八月某日 土曜日 午後十一時半
眠りが浅かったのか夢も見ずに、雪上は夜中にぱちりと目が開いた。
他の二人は寝静まっており、部屋の中はしんと暗い。
もうひと眠りつこうと思ったが、目を閉じてもどこか頭が冴えており、このままでは眠れないだろうと感覚的にわかる。布団をはらいのけ、音を立てない様にスマホを持って部屋を出た。襖を出た所でスマホを見ると、夜の十一時半。それほど眠っていない。変な時間に目が醒めてしまったものだと溜息をつく。
トイレを出るともう完全に目が冴え冴えとして、布団に戻ってもどうしようもないと思ったので、外に出ることにした。
社務所の外は異様なほど、静まり返っている。
こんな静かな夜は知らない。いつも雪上が住んでいる場所では常に人の足音、車の行き交う音、遠くから電車の音。四六時中、音にあふれた世界にいるのだということを身を持って知る。
ひんやりとした空気を思いっきり吸い込む。
雲はなく、目が慣れると割合明るい感じだ。多分、都会から見れば暗闇なのだろうけれど。
近くの岩場に腰かけ、ぼうっと夜空を眺める。零れ落ちそうな星がちりばめられ、感歎のため息が自然と漏れる。
天の川は本当にあるのだと知った。
七夕伝説――織姫と彦星だったか。あの伝説はどこの地域にもともと伝わっているものなのだろうか。
九曜と調査を続けていれば、いつかそれにぶち当たるのだろうか。そんな事を考えながら見上げていると、玄関の扉ががらがらと開く。九曜だ。
「眠れないのか?」
雪上に気が付いて、驚いた表情を見せる。
「ずいぶんと、早く寝ましたからね」
「まあ、確かに。教授が疲れていたからな」
「そうですね」
教授は自分から特に言わなかったが、二人の目からみて普段から顔色が悪かったし、ずいぶんと疲れている様子だった。無理もない。何か特別な事をした訳ではないけれど、常に張り詰めた空気を感じていた。のんびり、まったりとした性格の教授からすれば、かなり疲れたのだろうと思う。
「九曜さんは大丈夫ですか?」
その教授のフォローをしていたのは九曜で、それ以外にも様々気をまわしていたのを雪上は知っている。
「まあ……疲れていない訳じゃない。多少は眠ったが、君と一緒で目がさめてしまったらしい」
「スミマセン。なるべく音を立てない様に部屋を出たのですが」
「いや、ちょっと前から目はさめていたんだ」
本当に眠ったのだろうかと、雪上は心配になるも、それを聞いたところで彼は適当にはぐらかすのだろう。九曜は缶コーヒーを持ってきていて、それをひとつ雪上に渡し、自身も適当な岩場に腰掛けた。
「ありがとうございます」
受け取った缶は冷蔵庫に入っていたのか冷え切っていた。わざわざ雪上の分も用意してくれていたということは、探してくれていたのかもしれない。
「そういえば、さっき。どうして鍾乳洞に抜け道があるかどうかを教授に聞いたのですか?」
雪上は聞きたかった質問を今思い出して、そう聞いた。
「ああ。東子さんが、なぜ鍾乳洞の中に入ったのかを考えていて。もし、何かから逃げる目的で鍾乳洞に入ったとして。そもそも鍾乳洞は行き止まりだ。雪上くんも中に入って知っていると思うけれど。そう考えると、なぜ逃げ道のない鍾乳洞に入ったのか疑問だ。でも、もしかしたら、東子さんしか知り得ない、抜け道でもあったのかと思ってね」
「なるほど」
「まあ、推測でしかないけれど」
九曜は岩場から立ち上がる。コーヒーを持って、てくてくと本殿の方に歩いていく。
「君も飲む?」
誰かにそう話しかけているのだが、暗闇なので何も見えない。まさか、見えない誰かに……と思い、背筋を震わせながらも首を振った。
暗闇の中でがさりと動きがある。明らかに人の気配であった。
九曜がこちらへ来るのと、その後ろに人影が見える。
「北華さん?」
疲れた表情に無理やり笑顔を作って、雪上の方を見た。
「こんな時間に、一体どうしたんだ?」
九曜は自身が飲まなかった缶コーヒーを北華に手渡す。反応がにぶいが、ようやく気が付いて、小さく礼を言うとコーヒーを受け取った。
「自転車を取りに来たの。お姉が死んだことを知って、訳がわからなくなってしまって、自転車を置いて父に送ってもらったから。でも自転車がないと明日駅までいけないし、大学にも行けないから」
うわごとに様に言葉を繰り返す、北華の様子を見て思わず、ため息をつきたくなる。
「もう、夏休みじゃないの?」
雪上の言葉に、北華は小さく頷いたのを見て、言葉を続ける。
「こんなことがあったのだから一日ぐらい休んでもいいと思うけど」
北華を気遣うつもりでそう言ったのだが、逆効果だったらしい。キリっと眼光に鋭さが戻る。
「ダメ。お姉のためにも行かなきゃいけないの」
かみつく様に叫ぶ。体が震えている。精神的にそうとう参っているようで、痛々しい。
「大学の費用は全部お姉がだしてくれているの。せっかくしてくれたことを無碍には出来ない」
