたノートのページにはそう書かれていた。

「うーん」

 九曜はそれを食い入るように眺め、唸り声をあげた。

「では、ひしゃく岩になったモデルの女性……この文章からいくと複数いらっしゃる様ですが、その方々はこの付近の住民ではなかったのですね」

 教授もふと柔和な雰囲気をひっこめ、冷静な声音でそう聞くながら、ページの”彼女達は龍の住処を抜けてきたと伝えられる”と書かれた部分を指でなぞる。

「この話からするとそうなのでしょう。正直な所、私自身も実際に”前触れもなく現れた少女たち”を実際に見たことはありませんし、悪天候時は祈りを捧げるなんてありえません。現代社会では、逆に天気が悪い時は海には近づかない様にと。そう言われて育ってきましたからね。私が本当に幼いころですけれど、当時まだ生きていた、村の老人たちにはその少女たちの事を”龍神の御使い”と呼んでいた人もいたと朧気に記憶しています」

 それはそうだと、教授も一笑しながらも、神妙な顔で頷く。

 現代社会で、悪天候時は海に近づかない様にと言われているのは、単純に危険であるから。つまり民話の内容から言って、悪天候時にしかも晴天時でも風の強いあの岬の先端で祈りを捧げ、彼女達がどうなったかなんて……。

「”龍神の御使い”と言うけれど、彼女達も人間であったのでしょう?」

 九曜の言葉に、恐らく。と小味渕は肯定する。

「女人禁制のエリアに、わざわざ女性達が入れたのは、彼女達が人であって、人ではないものと神聖視されていたから。そう説明されれば納得がいくけれど」

 雪上は自分自身に説明するようにそうつぶやいたのだが、「多分その理由だけではないだろう」教授が真面目な顔でそう言ったので、「どうしてですか?」と、質問する。

「つまり、彼女達がいくら神聖視され龍の御使いだともてはやされたとしても人間であることには変わりない。そう考えた時に、なぜ悪天候の中、岬で祈りを捧げる様になどと、危険な事をわざわざ行ったのか? この地域に住んでいれば、海の怖さと言うのは身を持って知っているはずだ。つまり、最もな理由をつけて彼女達を岬に追いやる必要があった」

 その言葉に俯いたのは小味渕の方であった。

「この辺りはもともとそれほど裕福な土地ではなかったと聞いています。もしかしたら、食いぶちを減らすためにその様な事をしたのかもしれません。もちろん、現代では到底あり得ない話ですが」

 九曜の言った“生贄”という言葉が妙に引っかかる。それは、あの蒼龍がすむと言われたあの鍾乳洞でも同じような話を耳にしたからかもしれない。

 山の集落でも少女たちは追いやられ、この海辺の集落でも追いやられ……。ハッとするした。

「もしかして、龍の御使いとしてここにきた少女たちは、あの鍾乳洞に捧げられた少女たちと、同一人物だったのでは?」

 雪上は自身の言葉は非常にセンセーショナルなものとして、言ったので、九曜たちが相当に驚くかと思ったのだが、実際はそうでなはく、静かに深く頷くだけだった。

「実は、そうではないかと思っていたのだ。だけれど、それを口にしていいものかどうか迷っていて」

 珍しく九曜はそう言って頭を掻いた。雪上の顔がカッと熱をもつ。

「スミマセン。思いついたままにそう口に出してしまって」

 つまり、雪上の発言は冷静に捉えると、鍾乳洞の供物として捧げられた少女たちがどうやってからそこから逃げ延び、ここにたどり着いたが、急に見ず知らずの少女たちが助けを求められたとしても、裕福ではないこの村では、到底養っていけない。その彼女たちを、合法で殺害する方法が、あの岬で行われている事ではないのか。そう言っているのと同義だと。

