八月某日 金曜日 午後一時

 飛行機が到着したのは東北のとある空港だったと記しておく。と言うのも、まさかあんな事件がおこると思っていなかった。事件が終わってもそこで生活を営み続ける人々がいるのだから、あまり詳しい場所は明記しない。また、地名や人名についても、架空のものを使用していることを先に記しておく。

 

✳︎


 外に出た時に、夏特有のムッとした湿気る空気の中でも爽やかな風が通り抜けるのを感じ、雪上はここが初めて来る場所で、普段生活をしている都市とは全く別の場所なのだという事を知った。

 空港でレンタカーを借りると、九曜は手続きをしてくるからと一人走って行く。

 小笠原教授はゆったりと近くにあったベンチに座りペットボトルのお茶を口に含んだ。

 雪上は九曜から預かった分を含めた三人分のスーツケースを見守る様に教授の近くに立ち、フライトモードにしていたスマートフォンの設定をなおして、連絡が着ていなかったどうかなどをチェックする。

「いや、九曜くんがうちのゼミの教室に来てくれてよかったよ」

 不意に教授がそんな事を言い始めたので、どうしたのかと雪上はたずねる。

「いやー、だってね、君と同じ位の他の学生だったら、ここまで段取りできる人ってなかなかいないものだよ」

 などとホクホク顔で言うので、雪上は苦笑いで頷いた。

 確かに雪上より年齢が二十歳も上で、社会経験があり、今までのフィールドワークからも含め、同年代の友人達とも比べて出来ることが格段に違うと雪上自身も感じていたことだ。

 今回の調査に関しても、教授がせっかく調査にいくのならあっちやらこっちやら、行きたい場所が満載でその細かい希望に応じ、奔走。(ある意味振り回されて)事前に訪問先のアポイントメントを取ったり、日程や時間のスケジュールを組むのに一苦労していたのを見て知っている。

 それと同時に、大学を卒業して会社に勤めるということは、この様なことをやらなければならないのかなと思ったのも事実。


――それなら、ずっと研究を続けていた方が面白いかもしれない――


 夢なんか見てこなかった、雪上にうっすらと先が見えたことにマスクの下でにやりと笑みを浮かべる。

 でもそれは、少なからず雪上がこれまでそれなりに頑張って研究に取り組んで来たからとも言える。それを知ってか知らずか、教授は微笑ましく雪上を見ていた。

「お待たせしました」

 九曜が手を振り、こちらに駆けて来ながら、

「そこの入り口に車を回して来たので」

 教授は立ち上がり、そのままスタスタと入り口の方に向かっていくので、雪上は三つのスーツケースをがらがらと引きずって追いかける。

 気が付いた九曜が、雪上の元に来てスーツケースを拾ってくれた。

「ありがとうございます。……すみません」

 九曜の方が大変だろうに、雪上のフォローまでしてくれると、なんとも申し訳ない。

「いや、さあ行こう。教授がお待ちかねだ」

 教授は車に到着すると、自ら後部座席に乗り込む。

 小笠原教授と一緒にフィールドワークに来ると、割り当てられた予算の一部を使用させてもらえる一方、別の意味で大変なのだということをもうこの時点で悟った。

「兄弟では全く雰囲気が違うのだな」

「兄弟? ああ、教授のですか?」

 九曜は頷いた。

 小笠原教授の親族に警察関係の人がいるのは知ってた。雪上もほんの少しだけ会った事があるが、教授のふんわりとした雰囲気とは真逆でナイフの様な鋭い雰囲気を隠し持った様な人だったと記憶している。

 でも、兄弟と言っても”義理”のだったと思い、直接の血縁関係ではないのでは、……と思ったが、別に訂正することもないかと思って、そのままにした。

 スーツケースを車に押し込むと、教授は後部座席に座り、何やら資料を広げているので雪上は必然的に助手席に座った。

 運転席に座るのは九曜である。

 教授にシートベルトの装着を促し、ゆっくりと車を発進させた。

 空港のロータリーを抜けるとすぐにのどかな田園風景が広がる。

 ここから、今回の目的地である、沢町に向かう。


――本当にここに龍がいるのだろうか――

 

