八月某日 金曜日 午後三時

 石段を上がると、手水舎があったが、現在は閉鎖されているようだった。

 その先には社が見える。建物のつくりはそれほど大きくはないが、そこにずっと存在していたという重厚感があった。隣に【社務所】と書かれた本殿よりは新しそうな造りの日本家屋の建物。

 今度は九曜が先頭になって向かう。と言うのも、教授は一人でふらふらと社を物珍しそうに見ている。教授は民間信仰が専門なので興味深いのだろう。

 手入れが行き届いた気持ちの良い境内である。

 先ほど肌寒さと共に感じた感情はもうとっくに忘れていた。

 本殿で軽く参拝を済ませて、となりの社務所に向かう。

 入り口にはインターフォンがあり、【御用の方は】と但し書きがある。

 九曜は迷いなくインターフォンをプッシュすると、しばらくして「はい」と、男性の声がして、引き戸の扉が開いた。

 小笠原教授よりも年上だろうと扉かから顔をのぞかせた男性の年輪で判断する。年齢で言うと六十代ぐらいだろか。

 眼鏡をかけ、割合ぱっちりとした二重の瞳がきょろきょうろと雪上と九曜を見比べている。

「すまん、すまん」

 後ろから教授がかけよる足音がして、目の前の男性はきょろりと教授の方にも目を向けた。

「祥方大の九曜です。あの、今回のフィールドワークで……」

 そう言いかけて、すぐ理解が及んだらしく、

「あ、失礼しました。貴方が九曜さんでしたか。瀧神社、神主の西片です」

 大きく扉を開けると、きっちりと着込んだ装束姿で、丁寧に頭を下げる。

「こちらこそ、お忙しい中、色々とやり取りをして下さり、有り難うございます」

 九曜がそう言って頭を下げるので、雪上も頭を下げながら、簡単に自己紹介をした。

「二人の引率をつとめております、小笠原です。なんとも素晴らしい神社ですね」

 教授はそう言って感嘆のため息を漏らすが、雪上としては”引率”と表現した部分について非常に違和感を覚える。それについて何か言う訳ではないけれど。

「ありがとうございます。立ち話もなんですから、どうぞ」

 神主の西片が、社務所の中に入る様に促すので、失礼しますと言って敷居の木をまたいだ。

 中に入り感じたのは、思った以上に天井が高いということ。

「足元にお気をつけください」

 三和土の隅にすのこが置かれその向こうに立派な上り框がある。

「この建物は新しいのですか?」

 教授が上がり框の木材にぺたぺたと手をやってそう聞いた。

「ん――まあ、本殿の社よりは新しいですが、それなりには」

「建ったのは明治の頃くらい?」

「そうですね」

 神主は教授のが伝染したのか、ふわふわとした笑みを浮かべる。

 ピンと張り詰めた床板をきしませて、

「どうぞ」

 と、案内されたのは和室の一室だ。

 九曜と雪上と、教授の三人が和室に入り適当な座布団に腰を落ち着けたのを確認すると神主は部屋を一度出た。少しして戻って来ると、障子を閉めて、自身も適当に座る。

 神主の西片について、優しそうだが、ちょっと押しに弱そうな、妙にへこへことする男だと雪上は印象を受ける。

 田舎のあまり名のない神社の神主だから、まかり通るのであって、もし一般の企業などに所属したとすれば、爪弾きにされていそうな……可哀そうではあるが、正直に思った感想はそうだった。

「鍾乳洞にはもう行かれましたか?」

「いえ、まずはこちらにご挨拶をと思いまして。本殿のお参りはさせていただきました」

 九曜の話を神主は頷きながら聞いている。

「もし宜しければ、鍾乳洞に伺う前に瀧神社について是非お聞かせ願えませんかな?」

 教授の言葉に、もちろんですと頷く。軽く咳払いをした。

「昔々のことです。この地には龍が住むと言われていたのですね。ここに来る時、道が曲がりくねっていたでしょう? 現在は舗装されていますが、昔からある道で、あまりにも曲がりくねるので龍の通り道だとこの辺りの人は言っていたそうなのです」

「その龍と言うのは悪い龍だったのですか? 良い龍だったのですか?」

 雪上は子供っぽい質問かと思ったが、思わずそう聞いてしまった。神主は真面目な顔で雪上に向かって頷く。

「良くも、悪くもと言った所ですかね。恵の雨をもたらす半面、やりすぎると、土砂崩れなどの災害になりますのでね。この辺りでは過去にその様な災害が何度もあったようで」

「それで、この神社がつくられたのですね」

 教授は頷きながらそう言った。

「そうですね。文献等で残っている訳ではないので、あくまでも云われですから、いまいちよくわからない部分もあるのですが。この神社の役割としては、龍と私たち人間――この町に住む住民たちをつなぐ窓口としての役割を担っていたと考えると理解しやすいかもしれません」

