八月某日 土曜日 午前五時

 ぱっと目を開けた、まどろみの中。木の格子天井が目に飛び込み、自分が今どこにいるのかを理解する。それとともに眠気はどこかに吹き飛んで行った。よく寝れた気がする。夢も見ずに眠っていた様だ。

 カーテンの隙間から漏れた朝陽がまぶしい。

 昨夜は確か、三人川の字に布団を並べて眠った筈だと思い、隣を見ると既に布団は整えられていた。

 かばっと布団から起き上がる。

 カーテンの近くでがそごそ動く影が見えた。

「おはようございます」

 雪上の声に気が付いた教授はようやく起きたのかとでも言う声で、挨拶を返す。が、その貴方をここまで運んでくるのは難儀なことでした。そう言いたい言葉をこらえ、雪上は受け流す。

「九曜さんは?」

 見回したが、姿は見えなかった。

 教授は勢いよくカーテンを開く。いきなりの眩しい光に目がくらくらとしたので、布団につっぷし大きく伸びをした。

「台所だよ。朝食の準備をしてくれているようだ」

「ありがとうございます」

 雪上は九曜を手伝わなければと、あわてて布団から飛び出した。

 どたどたと廊下を走り、台所に着いたところで、「おはようございます」と声をかける。

 九曜は驚いた様に振り返り、おはよう。と言った。

「まだ、眠っていてもよかったのに」

 そんな訳にはいかないと雪上はつっぱねる。

「何か手伝うことはありますか?」

 九曜は辺りを一瞥しながら、特にないと言う。

「朝食と言っても、お湯を沸かしてコーヒーを淹れようとしていたくらいだ。食事はもうあるからね」

 慌てていたので今、やっと気が付いたのだが、テーブルの上には様々な菓子パンが並んでいる。

「買って来たのですか?」

 自分でそう聞きながら違うなと思った。なぜなら、台所の壁にかかっている時計の針がさしているのは午前五時。流石に店はまだ開いてないだろう。パンの包装から見て、コンビニで買ったものでもなさそうだった。

「昨日、居酒屋の女将さんのご厚意で、朝食に。と持たせてくれたんだ」

「そうだったんですね」

 お酒などを一切飲まない雪上はもちろん、昨夜の記憶もしっかりと覚えているが、まさか九曜がそんなやりとりをしているとは知らなかった。

「後でまた、女将さんのところにお礼に行かなければとも思うし、美味しければ、駅の近くに店を構えているパン屋だと聞いたから、行ってみるものいいな。食事をつくる時間があるかどうかは正直微妙な所だ。手を抜けると頃は抜いて。もしかしたら、店に行くことで店員さんやお客様と話が出来れば、この辺りの民話や鍾乳洞についての新たな情報が得られるかもしれないし」

 九曜はお湯が沸いたので、コーヒー淹れた。ほろ苦い香りが台所に広がり、なぜかほっとする。特別な用意もなさそうなので、洗面をすませ、パンとコーヒーを持つのを手伝い部屋に戻ると、雪上が寝起きした布団が整えられていた。

 教授が整えてくれたらいし。礼を言って、コーヒーと菓子パンを口にする。

 自然と、今日一日のスケジュールの話題になった。

 今日はまず、朝一番に瀧鍾乳洞を見学する予定だ。九曜の話では、昨日神主から聞いた受付の田川と言う女性は朝、掃除をするため七時頃、鍾乳洞に来るらしい。その位の時間に行けばいいということだった。

「神主さんも朝六時には毎日社務所に来ているという話をしていたみたいだけど」

 スマホを見ると六時には後十分ほど。

 流石に人が来ると廊下の軋む音や気配でなんとなくわかる。だが、現時点で他の人の気配は誰も感じられない。先ほどキッチンでそれとなく誰か来た気配はないか九曜に確かめる。昨日社務所の鍵が開いていたことも心配だったが、特別変わったことは起きていないと聞いた。九曜も割と眠れたようだ。

