八月某日 金曜日 午後四時
九曜の話では、神主さんのご厚意で社務所の一室を寝泊りに貸してくれると聞いていた。多分、謝礼金としていくらかは渡すのだろうけれど。
そうであったとしてもただ、どっしりと何もしないで座っているのは申し訳がないので、出来ることはなるべく率先しようと思っていた。九曜はそれ以外のことでも忙しいだろうから、なるべく雪上自身が、と。
東子は素直に礼を言って、アイスコーヒーのボトルと、棚から“かぼちゃチップス”と書かれた袋と、紙皿を持つ。サンダルを脱いで、廊下に上がるのを見て、雪上もゆっくりとお盆を持ち上げそれに続いた。廊下の角を曲がる直前で、もう一度、土間と外に続く裏口の方を見た。扉は閉まっている。それに、怪しげな人物は誰もいない。それを確かめて、角を曲がった。
和室に戻ると、九曜は神主に向かって話しをしている。
「誰かに恨まれる様なことは?」
「いえ、私が思いつく限りではありません。ここはそれほど大きな集落ではありませんし、他の人達ともそれなりに付き合っています。それに、うちはそれ程大きな神社でもありませんし……」
神主が考え込む様にゆっくりと言葉を紡いでいる。様子を見たが、先ほどよりもだいぶん顔色が回復してきた様に思われた。
「アイスコーヒーをお持ちしました。大丈夫ですか?」
雪上がお盆を置いた所に東子がボトルからアイスコーヒーを注いでいく。
九曜はそれを見って、真っ先に「いただいても?」と、一声添えて、よっぽど喉が渇いたのか、ぐいっと飲み干した。
「そういえば、伝え忘れておりましたが、滞在中はこの部屋を自由にお使い下さい。台所も……場所はご存知だとますので、後でトイレの場所をお伝えするとして……遠慮なく使用いただいて大丈夫ですから」
神主はようやく自身のペースを取り戻した様にそう言った。
「何か足りないものはございませんか?」
神主の言葉を補足するように、東子がそう言って教授、九曜、雪上を見回した。
「出来れば作業が出来る様に机があると助かります」
「そうですよね」
九曜の言葉に、神主は気が付いたとでもいう様に視線をきょろきょろとさせる。
「ローテーブルでよろしければ、向こうの部屋にあるものを移動させれば……」
東子の控え目な言葉に九曜は、「問題ありません」と言い、立ち上がり、「運びます。どの部屋にあるのですか?」そう聞いた。
雪上も手伝うため立ち上がり、和室をすたすたと出て行く後ろ姿を追う。
東子は廊下真直ぐに進んでいく。
「お伺いしたいと思っていたのですが……東子さんはこちらにずっといらっしゃるのですか?」
東子は九曜の質問の意図がわからないと言う感じで立ち止まると振り返り、首を傾げる。
「それは……私が結婚しているかどうかと言うこと? それとも、私もここに住んでいるかと言うこと?」
棘を含んだ言葉を柔らかい声色のオブラートにくるんでいるが、珍しく九曜がたじたじになっている。普段なら、物おじせずずけずけと言う人なのに。
しかも相手は九曜よりも年下の女性で。雪上は不思議な気持ちで二人を見ていた。
「本音を言うと両方ですね。……本来であれば、特別聞こうとは思いませんでしたが、神主さんにあの様な事が起きてしまったので。それに何というか、神主さんは東子さんのお父さんに当たるのですよね? それにしては様子が少し……」
九曜はいつもの調子を取り戻したのか、雪上なら絶対に聞く事が出来ないだろうと言う部分まで言葉にしている。
「ぎくしゃくして見えましたか?」
皮肉めいた笑みを浮かべているのに、綺麗な顔をしているからかなぜか憎めない。
「多少……」
九曜は控え目にそう言った。
「そうですね……昔、結婚していましたが夫が亡くなって、この家に戻って来ました。父と私はこの社務所ではなく町の駅の方に家がありますので、車で帰りますから、四六時中、私達の関係を配慮していただかなくても大丈夫ですからご安心してください」
もちろん住んでいるのは別々の家ですと言葉を添える。
東子はそこまで言うと歩みを再開し、ちょっと先の部屋の前でとまり、障子を開ける。