「窓口ですか」

 九曜が相槌を打つ様に言葉を繰り返す。

「ええ、あの鍾乳洞が龍のすみかであると言われておりまして。神聖な場所として崇められておりました」

 今は観光地となっておりますがね、と神主は付け加えたが、龍のすみか――その言葉の響きは雪上の心をひどく、くすぐった。

 九曜と教授も次第に神主の話にのめり込んでいる。雪上もあまりにも夢中になっていたので、はっと思い出し、バックパックからノートの筆記用具を急いで取り出す。それに気が付いた九曜も珍しく忘れていたのか、急いで同じように取り出すと目の前に並べた。

「この龍の言い伝え、民話と言うのでしょうか。この内容については皆さん、事前にお調べされているのでしょうから、深くはご説明しませんが、あの鍾乳洞に御座す龍は機嫌が悪うなると、雷雨を引きおこすと言われておりまして、そうなるのを防ぐためにこの神社を通じて、まあ言えば、蒼龍様のご機嫌を取るためにお供えをしてお祀りしていたという事ですね」

 神主がそう言い切った所で、不意に障子が開く。

 反射的に視線をそちらへ向けると、黒髪の美しい、白いうりざね顔の女性がすっと顔を覗かせた。

「お茶をお持ちしました」

 澄んだ声が響く。

 黒いワンピースに白い肌がよく映える。誰もが一瞬、その女性に目を奪われている中、神主だけが「ああ」と、間の抜けた声で女性の言葉に反応した。

 それは、興味がないと言うほど、無神経な言い方と声色であったと雪上は思う。

 夫婦だろうかと一瞬思ったが、違うだろうとすぐ自分の考えを否定した。

 女性の年齢はその落ち着いた仕草から三十歳前後ぐらいだろう。

 確かに年齢が大きく違う夫婦と言うのはあるものだが、二人の放つ空気や雰囲気があまりにも違いすぎると感じたからだ。

 女性は神主の言葉に全く気にする様子を見せず、すっと音もなく部屋の中に入って来ると、それぞれにお茶を用意していく。

 雪上の横を通り過ぎた時、鈴蘭の香りがした。

「この方は?」

 教授は興味深そうに、女性を見る。

「長女です」

 神主のそっけない言葉も気にも留めず、女性は深々と下げ、「東子です」

 澄んだ声でそう答えた。

「そう言えば、出すようにと伝えていたお菓子は?」

 神主の言葉に東子はきょとんとした表情を見せる。

「いや、私がとりに行こう」

 ここで押し問答してもどうしようもないと思ったのか、神主はそう言ってすっと立ち上がると小走りに部屋を出て行った。東子とすれ違う時に、彼女とそう身長は違わないのだなと思った。

 東子はすらっと背の高い女性だった。

 沈黙が残された空間の中でも、教授は東子に対して、何か聞きたそうに、当たり障りのない瀧神社の事について話をしていると、向こうから「わあっつ」と、言う叫び声と、がしゃんとガラスが割れる様な大きな音がして、九曜と雪上は反射的に立ち上がる。

 ゆったりとした動作の様子であった東子もすぐに踵を返し、部屋を出て行くので、九曜と雪上は続く。その後ろで教授ものっそりと立ち上がる。

 東子が廊下の角を曲がった所で、一瞬姿が見えなくなり、

「お父さん?」

 と、その声だけが聞こえた。

 角を曲がってようやく、追い付いた所で、広い土間――台所に行き当たり、その真ん中で腰を抜かして、尻と手をついた神主と、その前でバラバラに割れた瀬戸物。破片は群青色で、大きな破片の形から壺、もしくは大きな花器だったのではないかと思われた。

 東子は駆け寄ると真剣な表情で、怪我などがないかどうか声をかけて心配している。

「何があったのですか?」

 九曜の言葉に我に返った様に恐る恐るこちらを見る。

「誰かが……誰かが……」

 震える声で、土間の向こうの裏口の外へ続く扉をさした。廊下から土間におりる所に並べられたサンダルをつっかけて、九曜は割れた破片を避けながら、裏口に向かっていくので、雪上もそれに続く。

 裏口の扉は開け放たれていた。

「誰もいないようですね。ここには鍵が?」

「ええ。もちろん」

 九曜の問いに、戸惑った様に東子はそう答えた。

 裏口から外を覗き込んだ先は鬱蒼とした木々となっており、風が吹き抜けていったが、人の気配は感じられたなかった。

 もしかしたら、もうどこかに行ってしまったのかもしれない。

「一体、何が?」

 九曜は振り返ってもう一度、神主にそう聞いた。神主は大きく深呼吸をしている所だった。先ほどよりいくらか、冷静さが戻って来た様に思われる。

「皆さんに、せっかくですから、この町の特産品であるカボチャで作ったチップスをご用意しようと思ってその棚に……そうしましたら、後ろで物音がしまして、何かと思って振り向くと、そちらに置いてました花器が私めがけて飛んできて……咄嗟に避けたのですが、向こうに走って行く人影は目の端に映りましたが流石に、追いかけることは出来ず……ですが気が付くのがあと一歩遅かったらと思いますと……」