 そう心配になってしまうほど、何もなく穏やかだ。

 小笠原教授は何かを発見したの、窓開け顔を覗かせる。九曜にもちろん、注意を受けるのだが、外の景色に心を奪われ、ほとんど聞いていない。

 見かねた九曜はスピードを落としてゆっくりと走行するようにした。車の隣をバイクが何台もエンジンの音をきかせながら追い越していく。

 この天気なら気持ちがいいだろうなと思った。

 到着地まではまだまだかかるようで、雪上もぼうっと窓の外を眺めていた。

 水田の景色が続き、その合間に民家が見える。

 白いふわふわとした花の中に民家も見えた。おとぎ話の様な風景だった。

 シロツメクサかと思ったが、それよりも背が高く、ふわふわとしていた。花の名前はわからない。隣の家にもあってやはり家の周りを埋め尽くしている。

 国道を真直ぐすすみ、沢町の表示が目に入り、ようやく目的地の町に入ったことがわかる。

 青い道路看板を目印に左折すると、曲がった先には、駅があると看板の矢印に書かれていた。

 曲がってからも水田は続いたが、民家の見える間隔が短くなり、その先にガソリンスタンドやこじんまりとしたスーパーマ―ケットが見え、その隣にはチェーン店のドラッグストアだけが真新しく、どんっと大きな敷地を構えている。

「九曜君。この近くに道の駅があるね」

 嬉しそうな教授の声はもはや観光客である。確かに看板には《道の駅 左折3キロ先》と、書かれている。

 苦笑しながらも「そうですね」と、九曜は左折した。

 あまりにも運転に迷いがないので、「九曜さんはこの辺りに詳しいのですか?」とこっそりたずねる。

「いや、初めてだ。ただ、教授ならそう言いそうだということを事前に検討して、あらかじめ調べて頭に入れておいた」

 雪上は感嘆の息を漏らす。

 道の駅は国道沿いの十字路の角にあり、駐車場には車がひっきりなしに出たり入ったりを繰り返している。駐車場は十分な広さがあるため、車を停める場所はありそうだ。

 停車している車は、夏休みだからか県外ナンバーが多い。まあ、かくいう雪上達もレンタカーなので人のことは言えないが。

 外の売店で売られていたとうもろこしに教授が心惹かれていたので、雪上達もそれを買った。塩気のきいた甘い味は久しぶりだ。


 恐らくこの沢町の一番の市街地だと思われる部分を抜けると、また田園地帯が続く。

 農業用トラクターを追い越して、ゆるいカーブの坂道を走ると、道沿いに【瀧鍾乳洞まであと3キロ】と書かれた看板を雪上は何気なく見つけた。

「もしかして……向かっているのは鍾乳洞ですか?」

「そうだと以前、話したと思うが」

 九曜は真直ぐ前を見ながら、それがどうしたとでも言う様な言い方をした。洞窟だとは聞いたが、鍾乳洞とは聞いてない。出かかった言葉をのみこむ。

 雪上は洞窟だと思い込んでいたので、大学で探索に特別な準備は必要あるかどうか聞いた時、九曜の何とも言えない反応を思い出して、そうだったのかと腑に落ちる。

 鍾乳洞と洞窟の違いについて答えろと言われても、その違いは正直わからないが、多分これから向かう場所はきちんとある程度整備された場所なのだろうということは予測できた。

 田園風景が、森、山、に切り替わった頃、【瀧鍾乳洞】と言う立派な看板が目に入り、カーブの道をそのまま進むと、ひらけた駐車場に出る。

 駐車場の向こう。奥には《瀧鍾乳洞》と書かれた建物が左右に二つあり、その手前には、小ぎれいに整備された鍾乳洞までのアプローチの石畳と和風庭園が駐車場の向こう側に広がる。

 緑の芝生に石が配置された和風なつくり。真ん中には小川が流れ、川岸は石が積み上がり、ちょっとしたアスレチックの様にもなっており、そこで、子供がバッタを探している。

 駐車場の左手にはこじんまりとした赤い鳥居。

 瀧神社。

 鳥居の真ん中にその文字が見える。

 鍾乳洞に関わりのある神社なのだろう。

 駐車場にはまばらではあるが、車は停まっている。やはり夏休みだから。

 歩いている人を見ても年齢層は幅広い。子供連れの家族や、その祖父母にあたるのだろうか、高齢の方もさくさくと石畳を歩いていく姿がみられる。

 九曜は停めやすいところに車を停め、まず、神社の方に行くと言って車をおりた。

「鍾乳洞の方ではないのですか?」

 と、聞くと、鍾乳洞はもともと神社が管理しているもので、色々なやり取りをこの瀧神社の神主さんとしていたらしい。

 荷物は持って言った方がいいか聞くと、取り合えず車に置いたままでと言ったので、そのまま細々としたものをつめたバックパクだけ持って車を降りた。

 教授もゆったりとした様子で車を降りると、「涼しいね」と言った。

 車の後部座席を窓ガラス越しに見ると、資料はまだ散らばったままだ。

 後で片付けなければ。車の乗り降りをするし際に無くさない様にしなければ、と思いながら歩き出した九曜に続く。

 神社の石段を教授を先頭に三人でのぼる。木々にそよぐ風が、心地よさを通り越して、肌寒く感じられる。それがなぜか畏れとも感じられた。

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