「いえ、私も薄々そうではないかと思っていたのです」

 小味渕は持っていたノートを手持ち無沙汰にパラパラと無造作にページをめくり上げながら、視線をそらす。

「その少女たちが、鍾乳洞を抜けてきたかどうかまでは、検証を行なっていませんが……何せ、今その鍾乳洞は公的機関の管轄となっておりますし、神社だって今はそんな人道に外れたことを行う訳がありませんから。今更、そんな事を聞いても的外れですし、心証も悪くなるでしょうから」

「ですが小味渕さんとしても、そう考えられる可能性は充分にあると?」

 九曜の念押しの言葉に、小味渕は頷く。

「皆さんは、今日はその鍾乳洞の方から来られたのですね?」

「ええ。こちらのフィールドワークの計画した際、メインはその鍾乳洞だった訳でして。先に瀧神社の神主さんに打診をして、神主さんのご好意で社務所の一室に泊まらせてもらっています」

 小味渕はそうでしたかと、頷きながらも言葉を濁す。もしかしたら、あの事件のことを知っているのかもしれない。

「一昨日来まして、本当は昨日も色々と教授の希望があって回る予定だったのですが、神社のお嬢さんが亡くなるという事件がありまして……ああ、やはりご存じでしたか?」

 小味渕は気まずそうに頷く。

「それは、まあ……実に残念な事です。事故だと伺いましたが……」

 教授が首を振る。

「まだ詳しい事は……捜査は始まったばかりですので」

 その有無を言わさない言い方に、小味渕は少し目を細めて、首を横に振った。

「話がそれましたね。それで、鍾乳洞の方から山を越えてきた道を少し脇にそれて進むと、朱い唐門跡と呼ばれる場所があるのですが」

「今、行って、見てきました。その小味渕さんの所に来る前に少し時間があったので」

 雪上は、衝動に任せるまま、小味渕の言葉が言い終わる前にそう言い放った。

「そうでしたが、もし、行かれていないのであれば、帰りにでも寄ってみてはどうかと提案しようと思っていたのですが」

「行きましたが、不思議な場所ですね。何もない山林の中に、朱い唐門だけがポツンとあって。看板には観光地だと書かれていましたが、観光地という雰囲気ではなかったように思いましたけど」

 九曜が話を被せる様にそう続けた。

「観光地――今となってはそうかもしれません。ですが実は――アレは、その、龍の御使いの少女たちがあのあたりからやってくる場所だと。実は密やかにそう伝えられてきている場所でもあるのです」

「少女たちが、朱い唐門をくぐり抜けて?」

 九曜の言葉は何かの歌詞のようだとも感じる。

「そう聞いたことがあります」

 唐門を抜けて少女たちがやってくる。一体何処から? 鍾乳洞の洞窟を、山を越えて。唐門跡と呼ばれているのは、いつからか。少女たちが来なくなってしまったからかしら。なんて思ったりした。

「唐門跡の前の道ずっと、砂利道になって走り続けたのですが」

「ああ、砂利になって大変だったでしょう。あそこは道もせまいし……ですが、昔は、海沿いの国道がまだそれほどつながっていなかったので、あの道がよく使われていたのです」

「あの砂利道の先に、洞穴のような場所を見ました。もしかして、そこから少女たちが抜けてきたという事は考えられませんか?」

 小味渕はどんな場所だったかと驚いたように聞くので、雪上は撮った写真を見せた。

「遠目からなので。あまりはっきりとはしませんが」

 しかし、画像には木々の向こう川にぽっかりとある洞穴が写っている。

「ここは唐門跡から、随分進んだ場所ですか?」

「そうだと思います……距離感があまりわからないのでなんとも言えませんが、この道をまっすぐに行くと、アスファルトの二車線の道にでると思うのですが、その手前くらいです。

 そこまで向こうかと小味渕はつぶやく。

「いや、私もその説は考えられるのではないかと考えていました。しかし、そうなるとその少女たちは一体どうやって山を越えて来たのか? と言う疑問が生まれます。山。と一口に言っても、あの辺はかなり断崖なども多く、どこでも人が住める様な土地ではないし。それで唐門跡辺りに関しては色々と調べてみたのだけれど……もっと向こうだったのか」