「まあ、昨日は皆さん。よく食べて飲んでいらっしゃいましたから」

 雪上がそれとなく言った言葉に教授はにこにことほほ笑む。

 食事を済ませ、身支度を終える。フィールドワークの準備と、簡単に社務所の中のを掃除をして、いい時間になった。

「教授は本当に行かれないのですか?」

 不意に振り返るが、九曜の言葉にこくこくと教授は頷いている。

「先に読んでみたい資料が見つかったのと、まあ、滞在中であれば行こうと思えば、まだ行くチャンスはいくらでもあるだろうから」

 目の前に置いた資料を指さした。

 それは、この和室部屋を掃除していた時に偶然見つけたもので、【瀧神社アラマシ】と書かれたずいぶんと古い本だった。印字された文字は手紙の様で、雪上もぱらぱらと中身を見たが、漢字とカタカナで昔の言葉で書かれているため、かなり読みにくい。多少わかったのは、最初のページに、昔この辺りに住んでいた郷土研究科と何代前かの神主が、合同で調査を行い、この本を書き記したという部分だけだった。

「わかりました。あと、ぜひその本を、後で見せて下さいね」

 九曜の言葉に対して、鍾乳洞から戻ったら声をかけてくれと言って、目の前の資料に視線を落とす。

 社務所を出て、せっかくだらからと本殿でお参りをしてから、石段を下りた。

 視界が開け、駐車場が見えると、車は三台停車している。

 雪上達が乗ってきた、レンタカーと、白い軽自動者。もう一台は、東子が昨日乗って来ていた赤い車だった。

 おや、と思いながらも、単純に、今朝また来たのだろうと思うと、浮かんだ疑問はすっと引いた。

 鍾乳洞の鍵の管理をしているということは、朝開錠する必要もあるのだろうと。

 神社の石段をおりて、正面が駐車場の。それを左手に行くと鍾乳洞の建物がある。

 建物は右と左に二つあり、ガラス張りの渡り廊下でつながっている。

 二人は左手の建物から中に入った。そちらの方が手前にあったからだ。朝まだ早い時間なので、もちろん他のお客さんはいない。

 ”売店”と書かれたスペースを見つけるが、そこはまだ暗く、施錠されている。

 本田農園で収穫された野菜などはここで販売されているのだろう。他にもお菓子や飲み物が陳列しているのが見えた。

 営業時間内に来ることが叶うなら、下手に外のコンビニにいくより早く買い物ができると雪上は思った。

 他のスペースには瀧鍾乳洞についての展示がなされ、この鍾乳洞が都道府県から天然記念物の指定を受けていること。また、本物の鍾乳石が展示され、どのくらいの歳月をかけどの様に形成されていくのか絵や写真を用いた説明書きのパネルがある。

 形成にいたっての化学方程式なども書かれているが、文系の雪上にはさっぱりだった。

 時々、写真をとりながら、渡り廊下を辺り、隣の建物に入って行く。受付の前で掃き掃除をする、ショートカットの小柄なおばさんがいた。

「おはようございます」

 二人の挨拶に気がつくと、掃除の手を止め、ぱっと顔を明るくする。

「おはようございます。お二人が神主さんが仰っていた祥方大学の学生さん?」

「はい。九曜と言います。彼は雪上。教授も一緒に来ているのですが、今、他の資料の整理したりしていて……すみません、こちらの都合で朝早くから開けていただいて。……田川さんですね?」

 九曜は恐縮するように何度も礼をした。

「ああ、はじめまして。いやいや気にしないで。私はいつもこのくらいに来るんだ」

「早いのですね」

 その言葉は皮肉も何もなく、ただ素直に思ったからそう口にした。

「以前は、もっと人がいたんだけど、……色々と事情ってものがあって、人がいなくなってしまってね。こんなおばさんの愚痴を聞いている暇はないね。さあ、行っておいで、それに鍵ならもう開けてくれているみたいだから」