窓のない部屋で、電気をつけた。
部屋の中には段ボールなどが積み上げられており、物置部屋なのだろうと雪上は勝手に思う。
「これですか?」
証明にこげ茶色のローテーブルがあり、九曜がそれを指した。
いかにも田舎の祖父母の家にありそうな。ところどころに木彫りの装飾がなされた頑丈そうなものだった。
東子が頷いたので、九曜と雪上がそれぞれ両端についてテーブルを持ち上げる。
なかなか重たい。
「それから、お布団だけど……町の布団屋さんに貸布団をお願いしているの」
「自分たちでとりに行きます」
九曜は慎重にテーブルを持ちながらそう答えた。
「あと、夕方には父がせっかくだからとささやかな歓迎会を計画しているみたい」
テーブルを運びながら東子の言葉を聞いて、今日は鍾乳洞には行けそうもないなと雪上は思った。
*
九曜と雪上は二人で車に乗り、東子に教えてもらった布団店に向かう。教授がなぜいないかと言うと、神社を一人で見て回りたいから二人で行って来てきて。よろしく。と言うことだった。
「寝具店に行く間えにガソリンスタンドに寄っていくから」
九曜はそう言って、東子に教えられた道順の教えられた右折するはずの通りをやり過ごし、次の通りで曲がった。
「今日は鍾乳洞の中を見るをは難しそうですね」
雪上はあの事件があったこともあり仕方がないとは思ってたが、非常に残念がる。
「ああ、それは考慮済みだ。今日は早めに就寝して、明日朝一番に鍾乳洞を見学させてもらおう。その足で、教授希望の場所に向かえば大丈夫だろう」
ちょうど左手にガソリンスタンドの看板が見え、速度を落とし入って行く。
スタンドには車も人の影もなかった。のぼりの旗がはためいて見えたので営業してることは間違い無いのだろう。
車がスタンドの中をゆっくりと走行していると、中から小太りの男性が急ぎ足に出てきて、なんとなく車を誘導する。そう表現したのは、きびきびとした動きではなく、ゆったりとした動きだったので、誘導されているのかどうか一瞬不安になってしまったからだ。
「こんにちは」
窓を開けた時のゆったりとした挨拶の口調を聞いて、ここは都会ではないのだなと思う。
都会だと先ほどの動きとは打って変わり、スタンドの店員はきびきびと動き、若干聞き取りにくいが、よく通る声で接客をするイメージがある。
今、目の前で車に給油をする男性はそれとは正反対の動きを見せる。だけれど、まあ別に気にならない。
空を見上げれば、のんびりと雲が流れて行き、気持ちがいいと感じて思わず目を閉じた。
給油が終わり、会計のレシートを九曜に手渡した時に、
「旅行ですか?」
気さくな様子で声をかけてきた。人懐っこさがある。
「そうですね……どちらかというと。実は、瀧神社の神主さんの所に数日滞在させていただく予定でして」
「ああ、もしかして祥大の方ですか?」
あえて、学生とは言わないところが気遣いなのか、素直なのか。
「そうです。ご存知なんですね?」
「それほど大きな町ではないので、人づてに」
九曜は相槌を打った。
知られていた所で特に問題はないが、あえてそう言われたのは初めてだったので、雪上は店員の方をみると彼はにこりと笑った。名札には《坂 勝広》と名前が書かれている。
「実はこの後、駅の方にある居酒屋のよしさんで歓迎会があるって、僕も呼ばれているんです」
「なるほど、そうでしたか。ありがとうございます。ぜひ後で色々お話を伺わせて下さい」
坂の言葉にようやく納得した様に九曜は大きく頷いた。それは雪上も同じだ。
車を発進させる時に、坂を見ると、ぱっと顔を明るくしてへこへこと頭を下げている。多分、悪い人では無いのだろう。
それよりも九曜は珍しく、早々に話を切り上げるのだなと思っていると、
「色々と聞きたいことはあるが、そろそろ行かないと時間的に間に合わない」
と、ぼやいている。
確かにその通りなので、雪上は否定も肯定もせず、ただ窓の外を眺めていた。
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