ぴしゃりと言い放つ言葉に雪上は返す言葉がない。
「しかし、自習で行っているのだろう?」
九曜の言葉に、北華はこくりと頷く。
「じゃあ、そんなに無理する必要ないじゃないか。少し休んで、体力と気力が回復してから、また勉強に励めばいい。君のお姉さんだって、君が倒れそうになりながら、そこまでして勉強してほしいと願っている訳ではないだろう」
北華はむすっとした様子で押し黙る。
九曜はふうと息を吐いて、適当な所に座る様に北華を促す。抵抗することなく、素直に九曜の言葉にしたがい、缶コーヒーに口をつけるころには、しゅんとしているが、先ほどよりも少し落ち着いている様に見えた。
「君は本当にお姉さんの死について思い当たることはないの?」
九曜の言葉に、北華はびくりと体を震わせ目を彷徨わせている。もしかしたら、十年前に亡くなった、西片南――の存在を意図しているのだろうかと思った。
「一人で考えていても答えはなかなか出ないだろう。よかったら話してみないか? 幸い僕らはよそ者だ。事件が終われば、いや。終わらないうちにここから去るのだから」
「ありがたい申し出ね」
薄暗いため北華の表情ははっきりと見えないが、その声色には皮肉が込められている。
「……まだ、私自身の胸の中にまだ秘めていたいの。確かめたいこともあるから」
硬質なその声は意志の強さも感じられる。
「やはりなにか心あたりが? それは、南さんと言う女性の死に関連しているのか……」
思わず雪上はそう聞き、北華は感情にはじかれる様にこちらを見る。
「なぜそれを……」
「やはりそうなのか。町の人から少し聞いてね」
九曜が雪上の言葉をフォローするようにそう言った。北華は納得するように俯いた。
「そうね。多分、伝承に基づいた、生贄だという人もいるでしょうから」
「その生贄とは一体何を指すんだ?」
北華がぱちくりと九曜を見上げる。
「鍾乳洞の龍の民話について調べに来たのよね?」
「そうだが」
「じゃあ、知っていると思ったけど」
「民話に生贄と言う文字はなかった……」
雪上は民話を思い出しながらそう言った。
「確かに。表向きにはね。でも、本当に伝わっているのは……この辺りでは、遠い昔のことだけど、天変地異がおこったり、雨が降らないのは、鍾乳洞に眠る蒼龍の気分を害したからと言われていてね。その蒼龍様の機嫌を損ねない様に生贄を。三人の乙女を差し出していたようなの」
「まさか」
「もちろん、今はそんな非現実的なことをしていないから。だからこそ、昔はこの神社の権威があったのね」
北華は後ろの本殿を振り返る。
「一昨日、歓迎会で、東子さんから鍾乳洞に関して『面白い情報を提供できると思う』と、言われていたんだけど、何か心辺りある?」
雪上はそう言えばと思って、たずねたが、北華は思い当たる節がないのか首を横に傾げて、しばらく考えていた。
「全くわからない。鍾乳洞について? 私は何も聞いていない……」
と、言いながらも、一瞬瞳を大きくして何かに気が付いた様子だ。
「何かわかった?」
「いいえ」
雪上の問いかけに、素早く否定の言葉を述べる。
九曜は話を聞きながら、腕を組んだ。
「南さんと言うのは君のお姉さんだよね? 今回の東子さんの死について何か関連があるのだろうか」
北華は顔を反らす。無言は肯定と捉えて、良いのだろうか。
「今は何も答えたくない」
家族である東子を亡くした今、傷をえぐる言葉は彼女にとっても負担だろう。それは九曜にも十分伝わっていた様だ。
「君がそう言うのなら、今はこれ以上はなにも聞かない。しかし、今回のこと……もしかしたら、お姉さんの東子さんの死は殺人の可能性がある。つまり、君に危険が起こる可能性だってあるんだ」
「わかっている。でも今は……まだあまり話したくない。自分の中でも整理がつかないの」
九曜の言葉も北華の言い分もどちらもわかるので、雪上はどう答えていいのかわからなく、ただ口を結んでいた。
「じゃあ、……明日まで待っている。また明日の夜。またここで会おう。それまでに自分一人で解決できないのであれば、相談するように」
九曜はぴしゃりとそう言い放った。厳しい言い方ではあるが、彼なりに彼女の事を心配しての言葉だと感じる。何もしないでいるよりは、何かをしなければ。
北華は缶コーヒーを飲み干すと「ごちそうさま」と言って立ち上がる。
「帰るの?」
雪上の言葉に、「いつまでもここに居ても仕方ないから」そう言って、くるりと踵を返す。
「殺人犯がうろうろしているかもしれない。君も気を付けて」
九曜は立ち去る北華の後ろ姿に、そう言葉を投げた。
雪上はその後ろ姿を見送りながら、彼女と里美の関係について、なぜ『嘘つき』なんて言葉を投げたのか。その真意が知りたかったが、結局聞く事は叶わなかった。
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