八月某日 土曜日 午後五時
神主が呼びに来て、その日の作業を終えた。
九曜は気になった資料があったのか、いくつか持って階段を下りる。
もう夕方の五時をまわっており、里美はそこで帰ることになった。
里美を玄関まで送り、彼は恭しく一礼してみせ、そのまま帰って行った。年齢にしては大人びた、でもどこかアンバランスさを持ち合わせた青年だと雪上は改めて思う。
扉が閉まって少しして、和室に行こうと踵を返そうとした時、もう一度盛大に音を立てて扉が開く。何か忘れものかと思い振り返ると、入って来たのはむすっとした表情をした北華だった。雪上をぎろりと見て、
「なんでアイツがいたの?」
文句を並べる。
「アイツ?」
「そう、嘘つきのアイツよ」
どたどたと大きな足音を立てて中に入る。
「里美くんのこと?」
北華は何も答えない。
「どうしたんだ?」
一足先に和室に戻ろうとしていた九曜に合流し、気が付いた様にそう聞いた。
「あっ、すみません。父が話があるから大学から帰ってきたら来るようにって言われていて」
九曜に対しては、はっとして敬語を心掛けている様だった。
「え、大学の帰り? 駅からどうやってきたの?」
単純に疑問に思った雪上がそう聞くと、「自転車で」と北華は答える。
雪上はその話を聞いて、沢町の人は自転車で鍾乳洞まで来るのが普通なのだなと思ったりした。
まあ、それなりに距離があると思う。と、そう言いたかったが、九曜が頷きながら、先頭に歩き、和室の襖を開けたのでそれ以上は会話にならなかった。
「来たか」
頬杖をつき、教授と向き合っていた神主は北華に気が付き、体を起こした。
どこかうつろな瞳。
妙にはりつめた空気を感じたのか北華は頷いてゆっくりと和室に入る。
「自転車で来たのですか? 大変だったのでしょう」
教授の言葉に、いえ。と小さく答える。首元にはうっすらと汗が滲んでいた。
「それで一体?」
北華は神主をみて、それから周囲を見まわした。
「姉さんは?」
「亡くなった」
神主から東子の死を知らされた北華は驚きのあまり、息をすることも忘れてしまった様子だったが、徐々に言葉の意味が染み込んだと見え、思い出した様に涙を流し、嗚咽をもらす。
それをなだめるのに時間がかかり、やっと少し落ち着いたところで神主は北華を引き取り帰っていった。
雪上達もそれに続いて、入浴(特に教授は昨夜寝入ってしまったので絶対に行きたいと言っていた)と、夕食分として購入してきた食事が無くなってしまったので、明日の朝の分も含め買い出しに行く必要があった。
最初は食材を購入し、なるべく自炊をするという予定だったが、流石に今、誰もそこまでの余裕はない。
外に出た時点で、もう陽はほぼ落ちていた。
雨はすっかりあがり、地面は乾いている。
なまあたたかい、じめっとした空気の中に、ひんやりとした空気が入り混じる。
お風呂に着くと、教授は待ってましたとばかりに、車を降りて駆け出して行った。よっぽど早く風呂に入りたかったのだろう。
九曜はその後ろ姿を見送りながら、「チケットは自分で買えるのだろうか」と呟いた。
「それくらい大丈夫でしょう」
雪上は車をおり、扉をしめた。
「いや、そう思うのだが、教授は変な所で抜けているというか」
中に入った時、教授の姿は無かったので、無事チケットを購入し、浴場に居るのだろうと思う。
帰る客の中に見覚えのある人物がいた。
「こんばんは」
スタンドであった坂だ。昨夜の歓迎会でも北華とお酒を飲んでいる姿を見かけた。
九曜の声に、振り返ると、彼特有の人の良さそうな笑みを浮かべたが、最初に会った時のガソリンスタンドで見たほんわかとした雰囲気はなく、どんよりと疲れた様に見える。
「こんばんは……」
何か言いたそうだが、視線を反らして、そのままやり過ごそうとしたいと、そう思っているのが手に取る様にわかった。
「東子さんが亡くなったことはもうご存知でしたか?」
九曜が放り投げた爆弾に、ぎょっとして、視線を彷徨わせる。
「……はい。町中で噂になっていますから」
「その噂と言うのは事故だと?」
「えっ……町では、生贄だとか……」
「生贄?」
九曜が素っ頓狂な声を上げる。雪上も先ほど里美から聞いていなかったら目を見開いていただろう。一体何を言っているのかと。
「いや、噂なので気にされない様に」