「東子さんがもう来ているのですか?」

 雪上はきょろきょろと見回したが、東子の姿は見当たらない。田川にも首を傾げていたが、

「うーん。とりあえず、お客さんの来ない内にゆっくり見学しておいで」

 と、二人を送り出す。その言い方がなんとなくひっかかるも、雪上は特にその部分には触れず、促されるまま中に入った。

 本来であれば入場料が発生するのだが、受付のおばさん――田川はお金はいらないといった。

「神主さんからそう言われているからね。だけど……ちょっと待って……電気だけつけるね。中はうんと暗いから」

 そう言って受付の奥の事務所で、何かをしていた。

「帰る時、声をかけてくれればいいから」

「有り難うございます」

 雪上は丁寧に頭を下げる。

「そう言えば、神主さんは今神社にいるかい? ちょっと用事があってね」

「いえ、今日はまだ会っていません。もしかしたら、入れ違いになっている可能性はありますが」

 九曜の言葉に田川はぎょっとした顔を見せる。

「会っていない? お二人は社務所からここに来る前に寄り道は? ――そうだよね、していないよね。うーん。まさかすれ違わないこともないだろう。鍵も開いているし……」

 田川は悩まし気にぽつりぽつりと話をしていたが、やがて考えてもどうしようもないと悟ったのか、

「とりあえず心行くまで鍾乳洞を見ておいで。申し訳ないね、ばあさんの戯言に付き合わせてしまって」

 あっけらかんとそう笑うが、この時、不穏な何かを感じ取ったのは雪上だけではなかっただろう。

 田川に背中を押され、受付の奥の出口から一旦、外に出て緩やかなスロープをのぼった所にぽっかりと大きな口を開けた様な鍾乳洞の入り口がある。

 鬱蒼としげる森林がそこだけ削がれた岩壁に、アーチ状に石組して作られた入り口は、そこだけとても人口的だ。しかし、中は真っ暗で底知れぬ恐怖が湧きがっている様に思われた。

 入り口の左右には、【瀧鍾乳洞】と彫られた石の看板と、役場で設置されたと思われる、日本語と英語で記された案内看板があった。入り口は中央に手すりが設けられており、出口と入り口がここ一か所だと書かれている。

「さあ、行こう」

 九曜の声と共に洞窟への階段をのぼってアーチの入り口をくぐり抜ける。

「……おお……」

 思わず声がもれた。

 田川が明かりをつけてくれていたので、中は薄暗いが歩くのに苦労することはなかった。道幅は狭いが、手すり付の遊歩道が張り巡らされており、ゆっくりとあるけば足を滑らせる様なこともない。もちろん、スニーカーで十分だ。

 中に入った瞬間から外の世界とは全く別の、独特な体温の岩肌と形成された鍾乳石で世界が包まれている。

 一歩、一歩、足を踏み入れるごとに肌に感じる温度が下がっていく様だった。

 目につく大きな鍾乳石には名前が付けられている。

 白蛇の杖。吉祥天の間。黄金の滝。……等々。

 どれも縁起の良い単語が使われている。

 所々に龍の小さな銅像が設置され(これは人の手で設置されたものだろう)、その辺りは投げ銭がされてある。雪上も財布から小銭をひっぱりだして、ごくわずかな金額ではあるが、投げいれてみた。

 特にご利益を受けたいとか、そう言った希望ではなく、ただ無事ここに来れたことに対しての純粋な感謝の気持ちが強かったと思う。

 岩肌は冷たく、濡れている。

 故意に触れた訳ではないのだが、鍾乳洞の中には天井がぐっと押し寄せ、かがまなければ通れない箇所がいくつかあって、その時に、肌の一部が触れてしまうことがあった。

 鍾乳洞の中には、所々に川のように水が流れている、その流れた水でたまった小さな池もあり、雪上が見た場所には”龍の涙”と名付けられ、他にもまして投げ銭がされている。

 鍾乳洞の中腹辺りに、祭壇と小さな鳥居があるのが見えた。

「ここが鍾乳洞の一番奥になるのか」

 九曜が遊歩道の手すりから身を乗り出す様にまじまじと見る。

 遊歩道のすぐ向こうに小さな祭壇があり、今は花と果物があった。その向こう。鳥居の奥に小さな社がある。

 事前に撮影許可は得ているので、ためらうことなく、ぱしゃりぱしゃりと撮影を続ける。

 社の上にはぽっかり穴が開いていると民話にはあるが、遊歩道からはどんなに身をのりだしてもそこまでは確認できないが、それが外の世界と繋がり、龍がそこから現れるらしい。ともかく暗くてよくわからないが、調べた情報からは、そこか異界とつながる入り口であると言い伝えられてきたようだ。