「でも、実際に検証した訳ではありませんので確証はありません。それに、本格的な洞穴調査のは僕たちだけでは出来ませんし」

 九曜はそう言った。

「でも、多分その考えが一番真実に近い気がします」

 雪上の頭の中で、出来たストーリーは、瀧神社のお祀りで供えられた少女達が自分たちの意志とは関係なく、鍾乳洞に押し込められ、出ることが許されなかった。出てしまえば、蒼龍への怒りを買うかもしれない。しかし、蒼龍はいくら経っても現れない。

 恐らく鍾乳洞の中に、抜け穴を見つけ、進んだ。何度も言うが、彼女たちは集落に戻る分けにはいかなかったから。

 なんとか辿り着いた、この集落で新しい人生を、助けを求めたが、ここでも彼女たちは厄介払いされた。神に捧げると言葉をつければ、何をしても許されると言わんばかりに。

「まあ、今ほど生活も食糧も潤沢ではない。良い人を装って彼女達を迎え入れれば……? 自分の家族を苦しめる結果にもつながってしまうのだ」

 教授は雪上の心情を汲むようにそう述べた。

「でもまさか、ここで、鍾乳洞の民話の続編ともいうべき話を聞けるとは思わなかった」

「そうですね」

 九曜の言葉に雪上は同意する。

 そう考えると、昨日九曜が話した、東子がもしかしてその抜け道を知っていたかもしれない。その可能性が現実味を帯びてきた。

 その後、教授は小味渕に用意してきた質問の、聞き取り調査を始め、雪上も最初はそれを聞いていたが、あまり自分の研究とは関係ない話題になってくると、その輪を離れて、建物の中をゆっくりと一周していた。建築は詳しくないし、何がということも特別言えないが、ただ、少し回るだけで、ぼうっと意識をここではない何処かへ、飛ばしていられるので楽だった。

「さっきの話、覚えているか?」

 気が付かなかったが、いつの間にか九曜が目の前におり、視線を教授と小味渕に向けながらもそう聞いてくる。

「さっきの話とは?」

「鍾乳洞から逃れてきた少女たちの」

「ああ」

 一気に現実に引き戻される。

「もちろん。忘れないうちにメモをとったほうがいいですね」

 ちょうどある小上がりの板間に腰掛け、雪上はのっそりとノートを取り出す。

「それもあるが、鍾乳洞が本当にこちらにつながっているのだとしたら、東子さんが鍾乳洞の中に入った事も説明が着くと思わないか?」

「そう思います」

 思わず顔を上げる。

「東子さんが、鍾乳洞の何処からかこちらへ抜けれる道を知っていたとする。まあ、もしくはその跡とでも言うべきか。それで、あの日。何者かの襲撃を受けて、そこへ逃げ込もうと思いついた。誰も知らない場所へ逃げ込めば命が助かると考えるのではないかということだ」

「でも、そうは言っても東子さんは……」

 安全な場所どころか、犯人に追いつめられ命を落としてしまった。

「結果としてはそうならなかった。それでも、東子さんが自分で鍾乳洞の中に入ったのはなぜかということは少しわかって来た」

「ですね」

「それと同時に。もしかしたら、犯人も鍾乳洞についてそれなりに知識がある人物だったのかもしれないとも思う」

「え?」

 雪上は言葉が続けられない。つまり九曜は東子を殺害したのは、鍾乳洞の秘密を知っている、もしくはそれに近しい人間ではないかと。そう示唆している。

「まあ、あくまでもこれは推測でしかない。それはそうと、教授たちの話が終わったらしい」

 九曜はそう切り上げて、何食わぬ顔で教授の方に向かっている。

 雪上はその話を聞いて、真っ先に思い浮かんだ人物が北華だった。もし、彼女が知っていたとしたなら、東子が知っていてもおかしくないと。向こうに帰って、そういえば今夜も九曜が会う約束をしていた。彼女に会ったら聞いてみようと心に決めて、ノートを広げ、簡単にメモをとり、立ち上がる。

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