「でもなぜそんな噂が……?」
九曜の問いかけに、坂はするどい瞳を二人に向ける。その視線からは逆になぜ知らないのかとでも言いたげに物語る。
「何か根拠があるのでしょうか?」
雪上も負けじとそう問いかけた。沈黙が続けば、坂は通りすぎて行ってしまうだろうと思われたから。
「……」
坂は答えない。釘を刺されたかの様に口は一文字に締め付けられたままだ。しびれを切らして、雪上はとうとうたずねた。
「……南さんが亡くなったことになにか関係あるのでしょうか?」
九曜は雪上を見たがなんのことかわからない様子で首を傾げている。
目の前の坂だけが、亡霊でも見た様に驚きと恐怖とが入り混じった表情でかたかたと震え、後ずさる。
「知っているのなら……私から答える必要もないでしょう。……疲れていますので、失礼します」
坂は片言になりながら、そう言って踵を返す。雪上はそれを見送ったが、知っているのはその事件のことだけで、西片南が亡くなった事件と、東子が亡くなった事の関連。二つの事件はまず、十年もの歳月の離れがある。それから生贄――なにを結び付けているのかがさっぱりわからない。
「雪上くん。その南さんと言うのは?」
「それが……」
「言いにくい話なら、移動しながら聞こう」
幸い、浴場にはたまたまなのか他の入浴客はいなかったので(教授はいたが)、雪上はその新聞記事を見つけた経緯を九曜に話した。
「とりあえず、さっと目を通しましたが、なにせ作業の中、里美くんもいましたし、今はそれ以上のことは……でもその時の犯人が、何等かの恨みを抱いて、東子さんを殺したか、神主さんを襲った。と言うことも考えられるのでしょうか……でも、そうなると坂さんが言う”生贄”と言うのが一体なんなのか……」
九曜は雪上の言葉に唸り声を上げる。
「しかし、その時の犯人は『だれでもよかった』『世界を壊そうと思った』と言うの、犯行動機なのだろう? 西片家に恨みをいだいている感じではないのかなと思うが……まあ、しっかり新聞記事を読んでいないので、なんとも言えないが」
「じゃあ、生贄はなんだと思います?」
「……もう少し、資料をいろいろ読み込んでみる必要があるな」
九曜と雪上はあれやこれやと意見を出し合ったが、結局納得できる結論を導きだすことは出来なかった。
教授がのぼせてきたのか、もうあがるといったので、討論はお開きとなった。
その後は、食事の買い出しなどやることをすませ、社務所に戻る。
食事を終え、九曜は教授を見た。
「そう言えば、教授が前に見ていた資料はどこに行ったんですか?」
「ん?」
雪上の言葉に荷物をがさがさとしていた、教授がひょっこり頭を上げる。
「なんでしたっけ……そう、【瀧神社アラマシ】と書かれた、……ああ、その本です」
教授がおもむろに持ち上げた本をみて、雪上は大きく頷く。立ち上がると、教授から本を借り受けた。
本を広げると、九曜も寄ってきて、横から顔を覗かせる。
雪上はページをめくる度に、眉間の皺が深くなる様な感覚を覚える。
もちろん、日本語で書かれているのだが、旧字体が多く使用されており、かなり読みにくい。
「……九曜さん読めてます?」
白旗をあげ、九曜を振り返ると、九曜も同じように難しい表情を見せる。
「んー、とりあえず、生贄についてなど今知りたいことについて記載がないことはわかる」
珍しく、自信なさげにそう答えると、教授が助け船をくれた。
「君たちが探りたい様なことは、書いていなかったよ。どちらかと言うと、鍾乳洞の内部調査についての事が多く書かれている」
「鍾乳洞に抜け穴があるとかそう言った記載はありませんでしたか?」
九曜が勢いよく顔を上げる。
「……そう言った記載はなかったと思うな」
教授は首を傾げながらそう答え、雪上は息を吐き本を閉じた。
なぜ、抜け穴があると思ったのだろうと、九曜が考えたのか雪上はわからなかった。聞こうと思ったが、九曜は何やら自分の荷物の片付けなどを始めてしまい、聞くタイミングを逸脱してしまった。
色々なことがあり、三者三様に疲れが出ていたのだろう。その後は、就寝の仕度をして、布団に入ったのはまだ夜の九時ごろだったと思うが、間もなくそのまま眠ってしまった。
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