 この鍾乳洞の中に異界の入り口があったと、大学の教室でそれを言われたなら、にわかに信じがたいと思うが、ただ、今鍾乳洞の中でそう言われると、なぜかそうかもしれないと思わせるなにかがある様に感じる。

 今でも年に数回神事が行われているそうだ。

 九曜は一通りに終わったのか、先へと進んでいく。もう少しじっくり近づいて見ることが出来れば何かが発見できるかとも思ったが、この後のスケジュールもつまっている。そんなにゆっくりはしていられない。

 滞在中にまた来たらいい。

 そう思って先に進んだ。

 あちらこちら見回しながら、歩いていると何かにぶつかり、それが九曜だとわかると、どうしたのかと声をかける前に、彼の視線の先に目が行った。

 ”血の池”と書かれた先は、龍の置物がおかれ、小さな池がある。が、妙に黒い。

 それが岩石ではなく、人の衣服の黒だと。長い黒髪だとわかるのに少し時間がかかった。流れた黒髪は蝶の羽の様に水の上にぷかぷかと広がっている。その光景は羽根のもげた蝶のように思われた。

 後頭部の一部に血の跡があり、それが大きな傷だとわかるでにひどく時間がかかった。

「東子さん……?」

 はじかれた雪上の言葉にようやく九曜が反応を見せ、何度か東子の名前を二人で呼びかけたが反応はない。つまり……。

 ふと横をみると、画面の割れたスマホが転がっている。東子のモノだろうか。下手に手を触れない方がいいと思って、九曜をみると、東子が倒れている池のふちに転がる、石を見てふっと顔を上げ雪上を振り返る。石は黒ずんだ箇所がある。血痕だと、瞬時に理解した。

「いったん、外にでて警察に連絡しよう」

 出口まで、あとわずかな距離であった。鍾乳洞を出ると、九曜はすぐに電話をかける。雪上は受付の田川に話す。みるみるうちの彼女の顔は青くなる。

「神主さんにすぐ連絡をとれませんか?」

 田川は一瞬、何を言われているのか理解が追い付かないのかぽかんとしていたが、雪上の必死の表情に我を取り戻したのか、すぐに電話をかけた。

「今、駐車場に着いたところだって。すぐにこっちに向かうと」

 電話をかけている九曜は、若干押し問答になっている様子だった。聞き耳を立てていると、まさかこんなのんびりとした街でしかも鍾乳洞の中に女性の死体があると言っても、いたずら電話だと思われなかなか信じてくれなかったらしい。

 一通りのやり取りがあって、ようやく九曜は電話を切ると、警察はこちらへ向かっているが、なにせ場所が場所なので到着するのに時間がかかると言われたそうだ。

「本当なんですか? まさか東子ちゃんが……」

 田川が目をまんまるに見開いて、九曜を見る。

「残念ながら……」

 九曜は視線を反らした。

「皆さん。一体なにが?」

 険しい顔をした神主が、肩を上下に動かしながら雪上達を一瞥する。駐車場から走って来たのだろう。九曜は神主の方に歩み出ると、雪上と二人で発見した経緯を説明した。

「まだ、息があるのでは?」

「私達も、何度か名前を呼びかけましたが……反応はありませんでした。ですから……」

 神主の言葉に九曜はやりきれない様子でそう言った。雪上も先ほど見た東子の様子を思い出して、体が今になって震えてくる。未だに先ほど見た光景が信じられていない。

 神主は一人、無言のまま鍾乳洞の中に入っていった。それを止める者は誰もいない。いや、止める言葉を誰も知らない。

 少しして、とぼとぼと元気のない様子で戻って来た神主は、入り口の階段で座り込み頭をかかえ震えている。

 遠くでサイレンの音が聞こえた。

 

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