 神主は再度そう言って唇を振るわせる。

「走り去って行った人物は、男でしたか? 女でした?」

「私は男だと思いましたが、……ですが、一瞬の事でしたのであらためてそう聞かれますと……」

 九曜は唸り声をあげながら、外を見回したり、土間を歩いたりしている。

「警察に連絡した方がいいですかね?」

 雪上はそう聞いたが、神主は実際、被害と言う被害はないので、そこまでは大丈夫だとと言った。

「兎に角、怪我がなくてよかった。取り合えず、そこは破片を片付けた方がいいと思う。二次被害があっては大変だからね。神主さん、こちらまで来れそうですか?」

 追い付いて来た教授が状況を把握して、冷静な声でそう言った。

 九曜も含め、その言葉について異論を言うものもなく、雪上と九曜は神主の元に行くと、立ち上がれるかどうか手を差し伸べる。東子はそれを見て、ふうと溜息をつくと一寸裏口から出て行き、ほうきとちりとりを持って戻って来た。

 神主はなんとか自身で歩ける様子だったので、九曜に任せ、雪上は割れた花器の破片を片付ける東子の手伝いに回った。

「すみません、本当にせっかく来ていただいたお客様にこの様なことを……」

 雪上の背中の向こう側から、神主の弱々しい言葉が消える。目の前の東子もどちらかと言うと被害者なのに申し訳なさそうな表情を見せるのでいたたまれない。

「とにかく何もなくてよかったですが、……ただ、立派な花器がこわれてしまって」

 九曜の言葉に、神主はいえいえ、と言葉を返している。

「ただの飾りですのでお気になさらないでください。むしろいつか処分しようと思っていたくらいですから」

 嘘とも真実ともわからないだが、九曜達に心配をかけない様な神主の計らいの言葉だと雪上は思った。

「不躾な質問ですが……誰かに恨まれる様な事は?」

 雪上は手を止めて思わず振り返る。神主は九曜に肩を支えられたまま、視線を彷徨わせていた。

「いえ、これと言って思い当たることもありません」

 その神主の言葉を皮切りに、教授に見守られながら、三人は廊下の向こうへ行った。その時に九曜と目があって、雪上は頷いた。後は頼むとなんとなく言われた様な気がした。その後ろ姿を見送り、雪上が自身の作業に視線を戻すと、東子が拾い上げた大きな破片を新聞をしいたビニール袋に入れ、立ち上がる。あらかた片付けが終わった所だった。

「有り難うございます。また、お茶を入れ直して持って行きますので、どうぞお部屋に」

 東子は何事も無かったかの様に微笑みながら、そう言ったが、雪上は少しだけ東子の態度に違和感を感じた。しかし、この時はその原因は何なのかこの時はわからなかった。

 それよりも今はやるべきことをと思い、思考を切り替える。

「お茶を用意されるなら、手伝います。あと、この割れた破片を拾い集めた袋はどこかに持っていた方がいいですか?」

「ありがとう。あとで、まとめて他のゴミと処分するから大丈夫よ。それよりも、お茶とコーヒー、どっちがいいかしら?」

 そう聞かれて、教授と九曜の嗜好を思い出す。

「どちらでも大丈夫ですが、コーヒーも皆、よく飲みますよ」

 九曜は空き教室で作業する際に、よくペットボトルのブラックコーヒーを好んで飲んでいるのよよく見るし、教授も自身の研究室にインスタントではあるが、コーヒーを常備しているのを知っている。もちろん、雪上もコーヒーは好きだ。

「そう。じゃあ、せっかくだから美味しいアイスコーヒーのいただいたボトルがあるので、それを出すわ。そこにあるお盆にあの棚に並んでいるグラスを置いてくれるかしら?」

 東子はふんわりと笑みを浮かべた。顔の造形が美しい人なので、少し怖いのではと勝手に思っていたが、とても親しみやすい人なのかもしれないと、その表情を見て思い直した。

 隣を通った時、鈴蘭の香りがふわり。

 言われた通り、戸棚からグラスを五つ並べる。

「神主さんは大丈夫でしょうか?」

 冷蔵庫からアイスコーヒーのボトルを取り出す、東子の後ろ姿に向かって問いかける。

「大丈夫。あの人はああ、見えて図太いから」

 東子はなんでもないという風だ。親子にしては、あっさりとした言葉だと雪上は思わずにはいられなかったが、それを今、聞き返すのは違う気がした。

「割れてしまった、花器は、その……高価なものではないのですか?」

 だんだんと冷静になって、高価な花器ならばやはり警察に通報すべきではなかったのだろうかと考えに至る。

「うーん、違うと思う。この家にあった高価なモノはすべて売り払ってしまっているから。この神社はお金がないのよ。あけすけな言い方だけど……ともかく、さあ。行きましょう。そのお盆、持って行ってもらうのお願いしてもいいかしら」

 雪上はそのつもりだったと頷く。最初の方の東子の言葉にはなんと返していいのかわからないので何も答えずにいた。

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